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五月の朔日、近頃ではちょっとした花屋の店先にスズランが登場するようになった。
生きのイイ葉に埋もれて申し訳なさそうに ウズクマッタ白い花は無理やり花束にされ
誠にお気の毒。 “スズランの日”なぞという おフランスの習慣に、花屋の都合で紙だの
リボンだの巻き付けられて年々暑くなる東京のこの時期、花にとっては辛いお勤めに見える。
16世紀にヨーロッパに於いて、スズランの栽培が始まってからこの風習が生まれたという。
仏国のシャルル9世が、幸福をもたらすとされるスズランの花束を贈られて歓喜したことが
一つの切っ掛けで、恋人たちの出会いや幸せの象徴ということのようだ。
スズランを摘み、小さな花束にして贈るのは5月1日が、愛の日という事とも相まって
出来た洒落た話である。
そもそもスズランはユリ科、スズラン属の総称だから、多種多様なのだろうが、我国では
君影草、谷間の姫百合などとも云うらしい。
この名は、柔で清楚な感じが伝わるが、年々、放っておいても、忘れ去られてもしっかり
芽を吹く多年草である。根から、葉から全てに毒があって吾身を守っているという
なかなかの兵だ。誤ってこのスズランを活けた水を飲んで、死亡した例もあるというから
決してあなどれない。山菜として珍重されるギョウジャニンニクと似ていて、まさかとは
思えど、誤食し中毒を起こした話を聞いたこともある。 日本の在来種は高地に自生して、
スズランと云えば北海道!
となるのだが、現在の園芸店のものは ヨーロッパ原産のドイツスズラン。
花の香が強く、人を振り返させる。そして、美しいラッピングに
何とも幼気な雰囲気を包み込んでこちらをじっと見つめている。
今日は スズランの日 です〜 と。
今日はスズランの日
カゼのひき始めや、肩こりなどに用いる漢方薬に葛根湯がある。
比較的体力のある人が、カゼのひき始めのゾクゾクっと寒気がした時、
頭痛や肩こり、筋肉痛、がある時に先ずは使用。
漢方薬なので空腹時に飲む。 つまりは むっ? きたっ!きたきた!!と、感じたら兎も角飲む。
漢方薬は、自然の草や木からとった「生薬」の組み合わせで、葛根湯は、葛根(カッコン)
麻黄(マオウ) 、桂皮(ケイヒ) 、芍薬(シャクヤク) 、甘草(カンゾウ) 、大棗(タイソウ)と
生姜(ショウキョウ)の7種類の生薬から出来ている。
“麻黄”には、気管支拡張の作用があり、咳や喘鳴をおさえる。“桂皮”には発汗、発散作用。
痛みをやわらげる“芍薬”、炎症やアレルギー症状を緩和する“甘草”などが配合されている。
勿論 今は飲みやすい粉末状態で、白湯で服用が簡単にできるようになっている。
何といったって、漢時代の「傷寒論」という古典書で紹介されている処方が 延々と今に至り…
まぁ、きちんと指示通りに用法を守れば大きな問題はないのだが。
比較的すぐに反応するこの葛根湯も やはり漢方薬。
じわじわと効いてくるので より良く効かせる為に 湿度と温度、栄養に休養を保持して〜
そう思いつつ ついつい時が経つ 先ずは一服 葛根湯。
立春前の極寒の日には必携の葛根湯である。
… 棕櫚のきりぎりすが …
早朝の虫の音もさすがに弱くなり、庭一面に咲きほこっていたホトトギスも、結んだ実の
ふくらみばかりとなった。 今年もいよいよ霜月である。
玄関の香炉に鈴虫か、きりぎりすか、いや 蟋蟀か… キリハタリチョウか…
まっ、くつわむしでも がちゃがちゃでも 松虫でもいいが 兎も角 虫一匹鎮座。
棕櫚の葉で作ったもので、知人からの到来物とのこと。
その尊顔を拝せんと目を近づけて じぃっ〜と覗き込む。
シュロは乾湿、陰陽の土地条件を選ばない為か、結構古くからの庭には植わっている。
子供の頃は、大きくなると椰子の木になると思っていたが、一向に丈が伸びない。
東京は寒いので、南方の植物は大きく育たないのだと勝手に考えていた。
まぁ、当たらずとも遠からず、椰子の仲間には違いない。
そんな棕櫚は棕梠とも書くが 専らシュロ縄やシュロ箒のほうで馴染みだったような気がする。
パイナップルの皮に、ながーい髭がモサモサと生えたような樹皮。それは縄やら箒は勿論、
椅子やベッドのクッション材で、古い家具の端から顔を覗かせていた。
何とも古めかしい香りがする話である。
シュロ縄は植木職には必携だったが、昨今は合成の棕梠縄も巾を効かせる。
確かに朽ち果てず丈夫だろうし、価格面も違うのだろう。庭の手入れに来た親方が、
こんなものが最近あると見せてくれた時は、互いに苦笑いしたものであった。
箒にしても イイものは結構な贅沢品である。所謂工芸品という事だろう。
手入れ方法次第で15〜20年以上使用できるという。
勿論、年に一度くらいは水で洗って 手櫛、ブラシッング、日陰干しに椿油でのお手入れと
なかなかの心遣いが必要なようだが、それだけの価値はある。
棕櫚の皮をぐるぐる巻いてまとめて、それをいくつか束ね、水に浸して柔らかにしたところを
手で一本一本ほぐして、梳いていく。そして、毛先を揃えたり、乾燥干しをしたり。それから
洗って干して、椿油で整えて… そんな御大層な箒は使うところを 先づ掃除せにゃ。
秋の虫になった 深い緑の棕櫚の葉を眺めつつ
そういえば 棕梠の荒神箒は何処へ行ったやら…
もう三十年近くになろうか、 新緑の下を歩くと必ずさわやかな芳香を感じる道があった。
風に乗ってくる香りは 春を知らせる沈丁花の香気とは異なり むっとするような湿り気を
含みはじめた空気に混じりながら 追いかけてきた。 なんだろうかと思いながらも花の
香りとも知らず行き過ぎる。
つっかけたサンダルを引きずりながら 照り返すアスファルトに影を見て 『さっきの香りだ!』
手にセブンスターと釣銭を握りしめて、辺りを見回した。 この時期 植栽、プランターから、
道端の小さな草に至るまで美しく新しい緑は どれも勢いに満ちた顔をしてこちらを見ていた。
が、これといって己が鼻に薫りを感ずるものもなく、握られた釣銭が汗で湿って 早く解放しろ
と叫んでいるようだった。
孟夏の心地よい風が、肩越しにすっうと抜けるのを 『こんな季節を楽しめよ』 と、腹の中で
小銭に云いながら玄関へ向かった。
次の年、煙草屋への道にある家の庭先に白やら藤色やらといやに豪勢な感じで花が咲く。
よくよく見ると 一本の木に濃い紫から白まで、漏斗状の五枚の花弁をつけて花の間に 光沢の
ある葉が陽を受けて輝いてる。 顔を寄せて もっとよく見たいと思った。
覗き込んだ鼻には突き刺すように強い芳香がして、『あの 香りだ!』
香りの主は 匂蕃茉莉とや。 三余堂初めて見知る。
花は咲き始めが濃い紫で、次に薄い紫色、最後は白色になって、強い芳香を放つという
ニオイバンマツリであった。 匂蕃茉莉、は、ナス科の常緑樹で原産は南米とのことだが、
日本でも充分に越冬する。その後 三余堂にも小さな鉢植えが嫁入りしてきた。 当時の
園芸の流行りだったのだろうか。 結構大きくなるもので 初夏の爽やかさを玄関先に振り
まいていたが、いつの間にやら なくなっている。
五月の花
先月末、最古級ひらがな!と 新聞紙上が飾られた。
平安の御代に右大臣を務めた 藤原良相(ふじわらよしみ 813〜867年)の邸宅跡から 一年ほど前に
出土した土器片に仮名文字があったというのである。
現場は京都の中京区で、出土した9世紀後半の土器片の中に“かつらきへ”
葛城へということだろう、和歌とみられる平仮名が書かれていた。
平安京でのまとまった土器の出土で、10世紀と言われていた平仮名の確立が
半世紀も遡ることになった、というから 大変なことなのだ。
なんといっても 我らが意思伝達の重要手段、平仮名の誕生の話である。
漢字の一字一字を、その漢字本来の意味に拘わらず、日本語の音の表記に
用いたのが、万葉仮名で、万葉集がこの手法で著されているのだ。
仮名は、1音に1字を当てる万葉仮名、万葉仮名の草書体を用いた草仮名、そして
平仮名の順に移行したと謂われるが…
かの空海が平仮名を創作したという話もあるという程だから 平仮名の誕生秘話は
興味津々というところである。
最澄や空海が帰朝して、仏教が新たな息吹をわが国にもたらした時代に
弁舌は才気に溢れていた新進気鋭の 藤原良相君、承和元年(834年)仁明天皇に
召し出されて順調にご昇進。長兄をも越えて権中納言になり、権大納言 右近衛大将と ぐんぐん
御出世。 857年には右大臣 左近衛大将に就任。周囲からの人望も厚く、貞観6年(864年)清和天皇に娘を入内させたりと、なかなかのご人物だった様子。
当然 文学への造詣は深く、仏教への信仰には篤く、陰陽道にも通じていた。
と、まるで見たかのような人物説明だが、1200年以上も前のことである。
この藤原良相邸宅跡で出土した土器に 墨で文字が記されていた。
その文字が 万葉仮名でもなく、草仮名でもない平仮名だというのである。
9世紀後半の平安貴族が 宴の席で器に歌を書きつけて交わし合ったのだろうか。
その器に酒を満たしたのか。 邸宅跡の池から皿などの土器破片90点もの中の、
20点に墨の文字が記されていたという。文字が判別できた“かつらきへ”は 当時の 御所での神楽歌一節に出てくるそうだ。 邸で神楽が行われたのだろうか。
周辺が桜の名所という 藤原良相邸は「百花亭」と呼ばれ、天皇の行幸をはじめとし、
公家方が歌会を催したというから 季節の花の下で、紅葉する木々を愛でながら…
当時の一流文化人が集い交流した場と想定される良相邸。その邸跡での墨書土器。
9世紀後半、京洛の貴族階級での平仮名の広まりを示しているということか。
一方、9世紀前半の井戸跡で、檜扇(ひおうぎ)と木簡をも発見。
万葉仮名が記されていたそうだ。同じ遺跡で万葉仮名から平仮名までが見つかった。
仮名の誕生変遷を報せている訳である。
出土品は京都市考古資料館で12月16日まで展示されるという。
2016年01月01日
2015年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
三十年前の別冊 “太陽”
何気なく本棚に並ぶ、別冊太陽49号を手にして ほう〜とか、へぇ〜とか見入った。
三十年前の発行、春号『子供遊び集』である。
先ず、裏表紙の花園万頭の広告。
あづきと栗の餡を白いかるかんで挟んだ羊羹型の菓子である。
砂糖のべたっとした感触が泡のように軽くなって、口の中にひろがる
“あぁ〜 あのかるかんの甘味が…” と、思いながら扉を開く。
そこには、ワイルド・ターキーの宣伝。バーボンウィスキーである。 750ml .00也。
さて、第一頁。 と云っても 最終頁の編集室からのコメントだが、前号の別冊太陽
48号『女優』に寄せた読者の便りがあった。
その時の表紙は、過日死去報道があった女優の原節子。
左斜め下から上半身を写している。
目鼻立ちがはっきりとして、その様子から大柄で、しかも、しっかりした婦人に見える
女性ではなく、“ご・ふ・じ・ん” といった感じだ。
その左隣の欄には『子供遊び集』の編集者達の一言。
―明治、大正、昭和― と、副題があるので、それぞれの思いが重なる編集後記
であるが、なんせ今から三十年前のことである。
リリアンが好きだったという編集者はもう退職しているだろうか…
などと 本編とは別のところに興味深い記事や広告を見る楽しみに浸った。
この『子供遊び集』に見世物研究家として、古河三樹氏が執筆している一文に
よると、明治維新の後武芸家が興した見世物に撃剣大会というものがあって、
大正時代まで残っていたそうだ。 武芸大会ということであったが、かつての
真剣味を帯びた撃剣ではなくて、型を見せるだけのショーになってしまっていた由。
勇ましい看板に胸躍らせて木戸をくぐった少年は、期待した真剣の閃きはなく
がっかりしたとのこと。
やはり、看板に踊らされて木戸をくぐったものに女相撲があったという。
少年が木戸銭を払って入れてもらえたのかなぁ、とも思うが。
〜髪は相撲銀杏、シャツを着て、猿股で曲線を包み馬簾の下げのある締め込みを
付けていた〜 と書かれている。これも少年には少々がっかりの姿であったろう。
しかも、女力士が取り組むわけでなく、俵を持ち上げるなどの力自慢を見せられ
たとのこと。
〜江戸時代は勿論、明治中葉までは、女相撲はエロスの香り豊かな独特の
見世物で、本場の東北や北海道では昭和になっても随分人気を集めていたが、
さすが、帝都東京はこの手の興行には極めてやかましかったのである。〜
とも書かれている。
筆者の古河三樹氏は、1901年(明治34年)生5年(平成7年)没の長命で、
『見世物の歴史』(雄山閣出版、1970)の著者。 ご存命なら 115歳。
戦前平凡社に勤め、その後、四谷駅上の古河書店主であったという。30年前には
思い出として書いた、大正の頃の少年の遊び。『見世物小屋を覗く』は
すっかり歴史になった。
何気なく本棚に並ぶ、別冊太陽49号を手にして ほう〜とか、へぇ〜とか見入った。
三十年前の発行、春号『子供遊び集』である。
先ず、裏表紙の花園万頭の広告。
あづきと栗の餡を白いかるかんで挟んだ羊羹型の菓子である。
砂糖のべたっとした感触が泡のように軽くなって、口の中にひろがる
“あぁ〜 あのかるかんの甘味が…” と、思いながら扉を開く。
そこには、ワイルド・ターキーの宣伝。バーボンウィスキーである。 750ml .00也。
さて、第一頁。 と云っても 最終頁の編集室からのコメントだが、前号の別冊太陽
48号『女優』に寄せた読者の便りがあった。
その時の表紙は、過日死去報道があった女優の原節子。
左斜め下から上半身を写している。
目鼻立ちがはっきりとして、その様子から大柄で、しかも、しっかりした婦人に見える
女性ではなく、“ご・ふ・じ・ん” といった感じだ。
その左隣の欄には『子供遊び集』の編集者達の一言。
―明治、大正、昭和― と、副題があるので、それぞれの思いが重なる編集後記
であるが、なんせ今から三十年前のことである。
リリアンが好きだったという編集者はもう退職しているだろうか…
などと 本編とは別のところに興味深い記事や広告を見る楽しみに浸った。
この『子供遊び集』に見世物研究家として、古河三樹氏が執筆している一文に
よると、明治維新の後武芸家が興した見世物に撃剣大会というものがあって、
大正時代まで残っていたそうだ。 武芸大会ということであったが、かつての
真剣味を帯びた撃剣ではなくて、型を見せるだけのショーになってしまっていた由。
勇ましい看板に胸躍らせて木戸をくぐった少年は、期待した真剣の閃きはなく
がっかりしたとのこと。
やはり、看板に踊らされて木戸をくぐったものに女相撲があったという。
少年が木戸銭を払って入れてもらえたのかなぁ、とも思うが。
〜髪は相撲銀杏、シャツを着て、猿股で曲線を包み馬簾の下げのある締め込みを
付けていた〜 と書かれている。これも少年には少々がっかりの姿であったろう。
しかも、女力士が取り組むわけでなく、俵を持ち上げるなどの力自慢を見せられ
たとのこと。
〜江戸時代は勿論、明治中葉までは、女相撲はエロスの香り豊かな独特の
見世物で、本場の東北や北海道では昭和になっても随分人気を集めていたが、
さすが、帝都東京はこの手の興行には極めてやかましかったのである。〜
とも書かれている。
筆者の古河三樹氏は、1901年(明治34年)生5年(平成7年)没の長命で、
『見世物の歴史』(雄山閣出版、1970)の著者。 ご存命なら 115歳。
戦前平凡社に勤め、その後、四谷駅上の古河書店主であったという。30年前には
思い出として書いた、大正の頃の少年の遊び。『見世物小屋を覗く』は
すっかり歴史になった。
投稿日 2015年12月01日 0:53:44
最終更新日 2015年12月01日 0:54:32
【修正】
2015年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
目の覚めてしまった夜をやり過ごすには、手に触れた紙で何となく折り紙をしながら
霜月の虫の声を聴く。 子供の頃には誰しも折り紙の経験があろう。
特別なこととは思わずに当たり前に鶴を折っていたものである。
日本人の指先の器用さは折り紙の経験からなのか、もともと器用だから折り紙を
するのか。兎も角、物の形を考えるのには大いに刺激があったし、色彩感覚も
育てられたと思う。 折り紙が幼児教育に取り上げられたのは明治のことだという。
もとより日本の生活は物を折ったり、畳んだりの繰り返し。 朝は四角い布団を
畳むことに始まり、夜には直線で縫い継がれた着物を畳み付けて一日が終了。
尤も、それらを誰がするのかはそれぞれであったろうが。
以前、紙の伝来のことを記事にしたことがあるが、大陸から日本への製紙技術は
610年、高句麗を経由してもたらされる。
渡来人によって7世紀初めに、紙の製法が日本に伝えられたお蔭で薄くて丈夫な
紙、「和紙」が生まれた。 本格的な紙の国産化が始まるには100年ほどかかった
が、『正倉院文書』に、737年(天平9)には、美作、出雲、播磨、美濃、などで
紙漉が始まったことが記されているという。
公文書の記録に大切な紙の生産が始まっていたということだ。 国は紙の製造と
調達を管掌していた。紙の重さを図り知る。 紙は文字を書きつけるばかりでなく、
『包む』という仕事も請け負った。 神への供物を包む。信仰と結びついた神聖な
仕事も担ったのだ。 そして紙は折り目が工夫され、儀式や祭礼に活躍する。
朝廷での儀式、神祇に使われたものが、次第に公家から武家へと移っていく。
鎌倉時代には、朝廷と新たに台頭した武家との意思疎通の為の手段「礼法」として、
贈答や儀礼用の“折りかた”が発展したという訳だ。
「伊勢」「小笠原」「今川」「嵯峨」など各流派の秘伝として伝えられ、様式化した。
進物の贈り物に付ける、赤白の紙を折った熨斗などがその名残である。
折り方そのものを楽しむようになったのが「折り紙」で、江戸時代に入ると紙の生産が
増え、庶民にも親しめる折り紙になったという。なんせ、1797年(寛政9)には世界で
最も古い折り紙の本「秘傅千羽鶴折形」が出版されている。
その後200年も経つと、トイレットペーパーでの折り紙が本となり、売られる。これは
東京大学の学生諸子による考案だ。現代折紙の普及、発展、そして何より折紙を楽しむ
ことを目的として活動を始めたそうだ。
今や折り紙は教育や趣味を超えて、幾何学やコンピューターグラフィック、航空工学、
老化防止、リハビリの分野でも研究の対象となっている。
学者の間では、折紙の数学というテーマで研究がなされるらしく、如何に、作品を
傷めることなく、紙を平らに折り畳むことができるかどうかなどを数学的な研究対象
として取り組むようである。角の三等分などが可能である「折り紙幾何学」という
分野の発見、コンピュータの応用、などなど、広く研究されているそうだ。
銘 曙 手元の菓子包みで
鶴の嘆息 いや、短足の鶴…
世界各地に広まった「折り紙」は、愛好家の団体が沢山あって盛んに活動を
しているという。近隣のゆうゆう館も 毎月折り紙の日なるものがあり、老若男女が
相集って頭の体操に勤しんでいる。
霜月の虫の声を聴く。 子供の頃には誰しも折り紙の経験があろう。
特別なこととは思わずに当たり前に鶴を折っていたものである。
日本人の指先の器用さは折り紙の経験からなのか、もともと器用だから折り紙を
するのか。兎も角、物の形を考えるのには大いに刺激があったし、色彩感覚も
育てられたと思う。 折り紙が幼児教育に取り上げられたのは明治のことだという。
もとより日本の生活は物を折ったり、畳んだりの繰り返し。 朝は四角い布団を
畳むことに始まり、夜には直線で縫い継がれた着物を畳み付けて一日が終了。
尤も、それらを誰がするのかはそれぞれであったろうが。
以前、紙の伝来のことを記事にしたことがあるが、大陸から日本への製紙技術は
610年、高句麗を経由してもたらされる。
渡来人によって7世紀初めに、紙の製法が日本に伝えられたお蔭で薄くて丈夫な
紙、「和紙」が生まれた。 本格的な紙の国産化が始まるには100年ほどかかった
が、『正倉院文書』に、737年(天平9)には、美作、出雲、播磨、美濃、などで
紙漉が始まったことが記されているという。
公文書の記録に大切な紙の生産が始まっていたということだ。 国は紙の製造と
調達を管掌していた。紙の重さを図り知る。 紙は文字を書きつけるばかりでなく、
『包む』という仕事も請け負った。 神への供物を包む。信仰と結びついた神聖な
仕事も担ったのだ。 そして紙は折り目が工夫され、儀式や祭礼に活躍する。
朝廷での儀式、神祇に使われたものが、次第に公家から武家へと移っていく。
鎌倉時代には、朝廷と新たに台頭した武家との意思疎通の為の手段「礼法」として、
贈答や儀礼用の“折りかた”が発展したという訳だ。
「伊勢」「小笠原」「今川」「嵯峨」など各流派の秘伝として伝えられ、様式化した。
進物の贈り物に付ける、赤白の紙を折った熨斗などがその名残である。
折り方そのものを楽しむようになったのが「折り紙」で、江戸時代に入ると紙の生産が
増え、庶民にも親しめる折り紙になったという。なんせ、1797年(寛政9)には世界で
最も古い折り紙の本「秘傅千羽鶴折形」が出版されている。
その後200年も経つと、トイレットペーパーでの折り紙が本となり、売られる。これは
東京大学の学生諸子による考案だ。現代折紙の普及、発展、そして何より折紙を楽しむ
ことを目的として活動を始めたそうだ。
今や折り紙は教育や趣味を超えて、幾何学やコンピューターグラフィック、航空工学、
老化防止、リハビリの分野でも研究の対象となっている。
学者の間では、折紙の数学というテーマで研究がなされるらしく、如何に、作品を
傷めることなく、紙を平らに折り畳むことができるかどうかなどを数学的な研究対象
として取り組むようである。角の三等分などが可能である「折り紙幾何学」という
分野の発見、コンピュータの応用、などなど、広く研究されているそうだ。
銘 曙 手元の菓子包みで
鶴の嘆息 いや、短足の鶴…
世界各地に広まった「折り紙」は、愛好家の団体が沢山あって盛んに活動を
しているという。近隣のゆうゆう館も 毎月折り紙の日なるものがあり、老若男女が
相集って頭の体操に勤しんでいる。
投稿日 2015年10月31日 23:41:41
最終更新日 2015年11月01日 13:06:11
【修正】
2015年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
少子高齢化で産科医院が激減し、小児科医院も減った。
そこで、数年前から近隣の診療所は小児科診療を始める。
ママの健康も大事だからと、婦人科診療も始まった。
待合室は杖をつく老人と就学前の子供のおしゃべりや、隣に座る年寄りに
子供の方が、得意げに絵本を読み聞かせる姿が見られるようになった。
甲高い子供の声は 体調不良の身には少々厳しい。が、待合室は明るくなった。
仏頂面の中高年ばかりでは体調だけでなく、心も不調になるというものである。
そもそも、日本列島で先史時代から今に至るまで、ヒトの数はずっと増えてきたのだろうか。
近年は科学技術の進歩で遺跡発掘調査の結果、どんどんと歴史が塗り替えられる。
すべて未解明と云えば無難だろうが、日本列島のヒトの遺伝形質が多様な処をみると、
何度にも亘って移住を繰返したらしい。人骨から判明出来れば容易なのだろうが、
この列島の土地は、ほとんどが酸性土壌で、人骨が保存されにくいという。が、その他の
発掘などから3万8千年くらい前には、どうも、ヒトが生活していたらしい。
旧石器時代が終わり、1万6千年程前からは縄文時代。
縄模様の土器を持つこの文化は、九州では3千年くらい前まで、東北や関東では2千3百年
くらい前まで続いたという。 縄文人は早くから定住した狩猟採集民で、一万年以上前に遡る
定住集落が鹿児島の上野原遺跡や、静岡の大塵窪遺跡で発見されている。
古代メソポタミアでの≪農業に先立つ定住≫と同じ頃なのだそうだ。
縄文人の遺跡からは東北をはじめとする東日本のほうが、近畿以西より人口密度が高く、
食物になる植物や、河川などで生息する魚貝は勿論、シカやイノシシなども豊富だったの
であろう。 そのうちに 農耕らしきものが始まる。
日本列島に古くから居住していたのが “縄文人”。弥生時代に朝鮮半島から渡来したのが、
“弥生人” という事だが、最近のゲノム分析によると両者の混血が多くなされた可能性もある
というから、事は複雑。 日本人起源については、これからも飽くなき研究が続くのだ。
ところで、生産性の高い水田稲作は弥生時代、紀元前10世紀まで遡る。
が、これは専ら西日本でのこと。紀元前4世紀頃は東北地方、紀元前3世紀頃に関東地方に
伝播したらしい。こうなると、人口は西日本の方が多くなる。
列島の人口は1万3千年前の縄文時代早期には、ほぼ2万人。 その後は増加を続け、
6千年前には26万人。 この時の1平方キロ当たりの人口密度が0.76人。
狩猟採集の民としては高い数値なのだそうだ。 そんな頃から日本は混んでいた。
が、4千年前縄文後期なると10万人を切っていたという。 気候の変化、人口増加による
食物資源の不足、移住者による感染症の影響などがあっかもしれない。
しかし、弥生時代にはなんと、百万に達していたらしい。
奈良時代なると古文書から人口推定が可能になる。450万の人口はあったようで、その後
900年代になると640万強となっていた。 1300年には人口密度が1平方キロ当たり
25人となり、当時としては世界最高のレベルだったという。
ただ、必ずしも増加率は右肩上がりではなかった。自然条件の変化は勿論、そこには大きく
社会機構の変化が関わったようである。 荘園制の時代から武士の誕生、戦国時代へ。
そして江戸、ご維新、戦争、戦争。 昭和から平成へと人口変化は文化を映している。
当然、地球の上どちらも、こちらも同様に大きな問題を抱えて…
長くなってきた夜に 大塚柳太郎博士の
『ヒトはこうして増えてきた』 ―20万年の人口変遷史−(新潮選書)を読む
そこで、数年前から近隣の診療所は小児科診療を始める。
ママの健康も大事だからと、婦人科診療も始まった。
待合室は杖をつく老人と就学前の子供のおしゃべりや、隣に座る年寄りに
子供の方が、得意げに絵本を読み聞かせる姿が見られるようになった。
甲高い子供の声は 体調不良の身には少々厳しい。が、待合室は明るくなった。
仏頂面の中高年ばかりでは体調だけでなく、心も不調になるというものである。
そもそも、日本列島で先史時代から今に至るまで、ヒトの数はずっと増えてきたのだろうか。
近年は科学技術の進歩で遺跡発掘調査の結果、どんどんと歴史が塗り替えられる。
すべて未解明と云えば無難だろうが、日本列島のヒトの遺伝形質が多様な処をみると、
何度にも亘って移住を繰返したらしい。人骨から判明出来れば容易なのだろうが、
この列島の土地は、ほとんどが酸性土壌で、人骨が保存されにくいという。が、その他の
発掘などから3万8千年くらい前には、どうも、ヒトが生活していたらしい。
旧石器時代が終わり、1万6千年程前からは縄文時代。
縄模様の土器を持つこの文化は、九州では3千年くらい前まで、東北や関東では2千3百年
くらい前まで続いたという。 縄文人は早くから定住した狩猟採集民で、一万年以上前に遡る
定住集落が鹿児島の上野原遺跡や、静岡の大塵窪遺跡で発見されている。
古代メソポタミアでの≪農業に先立つ定住≫と同じ頃なのだそうだ。
縄文人の遺跡からは東北をはじめとする東日本のほうが、近畿以西より人口密度が高く、
食物になる植物や、河川などで生息する魚貝は勿論、シカやイノシシなども豊富だったの
であろう。 そのうちに 農耕らしきものが始まる。
日本列島に古くから居住していたのが “縄文人”。弥生時代に朝鮮半島から渡来したのが、
“弥生人” という事だが、最近のゲノム分析によると両者の混血が多くなされた可能性もある
というから、事は複雑。 日本人起源については、これからも飽くなき研究が続くのだ。
ところで、生産性の高い水田稲作は弥生時代、紀元前10世紀まで遡る。
が、これは専ら西日本でのこと。紀元前4世紀頃は東北地方、紀元前3世紀頃に関東地方に
伝播したらしい。こうなると、人口は西日本の方が多くなる。
列島の人口は1万3千年前の縄文時代早期には、ほぼ2万人。 その後は増加を続け、
6千年前には26万人。 この時の1平方キロ当たりの人口密度が0.76人。
狩猟採集の民としては高い数値なのだそうだ。 そんな頃から日本は混んでいた。
が、4千年前縄文後期なると10万人を切っていたという。 気候の変化、人口増加による
食物資源の不足、移住者による感染症の影響などがあっかもしれない。
しかし、弥生時代にはなんと、百万に達していたらしい。
奈良時代なると古文書から人口推定が可能になる。450万の人口はあったようで、その後
900年代になると640万強となっていた。 1300年には人口密度が1平方キロ当たり
25人となり、当時としては世界最高のレベルだったという。
ただ、必ずしも増加率は右肩上がりではなかった。自然条件の変化は勿論、そこには大きく
社会機構の変化が関わったようである。 荘園制の時代から武士の誕生、戦国時代へ。
そして江戸、ご維新、戦争、戦争。 昭和から平成へと人口変化は文化を映している。
当然、地球の上どちらも、こちらも同様に大きな問題を抱えて…
長くなってきた夜に 大塚柳太郎博士の
『ヒトはこうして増えてきた』 ―20万年の人口変遷史−(新潮選書)を読む
投稿日 2015年10月06日 16:29:24
最終更新日 2015年10月06日 16:31:01
【修正】
2015年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
1923年9月1日 関東大震災発生。
折しも フランク・ロイド・ライトの設計による帝国ホテル新館の開館式だったという。
勿論、建物は無傷。
この関東大震災を忘れることなく災害に備えようと1960年に閣議決定で制定されたのが、
防災の日である。9月1日に「防災の日」が制定されるまでは、関東大震災犠牲者の
慰霊祭が中心であったというが、この日が決まってからは、防災訓練が行われる日となった。
今、震災というと、東日本大震災であったり、阪神淡路の大震災のことで、関東大震災は
すっかり歴史となった感が否めない。
『おふくろにおぶわれて逃げた…』という、震災の義父殿の話は、古びた写真のように
セピアに変色しながらもしぶとく心に残る。 今年は、五年保存の飲料水ペットボトルが
期限切れとなった。有難い気分で、新規のものを発注することになる。遅ればせの夏休み。
折しも フランク・ロイド・ライトの設計による帝国ホテル新館の開館式だったという。
勿論、建物は無傷。
この関東大震災を忘れることなく災害に備えようと1960年に閣議決定で制定されたのが、
防災の日である。9月1日に「防災の日」が制定されるまでは、関東大震災犠牲者の
慰霊祭が中心であったというが、この日が決まってからは、防災訓練が行われる日となった。
今、震災というと、東日本大震災であったり、阪神淡路の大震災のことで、関東大震災は
すっかり歴史となった感が否めない。
『おふくろにおぶわれて逃げた…』という、震災の義父殿の話は、古びた写真のように
セピアに変色しながらもしぶとく心に残る。 今年は、五年保存の飲料水ペットボトルが
期限切れとなった。有難い気分で、新規のものを発注することになる。遅ればせの夏休み。
投稿日 2015年09月01日 0:03:52
最終更新日 2015年09月01日 0:03:52
【修正】
2015年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
酷暑お見舞い申し上げます。
子供の頃の夏休み どのチャンネルに回しても エセル中田が大きな花を髪に着けて
ウクレレやスチールギターを背中に歌っていた気がする。
ハワイアンが多流行りした時期があった。今は、フラが大人気なのだそうだ。
そう言えば、新聞の折込みで、カルチャーセンターの講座広告には必ずフラクラス
の宣伝がある。レイを首から掛けて、腰がぐっと入る独特のスタイルで、両手を広げて
白い歯が如何にも 元気、元気 と手招いているようだ。
Akahai やさしさと思いやり
Lokahi 調和と融合
Olu’oiu 喜びをもって柔軟に
Ha’a a Ha’a 謙虚に
Ahonui 我慢と忍耐
それぞれの頭文字を取って ALOHA ということで、Let’s Hula 〜 という訳か。
九月になると本場ハワイから 最高峰のフラと音楽を東京で楽しめるそうだ。
総勢160人もの出演で、男性、女性、古典から現代に至るまで、なかなかの
プログラムが組まれている由。公演は大盛況なのだそうだが、全国で300以上もの
フラスクールがあるというから、集客も見込めるというものだ。
日本でも毎年全国大会やら 競技会があるというから、歌に合わせてふらふら、
というような ゆるぅい ゆらゆらとした物ではないようである。
日本に大々的に 踊りであるフラが紹介されたのが、常磐ハワイセンターの開園時らしい。
常磐炭鉱の斜陽化を観光業に転換するという、町おこし事業に伴って、ハワイセンター
なるものが出来た。その経緯を描いたのが、 映画“フラガール”なのだが、映画で
蒼井優が、頑張って踊るのはタヒチアンというもので、フラとどうも、ごちゃ混ぜになって
理解している気がする。
まっ、他所から見ると、能も歌舞伎も 仕舞も日舞もイッショクタ …
フラは、神様への宗教的行為がその始まりという。芸能の根本の姿である。
それを、そのまま今に伝える“カヒコ”と呼ばれる古典もあるし、歌に合わせて
踊るものもある。19世紀以降に西洋の音楽を取り入れて、新しく作ったのが、
フラ・アウアナというもので、映画でフラガールたちが“大地に光を〜”と踊っていたので、
新作も、日本作も“有り”なのだろう。
蛇足ながら フラもダンスも 踊りということなので、今は専らフラというのだそうな。
終日、ハワイミュージックのアロハジョーラジオで、砂浜の波でも思いながら、
爽やかな曲をBGMに 酷暑の8月を過ごそうと存ず。ALOHA
子供の頃の夏休み どのチャンネルに回しても エセル中田が大きな花を髪に着けて
ウクレレやスチールギターを背中に歌っていた気がする。
ハワイアンが多流行りした時期があった。今は、フラが大人気なのだそうだ。
そう言えば、新聞の折込みで、カルチャーセンターの講座広告には必ずフラクラス
の宣伝がある。レイを首から掛けて、腰がぐっと入る独特のスタイルで、両手を広げて
白い歯が如何にも 元気、元気 と手招いているようだ。
Akahai やさしさと思いやり
Lokahi 調和と融合
Olu’oiu 喜びをもって柔軟に
Ha’a a Ha’a 謙虚に
Ahonui 我慢と忍耐
それぞれの頭文字を取って ALOHA ということで、Let’s Hula 〜 という訳か。
九月になると本場ハワイから 最高峰のフラと音楽を東京で楽しめるそうだ。
総勢160人もの出演で、男性、女性、古典から現代に至るまで、なかなかの
プログラムが組まれている由。公演は大盛況なのだそうだが、全国で300以上もの
フラスクールがあるというから、集客も見込めるというものだ。
日本でも毎年全国大会やら 競技会があるというから、歌に合わせてふらふら、
というような ゆるぅい ゆらゆらとした物ではないようである。
日本に大々的に 踊りであるフラが紹介されたのが、常磐ハワイセンターの開園時らしい。
常磐炭鉱の斜陽化を観光業に転換するという、町おこし事業に伴って、ハワイセンター
なるものが出来た。その経緯を描いたのが、 映画“フラガール”なのだが、映画で
蒼井優が、頑張って踊るのはタヒチアンというもので、フラとどうも、ごちゃ混ぜになって
理解している気がする。
まっ、他所から見ると、能も歌舞伎も 仕舞も日舞もイッショクタ …
フラは、神様への宗教的行為がその始まりという。芸能の根本の姿である。
それを、そのまま今に伝える“カヒコ”と呼ばれる古典もあるし、歌に合わせて
踊るものもある。19世紀以降に西洋の音楽を取り入れて、新しく作ったのが、
フラ・アウアナというもので、映画でフラガールたちが“大地に光を〜”と踊っていたので、
新作も、日本作も“有り”なのだろう。
蛇足ながら フラもダンスも 踊りということなので、今は専らフラというのだそうな。
終日、ハワイミュージックのアロハジョーラジオで、砂浜の波でも思いながら、
爽やかな曲をBGMに 酷暑の8月を過ごそうと存ず。ALOHA
投稿日 2015年08月02日 18:06:45
最終更新日 2015年08月02日 18:07:00
【修正】
2015年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
先ごろ話題になった 『昔話は何故、おじいさんとおばあさんが主役なのか』 (草思社)
という本がある。 その前作が、『本当はひどかった昔の日本』 (新潮社) という訳で、
両方とも ニヤニヤとしながらも 何故か納得し、ふむふむと頁を繰っていく。
昔話や古典文学に描かれた老人を探って、その時代の老人生態を知る!ということだ。
全国の六万話もの昔話から、古典文学まで徹底的に分析して、老人という “人” を
生活の中に見た。三面記事そのままに テレビのワイドショー顔負けの捨て子に
育児放棄、マタハラに介護地獄。まぁ 次から次へとあるワあるワ。
子供の頃に出会う、『むかしむかし〜』とはじまる話は、『それでぇ〜、次はぁ〜、
え゛っ〜』 などとせがむうちに 大抵、眠ってしまう。
そして、又翌日に『むかしむかし〜 』と始まる。だから、そう深く内容を考えていない。
が、大人になって思い返すと、結構きつい話である。
『むかしむかし〜』 の昔話は何時だか判らない、昔々の物語であった。
ところが、自らが老境に差掛り、世の中が高齢社会となると 『昔話は何故、
おじいさんとおばあさんが主役なのか』 はいやに興味が湧く題材であるし、
この社会事情では 本当はどうだったのか昔の日本 となるわけだ。
昔話に登場する、したたかに頑張る老人は、返して見れば、したたかに
頑張らなきゃぁならなかったということでもある。
七十過ぎても“婚活"! 姥捨て山に捨てられても、みごと生還!
極楽往生したくて、井戸にダイブ! ……昔の老人はやばかった!!
『昔話は何故、おじいさんとおばあさんが主役なのか』 という本の内容紹介は、少々
袈裟を広げすぎるとは思えど、ついつい本の著者 大塚ひかり氏による老人論に
引込まれる。実在したイカす老人として、かの世阿弥の名前も挙がっていた。
まぁ、長く生きりゃぁ それなりにいろいろあらぁな…
一般にどうも人は 昔は良かった と思いたいようだが、さして昔も今も変りなしと、
『本当はひどかった昔の日本』 に突き付けられる。
まっ、この日常茶飯事、事の善し悪しは兎も角、昔から誰かが、何処かで経験済み
ときている。
昔はよかった」なんて大嘘です!?
我らがご先祖様は、こんなにも残酷で、だけど強かった!
みんな古典に書いてある!
と著者は言う。が、この古典の中には勿論 能 もある。
そう、イカシタ老人の世阿弥の作った能である。
という本がある。 その前作が、『本当はひどかった昔の日本』 (新潮社) という訳で、
両方とも ニヤニヤとしながらも 何故か納得し、ふむふむと頁を繰っていく。
昔話や古典文学に描かれた老人を探って、その時代の老人生態を知る!ということだ。
全国の六万話もの昔話から、古典文学まで徹底的に分析して、老人という “人” を
生活の中に見た。三面記事そのままに テレビのワイドショー顔負けの捨て子に
育児放棄、マタハラに介護地獄。まぁ 次から次へとあるワあるワ。
子供の頃に出会う、『むかしむかし〜』とはじまる話は、『それでぇ〜、次はぁ〜、
え゛っ〜』 などとせがむうちに 大抵、眠ってしまう。
そして、又翌日に『むかしむかし〜 』と始まる。だから、そう深く内容を考えていない。
が、大人になって思い返すと、結構きつい話である。
『むかしむかし〜』 の昔話は何時だか判らない、昔々の物語であった。
ところが、自らが老境に差掛り、世の中が高齢社会となると 『昔話は何故、
おじいさんとおばあさんが主役なのか』 はいやに興味が湧く題材であるし、
この社会事情では 本当はどうだったのか昔の日本 となるわけだ。
昔話に登場する、したたかに頑張る老人は、返して見れば、したたかに
頑張らなきゃぁならなかったということでもある。
七十過ぎても“婚活"! 姥捨て山に捨てられても、みごと生還!
極楽往生したくて、井戸にダイブ! ……昔の老人はやばかった!!
『昔話は何故、おじいさんとおばあさんが主役なのか』 という本の内容紹介は、少々
袈裟を広げすぎるとは思えど、ついつい本の著者 大塚ひかり氏による老人論に
引込まれる。実在したイカす老人として、かの世阿弥の名前も挙がっていた。
まぁ、長く生きりゃぁ それなりにいろいろあらぁな…
一般にどうも人は 昔は良かった と思いたいようだが、さして昔も今も変りなしと、
『本当はひどかった昔の日本』 に突き付けられる。
まっ、この日常茶飯事、事の善し悪しは兎も角、昔から誰かが、何処かで経験済み
ときている。
昔はよかった」なんて大嘘です!?
我らがご先祖様は、こんなにも残酷で、だけど強かった!
みんな古典に書いてある!
と著者は言う。が、この古典の中には勿論 能 もある。
そう、イカシタ老人の世阿弥の作った能である。
投稿日 2015年07月03日 17:26:17
最終更新日 2015年07月03日 17:26:37
【修正】
2015年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
視力が弱く、普通の活字では本が読みづらい場合、ただ文字が大きければ解決する
というものではない。その日の天気が体調に影響するというが、読みづらい活字を追うことは
余計に体調を悪化させ気づかぬうちに 肩も凝るし、頭痛も引起す。
文字の大きさばかりでなく、行間、字間、文字の色、背景の色、印刷物の大きさ等々。
加齢による視力の衰えも、単に老眼鏡を使えばいいというものではない。
読みづらさは煩わしさを招き、どんどん活字から離れていく。
大事な用件も文字が小さいと感じただけで、読む気力が無くなるというものだ。
こうして老化が加速するのだが、それをしみじみと感じた頃は手遅れというものである。
空調の効いた快適な湿度を保つ図書館は 適当な日差しと座り心地の良いソファーが
億劫で読みづらい本でも、手にしてみようかという気にさせる。
が、たいして頁を繰らないうちに舟を漕ぎ出す。そんな手遅れ組の輩が多くなった為か、
最近図書館の入り口に張り紙が出た。 “図書館での居眠りはご遠慮ください”
一般的な文庫版の文字は1文字約3〜3.5ミリメートル角程度の大きさ。
これが4.2ミリメートル角にまで拡大し、文字を太く濃くしたり、黒の背景に白抜き文字の
白黒反転本や、リングで綴じてめくりやすく工夫した、小説やエッセイ、辞典、地図など
多種多様な本が “一度お手にいかが〜” と図書館にある。これが所謂 『大活字本』だ。
書架の親分といった感じの近隣の図書館は 手に取りやすい棚に、池波正太郎の鬼平や
山崎豊子の沈まぬ太陽、近年の本屋大賞本などがずらっからと並んでいる。
ものの見事に書棚の端から端まで、同じタイトルの本が埋め尽くし、こちらを圧倒してくる。
それも当然で、文字が大きい為分冊になるからだ。 一寸した小説が完結するにはどうしても
二、三冊にわたるのは致し方ない。 しかし、居眠りなんかさせません!とばかりに、
あっという間にページが進むのは内容の所為ばかりではない。 見やすい本なのである。
速読の術を身に着けたかと勘違いしながら読破できるのもこの本ならではだ。
現況は大手書店やネット通販で購入可能だ。但し、値段が割高で、かさばる。
その点、電子書籍は個人の好みに文字を設定できるが、普及にはまだまだ時間がかかる。
本来は障害者や高齢者向けに開発されたものだが、活用の仕方はそれぞれの工夫で
いくらでもある。何といっても、居眠りする間もなくさっと小説が読める。一度どんなものか
図書館で、書店コーナーで手にしてみるのも一興。
大活字本の普及を目ざす大活字文化普及協会は
東京都千代田区神田神保町に大活字本専門書店を開いている。
というものではない。その日の天気が体調に影響するというが、読みづらい活字を追うことは
余計に体調を悪化させ気づかぬうちに 肩も凝るし、頭痛も引起す。
文字の大きさばかりでなく、行間、字間、文字の色、背景の色、印刷物の大きさ等々。
加齢による視力の衰えも、単に老眼鏡を使えばいいというものではない。
読みづらさは煩わしさを招き、どんどん活字から離れていく。
大事な用件も文字が小さいと感じただけで、読む気力が無くなるというものだ。
こうして老化が加速するのだが、それをしみじみと感じた頃は手遅れというものである。
空調の効いた快適な湿度を保つ図書館は 適当な日差しと座り心地の良いソファーが
億劫で読みづらい本でも、手にしてみようかという気にさせる。
が、たいして頁を繰らないうちに舟を漕ぎ出す。そんな手遅れ組の輩が多くなった為か、
最近図書館の入り口に張り紙が出た。 “図書館での居眠りはご遠慮ください”
一般的な文庫版の文字は1文字約3〜3.5ミリメートル角程度の大きさ。
これが4.2ミリメートル角にまで拡大し、文字を太く濃くしたり、黒の背景に白抜き文字の
白黒反転本や、リングで綴じてめくりやすく工夫した、小説やエッセイ、辞典、地図など
多種多様な本が “一度お手にいかが〜” と図書館にある。これが所謂 『大活字本』だ。
書架の親分といった感じの近隣の図書館は 手に取りやすい棚に、池波正太郎の鬼平や
山崎豊子の沈まぬ太陽、近年の本屋大賞本などがずらっからと並んでいる。
ものの見事に書棚の端から端まで、同じタイトルの本が埋め尽くし、こちらを圧倒してくる。
それも当然で、文字が大きい為分冊になるからだ。 一寸した小説が完結するにはどうしても
二、三冊にわたるのは致し方ない。 しかし、居眠りなんかさせません!とばかりに、
あっという間にページが進むのは内容の所為ばかりではない。 見やすい本なのである。
速読の術を身に着けたかと勘違いしながら読破できるのもこの本ならではだ。
現況は大手書店やネット通販で購入可能だ。但し、値段が割高で、かさばる。
その点、電子書籍は個人の好みに文字を設定できるが、普及にはまだまだ時間がかかる。
本来は障害者や高齢者向けに開発されたものだが、活用の仕方はそれぞれの工夫で
いくらでもある。何といっても、居眠りする間もなくさっと小説が読める。一度どんなものか
図書館で、書店コーナーで手にしてみるのも一興。
大活字本の普及を目ざす大活字文化普及協会は
東京都千代田区神田神保町に大活字本専門書店を開いている。
投稿日 2015年06月01日 18:06:25
最終更新日 2015年06月01日 18:06:44
【修正】
2015年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
五月の朔日、近頃ではちょっとした花屋の店先にスズランが登場するようになった。
生きのイイ葉に埋もれて申し訳なさそうに ウズクマッタ白い花は無理やり花束にされ
誠にお気の毒。 “スズランの日”なぞという おフランスの習慣に、花屋の都合で紙だの
リボンだの巻き付けられて年々暑くなる東京のこの時期、花にとっては辛いお勤めに見える。
16世紀にヨーロッパに於いて、スズランの栽培が始まってからこの風習が生まれたという。
仏国のシャルル9世が、幸福をもたらすとされるスズランの花束を贈られて歓喜したことが
一つの切っ掛けで、恋人たちの出会いや幸せの象徴ということのようだ。
スズランを摘み、小さな花束にして贈るのは5月1日が、愛の日という事とも相まって
出来た洒落た話である。
そもそもスズランはユリ科、スズラン属の総称だから、多種多様なのだろうが、我国では
君影草、谷間の姫百合などとも云うらしい。
この名は、柔で清楚な感じが伝わるが、年々、放っておいても、忘れ去られてもしっかり
芽を吹く多年草である。根から、葉から全てに毒があって吾身を守っているという
なかなかの兵だ。誤ってこのスズランを活けた水を飲んで、死亡した例もあるというから
決してあなどれない。山菜として珍重されるギョウジャニンニクと似ていて、まさかとは
思えど、誤食し中毒を起こした話を聞いたこともある。 日本の在来種は高地に自生して、
スズランと云えば北海道!
となるのだが、現在の園芸店のものは ヨーロッパ原産のドイツスズラン。
花の香が強く、人を振り返させる。そして、美しいラッピングに
何とも幼気な雰囲気を包み込んでこちらをじっと見つめている。
今日は スズランの日 です〜 と。
今日はスズランの日
投稿日 2015年05月02日 11:47:58
最終更新日 2015年05月02日 11:47:58
【修正】
2015年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
建久4年(1193年)孟夏、源頼朝が開催した富士の巻狩で、仇討ちがあった。
曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討ったのである。
巻狩というのは今でも祭儀として残る地方があるというから、本来は『お山の神様のご意向伺い』
といった意味を持つ神事であったらしい。
それが、武士が誕生した中世の頃には軍事訓練を兼ねたようで、
狩場を多人数で四方から囲い込みながら、獲物を追いつめるという大規模な狩猟となっていた。
富士の巻狩主催の頼朝は、既にこの年下野那須野や、信濃三原野などでも大規模な巻狩をしていた。
征夷大将軍という、武家政権の首長としての誇示の一環で、
この富士の裾野で行われた巻狩も 御家人達を総動員して、 山の神対する感謝の儀式を捧げ、
盛大な酒宴を開いたという。 そこで仇討ち事件勃発! というのが曾我兄弟の仇討ちである。
この曾我兄弟の仇討ちと伊賀越えの仇討ち、赤穂浪士の討ち入りが、
日本三大仇討ちということになっている。
赤穂浪士の討ち入りはご存知「忠臣蔵」、伊賀越えの仇討ちはいわゆる「鍵屋の辻の決闘」
のことである。これは寛永11年(1634年)秋に渡辺数馬と荒木又右衛門が、数馬の弟の仇
河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った話で、当然ながら多くの小説やら映画になっている。
で、三大仇討の最も古いのが曽我兄弟の一件。
そもそもの事件は、所領争いで、工藤祐経は叔父の伊東祐親に恨みを抱いていた。
祐経は刺客に祐親を待ち伏せさせたのである。
刺客が放った矢は何と、一緒にいた祐親の嫡男の祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。
この刺客は大失敗!当然すぐに討手に殺された。
何しろ 似て非なる 祐(すけ)さんという名ばかりで、角さん登場はおろか、なかなか曽我兄弟に
行きつかない。 が、今しばらく我慢を…
未亡人となった祐泰の妻は曾我祐信へ再稼。
遺児の一萬丸と箱王丸兄弟は曾我の里で成長したのであった。
では、甥の恨みを買った不運な伊東さんち。
その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ死ぬ。
刺客を差向けた甥の工藤祐経は、さっさと源頼朝に従っていた。
一方、祐親の孫である一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗る。
弟の箱王丸は、箱根権現社に稚児として預けられていたが、源頼朝が箱根権現に参拝した際
箱王丸は敵の工藤祐経を見つけて復讐を試みる。
ところがおっとどっこい! 討つどころか逆に祐経に諭されてしまう。
おまけに「赤木柄の短刀」を授けられ… 中略して…
その後 箱王丸は縁戚の北条時政を頼り元服し、曾我五郎時致となった。
またまた 略して、富士の巻狩。
これには当然、工藤祐経も参加していた。
巻狩最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入って、祐経を討ち果たす。
この時、例の「赤木柄の短刀」登場なのだが。 話は 少々すっとばして…
騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。
兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれたのである。
弟の時致はというと、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられた。
と、見てきたかのようにいうが、芝居やらなんやらになっているので、ご容赦。勿論 能にも「夜討曽我」がある。
実態は兎も角、翌日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った遠因、心持を話す。
頼朝は助命も思うが、結局、祐経の遺児に請われて時致を斬った。
というのが 曽我兄弟の物語。
そんなこんなで、この事件の直後、鎌倉では頼朝の消息未確認となり、頼朝暗殺だの、
弟の謀反だのとややこしいことになって…
武士社会での仇討ちの意味やら重みを知らしめた話であった。
三余堂 4月12日 観世九皐会例会で 能 『小袖曽我』を勤める。
曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討ったのである。
巻狩というのは今でも祭儀として残る地方があるというから、本来は『お山の神様のご意向伺い』
といった意味を持つ神事であったらしい。
それが、武士が誕生した中世の頃には軍事訓練を兼ねたようで、
狩場を多人数で四方から囲い込みながら、獲物を追いつめるという大規模な狩猟となっていた。
富士の巻狩主催の頼朝は、既にこの年下野那須野や、信濃三原野などでも大規模な巻狩をしていた。
征夷大将軍という、武家政権の首長としての誇示の一環で、
この富士の裾野で行われた巻狩も 御家人達を総動員して、 山の神対する感謝の儀式を捧げ、
盛大な酒宴を開いたという。 そこで仇討ち事件勃発! というのが曾我兄弟の仇討ちである。
この曾我兄弟の仇討ちと伊賀越えの仇討ち、赤穂浪士の討ち入りが、
日本三大仇討ちということになっている。
赤穂浪士の討ち入りはご存知「忠臣蔵」、伊賀越えの仇討ちはいわゆる「鍵屋の辻の決闘」
のことである。これは寛永11年(1634年)秋に渡辺数馬と荒木又右衛門が、数馬の弟の仇
河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った話で、当然ながら多くの小説やら映画になっている。
で、三大仇討の最も古いのが曽我兄弟の一件。
そもそもの事件は、所領争いで、工藤祐経は叔父の伊東祐親に恨みを抱いていた。
祐経は刺客に祐親を待ち伏せさせたのである。
刺客が放った矢は何と、一緒にいた祐親の嫡男の祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。
この刺客は大失敗!当然すぐに討手に殺された。
何しろ 似て非なる 祐(すけ)さんという名ばかりで、角さん登場はおろか、なかなか曽我兄弟に
行きつかない。 が、今しばらく我慢を…
未亡人となった祐泰の妻は曾我祐信へ再稼。
遺児の一萬丸と箱王丸兄弟は曾我の里で成長したのであった。
では、甥の恨みを買った不運な伊東さんち。
その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ死ぬ。
刺客を差向けた甥の工藤祐経は、さっさと源頼朝に従っていた。
一方、祐親の孫である一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗る。
弟の箱王丸は、箱根権現社に稚児として預けられていたが、源頼朝が箱根権現に参拝した際
箱王丸は敵の工藤祐経を見つけて復讐を試みる。
ところがおっとどっこい! 討つどころか逆に祐経に諭されてしまう。
おまけに「赤木柄の短刀」を授けられ… 中略して…
その後 箱王丸は縁戚の北条時政を頼り元服し、曾我五郎時致となった。
またまた 略して、富士の巻狩。
これには当然、工藤祐経も参加していた。
巻狩最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入って、祐経を討ち果たす。
この時、例の「赤木柄の短刀」登場なのだが。 話は 少々すっとばして…
騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。
兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれたのである。
弟の時致はというと、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられた。
と、見てきたかのようにいうが、芝居やらなんやらになっているので、ご容赦。勿論 能にも「夜討曽我」がある。
実態は兎も角、翌日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った遠因、心持を話す。
頼朝は助命も思うが、結局、祐経の遺児に請われて時致を斬った。
というのが 曽我兄弟の物語。
そんなこんなで、この事件の直後、鎌倉では頼朝の消息未確認となり、頼朝暗殺だの、
弟の謀反だのとややこしいことになって…
武士社会での仇討ちの意味やら重みを知らしめた話であった。
三余堂 4月12日 観世九皐会例会で 能 『小袖曽我』を勤める。
投稿日 2015年04月01日 9:41:26
最終更新日 2015年04月01日 9:43:11
【修正】
2015年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
待ち合わせの時間潰しに本屋を覗くと思わぬお宝を見つけることがある。
図書館でもご同様。気分転換の書架の間で、大概何かにぶつかる。
帰る時は予定外の本が両腕に抱えられ、コンビニに寄ることはできない。
夜も八時を過ぎた児童書コーナーは人の気配がなく、受付け係りの見て見ぬふりの中、
あれもこれもと、本を引っ張り出し、低くて小さな椅子で読みふけるのは
少々気恥ずかしいものがある。が、図書館でのお宝発見は俄然、ここである。
夜の九時まで児童書コーナーが開いているのは何とも嬉しい。
調べものに没頭する会社帰りの中年、ひたすら鉛筆を走らせる女学生。
その横で、消しゴムかすに顔を沈めて眠る男の子達。彼らとは別の階で静寂の中
贅沢な装丁、大きな文字、著名な作家による執筆、頁を繰るだけで気分の栄養補給になる。
そんな中 『ギルガメッシュ王物語』という本を見つけた。
岩波書店からの1993年初版発行の出版で、文/絵 ルドミラ・ゼーマン 松野正子訳。
あのギルガメシュ叙事詩が絵本になっている。
穏やかならぬ世界情勢を新書やら、紛争地写真が満載のハードカバーを
館の玄関で展示紹介するが、そもそものメソポタミアのことまでは中々さかのぼれない。
神話の時代まで辿るつもりも更々なかった。
が、ギルガメッシュの背扉の文字に手が伸びて… 結局 三部作の
『ギルガメッシュ王物語』 『ギルガメッシュ王のたたかい』 『ギルガメッシュ王さいごの旅』
と大型絵本三冊を抱えて帰ることになった。
あのギルガメシュ叙事詩〜 なんていうとさもさも知っているかのようであるが、
ただ、耳にその響きがあっただけで、とてもメソポタミアの神様まで手が回らない。
日本の神様だって覚束ない次第で…
世界最古の文明発祥の地といわれるメソポタミア。
今のイラクとシリアの辺りで 5000年以上前に粘土板に刻まれたのがギルガメシュ叙事詩。
実在したとする説が有力なギルガメッシュという王の話で、死後間もなく神格化され
ギルガメシュ叙事詩と呼ばれる説話に纏められ、今日まで受け継がれた。
シュメール人の王ギルガメッシュは メソポタミアに住んだ人々が語り伝えるうちに変化し、
その断片が、エジプト、ギリシャ、ペルシャの神話に流れ込み、ケルト人の神話にも影響していく。
旧約聖書にもしかり。 メソポタミアはエデンの園で、アブラハムの誕生の地ということである。
因みにアブラハムさんは ユダヤ、キリスト、イスラームの神様の大元さまである。
つまり、現在、世界人口の二人に一人が一神教の教えを奉ずるといえども、
はじめのはじめは みな かみさまいっぱい! だったのである。
もっとも、神様だか、人だか境目が判らないのは何処も同じだが。
ギルガメッシュやエンキドゥ、心優しいシャマトやら、火山のことだろうと推察される怪物フンババの
登場で、その地がいかに豊かであったかを伝え、自然大災害に見舞われながらも、勇気、思いやり、
誠実、理想への努力を失わず前に進むかを体現しているというわけだ。
絵本見開きにルーブル美術館のギルガメシュのレリーフと楔形文字を
メソポタミアはチグリス、ユーフラテス川に挟まれた肥沃な地であった
このメソポタミアは、最初の法典を作り、灌漑技術や一時間かが六十分だということを発明した。
“川と川の間の地” という意味のメソポタミアは世界初の文字を編出し、今にその歴史を
伝えた。 図書館でも多くの大人はこの絵本を子供に読み、ギルガメッシュ王による古代都市の
遺跡があらぬことで破壊されないことを願ったろう。
図書館でもご同様。気分転換の書架の間で、大概何かにぶつかる。
帰る時は予定外の本が両腕に抱えられ、コンビニに寄ることはできない。
夜も八時を過ぎた児童書コーナーは人の気配がなく、受付け係りの見て見ぬふりの中、
あれもこれもと、本を引っ張り出し、低くて小さな椅子で読みふけるのは
少々気恥ずかしいものがある。が、図書館でのお宝発見は俄然、ここである。
夜の九時まで児童書コーナーが開いているのは何とも嬉しい。
調べものに没頭する会社帰りの中年、ひたすら鉛筆を走らせる女学生。
その横で、消しゴムかすに顔を沈めて眠る男の子達。彼らとは別の階で静寂の中
贅沢な装丁、大きな文字、著名な作家による執筆、頁を繰るだけで気分の栄養補給になる。
そんな中 『ギルガメッシュ王物語』という本を見つけた。
岩波書店からの1993年初版発行の出版で、文/絵 ルドミラ・ゼーマン 松野正子訳。
あのギルガメシュ叙事詩が絵本になっている。
穏やかならぬ世界情勢を新書やら、紛争地写真が満載のハードカバーを
館の玄関で展示紹介するが、そもそものメソポタミアのことまでは中々さかのぼれない。
神話の時代まで辿るつもりも更々なかった。
が、ギルガメッシュの背扉の文字に手が伸びて… 結局 三部作の
『ギルガメッシュ王物語』 『ギルガメッシュ王のたたかい』 『ギルガメッシュ王さいごの旅』
と大型絵本三冊を抱えて帰ることになった。
あのギルガメシュ叙事詩〜 なんていうとさもさも知っているかのようであるが、
ただ、耳にその響きがあっただけで、とてもメソポタミアの神様まで手が回らない。
日本の神様だって覚束ない次第で…
世界最古の文明発祥の地といわれるメソポタミア。
今のイラクとシリアの辺りで 5000年以上前に粘土板に刻まれたのがギルガメシュ叙事詩。
実在したとする説が有力なギルガメッシュという王の話で、死後間もなく神格化され
ギルガメシュ叙事詩と呼ばれる説話に纏められ、今日まで受け継がれた。
シュメール人の王ギルガメッシュは メソポタミアに住んだ人々が語り伝えるうちに変化し、
その断片が、エジプト、ギリシャ、ペルシャの神話に流れ込み、ケルト人の神話にも影響していく。
旧約聖書にもしかり。 メソポタミアはエデンの園で、アブラハムの誕生の地ということである。
因みにアブラハムさんは ユダヤ、キリスト、イスラームの神様の大元さまである。
つまり、現在、世界人口の二人に一人が一神教の教えを奉ずるといえども、
はじめのはじめは みな かみさまいっぱい! だったのである。
もっとも、神様だか、人だか境目が判らないのは何処も同じだが。
ギルガメッシュやエンキドゥ、心優しいシャマトやら、火山のことだろうと推察される怪物フンババの
登場で、その地がいかに豊かであったかを伝え、自然大災害に見舞われながらも、勇気、思いやり、
誠実、理想への努力を失わず前に進むかを体現しているというわけだ。
絵本見開きにルーブル美術館のギルガメシュのレリーフと楔形文字を
メソポタミアはチグリス、ユーフラテス川に挟まれた肥沃な地であった
このメソポタミアは、最初の法典を作り、灌漑技術や一時間かが六十分だということを発明した。
“川と川の間の地” という意味のメソポタミアは世界初の文字を編出し、今にその歴史を
伝えた。 図書館でも多くの大人はこの絵本を子供に読み、ギルガメッシュ王による古代都市の
遺跡があらぬことで破壊されないことを願ったろう。
投稿日 2015年03月01日 12:51:18
最終更新日 2015年03月01日 12:56:29
【修正】
2015年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
カゼのひき始めや、肩こりなどに用いる漢方薬に葛根湯がある。
比較的体力のある人が、カゼのひき始めのゾクゾクっと寒気がした時、
頭痛や肩こり、筋肉痛、がある時に先ずは使用。
漢方薬なので空腹時に飲む。 つまりは むっ? きたっ!きたきた!!と、感じたら兎も角飲む。
漢方薬は、自然の草や木からとった「生薬」の組み合わせで、葛根湯は、葛根(カッコン)
麻黄(マオウ) 、桂皮(ケイヒ) 、芍薬(シャクヤク) 、甘草(カンゾウ) 、大棗(タイソウ)と
生姜(ショウキョウ)の7種類の生薬から出来ている。
“麻黄”には、気管支拡張の作用があり、咳や喘鳴をおさえる。“桂皮”には発汗、発散作用。
痛みをやわらげる“芍薬”、炎症やアレルギー症状を緩和する“甘草”などが配合されている。
勿論 今は飲みやすい粉末状態で、白湯で服用が簡単にできるようになっている。
何といったって、漢時代の「傷寒論」という古典書で紹介されている処方が 延々と今に至り…
まぁ、きちんと指示通りに用法を守れば大きな問題はないのだが。
比較的すぐに反応するこの葛根湯も やはり漢方薬。
じわじわと効いてくるので より良く効かせる為に 湿度と温度、栄養に休養を保持して〜
そう思いつつ ついつい時が経つ 先ずは一服 葛根湯。
立春前の極寒の日には必携の葛根湯である。
投稿日 2015年02月02日 23:24:40
最終更新日 2015年02月02日 23:24:40
【修正】
2015年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
恭頌新禧
乙未の新しい歳となり、明るい空の元旦になりそうな気配。
本年もよろしく願い上げます。
初詣の人々を迎える準備万端整いそろそろ 警備の警官配置となる井草八幡宮。
風にはためく大きな文字が浮かび上がり 新たな一年、一日、への気持ちを引き締める。
あと何秒… 乙未の歳へ
乙未の新しい歳となり、明るい空の元旦になりそうな気配。
本年もよろしく願い上げます。
初詣の人々を迎える準備万端整いそろそろ 警備の警官配置となる井草八幡宮。
風にはためく大きな文字が浮かび上がり 新たな一年、一日、への気持ちを引き締める。
あと何秒… 乙未の歳へ
投稿日 2015年01月01日 9:14:13
最終更新日 2015年01月01日 9:14:13
【修正】
2014年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
何時も師走になると街は忙しそうに装う。
装わないといけないような気分も押し寄せてくる。
近隣スーパーでは、おせちの予約は当然ながら 11月下旬からは鏡餅を販売始めた。
それがまた売れているのだ。 秋をしみじみ感じる間もなく 新年へと突進させられる。
今時、正月の支度だといって障子の張替えや、畳を上げる家など見かけないし、
野菜不足に備えた白菜漬けだといって、大きな株を幾つも干す家庭などあるだろうか。
今年は総選挙を控えているから尚更、拍車が掛るのか。
忙しいこんな時に… と言いながらも ホントに忙しいのか…
今 国立公文書館では “江戸時代の罪と罰” という平成26年の特別展が行われている。
8代将軍徳川吉宗の時に編纂された「公事方御定書」 (くじかたおさだめがき 1742年成立 )から
明治刑法(1882年施行)まで、わが国の刑罰と牢獄の歴史を振り返るという趣向。
公事方御定書は老中を主にして、勘定奉行、寺社奉行、江戸町奉行の三奉行が中心となって編纂、
元文3年(1738年)に完成。その後、追加作業で寺社奉行時代の大岡越前守忠相も関わったそうな。
特に犯罪と裁判についての御定めで、原則は三奉行と京都所司代、大坂城代のみが閲覧を
許されるということであったらしい。 が、そこはどういうことやら、天保12年(1841年)に『棠蔭秘鑑』
という写本が作られ、利用されていたり、諸藩でこっそり写本が流布して、藩の法令制定の参考に。
本来は幕府領内での法だったつもりが、結局、日本国内統一法のようになってしまったとやら。
実質上廃止された田畑永代売買禁止令のように、御定書に載せられていたものが明治4年(1871年)
まで有効な法律とされて存続したものもあった由。
そんな 公事方御定書【棠蔭秘鑑】、当時の小伝馬町牢獄内のお作法の様子やら、
明治初年の牢獄獄内の図などの興味深い展示が特別展である。
ホントは忙しくない、そんな御仁は、歴史の中の生活を見てから投票所に向かうと宜しいかもしれない。
開催最終日は14日で 総選挙投票日当日である。
装わないといけないような気分も押し寄せてくる。
近隣スーパーでは、おせちの予約は当然ながら 11月下旬からは鏡餅を販売始めた。
それがまた売れているのだ。 秋をしみじみ感じる間もなく 新年へと突進させられる。
今時、正月の支度だといって障子の張替えや、畳を上げる家など見かけないし、
野菜不足に備えた白菜漬けだといって、大きな株を幾つも干す家庭などあるだろうか。
今年は総選挙を控えているから尚更、拍車が掛るのか。
忙しいこんな時に… と言いながらも ホントに忙しいのか…
今 国立公文書館では “江戸時代の罪と罰” という平成26年の特別展が行われている。
8代将軍徳川吉宗の時に編纂された「公事方御定書」 (くじかたおさだめがき 1742年成立 )から
明治刑法(1882年施行)まで、わが国の刑罰と牢獄の歴史を振り返るという趣向。
公事方御定書は老中を主にして、勘定奉行、寺社奉行、江戸町奉行の三奉行が中心となって編纂、
元文3年(1738年)に完成。その後、追加作業で寺社奉行時代の大岡越前守忠相も関わったそうな。
特に犯罪と裁判についての御定めで、原則は三奉行と京都所司代、大坂城代のみが閲覧を
許されるということであったらしい。 が、そこはどういうことやら、天保12年(1841年)に『棠蔭秘鑑』
という写本が作られ、利用されていたり、諸藩でこっそり写本が流布して、藩の法令制定の参考に。
本来は幕府領内での法だったつもりが、結局、日本国内統一法のようになってしまったとやら。
実質上廃止された田畑永代売買禁止令のように、御定書に載せられていたものが明治4年(1871年)
まで有効な法律とされて存続したものもあった由。
そんな 公事方御定書【棠蔭秘鑑】、当時の小伝馬町牢獄内のお作法の様子やら、
明治初年の牢獄獄内の図などの興味深い展示が特別展である。
ホントは忙しくない、そんな御仁は、歴史の中の生活を見てから投票所に向かうと宜しいかもしれない。
開催最終日は14日で 総選挙投票日当日である。
投稿日 2014年12月01日 0:53:00
最終更新日 2014年12月01日 0:53:00
【修正】
2014年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
… 棕櫚のきりぎりすが …
早朝の虫の音もさすがに弱くなり、庭一面に咲きほこっていたホトトギスも、結んだ実の
ふくらみばかりとなった。 今年もいよいよ霜月である。
玄関の香炉に鈴虫か、きりぎりすか、いや 蟋蟀か… キリハタリチョウか…
まっ、くつわむしでも がちゃがちゃでも 松虫でもいいが 兎も角 虫一匹鎮座。
棕櫚の葉で作ったもので、知人からの到来物とのこと。
その尊顔を拝せんと目を近づけて じぃっ〜と覗き込む。
シュロは乾湿、陰陽の土地条件を選ばない為か、結構古くからの庭には植わっている。
子供の頃は、大きくなると椰子の木になると思っていたが、一向に丈が伸びない。
東京は寒いので、南方の植物は大きく育たないのだと勝手に考えていた。
まぁ、当たらずとも遠からず、椰子の仲間には違いない。
そんな棕櫚は棕梠とも書くが 専らシュロ縄やシュロ箒のほうで馴染みだったような気がする。
パイナップルの皮に、ながーい髭がモサモサと生えたような樹皮。それは縄やら箒は勿論、
椅子やベッドのクッション材で、古い家具の端から顔を覗かせていた。
何とも古めかしい香りがする話である。
シュロ縄は植木職には必携だったが、昨今は合成の棕梠縄も巾を効かせる。
確かに朽ち果てず丈夫だろうし、価格面も違うのだろう。庭の手入れに来た親方が、
こんなものが最近あると見せてくれた時は、互いに苦笑いしたものであった。
箒にしても イイものは結構な贅沢品である。所謂工芸品という事だろう。
手入れ方法次第で15〜20年以上使用できるという。
勿論、年に一度くらいは水で洗って 手櫛、ブラシッング、日陰干しに椿油でのお手入れと
なかなかの心遣いが必要なようだが、それだけの価値はある。
棕櫚の皮をぐるぐる巻いてまとめて、それをいくつか束ね、水に浸して柔らかにしたところを
手で一本一本ほぐして、梳いていく。そして、毛先を揃えたり、乾燥干しをしたり。それから
洗って干して、椿油で整えて… そんな御大層な箒は使うところを 先づ掃除せにゃ。
秋の虫になった 深い緑の棕櫚の葉を眺めつつ
そういえば 棕梠の荒神箒は何処へ行ったやら…
投稿日 2014年11月01日 22:00:51
最終更新日 2014年11月01日 22:01:30
【修正】
2014年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
毎年10月初めは近隣の八幡宮 秋の例大祭である。
今年も 宵宮の日には昼から参道一杯に 屋台が立ち並んだ。
さて本番、抜けるような秋の高い空の下 威勢の良い神輿が…と行きたいものであるが
そうは問屋が卸さないのが この時期で、必ず雨模様の日が一日はある。
秋雨だの台風だのと文句を言ってはいけない、さて、お立合い!昔から 五穀豊穣国土安穏〜
雨が降ってこその… という次第で、今年は冷たい雨が子供神輿を中止にした。
丁度今頃、といっても四百年昔のことであるが、
徳川幕府は京都との情報のやり取りのために一里飛脚を置き、豊臣軍は戦法を籠城とした。
我が国は戦闘状態である。豊臣氏は公然と浪人を集め始め、何とも落ち着かない。
こんな時にキリシタン大名の高山右近は国外へ出た。日本からの追放である。
利休七哲の一人としても知られた高山右近は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将である。
七哲といわれた 千利休の七高弟は 他に細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)
瀬田正忠(掃部)、牧村利貞(兵部)と、当時のそうそうたる 武将であった。
細川忠興夫人は かのガラシャ、牧村利貞は高山右近の勧めで切支丹となったというから
当時の切支丹の一端が垣間見える。
徳の人という高山右近であるが、あまりの熱心な信仰故か、領内の社寺の破壊や神官や僧侶への
迫害などで 領地付近の古い神社仏閣はほとんど残らないという事態に陥ったという。
右近はキリスト教入信の強制はしなかったが、その影響の大きさで、領民のほとんどが
キリスト教徒となったそうである。 蒲生氏郷や岡田君の演ずる黒田官兵衛なども高山右近の
影響を受けて切支丹になったらしい。
石山本願寺の件で 手痛い思いをしている為にキリスト教の拡大による、一向一揆のような
反乱を恐れたり、社寺への迫害を懸念したり、秀吉の気に染まぬことが政治外交上も
色々とあったようで、1587年に伴天連追放令が豊臣秀吉により出された。
高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てたが、小西行長に庇護されて
小豆島や肥後などに隠遁、その後1588年、加賀の前田利家に招かれ、扶持を受けて暮らしたという。
1614年、慶長19年の徳川家康によるキリシタン国外追放令により、加賀を退去した。
その数日後、家康はいよいよ駿府を出発し京へ向かう。
大坂冬の陣へ一月あまりといったところであった。
高山右近は長崎から他の切支丹と共に船でマニラに同年の12月に到着。
イエズス会などの報告で、既にマニラで知られていた高山右近は大歓迎を受けたが、
老齢の身に病を呼んだのか、翌年になると、間もなく亡くなったという。
徳川軍が大坂城の堀を完全に破壊し、徳川秀忠は江戸城に入り、
家康が駿府城に到着した頃になる。
いよいよ日本におけるキリスト教受難の時に入った。
それが400年前の秋の空の下ということだった。
今年も 宵宮の日には昼から参道一杯に 屋台が立ち並んだ。
さて本番、抜けるような秋の高い空の下 威勢の良い神輿が…と行きたいものであるが
そうは問屋が卸さないのが この時期で、必ず雨模様の日が一日はある。
秋雨だの台風だのと文句を言ってはいけない、さて、お立合い!昔から 五穀豊穣国土安穏〜
雨が降ってこその… という次第で、今年は冷たい雨が子供神輿を中止にした。
丁度今頃、といっても四百年昔のことであるが、
徳川幕府は京都との情報のやり取りのために一里飛脚を置き、豊臣軍は戦法を籠城とした。
我が国は戦闘状態である。豊臣氏は公然と浪人を集め始め、何とも落ち着かない。
こんな時にキリシタン大名の高山右近は国外へ出た。日本からの追放である。
利休七哲の一人としても知られた高山右近は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将である。
七哲といわれた 千利休の七高弟は 他に細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)
瀬田正忠(掃部)、牧村利貞(兵部)と、当時のそうそうたる 武将であった。
細川忠興夫人は かのガラシャ、牧村利貞は高山右近の勧めで切支丹となったというから
当時の切支丹の一端が垣間見える。
徳の人という高山右近であるが、あまりの熱心な信仰故か、領内の社寺の破壊や神官や僧侶への
迫害などで 領地付近の古い神社仏閣はほとんど残らないという事態に陥ったという。
右近はキリスト教入信の強制はしなかったが、その影響の大きさで、領民のほとんどが
キリスト教徒となったそうである。 蒲生氏郷や岡田君の演ずる黒田官兵衛なども高山右近の
影響を受けて切支丹になったらしい。
石山本願寺の件で 手痛い思いをしている為にキリスト教の拡大による、一向一揆のような
反乱を恐れたり、社寺への迫害を懸念したり、秀吉の気に染まぬことが政治外交上も
色々とあったようで、1587年に伴天連追放令が豊臣秀吉により出された。
高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てたが、小西行長に庇護されて
小豆島や肥後などに隠遁、その後1588年、加賀の前田利家に招かれ、扶持を受けて暮らしたという。
1614年、慶長19年の徳川家康によるキリシタン国外追放令により、加賀を退去した。
その数日後、家康はいよいよ駿府を出発し京へ向かう。
大坂冬の陣へ一月あまりといったところであった。
高山右近は長崎から他の切支丹と共に船でマニラに同年の12月に到着。
イエズス会などの報告で、既にマニラで知られていた高山右近は大歓迎を受けたが、
老齢の身に病を呼んだのか、翌年になると、間もなく亡くなったという。
徳川軍が大坂城の堀を完全に破壊し、徳川秀忠は江戸城に入り、
家康が駿府城に到着した頃になる。
いよいよ日本におけるキリスト教受難の時に入った。
それが400年前の秋の空の下ということだった。
投稿日 2014年10月01日 22:57:16
最終更新日 2014年10月01日 22:57:16
【修正】
2014年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
暑い夏をやり過ごすには人気の図書館。
空調の加減の良いのは新書が並ぶ棚の前であった。
ただ ぽっーと眺める背表紙の漢字。 突然にベトナムも漢字の国だったと思う。
いやっ、今の表記はちがうナァ…
廻らない頭の中を アオザイの美女やら ハルマキやら ベトナムの僧侶が伝えたといわれる
林邑楽のことやらが駆け巡る。 この林邑楽、大陸を経由しての楽かもしれないが、奈良の東大寺
大仏開眼法要で奏されたというベトナム製。
外は灼熱でここは涼しい、何とかしばらく時を稼ごうと手が棚に伸びて
べ べ べ… ベトナムの歴史 、いや 文化、いや料理だなぁ
あぁ〜 ヴェ ヴェ ヴェトナムかぁ とますます頭は廻らず、訳の判らないことに感心する。
『物語 ヴェトムの歴史』 よし、これで行こう!
副題に一億人国家のダイナミズム とある。 ほぉ〜 そんなに人がいるのかぁ
やっと手にしたのは 中央公論社の中公新書 小倉貞夫著であった。
1997年発行とあるので 近年のベトナムの発展ぶりを15年前には
どんな風に予測していたのかなぁ… なんて あとがきをチラチラ。
巻末の年表でざっと 歴史は掴めるかとペラペラ。
が、 近年の統一はおろかベトナム戦争になるまではナカナカ。
歴史の中に国家として登場するのは、紀元前2880年頃で雄王(フンヴォン)の文朗国。
ベトナムの古代史は、インドシナ半島の全体の歴史に繋がり、その後は中国支配の歴史になる、
清朝がガタツイテくるといよいよややこしく、厚い歴史は体温上昇を招くばかりだ。
紀元前111年には、ベトナム南越国を、漢の武帝支配。
約千年間ベトナムは政治的にも文化的にも 独自の文化を保持しつつ、言葉も文字も漢化される。
唐代玄宗皇帝に気に入られた、阿倍亜仲麻呂が753年遣唐使藤原清河と共に楚州からの帰国の際
嵐で漂着したのはベトナムだった。
“天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出し月かも”
と、楚州で詠んでやっと日本へ向かったのに、そう簡単には帰れなかった。
また唐に戻るのだが、山岳地帯の部族が反乱を起こしたので 平定を命じられたという。
当時の表記はベトナム語の発音に近い音を持つ漢字を借用していたようだ。
が、知識人が中心になって独自の漢字を開発したという。阿倍亜仲麻呂も同じ漢字で
どれだけの言葉を操ったのか。19世紀までは、ベトナム語は漢字を使って表記していたという。
まっ、音は解らずとも意味が判れば漢字はイイ感じということで…
序章 ヴェトナムとインドシナ 第一章 中国支配の時代 と読み進む。
新書にしては400ページからの厚みで 第四章のフランス植民地になるまでまだまだである。
汗も収まったので、そっーと 棚に戻して 退出。
空調の加減の良いのは新書が並ぶ棚の前であった。
ただ ぽっーと眺める背表紙の漢字。 突然にベトナムも漢字の国だったと思う。
いやっ、今の表記はちがうナァ…
廻らない頭の中を アオザイの美女やら ハルマキやら ベトナムの僧侶が伝えたといわれる
林邑楽のことやらが駆け巡る。 この林邑楽、大陸を経由しての楽かもしれないが、奈良の東大寺
大仏開眼法要で奏されたというベトナム製。
外は灼熱でここは涼しい、何とかしばらく時を稼ごうと手が棚に伸びて
べ べ べ… ベトナムの歴史 、いや 文化、いや料理だなぁ
あぁ〜 ヴェ ヴェ ヴェトナムかぁ とますます頭は廻らず、訳の判らないことに感心する。
『物語 ヴェトムの歴史』 よし、これで行こう!
副題に一億人国家のダイナミズム とある。 ほぉ〜 そんなに人がいるのかぁ
やっと手にしたのは 中央公論社の中公新書 小倉貞夫著であった。
1997年発行とあるので 近年のベトナムの発展ぶりを15年前には
どんな風に予測していたのかなぁ… なんて あとがきをチラチラ。
巻末の年表でざっと 歴史は掴めるかとペラペラ。
が、 近年の統一はおろかベトナム戦争になるまではナカナカ。
歴史の中に国家として登場するのは、紀元前2880年頃で雄王(フンヴォン)の文朗国。
ベトナムの古代史は、インドシナ半島の全体の歴史に繋がり、その後は中国支配の歴史になる、
清朝がガタツイテくるといよいよややこしく、厚い歴史は体温上昇を招くばかりだ。
紀元前111年には、ベトナム南越国を、漢の武帝支配。
約千年間ベトナムは政治的にも文化的にも 独自の文化を保持しつつ、言葉も文字も漢化される。
唐代玄宗皇帝に気に入られた、阿倍亜仲麻呂が753年遣唐使藤原清河と共に楚州からの帰国の際
嵐で漂着したのはベトナムだった。
“天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出し月かも”
と、楚州で詠んでやっと日本へ向かったのに、そう簡単には帰れなかった。
また唐に戻るのだが、山岳地帯の部族が反乱を起こしたので 平定を命じられたという。
当時の表記はベトナム語の発音に近い音を持つ漢字を借用していたようだ。
が、知識人が中心になって独自の漢字を開発したという。阿倍亜仲麻呂も同じ漢字で
どれだけの言葉を操ったのか。19世紀までは、ベトナム語は漢字を使って表記していたという。
まっ、音は解らずとも意味が判れば漢字はイイ感じということで…
序章 ヴェトナムとインドシナ 第一章 中国支配の時代 と読み進む。
新書にしては400ページからの厚みで 第四章のフランス植民地になるまでまだまだである。
汗も収まったので、そっーと 棚に戻して 退出。
投稿日 2014年09月02日 16:43:29
最終更新日 2014年09月02日 16:50:19
【修正】
2014年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
世阿弥の芸談を筆録した能の伝書に通称『申楽談儀』がある。
60歳から68歳頃までの世阿弥の芸談だ。
室町時代の成立になるその申楽談義に 能面の作家について記した個所がある。
『一、面の事。翁は日光打 弥勒打手なり。 此座の翁は弥勒打手なり。
伊賀小波多にて座を建て染められし時 伊賀にて尋ね出し奉し面なり。
近江には赤鶴、鬼の面の上手なり。 近頃越智打とて 座禅院の打 宇賀のものなり。
女の面上手なり。 云々… 』 とある。
江戸時代になると『面目利書』『仮面譜』などの面についての文献が出たようだが、
能面作家についての資料としては最も古いもののようだ。
ここに出てくる 日光(にっこう)だの、赤鶴(しゃくづる)だのの作品に この猛暑の中
三井記念美術館で出会える。 心地よい空調加減は数百年の時をかき消して
吸い込まれるような場所を演出していた。暑気払いの空間である。
申楽談義の如く 日光の翁面、赤鶴の勇壮な大飛出などの面の展示がみられる。
平安初期の人と謂われ、日光菩薩などを手掛けた仏師とも思われる日光。
詳細は不明だが 『翁は日光打 弥勒打手なり』 とあるのは 翁が能でなく神事としての
存在であったなら仏師による翁面作成は当然だったと思うし、
能が大成する以前の古い作家ということになる。
この人の作と伝えられる翁面は他流にも伝わっているが、金剛流宗家に伝わった
重要文化財の白式尉翁面と、 同じく重文の黒式尉三番桑叟面の展示がある。
今回の展示面はすべて金剛流宗家から三井家へ贈られた面の数々。
赤鶴あたりになると すこしは氏素性が判るようで、名を吉成、文永〜弘安ごろの人とか…
近江申楽の大夫だとも云われ、鬼畜の面などの強烈なものでは比類なき名人と云われている。
今回、何面かお目にかかれた。
有名な面打ちはいろいろあるが、通称 龍右衛門 (たつえもん)という人がいる。
姓は石川名は重政。女面の元祖といわれる。
現存の作品は 女面の名称として小面、曲見(しゃくみ)、十寸髪(ますかみ)、泥眼(でいがん)
などや、若くてきれいな男の面も残している。
中でも 小面は史上有名で、かの豊臣秀吉が龍右衛門打の小面三面を 雪・月・花と名づけて
愛蔵しており、金春岌連に雪、徳川家康に月、金剛宗家に花の小面を贈ったという話がある。
金剛宗家伝来 花の小面 拝見。
愛くるしさの中央にもったりとした鼻を配した 忘れ得ない面である。
数十点の展示面は当時の作家、使用する役者と舞台そして観る人々の共に絡み合う息吹と、
これまでの時が育ててきた力をみなぎらせている。
拝見するのも覚悟が要る猛暑のひと時。
能面と能装束 三井記念美術館
60歳から68歳頃までの世阿弥の芸談だ。
室町時代の成立になるその申楽談義に 能面の作家について記した個所がある。
『一、面の事。翁は日光打 弥勒打手なり。 此座の翁は弥勒打手なり。
伊賀小波多にて座を建て染められし時 伊賀にて尋ね出し奉し面なり。
近江には赤鶴、鬼の面の上手なり。 近頃越智打とて 座禅院の打 宇賀のものなり。
女の面上手なり。 云々… 』 とある。
江戸時代になると『面目利書』『仮面譜』などの面についての文献が出たようだが、
能面作家についての資料としては最も古いもののようだ。
ここに出てくる 日光(にっこう)だの、赤鶴(しゃくづる)だのの作品に この猛暑の中
三井記念美術館で出会える。 心地よい空調加減は数百年の時をかき消して
吸い込まれるような場所を演出していた。暑気払いの空間である。
申楽談義の如く 日光の翁面、赤鶴の勇壮な大飛出などの面の展示がみられる。
平安初期の人と謂われ、日光菩薩などを手掛けた仏師とも思われる日光。
詳細は不明だが 『翁は日光打 弥勒打手なり』 とあるのは 翁が能でなく神事としての
存在であったなら仏師による翁面作成は当然だったと思うし、
能が大成する以前の古い作家ということになる。
この人の作と伝えられる翁面は他流にも伝わっているが、金剛流宗家に伝わった
重要文化財の白式尉翁面と、 同じく重文の黒式尉三番桑叟面の展示がある。
今回の展示面はすべて金剛流宗家から三井家へ贈られた面の数々。
赤鶴あたりになると すこしは氏素性が判るようで、名を吉成、文永〜弘安ごろの人とか…
近江申楽の大夫だとも云われ、鬼畜の面などの強烈なものでは比類なき名人と云われている。
今回、何面かお目にかかれた。
有名な面打ちはいろいろあるが、通称 龍右衛門 (たつえもん)という人がいる。
姓は石川名は重政。女面の元祖といわれる。
現存の作品は 女面の名称として小面、曲見(しゃくみ)、十寸髪(ますかみ)、泥眼(でいがん)
などや、若くてきれいな男の面も残している。
中でも 小面は史上有名で、かの豊臣秀吉が龍右衛門打の小面三面を 雪・月・花と名づけて
愛蔵しており、金春岌連に雪、徳川家康に月、金剛宗家に花の小面を贈ったという話がある。
金剛宗家伝来 花の小面 拝見。
愛くるしさの中央にもったりとした鼻を配した 忘れ得ない面である。
数十点の展示面は当時の作家、使用する役者と舞台そして観る人々の共に絡み合う息吹と、
これまでの時が育ててきた力をみなぎらせている。
拝見するのも覚悟が要る猛暑のひと時。
能面と能装束 三井記念美術館
投稿日 2014年08月02日 17:32:57
最終更新日 2014年08月02日 17:33:00
【修正】
2014年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
先月24日から 東京国立区物館で 台北 故宮博物院展が始まった。
7月7日まで 翠玉白菜の特別展示が限定公開されて話題になっている。
翡翠の色の変化を利用した作品で、精緻な彫りは細部までゆるぎなく、硬い玉材の加工を
ここまで丹念に仕上げる技術に会場は驚嘆の溜息で満る。
作品は両手で包み込めるほどの大きさであるが、原石の半分が白く、半分が緑のヒスイ輝石
というもので、中は空洞などもあるようだ。
しかし、彫刻が白菜の茎や葉の形にうまく活かされているという。
原石の色を生かした工芸品は、人と熊が相撲をしているような 白黒の作品も展示されているし、
九州展では実に旨そうな角煮も展示される。これも原石の形や、色目を生かした工芸品である。
清朝の中期以降、おおいに流行した硬玉工芸で俏色(しょうしょく)と云うそうだ。
そのなかでも翠玉白菜は、俏色の最も完成された作品として門外不出ということであった。
目を凝らして見ると、緑の葉の上にバッタとキリギリスが彫られている。
これは多産の象徴と考えられ、白菜の白い部分は純潔を表し、光緒帝(1875 〜1908)の妃
瑾妃の嫁入り道具という説明がプロジェクターで 会場に映し出されていた。
この彫刻の作者は不明であるが、紫禁城の中の瑾妃の寝宮にあったという。
瑾妃が嫁いだ折の持参品と考えられていて、1911年の辛亥革命で清朝が倒れてからは
紫禁城跡に作られた故宮博物院の所蔵品となった。
しかし、1933年に戦禍を避けて上海に移され、その後1948年に台湾の故宮博物院に移されるまで
度々場所を移動せざる負えない数奇な運命をたどって現在に至っている。
白菜といえば、日本では冬の野菜の代表選手で、鍋物には欠かせないし、漬物としても食卓に
堂々と鎮座する。
紀元前の中国で栽培されるようになった白菜は、長い時間を経て様々な品種の葉野菜を生み出す
ことになった。 江戸時代以前から日本には度々渡来したというが、いずれも品種を保持でずに
品種改良が進んだ末、今日見られるような結球するハクサイが生まれた。
そんな白菜が、一般に食べられるようになったのは、なんと20世紀に入ってからだ。
明治初期に政府によって本格導入されたが、なかなか 栽培に成功しなかったようで、
明治末から大正にかけて、山東白菜の改良を進め、現在のように結球するハクサイができたと
いわれている。それまでは所謂 シロナ と言われる結球しない菜っ葉だった。
故宮博物院展の帰途 雨降りの日没後の上野公園を歩き乍 井伏鱒二の『荻窪風土記』で
リヤカーに白菜を積んでぬかるんだ荻窪駅付近を行く描写があったのを思い出す。
当時は所謂白菜誕生間もない頃のことだったのか、と。
7月7日まで 翠玉白菜の特別展示が限定公開されて話題になっている。
翡翠の色の変化を利用した作品で、精緻な彫りは細部までゆるぎなく、硬い玉材の加工を
ここまで丹念に仕上げる技術に会場は驚嘆の溜息で満る。
作品は両手で包み込めるほどの大きさであるが、原石の半分が白く、半分が緑のヒスイ輝石
というもので、中は空洞などもあるようだ。
しかし、彫刻が白菜の茎や葉の形にうまく活かされているという。
原石の色を生かした工芸品は、人と熊が相撲をしているような 白黒の作品も展示されているし、
九州展では実に旨そうな角煮も展示される。これも原石の形や、色目を生かした工芸品である。
清朝の中期以降、おおいに流行した硬玉工芸で俏色(しょうしょく)と云うそうだ。
そのなかでも翠玉白菜は、俏色の最も完成された作品として門外不出ということであった。
目を凝らして見ると、緑の葉の上にバッタとキリギリスが彫られている。
これは多産の象徴と考えられ、白菜の白い部分は純潔を表し、光緒帝(1875 〜1908)の妃
瑾妃の嫁入り道具という説明がプロジェクターで 会場に映し出されていた。
この彫刻の作者は不明であるが、紫禁城の中の瑾妃の寝宮にあったという。
瑾妃が嫁いだ折の持参品と考えられていて、1911年の辛亥革命で清朝が倒れてからは
紫禁城跡に作られた故宮博物院の所蔵品となった。
しかし、1933年に戦禍を避けて上海に移され、その後1948年に台湾の故宮博物院に移されるまで
度々場所を移動せざる負えない数奇な運命をたどって現在に至っている。
白菜といえば、日本では冬の野菜の代表選手で、鍋物には欠かせないし、漬物としても食卓に
堂々と鎮座する。
紀元前の中国で栽培されるようになった白菜は、長い時間を経て様々な品種の葉野菜を生み出す
ことになった。 江戸時代以前から日本には度々渡来したというが、いずれも品種を保持でずに
品種改良が進んだ末、今日見られるような結球するハクサイが生まれた。
そんな白菜が、一般に食べられるようになったのは、なんと20世紀に入ってからだ。
明治初期に政府によって本格導入されたが、なかなか 栽培に成功しなかったようで、
明治末から大正にかけて、山東白菜の改良を進め、現在のように結球するハクサイができたと
いわれている。それまでは所謂 シロナ と言われる結球しない菜っ葉だった。
故宮博物院展の帰途 雨降りの日没後の上野公園を歩き乍 井伏鱒二の『荻窪風土記』で
リヤカーに白菜を積んでぬかるんだ荻窪駅付近を行く描写があったのを思い出す。
当時は所謂白菜誕生間もない頃のことだったのか、と。
投稿日 2014年07月01日 23:49:09
最終更新日 2014年07月01日 23:49:47
【修正】
2014年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
木蓮の仲間にタイサンボクというのがある。
明治6年 (1873)に渡来したとされ、明治12年に来日したアメリカのグラント夫妻によって、
上野公園に記念植樹されて有名になったという
第18代アメリカ合衆国大統領 グラント将軍は、大統領を二期務めた後に世界を周り、
その際、日本にも立ち寄って植樹となったそうである。
将軍がローソンヒノキ、夫人がタイサンボクを植えた由。
上野東照宮の参道入口脇という一等地に植えられたが、ヒノキは兎も角、
タイサンボクは元気だとのこと。但し、夫人植樹のは変種の細葉泰山木だったという。
50年もたった昭和4年に、渋沢栄一 と 益田 孝 が立派な記念碑を建てているというから
博物館に行った折にでも確認してこようと思う。
北アメリカ南部に分布する常緑樹 タイサンボクは自生地のミシシッピ州と
ルイジアナ州では州の花なのだそうな。 何しろ大きくなる。
樹高は20mにはなるだろうか、枝を広げた姿は誠に雄大だが、ややもすると邪魔。
将軍お手植え当時は この木、渡来したばかりで現在の名はまだ付いておらず、
ハクモクレンの中国名「玉蘭」に グラントを付けて「グラントギョクラン」としたそうだ。
てなことが、記念碑には書いてあるのだろう。 ちなみにタイサンボクの中国名は「洋玉蘭」。
二階家の屋根を遥かにしのぐ
濃緑色で光沢のある長楕円の葉は、20cmはある。葉裏は褐色の毛が密生してビロードのようだ。
今頃咲く花は これまた大きくて輝くような白さを見せる。直径は葉の丈はあるだろう。
丸い玉のような大きな蕾は 一瞬にして力強く開くのだろうか。
それとも 陽の光を浴びながら静かに、静かにほころんでいくのだろうか。
見上げるばかりの花は芳香を放つという。が、そんな近くに花を見ることはできない。
今年は すっかり選定されて花数も少ないが…
タイサンボクは中国山東省にある『泰山』ノ木ということである。
世界遺産に指定されている道教の聖地 『泰山』とは直接関係ないようだが、その雄大さ故の命名か。
見解は色々のようだが、大きな葉の間に次々と大輪の花を咲かせ 学名のgrandiflora「大きな花」の
意は、まさに!と誰もが思いそうだ。
初夏の朝陽に、孟夏の夕日に輝く花は三余堂への道に日陰を作る。
ゆふぐれの 泰山木の 白花は われのなげきを おほふがごとし 斎藤茂吉
明治6年 (1873)に渡来したとされ、明治12年に来日したアメリカのグラント夫妻によって、
上野公園に記念植樹されて有名になったという
第18代アメリカ合衆国大統領 グラント将軍は、大統領を二期務めた後に世界を周り、
その際、日本にも立ち寄って植樹となったそうである。
将軍がローソンヒノキ、夫人がタイサンボクを植えた由。
上野東照宮の参道入口脇という一等地に植えられたが、ヒノキは兎も角、
タイサンボクは元気だとのこと。但し、夫人植樹のは変種の細葉泰山木だったという。
50年もたった昭和4年に、渋沢栄一 と 益田 孝 が立派な記念碑を建てているというから
博物館に行った折にでも確認してこようと思う。
北アメリカ南部に分布する常緑樹 タイサンボクは自生地のミシシッピ州と
ルイジアナ州では州の花なのだそうな。 何しろ大きくなる。
樹高は20mにはなるだろうか、枝を広げた姿は誠に雄大だが、ややもすると邪魔。
将軍お手植え当時は この木、渡来したばかりで現在の名はまだ付いておらず、
ハクモクレンの中国名「玉蘭」に グラントを付けて「グラントギョクラン」としたそうだ。
てなことが、記念碑には書いてあるのだろう。 ちなみにタイサンボクの中国名は「洋玉蘭」。
二階家の屋根を遥かにしのぐ
濃緑色で光沢のある長楕円の葉は、20cmはある。葉裏は褐色の毛が密生してビロードのようだ。
今頃咲く花は これまた大きくて輝くような白さを見せる。直径は葉の丈はあるだろう。
丸い玉のような大きな蕾は 一瞬にして力強く開くのだろうか。
それとも 陽の光を浴びながら静かに、静かにほころんでいくのだろうか。
見上げるばかりの花は芳香を放つという。が、そんな近くに花を見ることはできない。
今年は すっかり選定されて花数も少ないが…
タイサンボクは中国山東省にある『泰山』ノ木ということである。
世界遺産に指定されている道教の聖地 『泰山』とは直接関係ないようだが、その雄大さ故の命名か。
見解は色々のようだが、大きな葉の間に次々と大輪の花を咲かせ 学名のgrandiflora「大きな花」の
意は、まさに!と誰もが思いそうだ。
初夏の朝陽に、孟夏の夕日に輝く花は三余堂への道に日陰を作る。
ゆふぐれの 泰山木の 白花は われのなげきを おほふがごとし 斎藤茂吉
投稿日 2014年06月01日 22:11:40
最終更新日 2014年06月01日 22:12:26
【修正】
2014年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
もう三十年近くになろうか、 新緑の下を歩くと必ずさわやかな芳香を感じる道があった。
風に乗ってくる香りは 春を知らせる沈丁花の香気とは異なり むっとするような湿り気を
含みはじめた空気に混じりながら 追いかけてきた。 なんだろうかと思いながらも花の
香りとも知らず行き過ぎる。
つっかけたサンダルを引きずりながら 照り返すアスファルトに影を見て 『さっきの香りだ!』
手にセブンスターと釣銭を握りしめて、辺りを見回した。 この時期 植栽、プランターから、
道端の小さな草に至るまで美しく新しい緑は どれも勢いに満ちた顔をしてこちらを見ていた。
が、これといって己が鼻に薫りを感ずるものもなく、握られた釣銭が汗で湿って 早く解放しろ
と叫んでいるようだった。
孟夏の心地よい風が、肩越しにすっうと抜けるのを 『こんな季節を楽しめよ』 と、腹の中で
小銭に云いながら玄関へ向かった。
次の年、煙草屋への道にある家の庭先に白やら藤色やらといやに豪勢な感じで花が咲く。
よくよく見ると 一本の木に濃い紫から白まで、漏斗状の五枚の花弁をつけて花の間に 光沢の
ある葉が陽を受けて輝いてる。 顔を寄せて もっとよく見たいと思った。
覗き込んだ鼻には突き刺すように強い芳香がして、『あの 香りだ!』
香りの主は 匂蕃茉莉とや。 三余堂初めて見知る。
花は咲き始めが濃い紫で、次に薄い紫色、最後は白色になって、強い芳香を放つという
ニオイバンマツリであった。 匂蕃茉莉、は、ナス科の常緑樹で原産は南米とのことだが、
日本でも充分に越冬する。その後 三余堂にも小さな鉢植えが嫁入りしてきた。 当時の
園芸の流行りだったのだろうか。 結構大きくなるもので 初夏の爽やかさを玄関先に振り
まいていたが、いつの間にやら なくなっている。
五月の花
投稿日 2014年05月02日 13:30:12
最終更新日 2014年05月02日 13:30:28
【修正】
2014年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
甲午孟春 花見の季節到来。
能に吉野天人という曲がある。
吉野山の桜見物で出会った不可思議な女が、実は天より降りてきた天人で、
美しい舞を舞い、花の雲に乗って消え失せるという話だ。
どうという、とり止めない話ではあるが、桜の花を愛でる人々それぞれの心の内を感じる
さくらの語源は諸説あるようだが、古事記の「木花開耶姫」 このはなさくやひめが、
転化したという説や「さ」が穀物の霊を表し、
「くら」は神霊が座する所で、穀霊の集まる處を表すという説もあるようだ。
その開花が農作業の目安の一つであることを考えれば、桜に実りの神が宿るのも至極当然。
庭仕事ばかりでなく、ベランダのプランターも桜の開花が仕事を急がせる。
その年で花の早い遅いは言うまでもないが、花色の美しさもまちまちである。
花色は咲初めてから散るまでの短い時を変化していく。
東京で一般的な染井吉野は 咲き始めは淡紅色から白くなり、
散る頃には花の付け根が紅色に染まる。
桜の色と言ったって、種類で白色の桜、.淡紅色の桜もあれば 緋寒桜の.紅色もある。
そうそう、.墨染の桜ってのもある。尤も、花が墨染めな訳ではないが…
同じ種類でも、東北や北海道の桜は関東の桜よりも花の色が濃いという。確かにそんな気がする。
海辺や平地の桜よりも山の桜の方が濃い色だともいう。
桜の花びらの色素は薄いとはいえ、アントシアニンという、例のポリフェノールの構造の色素。
野菜や果実にも含まれる植物色素で、確か紅葉の赤色もこのお蔭さま。
シアニジン-3-グルコシドと呼ばれる色素が主だそうで、多量なら黒豆やらサクランボの赤い実の色
ということになるそうな。桜の若芽の赤い色もこのシアニジンなんじゃらの量ということ。
お天道様がよく当たるとか、雨が多いとか少ないとか、お若いとか、年増とか、
はたまた管理栄養士がついているとか、いないとか。
どちら様もお手入れひとつで様子が変わるのは当然のことであろう。
光の乱反射の影響で、花弁表面の細胞の形や、並び方が関係して濃淡は出来るようだが、
同じ程度の濃さの花を咲かせるにはそれなりの遺伝子制御という、科学的努力が必要らしい。
とはいえ、見た時の天候、あたりの様子、とりわけ、眺めるその時の心持。
濃きも薄きも気分次第の花の色〜 である。
早くも満開 ことしの色は〜
四月観世九皐会定例会にて 三余堂 能『吉野天人』を勤める
能に吉野天人という曲がある。
吉野山の桜見物で出会った不可思議な女が、実は天より降りてきた天人で、
美しい舞を舞い、花の雲に乗って消え失せるという話だ。
どうという、とり止めない話ではあるが、桜の花を愛でる人々それぞれの心の内を感じる
さくらの語源は諸説あるようだが、古事記の「木花開耶姫」 このはなさくやひめが、
転化したという説や「さ」が穀物の霊を表し、
「くら」は神霊が座する所で、穀霊の集まる處を表すという説もあるようだ。
その開花が農作業の目安の一つであることを考えれば、桜に実りの神が宿るのも至極当然。
庭仕事ばかりでなく、ベランダのプランターも桜の開花が仕事を急がせる。
その年で花の早い遅いは言うまでもないが、花色の美しさもまちまちである。
花色は咲初めてから散るまでの短い時を変化していく。
東京で一般的な染井吉野は 咲き始めは淡紅色から白くなり、
散る頃には花の付け根が紅色に染まる。
桜の色と言ったって、種類で白色の桜、.淡紅色の桜もあれば 緋寒桜の.紅色もある。
そうそう、.墨染の桜ってのもある。尤も、花が墨染めな訳ではないが…
同じ種類でも、東北や北海道の桜は関東の桜よりも花の色が濃いという。確かにそんな気がする。
海辺や平地の桜よりも山の桜の方が濃い色だともいう。
桜の花びらの色素は薄いとはいえ、アントシアニンという、例のポリフェノールの構造の色素。
野菜や果実にも含まれる植物色素で、確か紅葉の赤色もこのお蔭さま。
シアニジン-3-グルコシドと呼ばれる色素が主だそうで、多量なら黒豆やらサクランボの赤い実の色
ということになるそうな。桜の若芽の赤い色もこのシアニジンなんじゃらの量ということ。
お天道様がよく当たるとか、雨が多いとか少ないとか、お若いとか、年増とか、
はたまた管理栄養士がついているとか、いないとか。
どちら様もお手入れひとつで様子が変わるのは当然のことであろう。
光の乱反射の影響で、花弁表面の細胞の形や、並び方が関係して濃淡は出来るようだが、
同じ程度の濃さの花を咲かせるにはそれなりの遺伝子制御という、科学的努力が必要らしい。
とはいえ、見た時の天候、あたりの様子、とりわけ、眺めるその時の心持。
濃きも薄きも気分次第の花の色〜 である。
早くも満開 ことしの色は〜
四月観世九皐会定例会にて 三余堂 能『吉野天人』を勤める
投稿日 2014年04月01日 17:22:41
最終更新日 2014年04月01日 17:22:57
【修正】
2014年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
三月になって春の香りが満ちる時期である。
四月からの消費税引き上げの為 今年は雛人形の販売と共に
五月の節句にも向けてせっせと準備が始まっていた。兜やら鯉幟やらの姿が消え しばらくすると
六月は梅雨で これからの季節を迎え討つ覚悟を強いられる。
七月の七夕は短冊に猛暑から救い給え!と願いを込め、スーパーの大きな笹にくくりつける。
八月はひたすら ガリガリ君の活躍。
九月は 菊見もさることながら 食用菊の“もってのほか”登場。
その後の街中はハロウィンだクリスマスだと 洋物節句商戦で忙しい… 。
日本の暦の一つである節句は宮中で節会と呼ばれる宴を催していた。
それを 江戸幕府が公的な行事としたということらしい。
人日の節句、上巳の節句、端午の節句、七夕の節句、重陽の節句の五節句である。
季節の節目となる日ということだ。
正月の“おせち料理” も季節の節目の節句料理からきていてるのだ。
ちなみに 一月七日 七草の節句で 『人日 ジンジツ』。
三月三日 桃の節句で 『上巳 ジョウシ』、つまり雛祭の日。
五月五日が 菖蒲の節句で 『端午 タンゴ』の節句である。
七月七日は たなばたで、『七夕 シチセキ』。
九月九日は 『重陽 チョウヨウ』の節句、菊の花で埋め尽くされる菊の節句となる。
今日あたりから大きな声で まつりだっ祭りだっ〜 ひなまつりだよぉ〜っと お兄さんが
叫びながら 蛤やら、タイの刺身やら菜の花を売りまくるのがスーパー。
それらをじぃっーと 見入って結局、綺麗に飾られた出来あいの五目寿司を手にする。
それはもっぱら年配の男性の姿である。 ひな祭りは ターゲットの広い商戦なのだ。
こんな感じのお雛様も…
四月からの消費税引き上げの為 今年は雛人形の販売と共に
五月の節句にも向けてせっせと準備が始まっていた。兜やら鯉幟やらの姿が消え しばらくすると
六月は梅雨で これからの季節を迎え討つ覚悟を強いられる。
七月の七夕は短冊に猛暑から救い給え!と願いを込め、スーパーの大きな笹にくくりつける。
八月はひたすら ガリガリ君の活躍。
九月は 菊見もさることながら 食用菊の“もってのほか”登場。
その後の街中はハロウィンだクリスマスだと 洋物節句商戦で忙しい… 。
日本の暦の一つである節句は宮中で節会と呼ばれる宴を催していた。
それを 江戸幕府が公的な行事としたということらしい。
人日の節句、上巳の節句、端午の節句、七夕の節句、重陽の節句の五節句である。
季節の節目となる日ということだ。
正月の“おせち料理” も季節の節目の節句料理からきていてるのだ。
ちなみに 一月七日 七草の節句で 『人日 ジンジツ』。
三月三日 桃の節句で 『上巳 ジョウシ』、つまり雛祭の日。
五月五日が 菖蒲の節句で 『端午 タンゴ』の節句である。
七月七日は たなばたで、『七夕 シチセキ』。
九月九日は 『重陽 チョウヨウ』の節句、菊の花で埋め尽くされる菊の節句となる。
今日あたりから大きな声で まつりだっ祭りだっ〜 ひなまつりだよぉ〜っと お兄さんが
叫びながら 蛤やら、タイの刺身やら菜の花を売りまくるのがスーパー。
それらをじぃっーと 見入って結局、綺麗に飾られた出来あいの五目寿司を手にする。
それはもっぱら年配の男性の姿である。 ひな祭りは ターゲットの広い商戦なのだ。
こんな感じのお雛様も…
投稿日 2014年03月01日 10:37:35
最終更新日 2014年03月01日 10:37:47
【修正】
2014年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
恭頌新禧
本年も宜しく願い上げます
午前0時の元旦ミサに向けて灯りが燈る聖イグナチオ教会
年が明けて午前2時を過ぎて初詣参拝の列が続く本殿前の提灯に井草八幡宮
初詣の掛け持ちとは 忙しい甲午の元旦と来たもので…
とにかく午前零時から、二時の時間帯は若者ばかりが目につき、前途洋々の国に見える。
これが昼間になると、高齢化に押しつぶされんばかりの国に見えて来るのだろうなぁ、
なんともはや…
などと思いつつ 八幡宮参道に並ぶイカ焼きの香りに引き寄せられて、若者の
集団に飲まれていく。
参拝はあまりの長蛇に 取敢えず揚拝にて。
干支の絵馬を頂いて、さぁ、並び直すのは本殿前の列やらイカ焼きの列やら〜
本年も変わらぬご厚誼賜りますよう存じ上げます!
本年も宜しく願い上げます
午前0時の元旦ミサに向けて灯りが燈る聖イグナチオ教会
年が明けて午前2時を過ぎて初詣参拝の列が続く本殿前の提灯に井草八幡宮
初詣の掛け持ちとは 忙しい甲午の元旦と来たもので…
とにかく午前零時から、二時の時間帯は若者ばかりが目につき、前途洋々の国に見える。
これが昼間になると、高齢化に押しつぶされんばかりの国に見えて来るのだろうなぁ、
なんともはや…
などと思いつつ 八幡宮参道に並ぶイカ焼きの香りに引き寄せられて、若者の
集団に飲まれていく。
参拝はあまりの長蛇に 取敢えず揚拝にて。
干支の絵馬を頂いて、さぁ、並び直すのは本殿前の列やらイカ焼きの列やら〜
本年も変わらぬご厚誼賜りますよう存じ上げます!
投稿日 2014年01月01日 4:19:16
最終更新日 2014年01月01日 4:19:16
【修正】
2013年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
過去の能楽さんぽの月次記事は一部消滅している。
とは他人事な言いようだが、早い話が、編集中クリックひとつで ぱぁっ〜
保存の原稿をもとに、折にふれぼちぼちと記事として復活させている。
今回は2008年7月の月次の記事から。その月の案内望遠鏡 錦木塚伝説の続きで、
錦木塚に立ち寄った折のものだった。
真紅の紅葉と割れ出る赤い実が 秋という印象を持つ錦木の話である。
この錦木は秋の季語になっている。
錦木に寄りそひ立てば我ゆかし 高浜 虚子
山野にも自生しているが 秋にならないと気付かずに見過す。
三余堂の小さな庭でもいつの間にか花が咲き、実がはじけ、いつの間にやら木そのものが朽ち果てた。
錦木伝説の 錦木はどうも燃えるような赤に変身する あのニシキギ とは限らないようである。
大辞林には 「五色に彩った三十センチメートルほどの長さの木で、男が恋する女の家の戸口に夜ごとに一本ずつ立ててゆき、女は同意するときこれを中にしまう。染め木。」 とある。
もともと鹿角辺りでは、紫根染が欠かせないもので、それが年貢とされていたらしい。
それが狭布 せばぬの。 幅の狭い布だった。南部織りともいう、百姓の野良着である。
錦木も、狭布も鹿角の地名。
毛布 けふ は鹿角一帯の地名で、毛布の狭布は白鳥の羽を織り込んだものが上物とされた。
ニシキギ科の錦木は 真っ赤に染まるが 白鳥の羽を織り込んだ狭布を染められない。
たぶん 別物だろう。
で、この反物は幅が狭く 野良着として襟を合わせない仕立であった。
お互いの心がしっくりあわない意を けふの細布胸あはじ と、言い習わしたそうな。
能の錦木は 狭布(けふ・せばぬの)の里を訪れた僧の前に、
細布を持った女と錦木を持った男が現れてこの辺りの風習を話し
三年の間 錦木を立て続けた男の塚に僧を案内し消えていく。
そして 亡霊の姿で現れた男は機を織る女の家に錦木を持って行き、舞を舞い、姿を消す。
錦木伝説のかなわぬ恋の悲しさに絡めて、人の様を描く世阿弥作品となったのである。
平成25年の師走は 九皐会定例会で錦木の地頭を勤める。
とは他人事な言いようだが、早い話が、編集中クリックひとつで ぱぁっ〜
保存の原稿をもとに、折にふれぼちぼちと記事として復活させている。
今回は2008年7月の月次の記事から。その月の案内望遠鏡 錦木塚伝説の続きで、
錦木塚に立ち寄った折のものだった。
真紅の紅葉と割れ出る赤い実が 秋という印象を持つ錦木の話である。
この錦木は秋の季語になっている。
錦木に寄りそひ立てば我ゆかし 高浜 虚子
山野にも自生しているが 秋にならないと気付かずに見過す。
三余堂の小さな庭でもいつの間にか花が咲き、実がはじけ、いつの間にやら木そのものが朽ち果てた。
錦木伝説の 錦木はどうも燃えるような赤に変身する あのニシキギ とは限らないようである。
大辞林には 「五色に彩った三十センチメートルほどの長さの木で、男が恋する女の家の戸口に夜ごとに一本ずつ立ててゆき、女は同意するときこれを中にしまう。染め木。」 とある。
もともと鹿角辺りでは、紫根染が欠かせないもので、それが年貢とされていたらしい。
それが狭布 せばぬの。 幅の狭い布だった。南部織りともいう、百姓の野良着である。
錦木も、狭布も鹿角の地名。
毛布 けふ は鹿角一帯の地名で、毛布の狭布は白鳥の羽を織り込んだものが上物とされた。
ニシキギ科の錦木は 真っ赤に染まるが 白鳥の羽を織り込んだ狭布を染められない。
たぶん 別物だろう。
で、この反物は幅が狭く 野良着として襟を合わせない仕立であった。
お互いの心がしっくりあわない意を けふの細布胸あはじ と、言い習わしたそうな。
能の錦木は 狭布(けふ・せばぬの)の里を訪れた僧の前に、
細布を持った女と錦木を持った男が現れてこの辺りの風習を話し
三年の間 錦木を立て続けた男の塚に僧を案内し消えていく。
そして 亡霊の姿で現れた男は機を織る女の家に錦木を持って行き、舞を舞い、姿を消す。
錦木伝説のかなわぬ恋の悲しさに絡めて、人の様を描く世阿弥作品となったのである。
平成25年の師走は 九皐会定例会で錦木の地頭を勤める。
投稿日 2013年12月01日 9:21:47
最終更新日 2013年12月01日 9:22:06
【修正】
2013年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
鋏の音が 冷たい朝に響く。あちこちで植木の手入れである。
温暖化で厳しい夏だった今年、小さな庭の木も枝が大きく張って
この時期になっても青々と葉を繁らせていた。
10月の末に 次々に発生する台風の心配をしながら 植木に鋏が入る。
あちらの家も、こちらの家も脚立の足を据えて 枝葉の中に植木職人の姿が
埋もれていた。 三余堂もしかり。 自慢のヤマボウシもすっかり枝が落ちた。
嵐の強い風にも負けず、公道に向かって好き放題に伸ばした枝がうち払われ
赤く染まった葉が 顔を出した。 ちら、ほら 。
これで サザンカでも咲き始めれば ザット 冬でござる〜
赤くなった葉が
霜月のつぼみ
まだまだ頑張る艶姿
いやぁっ〜 まだまだ… 木の下陰で息を潜めていた朝顔がつぼみをつけている。
恐れ入谷の鬼子母神からの嫁入り娘、本来なら往生の時をとっくに過ぎている
筈なのに 今や大年増となってご生息である。
まさか あでやかな行燈づくりの姿に 雪が積もるなんてことはないと思うが。
江戸時代に観賞用植物となるまでは もっぱら百薬の長として珍重された朝顔。
一年、一年で命を終えるこの花は 夏ではなく秋の季語である。
が、霜月の朝顔につぼみがあっちゃぁ…
“朝顔に つるべ取られて もらひ水”
加賀千代女はなんと捻るか、霜月一日の朝。
温暖化で厳しい夏だった今年、小さな庭の木も枝が大きく張って
この時期になっても青々と葉を繁らせていた。
10月の末に 次々に発生する台風の心配をしながら 植木に鋏が入る。
あちらの家も、こちらの家も脚立の足を据えて 枝葉の中に植木職人の姿が
埋もれていた。 三余堂もしかり。 自慢のヤマボウシもすっかり枝が落ちた。
嵐の強い風にも負けず、公道に向かって好き放題に伸ばした枝がうち払われ
赤く染まった葉が 顔を出した。 ちら、ほら 。
これで サザンカでも咲き始めれば ザット 冬でござる〜
赤くなった葉が
霜月のつぼみ
まだまだ頑張る艶姿
いやぁっ〜 まだまだ… 木の下陰で息を潜めていた朝顔がつぼみをつけている。
恐れ入谷の鬼子母神からの嫁入り娘、本来なら往生の時をとっくに過ぎている
筈なのに 今や大年増となってご生息である。
まさか あでやかな行燈づくりの姿に 雪が積もるなんてことはないと思うが。
江戸時代に観賞用植物となるまでは もっぱら百薬の長として珍重された朝顔。
一年、一年で命を終えるこの花は 夏ではなく秋の季語である。
が、霜月の朝顔につぼみがあっちゃぁ…
“朝顔に つるべ取られて もらひ水”
加賀千代女はなんと捻るか、霜月一日の朝。
投稿日 2013年11月01日 9:08:03
最終更新日 2013年11月01日 9:12:36
【修正】
2013年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
徳川家宣(とくがわいえのぶ)は、犬公方や暴れん坊将軍に挟まれた在職期間が三年余りの
江戸幕府第六代将軍だ。 五代将軍綱吉に世嗣がなく、後継候補だった綱吉の娘婿も亡くなり、
次期将軍ということで、家宣が甲府徳川家から江戸城西の丸に入ったのは1704年12月31日
だったという。 時に家宣43歳。 5年後の宝永6年、五代将軍綱吉の死去に伴い48歳で
第六代将軍に就任する。
悪評の生類憐れみの令や酒税を廃止するなどして、庶民の人気は結構高かったらしい。
赤穂浪士でおなじみの柳沢吉保を免職し、甲府徳川家旧臣である間部詮房、新井白石らを登用。
文治政治を推し進め、荻原重秀を使って財政改革と、なかなか張り切っていたようだ。
が、在職3年、正徳2年秋 1712年11月に満50歳で死去。
東京は芝の増上寺にねむっている。いわゆる 正徳の治という政治改革をした将軍である。
五代将軍綱吉の時 あの悪名高き側用人という役職を賜った柳沢吉保の後を継いで
家宣に側用人として将軍家宣に仕えたのは間部詮房。
この人 寛文6年(1666年)、甲府藩主 徳川綱豊の家臣の子として生まれる。
はじめは猿楽師喜多七太夫の弟子であったという。この喜多七太夫は当時の大スターであった。
詮房は貞享元年(1684年)に綱豊、後の6代将軍家宣の用人になる。
まっ、いろいろ事情があったであろうが、綱豊の命によって間部姓となった。
間部詮房は綱豊が家宣となり江戸城西の丸城入に伴って、従五位下越前守に叙任。
側衆として、とんとんと出世して、お大名となった。加増を重ねてその後は高崎藩5万石を得たし、
老中の次席を命じられるまでになったというから、家宣の思い入れを量り知る。
そもそもそ側用人の正式な名称は御側御用人(おそば ごようにん)。
将軍の命令を老中らに伝える役目を担った重職で、名称のごとく御側での御用をこなすのだから
趣味の御相手も重要要素であったろう。
先代の綱吉はたいそうな能好で、側用人柳沢は自邸で個人的な能の会を催したり、綱吉が舞う
能の相手をしたりと政治以外での苦労も多かったようだが…
次代将軍の家宣も負けず劣らずの能をご愛好。
三日に一度は能や囃子を催す程だったそうな。将軍職に就いてからもその熱は冷めず、
おまけに、鑑賞が稀曲好みで、当時180曲ほどが常の上演曲目だったのが、それ以外のものを
何だかんだと 総計百曲近くも所望して、能楽師たちを悩ませた。
演能が三日に一度では 通常曲外の稀曲をこなして仕上げるのは如何ばかりか。
もっとも、その御蔭でそれまでに埋もれていた『 蝉丸、大原御幸、砧、弱法師 』など、
現在の人気曲が その折に陽の目を見て復活した。
能楽師上がりの間部詮房、儒学者の新井白石と 家宣はがっちりと三人体制で正徳の治を
行ったが、家宣のあまりの能愛好みを新井白石は
“天下の主にふさわしからぬ事として”
と 諌めたという。 さもありなん… とも思えるし、
勤勉なる仕事中毒、ワーカーホリックであったろう 間部が相手をしていたなら… とも思う。
家宣死後 幼少の家継が将軍職を継ぎ、間もなく病死。
そして、八代将軍徳川吉宗となり、間部、新井の両人は失脚した。
間部はその後も5万石の大名として家が続き、明治維新を迎えたという。
『正徳の治』 もさることながら能『砧』 『弱法師』に間部の恩恵があるやもしれない。 しかし、
間部と言えば、思い浮かぶのは 石坂浩二が扮した大河ドラマでの間部詮房ばかりである。
江戸幕府第六代将軍だ。 五代将軍綱吉に世嗣がなく、後継候補だった綱吉の娘婿も亡くなり、
次期将軍ということで、家宣が甲府徳川家から江戸城西の丸に入ったのは1704年12月31日
だったという。 時に家宣43歳。 5年後の宝永6年、五代将軍綱吉の死去に伴い48歳で
第六代将軍に就任する。
悪評の生類憐れみの令や酒税を廃止するなどして、庶民の人気は結構高かったらしい。
赤穂浪士でおなじみの柳沢吉保を免職し、甲府徳川家旧臣である間部詮房、新井白石らを登用。
文治政治を推し進め、荻原重秀を使って財政改革と、なかなか張り切っていたようだ。
が、在職3年、正徳2年秋 1712年11月に満50歳で死去。
東京は芝の増上寺にねむっている。いわゆる 正徳の治という政治改革をした将軍である。
五代将軍綱吉の時 あの悪名高き側用人という役職を賜った柳沢吉保の後を継いで
家宣に側用人として将軍家宣に仕えたのは間部詮房。
この人 寛文6年(1666年)、甲府藩主 徳川綱豊の家臣の子として生まれる。
はじめは猿楽師喜多七太夫の弟子であったという。この喜多七太夫は当時の大スターであった。
詮房は貞享元年(1684年)に綱豊、後の6代将軍家宣の用人になる。
まっ、いろいろ事情があったであろうが、綱豊の命によって間部姓となった。
間部詮房は綱豊が家宣となり江戸城西の丸城入に伴って、従五位下越前守に叙任。
側衆として、とんとんと出世して、お大名となった。加増を重ねてその後は高崎藩5万石を得たし、
老中の次席を命じられるまでになったというから、家宣の思い入れを量り知る。
そもそもそ側用人の正式な名称は御側御用人(おそば ごようにん)。
将軍の命令を老中らに伝える役目を担った重職で、名称のごとく御側での御用をこなすのだから
趣味の御相手も重要要素であったろう。
先代の綱吉はたいそうな能好で、側用人柳沢は自邸で個人的な能の会を催したり、綱吉が舞う
能の相手をしたりと政治以外での苦労も多かったようだが…
次代将軍の家宣も負けず劣らずの能をご愛好。
三日に一度は能や囃子を催す程だったそうな。将軍職に就いてからもその熱は冷めず、
おまけに、鑑賞が稀曲好みで、当時180曲ほどが常の上演曲目だったのが、それ以外のものを
何だかんだと 総計百曲近くも所望して、能楽師たちを悩ませた。
演能が三日に一度では 通常曲外の稀曲をこなして仕上げるのは如何ばかりか。
もっとも、その御蔭でそれまでに埋もれていた『 蝉丸、大原御幸、砧、弱法師 』など、
現在の人気曲が その折に陽の目を見て復活した。
能楽師上がりの間部詮房、儒学者の新井白石と 家宣はがっちりと三人体制で正徳の治を
行ったが、家宣のあまりの能愛好みを新井白石は
“天下の主にふさわしからぬ事として”
と 諌めたという。 さもありなん… とも思えるし、
勤勉なる仕事中毒、ワーカーホリックであったろう 間部が相手をしていたなら… とも思う。
家宣死後 幼少の家継が将軍職を継ぎ、間もなく病死。
そして、八代将軍徳川吉宗となり、間部、新井の両人は失脚した。
間部はその後も5万石の大名として家が続き、明治維新を迎えたという。
『正徳の治』 もさることながら能『砧』 『弱法師』に間部の恩恵があるやもしれない。 しかし、
間部と言えば、思い浮かぶのは 石坂浩二が扮した大河ドラマでの間部詮房ばかりである。
投稿日 2013年10月01日 9:59:57
最終更新日 2013年10月01日 9:59:57
【修正】
2013年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
『 秋の野に 咲きたる花を 指折りかき数ふれば 七種の花 』 と山上憶良が詠んだという。
八月も半ばを過ぎると 高原は空高く 秋の様相を呈してくるものだが、昨今の陽気では如何なものか。
そうは云えども ススキの穂が出始めて 野の花が咲きだすのだから 不思議というか、有難い。
山上憶良は『 萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 姫部志また藤袴 朝貌の花 』と旋頭歌にも読み、
これが基となって秋の七草なのだと聞いたことがある。
春の七草は緑鮮やかに 健康食品そのもののような感がなくもない。
が、秋の七草は しっとりと歌の題材として構えている。
萩の花(はぎのはな) 尾花(おばな) 葛花(くずばな) 瞿麦の花(なでしこのはな)
姫部志(をみなへし) また藤袴(ふじばかま) 朝貌の花(あさがおのはな)
萩はマメ科の薄紅色の花で 尾花はススキ。 葛は丈夫な蔓が籠にもなるし、その繊維は布にもなる。
なんといっても 根っこは葛粉になるマメ科の花。
普段 撫子と書いているなでしこは、夏から秋に渡って花が咲くこまかな黄色の花。
姫部志は女郎花のことで 藤袴はキク科で芳香がある。
8月三余堂月次で美しい〈玉鬘〉が登場したが、源氏物語で 夕霧は玉鬘に藤袴を差し出して
『 おなじ野の 露にやつるゝ藤袴 あはれはかけよ かことばかりも 』とか何とか言って…
最後の朝貌の花。朝顔、木槿(むくげ)、桔梗、昼顔など諸説紛々。が、生薬の桔梗とのお説が有力。
所謂 本種という園芸用でないのは絶滅危惧に瀕しているというから めったにお目もじ叶わず。
三余堂の朝貌の花は 恐れ入谷の鬼子母神境内から嫁入りの花で
厳選された花が種作りのためにこれから 最後のご奉公の由。
まだまだ蕾が
八月も半ばを過ぎると 高原は空高く 秋の様相を呈してくるものだが、昨今の陽気では如何なものか。
そうは云えども ススキの穂が出始めて 野の花が咲きだすのだから 不思議というか、有難い。
山上憶良は『 萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 姫部志また藤袴 朝貌の花 』と旋頭歌にも読み、
これが基となって秋の七草なのだと聞いたことがある。
春の七草は緑鮮やかに 健康食品そのもののような感がなくもない。
が、秋の七草は しっとりと歌の題材として構えている。
萩の花(はぎのはな) 尾花(おばな) 葛花(くずばな) 瞿麦の花(なでしこのはな)
姫部志(をみなへし) また藤袴(ふじばかま) 朝貌の花(あさがおのはな)
萩はマメ科の薄紅色の花で 尾花はススキ。 葛は丈夫な蔓が籠にもなるし、その繊維は布にもなる。
なんといっても 根っこは葛粉になるマメ科の花。
普段 撫子と書いているなでしこは、夏から秋に渡って花が咲くこまかな黄色の花。
姫部志は女郎花のことで 藤袴はキク科で芳香がある。
8月三余堂月次で美しい〈玉鬘〉が登場したが、源氏物語で 夕霧は玉鬘に藤袴を差し出して
『 おなじ野の 露にやつるゝ藤袴 あはれはかけよ かことばかりも 』とか何とか言って…
最後の朝貌の花。朝顔、木槿(むくげ)、桔梗、昼顔など諸説紛々。が、生薬の桔梗とのお説が有力。
所謂 本種という園芸用でないのは絶滅危惧に瀕しているというから めったにお目もじ叶わず。
三余堂の朝貌の花は 恐れ入谷の鬼子母神境内から嫁入りの花で
厳選された花が種作りのためにこれから 最後のご奉公の由。
まだまだ蕾が
投稿日 2013年09月01日 15:52:56
最終更新日 2013年09月01日 15:53:51
【修正】
2013年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
この三日は土用の丑の日にあたる。
ちなみに ことしの土用の丑の日は六回。
1月23日(水) 冬の土用の丑 寒の土用の丑、4月17日(水) 春の土用の丑
4月29日(月) 春の土用の丑、7月22日(月) 夏の土用の丑
8月3日(土) 夏の土用の丑 二の丑、10月26日(土) 秋の土用の丑。
土用は、五行に由来する暦だ。
暦には二十四節気だの、五節句などと色々あるが、季節の移り変りを知る手立てとして
今も生活の中に生きている。
この土用という言葉の響きは 夏、暑さ、鰻、といったものを連想させて、
他の時季にあるとは考えもせず。 そもそも土用は、立夏、立秋、立冬、立春の前の期間で
本来季節ごとに土用があり、その最後の日が節分となるのだ。
もっとも、節分も 『こいつぁ 春から縁起が〜 』と見得をきって、春呼ぶ節分以外の節分は馴染み無。
今や生活に都合よきことばかりが暦となって…
『土用の丑の日はうなぎ!』は 徳川吉宗の時代に生まれた平賀源内が発案したという説がある。
夏に売れない鰻を何とか売るために 鰻屋が源内に相談したことが事の始まりという。
苦肉の策だった。 企業努力の結果 21世紀に鰻は当たり前に 夏のものになった。
七月の丑の日の前に 土用餅、土用餅!と叫びながら “あんころもち” を売る姿を菓子屋で見た。
関西での風習らしいが、昔、お公家さんが暑気あたりしないと、食し始めた餅入りみそ汁が
徳川の中期頃から、土用の入りには餅を小豆あんに包んで食し…
夏季の無病息災、無病息災、となったらしい。
300年たった平成の今、異常に減少した稚魚は 老舗の鰻屋の暖簾を下ろさせた。
一方で、土用の鰻も餅もこの暑い夏に 花を咲かせようと仕掛けている店もある。
勿論 滋養のある土用蜆も参戦している。
載せられてたまるかと 抵抗しながらも身体はしっかり受け止めて、暑苦しい土用を感じているのだ。
夏の土用の丑二の丑はやはり 鰻の香りを運ぶであろう。 あんころ餅に蜆は如何ばかり…
おまけに 土用の後は節分がやってくるのだから ちゃっかり恵方巻きの予約を取る店も出てきた。
きっと アイスクリーム巻きが出てくる。今年の恵方は南南東。
命の限りと暑さに頑張る姿 八朔の午後
八朔の昼下がりの陽にも負けずに頑張る姿
ちなみに ことしの土用の丑の日は六回。
1月23日(水) 冬の土用の丑 寒の土用の丑、4月17日(水) 春の土用の丑
4月29日(月) 春の土用の丑、7月22日(月) 夏の土用の丑
8月3日(土) 夏の土用の丑 二の丑、10月26日(土) 秋の土用の丑。
土用は、五行に由来する暦だ。
暦には二十四節気だの、五節句などと色々あるが、季節の移り変りを知る手立てとして
今も生活の中に生きている。
この土用という言葉の響きは 夏、暑さ、鰻、といったものを連想させて、
他の時季にあるとは考えもせず。 そもそも土用は、立夏、立秋、立冬、立春の前の期間で
本来季節ごとに土用があり、その最後の日が節分となるのだ。
もっとも、節分も 『こいつぁ 春から縁起が〜 』と見得をきって、春呼ぶ節分以外の節分は馴染み無。
今や生活に都合よきことばかりが暦となって…
『土用の丑の日はうなぎ!』は 徳川吉宗の時代に生まれた平賀源内が発案したという説がある。
夏に売れない鰻を何とか売るために 鰻屋が源内に相談したことが事の始まりという。
苦肉の策だった。 企業努力の結果 21世紀に鰻は当たり前に 夏のものになった。
七月の丑の日の前に 土用餅、土用餅!と叫びながら “あんころもち” を売る姿を菓子屋で見た。
関西での風習らしいが、昔、お公家さんが暑気あたりしないと、食し始めた餅入りみそ汁が
徳川の中期頃から、土用の入りには餅を小豆あんに包んで食し…
夏季の無病息災、無病息災、となったらしい。
300年たった平成の今、異常に減少した稚魚は 老舗の鰻屋の暖簾を下ろさせた。
一方で、土用の鰻も餅もこの暑い夏に 花を咲かせようと仕掛けている店もある。
勿論 滋養のある土用蜆も参戦している。
載せられてたまるかと 抵抗しながらも身体はしっかり受け止めて、暑苦しい土用を感じているのだ。
夏の土用の丑二の丑はやはり 鰻の香りを運ぶであろう。 あんころ餅に蜆は如何ばかり…
おまけに 土用の後は節分がやってくるのだから ちゃっかり恵方巻きの予約を取る店も出てきた。
きっと アイスクリーム巻きが出てくる。今年の恵方は南南東。
命の限りと暑さに頑張る姿 八朔の午後
八朔の昼下がりの陽にも負けずに頑張る姿
投稿日 2013年08月01日 15:52:50
最終更新日 2013年08月01日 15:52:50
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2013年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
もうすぐ下町の夏の風物詩 『朝顔市』である。
所は東京、JR山の線の鴬谷駅から歩いて5分ほど、入谷の鬼子母神周辺に朝顔がいっぱいに並ぶ。
現在は『朝顔まつり』と称して実行委員会なるものが運営しているらしいが、
浅草 浅草寺のほおずき市と並んで、夏を運んでくる。今年も7月6、7、8日と朝顔の市が立つ。
とうとう、お江戸にも夏がやってきた。
日の出とともに開く朝顔である。 早朝5時から市は 言問通り沿いにずらりと
100軒近くもあろうか、露店には色とりどりの朝顔の鉢。
夕は夕で、屋台も何も人で埋め尽くされた中、兎に角、明朝の花の色を楽しみに
行燈造りの鉢を下げて帰途に就くという 背広姿も見かける。
そんな夕暮れ、私を見てとばかり、白く大きな花をつけたユウガオが鉢に納まって香りを放つ。
が、貴方の為にといくら丁寧に世話をしても、干瓢の実をつけたり、瓢箪がなることはない。
市で売られるのは、ヨルガオと呼ばれる“ナス目、ヒルガオ科、サツマイモ属、ヨルガオ種 ”
という代物のようで、最後に干瓢となるウリ科のユウガオの花ではない。似て非なるので念のため。
朝顔市では屋台のソースやら、醤油の芳しき香りに押され気味とはいえ、
暮れゆく喧噪のなかにその気高さを保っているユウガオ、いや、ヨルガオか…
闇に浮かぶ夕顔の花 ヨルガオ?
『源氏物語』五十四帖の第四帖に『夕顔』が登場。
光源氏が17歳の夏。乳母を見舞う折の出来事だった。
垣根に咲くユウガオの花に目を留めた源氏と、邸の住人との逢瀬が物語になっている。
源融の旧邸六条河原院が舞台だとされる何某の院でのこと。
邸の住人、夕顔と共にいた光源氏は女の霊の恨み言に遭う。
そのまま人事不省になる夕顔。そして、明け方には息を引き取るという悲劇が起きた。
夕顔は頭中将の側室で、玉鬘という姫がいたが、源氏は知る由もなく
『帚木』巻で語られた“雨夜の品定め”で、“常夏の女”として登場するその人であった。
ユウガオは まさに佳人薄命な女性を表すにふさわしい一夜限りの花だ。
能では『源氏物語』の「夕顔」の巻を題材にして『半蔀 』という曲がある。
源氏と夕顔との出会い、恋慕の情を美しく描く。
舞台上に蔓が絡み、瓢箪が下がる半蔀の作り物が登場。
小ぶりに白い花も付き、まさにそれはユウガオだ。
これに対して、『夕顔 』 という曲も在る。
荒れ果てた河原院での怖ろしげな夕顔の死を描き、旅の僧の弔いがそれを救うのである。
この世の苦悩から解放され 穏やかな喜びを得る夕顔の様を静かに見せる。
迷いもなしや 東雲の道より 法に出づるぞと。
暁闇の空かけて 雲の紛れに 失せにけり。
明け方、白い花は静かに閉じていく 。
観世九皐会 7月定例会 『夕顔 』 のシテを 三余堂 勤める
所は東京、JR山の線の鴬谷駅から歩いて5分ほど、入谷の鬼子母神周辺に朝顔がいっぱいに並ぶ。
現在は『朝顔まつり』と称して実行委員会なるものが運営しているらしいが、
浅草 浅草寺のほおずき市と並んで、夏を運んでくる。今年も7月6、7、8日と朝顔の市が立つ。
とうとう、お江戸にも夏がやってきた。
日の出とともに開く朝顔である。 早朝5時から市は 言問通り沿いにずらりと
100軒近くもあろうか、露店には色とりどりの朝顔の鉢。
夕は夕で、屋台も何も人で埋め尽くされた中、兎に角、明朝の花の色を楽しみに
行燈造りの鉢を下げて帰途に就くという 背広姿も見かける。
そんな夕暮れ、私を見てとばかり、白く大きな花をつけたユウガオが鉢に納まって香りを放つ。
が、貴方の為にといくら丁寧に世話をしても、干瓢の実をつけたり、瓢箪がなることはない。
市で売られるのは、ヨルガオと呼ばれる“ナス目、ヒルガオ科、サツマイモ属、ヨルガオ種 ”
という代物のようで、最後に干瓢となるウリ科のユウガオの花ではない。似て非なるので念のため。
朝顔市では屋台のソースやら、醤油の芳しき香りに押され気味とはいえ、
暮れゆく喧噪のなかにその気高さを保っているユウガオ、いや、ヨルガオか…
闇に浮かぶ夕顔の花 ヨルガオ?
『源氏物語』五十四帖の第四帖に『夕顔』が登場。
光源氏が17歳の夏。乳母を見舞う折の出来事だった。
垣根に咲くユウガオの花に目を留めた源氏と、邸の住人との逢瀬が物語になっている。
源融の旧邸六条河原院が舞台だとされる何某の院でのこと。
邸の住人、夕顔と共にいた光源氏は女の霊の恨み言に遭う。
そのまま人事不省になる夕顔。そして、明け方には息を引き取るという悲劇が起きた。
夕顔は頭中将の側室で、玉鬘という姫がいたが、源氏は知る由もなく
『帚木』巻で語られた“雨夜の品定め”で、“常夏の女”として登場するその人であった。
ユウガオは まさに佳人薄命な女性を表すにふさわしい一夜限りの花だ。
能では『源氏物語』の「夕顔」の巻を題材にして『半蔀 』という曲がある。
源氏と夕顔との出会い、恋慕の情を美しく描く。
舞台上に蔓が絡み、瓢箪が下がる半蔀の作り物が登場。
小ぶりに白い花も付き、まさにそれはユウガオだ。
これに対して、『夕顔 』 という曲も在る。
荒れ果てた河原院での怖ろしげな夕顔の死を描き、旅の僧の弔いがそれを救うのである。
この世の苦悩から解放され 穏やかな喜びを得る夕顔の様を静かに見せる。
迷いもなしや 東雲の道より 法に出づるぞと。
暁闇の空かけて 雲の紛れに 失せにけり。
明け方、白い花は静かに閉じていく 。
観世九皐会 7月定例会 『夕顔 』 のシテを 三余堂 勤める
投稿日 2013年07月01日 14:15:40
最終更新日 2013年07月01日 14:15:51
【修正】
2013年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
時は舒明天皇9年2月のこと。
都の空は耳をつんざき、身体を突き抜けるようなすさまじい音が鳴り響く。
東から西へ“何か” が流れていった。
「星だ!星だっ!大きな星がながれたぁ〜。いやぁっ???」
「弾よりも早く」「機関車よりも力は強く」
「ビルじィングなどは ひとっとび」
「なんだあれはっ」 「鳥だっ」 「ロケットよ」 「あっ、スーパーマンだっ!」
「いやいや、あれは天狗である。天狗の吠える声が雷のように響きわたっておるのだぁ!」
と、唐から帰国した僧の旻が言った。と、『日本書紀』にあるとかないとか…
スーパーマンの下りはともかく、飛鳥時代の日本書紀に天狗は流星として登場。
天狗は大陸において流星を意味した。
その猛烈な速さと力強さ、大地を震わす凄まじい音で落下する火の玉を
咆哮を上げて天を駆け降りる犬の姿に見立てたのであろう。
わが国でそれ以後、文書で流星を天狗と呼ぶ記録は無いという。
大陸で天狗は天から地上へと災禍をもたらす凶星として恐れられた。
時代が下り、平安の時代に登場した天狗は妖怪になっていた。
山伏の装束で赤ら顔、高い鼻を持ち、翼があって一本歯の高下駄を履き
葉団扇を持ち自在に空中を飛翔する。そして、悪巧みをする。
これが天狗ということになったのは中世以降のようだが、多くは僧侶の形で、
時として童子や鬼の形をとることもあったらしい。また、空飛ぶ天狗は鷹だの鳶だのにもなる。
その時々の 人の気持に沿って変幻自在。 伝説上の生き物といったところか。
能 善界にこんなくだりが描かれている。
唐の国に天狗の首領がいて、名を善界坊と言った。
さすがに首領、魔道へ慢心した多くの僧たちを引き入れたそうな。 さぁてお次は…
邪魔くさぃ!海の向こうの仏法をなんとかするかぁ〜 と海を渡る。
愛宕山の大天狗太郎坊の知恵で、比叡山の僧に目を付けた。
勅命によって都へ急ぐ僧の前に、雷鳴と共に現われる善界坊。
なんとか魔道に引き入れよう! と頑張った。
が、仏法を守護する不動明王はがんばった。諸神も皆々頑張った。
う〜む。 多勢に無勢、善界坊、とうとう退散の憂き目となる。
せっかく 海を越えて来たんだがなぁ。
愛宕の太郎坊の助言はどうもなぁ〜 と首を傾げたかどうか。
能では「大ベシミ」という面が天狗を表す。
大きく目を見開き、口を真一文字に閉じた強い表情。力を内に秘めて強い 天狗を顕わしている。
あの 後白河法王と住吉大神との天狗問答に
「もろもろの智者学匠の、無道心甚だしい者が、死んで天魔という鬼になり申す。
その頭は狗、身体は人身にて翼が生えており、前後百年のことを予知する通力を有し、
空を飛ぶこと隼のごとく、僧侶なれば地獄には堕ちず、無道心故往生もできず、魔界の
天狗道に堕つ。無道心の僧、高慢の学匠は皆天魔となり、天狗と呼ぶ。」
とあり、大智の僧は大天狗、小智の僧は小天狗に成るという。
因みに 日本の八大天狗は 愛宕の山の太郎坊、比良の峰の次郎坊、飯綱三郎、鞍馬山僧正坊
大山伯耆坊、彦山豊前坊、大峰山前鬼坊、白峰相模坊。 其々が謡でも馴染みである。
数百年の前、天狗様は当時の流星ならぬ スターでもあったのだろう。
観世九皐会6月定例会にて三余堂 能 善界 地頭を勤める
都の空は耳をつんざき、身体を突き抜けるようなすさまじい音が鳴り響く。
東から西へ“何か” が流れていった。
「星だ!星だっ!大きな星がながれたぁ〜。いやぁっ???」
「弾よりも早く」「機関車よりも力は強く」
「ビルじィングなどは ひとっとび」
「なんだあれはっ」 「鳥だっ」 「ロケットよ」 「あっ、スーパーマンだっ!」
「いやいや、あれは天狗である。天狗の吠える声が雷のように響きわたっておるのだぁ!」
と、唐から帰国した僧の旻が言った。と、『日本書紀』にあるとかないとか…
スーパーマンの下りはともかく、飛鳥時代の日本書紀に天狗は流星として登場。
天狗は大陸において流星を意味した。
その猛烈な速さと力強さ、大地を震わす凄まじい音で落下する火の玉を
咆哮を上げて天を駆け降りる犬の姿に見立てたのであろう。
わが国でそれ以後、文書で流星を天狗と呼ぶ記録は無いという。
大陸で天狗は天から地上へと災禍をもたらす凶星として恐れられた。
時代が下り、平安の時代に登場した天狗は妖怪になっていた。
山伏の装束で赤ら顔、高い鼻を持ち、翼があって一本歯の高下駄を履き
葉団扇を持ち自在に空中を飛翔する。そして、悪巧みをする。
これが天狗ということになったのは中世以降のようだが、多くは僧侶の形で、
時として童子や鬼の形をとることもあったらしい。また、空飛ぶ天狗は鷹だの鳶だのにもなる。
その時々の 人の気持に沿って変幻自在。 伝説上の生き物といったところか。
能 善界にこんなくだりが描かれている。
唐の国に天狗の首領がいて、名を善界坊と言った。
さすがに首領、魔道へ慢心した多くの僧たちを引き入れたそうな。 さぁてお次は…
邪魔くさぃ!海の向こうの仏法をなんとかするかぁ〜 と海を渡る。
愛宕山の大天狗太郎坊の知恵で、比叡山の僧に目を付けた。
勅命によって都へ急ぐ僧の前に、雷鳴と共に現われる善界坊。
なんとか魔道に引き入れよう! と頑張った。
が、仏法を守護する不動明王はがんばった。諸神も皆々頑張った。
う〜む。 多勢に無勢、善界坊、とうとう退散の憂き目となる。
せっかく 海を越えて来たんだがなぁ。
愛宕の太郎坊の助言はどうもなぁ〜 と首を傾げたかどうか。
能では「大ベシミ」という面が天狗を表す。
大きく目を見開き、口を真一文字に閉じた強い表情。力を内に秘めて強い 天狗を顕わしている。
あの 後白河法王と住吉大神との天狗問答に
「もろもろの智者学匠の、無道心甚だしい者が、死んで天魔という鬼になり申す。
その頭は狗、身体は人身にて翼が生えており、前後百年のことを予知する通力を有し、
空を飛ぶこと隼のごとく、僧侶なれば地獄には堕ちず、無道心故往生もできず、魔界の
天狗道に堕つ。無道心の僧、高慢の学匠は皆天魔となり、天狗と呼ぶ。」
とあり、大智の僧は大天狗、小智の僧は小天狗に成るという。
因みに 日本の八大天狗は 愛宕の山の太郎坊、比良の峰の次郎坊、飯綱三郎、鞍馬山僧正坊
大山伯耆坊、彦山豊前坊、大峰山前鬼坊、白峰相模坊。 其々が謡でも馴染みである。
数百年の前、天狗様は当時の流星ならぬ スターでもあったのだろう。
観世九皐会6月定例会にて三余堂 能 善界 地頭を勤める
投稿日 2013年06月02日 12:13:56
最終更新日 2013年06月02日 12:13:56
【修正】
2013年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
例年5月1日は若葉の香りが満ちみちて、夏への一歩がそこまでと感じるものだ。
不順な天候に幾分慣れてきた昨今、巣作りする野鳥より鳥インフルエンザ、
柔らかな新緑の椿より、それにつくチャドクガの方が気になるようで情けない。
過去に鵞毛庵で紹介されているが、フランスで 5月1日はスズランの日。
海流の関係で暖かいとはいえ、パリの緯度は北海道稚内よりかなり北であるかから
もっと 東京でも至る所に強く丈夫なにスズランを見かけてもよさそうだ。
最近でこそ おしゃれな花屋の店頭にスズランの切り花が並ぶことがあるが、それは
観賞用に栽培されているドイツスズランだろう。日本の野生種より大型で、良い香りがする。
鉢植えを放っておいても結構花をつけるが、群生させて花を観るには余程の条件が要りそうだ。
引き換えて、地面の近くから目を頭上に転じると そこには白い花が鈴なりに咲きだしている。
エゴノキである。 落葉の小高木で、雑木だ。 公園などでもよく見かける。
実を食べると喉や舌を刺激してえぐいので、転じてえごの木となったという。
毒だと教えられていたが、実の皮に含まれるサポニン成分の作用らしい。
水に溶かすと石鹸のように泡立つというし、その麻酔効果で魚取りに使ったりするそうだ。
ヤマガラの好物ということになっているが…
もっとも、ヤマガラの御馳走になる秋には種子中のエゴサポニンは減少するそうである。
今年も開花 三余堂のエゴノキ
チシャノキのほうが、耳馴染みのいい御仁もあろうと思うが、『伽羅先代萩』に登場する
ちさの木、“萵苣の木”のことである。
「知左(ちさ)の花咲ける盛りに愛(は)しきよしその妻の子と朝夕に 笑みみ笑まずも」
(知左=エゴノキ)
と 万葉集で大伴家持が詠っているのだから古くから親しみある木ということだ。
屋根ほどの高さで 今頃、横枝から出た小枝の先端に房状に白い花を下向きに多数つけるが、
沢山の落花に初めて花が咲いているのを知ることさえある。緑の中に芳香を放つ頭上の鈴蘭。
新梢にエゴの猫足油虫と呼ばれる「虫瘤(むしこぶ)」ができることがある。
6月を過ぎてエゴノキの枝の先の方を見入ると、花でも実でもないバナナの房の束のようなもの
を見ることがある。 アブラムシによって形成される黄緑色の虫こぶ。
枝先に産卵、寄生するので、その部分が肥大化するらしい。
初めて見つけた時は正体不明の猫の足のような固まり、 決して気持ちは良くなかった。
この虫瘤、適度なおてんとうさまの陽を浴び、水分補給も充分、生き生きとした幹を持つ
環境の良い場所のエゴノキに発生。 少し日当たりが弱く、幹も力強さに負ける方の木には
養分が少ないと見たか、 何十年 一度も虫瘤をみない。
こぶの主、アブラムシは、8月には次の寄生先イネ科のアシボソに引っ越すと言う。
暑さの峠を越える頃、ふわふわと しろい綿が飛ぶように行くのを 見送りながら
来年は御免蒙りたいがなぁ と。 しかしこのご時勢、共生ということなにるも致し方なし。
不順な天候に幾分慣れてきた昨今、巣作りする野鳥より鳥インフルエンザ、
柔らかな新緑の椿より、それにつくチャドクガの方が気になるようで情けない。
過去に鵞毛庵で紹介されているが、フランスで 5月1日はスズランの日。
海流の関係で暖かいとはいえ、パリの緯度は北海道稚内よりかなり北であるかから
もっと 東京でも至る所に強く丈夫なにスズランを見かけてもよさそうだ。
最近でこそ おしゃれな花屋の店頭にスズランの切り花が並ぶことがあるが、それは
観賞用に栽培されているドイツスズランだろう。日本の野生種より大型で、良い香りがする。
鉢植えを放っておいても結構花をつけるが、群生させて花を観るには余程の条件が要りそうだ。
引き換えて、地面の近くから目を頭上に転じると そこには白い花が鈴なりに咲きだしている。
エゴノキである。 落葉の小高木で、雑木だ。 公園などでもよく見かける。
実を食べると喉や舌を刺激してえぐいので、転じてえごの木となったという。
毒だと教えられていたが、実の皮に含まれるサポニン成分の作用らしい。
水に溶かすと石鹸のように泡立つというし、その麻酔効果で魚取りに使ったりするそうだ。
ヤマガラの好物ということになっているが…
もっとも、ヤマガラの御馳走になる秋には種子中のエゴサポニンは減少するそうである。
今年も開花 三余堂のエゴノキ
チシャノキのほうが、耳馴染みのいい御仁もあろうと思うが、『伽羅先代萩』に登場する
ちさの木、“萵苣の木”のことである。
「知左(ちさ)の花咲ける盛りに愛(は)しきよしその妻の子と朝夕に 笑みみ笑まずも」
(知左=エゴノキ)
と 万葉集で大伴家持が詠っているのだから古くから親しみある木ということだ。
屋根ほどの高さで 今頃、横枝から出た小枝の先端に房状に白い花を下向きに多数つけるが、
沢山の落花に初めて花が咲いているのを知ることさえある。緑の中に芳香を放つ頭上の鈴蘭。
新梢にエゴの猫足油虫と呼ばれる「虫瘤(むしこぶ)」ができることがある。
6月を過ぎてエゴノキの枝の先の方を見入ると、花でも実でもないバナナの房の束のようなもの
を見ることがある。 アブラムシによって形成される黄緑色の虫こぶ。
枝先に産卵、寄生するので、その部分が肥大化するらしい。
初めて見つけた時は正体不明の猫の足のような固まり、 決して気持ちは良くなかった。
この虫瘤、適度なおてんとうさまの陽を浴び、水分補給も充分、生き生きとした幹を持つ
環境の良い場所のエゴノキに発生。 少し日当たりが弱く、幹も力強さに負ける方の木には
養分が少ないと見たか、 何十年 一度も虫瘤をみない。
こぶの主、アブラムシは、8月には次の寄生先イネ科のアシボソに引っ越すと言う。
暑さの峠を越える頃、ふわふわと しろい綿が飛ぶように行くのを 見送りながら
来年は御免蒙りたいがなぁ と。 しかしこのご時勢、共生ということなにるも致し方なし。
投稿日 2013年05月02日 8:18:14
最終更新日 2013年05月02日 9:45:21
【修正】
2013年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
春霞か、花曇りか、黄砂か、PM2.5か。首都圏内のJRの車窓から見える景色はぼっーとしている。
車内に目を移すと、「まど上」という広告が目に入る。
手持無沙汰の折には恰好の読み物で、“へぇ〜 この駅で降りると そこへいけるのかぁ…” と、
その路線ならではの様子を強感じる。
「中づり」「まど上」「ステッカー」「ドア横新B」などと車内の広告にも種類があり、掲載期間も選べ、
企業や商品のニーズにあった媒体が利用できるというのが JR東日本のうたい文句である。
「まど上」は「中づり」と共に目につきやすい広告で、その路線利用者にターゲットを絞った効率的な
宣伝と云う次第だ。
東京メトロ東西線の車内。
『 国立公文書館 平成25年春の特別展 「近代国家日本の登場―公文書にみる明治―」』
というのが 目に入った。
隣に 『 もらうと本が読みたくなる 』と、日本図書普及株式会社が図書カードの宣伝。
その隣は ECC外語学院が、『 いよいよ四月から!』 と、北野たけしセンセの顔で広告を打つ。
なんとも 春らしい爽やかな宣伝ばかりである。
春の特別展を入場無料ながら宣伝する国立公文書館は、独立行政法人で、国の行政機関などの
公文書を保存管理している。いわゆる 民間企業とは異なる。
例のワンクリックで削除となった三余堂月次で記事にしたことがあるので、何とか原稿を探り出して…
2009年の9月記事から一部を転載すると
………………………………………
《 内閣総理大臣が国の機関などから移管を受けた重要な公文書を、歴史資料として独立行政法人
国立公文書館が保存管理しています。》 と、ホームページにある国立公文書館。
資料の保存、データベース化、一般公開、インターネットの駆使と広く事業を行う。
重要な公文書の適切な保存と利用を図ることを目的とした施設。
公文書館は図書館、博物館と共に 文化施設として三本の柱の一つなのだそうだ。
ふぅ〜む
ヨーロッパでは、18世紀以来、近代的な公文書館制度が発達したという。
が、我国では戦後、その必要性の高い声に準備の末、 『公文書等の保存、閲覧・展示などへの利用、
公文書の調査研究を行う機関』 を目的として、昭和46年に国立公文書館が設置。
40年になるとはいえ、結構 近年のことだ。
この設置に際して 重要な一部門となった内閣文庫。
明治6年太政官に置かれた図書掛に始まり、明治18年内閣制度創始と同時に内閣文庫となる。
和漢の古典籍・古文書を所蔵する専門図書館となった。
その蔵書には、江戸幕府の記録等の公文書に類する資料も多いという。
平成10年にはつくば研究学園都市内に、つくば分館設置。
平成13年独立行政法人国立公文書館となる。
独立行政法人への移行後も 内閣文庫の所蔵資料は引き続き国立公文書館で保存されていて…
ふむ、 ふぅ〜む
この 国立公文書館のホームページ。時折 覗くと興味深いものを見つける。
今月のアーカイブを手繰っていくと 老人必要養草 ろうじんひつようやしないぐさ!に当たった。
ご存知、養生訓の著者貝原益軒、その弟子の 香月牛山 かつきぎゅうざん(1656-1740)の著。
対象は高齢者限定ときた。もっとも この時代 いくつが高齢者だろうか。
正徳6年(1716)に 出版された書で 高齢者がいる家庭のための家庭医学事典と…
三余堂 必携の書のような気がしてくる。
養老の総論、飲食やら何やらと続き、鬱屈した心を癒す工夫や高齢者特有の心理を具体的に
解説しているのが、本書の特徴。と、ある。
老人性のうつ病ということか。現代ならではの状況ではなさそうだ。
形体保養の説という項には 手足の屈伸やマッサージが血流を促し卒中風の患いなしと ある。
ふむ、ふむ、 ふぅ〜む …
………………………………………
なんとも 車内広告に経費をかけさせては申し訳ないような性格の国立公文書館。
かといって、車内広告でこそ 知り得た国立公文書館。
が、この「まど上」広告、思わず車内掲載料の零の数を繰り返して数えてみた。
たいそうな宣伝費に応えて、たまには足を運びたい国立公文書館。
我、矢来能楽堂から東京メトロ東西線で三駅先下車となる。
車内に目を移すと、「まど上」という広告が目に入る。
手持無沙汰の折には恰好の読み物で、“へぇ〜 この駅で降りると そこへいけるのかぁ…” と、
その路線ならではの様子を強感じる。
「中づり」「まど上」「ステッカー」「ドア横新B」などと車内の広告にも種類があり、掲載期間も選べ、
企業や商品のニーズにあった媒体が利用できるというのが JR東日本のうたい文句である。
「まど上」は「中づり」と共に目につきやすい広告で、その路線利用者にターゲットを絞った効率的な
宣伝と云う次第だ。
東京メトロ東西線の車内。
『 国立公文書館 平成25年春の特別展 「近代国家日本の登場―公文書にみる明治―」』
というのが 目に入った。
隣に 『 もらうと本が読みたくなる 』と、日本図書普及株式会社が図書カードの宣伝。
その隣は ECC外語学院が、『 いよいよ四月から!』 と、北野たけしセンセの顔で広告を打つ。
なんとも 春らしい爽やかな宣伝ばかりである。
春の特別展を入場無料ながら宣伝する国立公文書館は、独立行政法人で、国の行政機関などの
公文書を保存管理している。いわゆる 民間企業とは異なる。
例のワンクリックで削除となった三余堂月次で記事にしたことがあるので、何とか原稿を探り出して…
2009年の9月記事から一部を転載すると
………………………………………
《 内閣総理大臣が国の機関などから移管を受けた重要な公文書を、歴史資料として独立行政法人
国立公文書館が保存管理しています。》 と、ホームページにある国立公文書館。
資料の保存、データベース化、一般公開、インターネットの駆使と広く事業を行う。
重要な公文書の適切な保存と利用を図ることを目的とした施設。
公文書館は図書館、博物館と共に 文化施設として三本の柱の一つなのだそうだ。
ふぅ〜む
ヨーロッパでは、18世紀以来、近代的な公文書館制度が発達したという。
が、我国では戦後、その必要性の高い声に準備の末、 『公文書等の保存、閲覧・展示などへの利用、
公文書の調査研究を行う機関』 を目的として、昭和46年に国立公文書館が設置。
40年になるとはいえ、結構 近年のことだ。
この設置に際して 重要な一部門となった内閣文庫。
明治6年太政官に置かれた図書掛に始まり、明治18年内閣制度創始と同時に内閣文庫となる。
和漢の古典籍・古文書を所蔵する専門図書館となった。
その蔵書には、江戸幕府の記録等の公文書に類する資料も多いという。
平成10年にはつくば研究学園都市内に、つくば分館設置。
平成13年独立行政法人国立公文書館となる。
独立行政法人への移行後も 内閣文庫の所蔵資料は引き続き国立公文書館で保存されていて…
ふむ、 ふぅ〜む
この 国立公文書館のホームページ。時折 覗くと興味深いものを見つける。
今月のアーカイブを手繰っていくと 老人必要養草 ろうじんひつようやしないぐさ!に当たった。
ご存知、養生訓の著者貝原益軒、その弟子の 香月牛山 かつきぎゅうざん(1656-1740)の著。
対象は高齢者限定ときた。もっとも この時代 いくつが高齢者だろうか。
正徳6年(1716)に 出版された書で 高齢者がいる家庭のための家庭医学事典と…
三余堂 必携の書のような気がしてくる。
養老の総論、飲食やら何やらと続き、鬱屈した心を癒す工夫や高齢者特有の心理を具体的に
解説しているのが、本書の特徴。と、ある。
老人性のうつ病ということか。現代ならではの状況ではなさそうだ。
形体保養の説という項には 手足の屈伸やマッサージが血流を促し卒中風の患いなしと ある。
ふむ、ふむ、 ふぅ〜む …
………………………………………
なんとも 車内広告に経費をかけさせては申し訳ないような性格の国立公文書館。
かといって、車内広告でこそ 知り得た国立公文書館。
が、この「まど上」広告、思わず車内掲載料の零の数を繰り返して数えてみた。
たいそうな宣伝費に応えて、たまには足を運びたい国立公文書館。
我、矢来能楽堂から東京メトロ東西線で三駅先下車となる。
投稿日 2013年04月01日 14:30:21
最終更新日 2013年04月01日 14:30:21
【修正】
2013年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
“いよいよ ますます 生い茂る”季節となった。
陰暦三月は弥生。弥生と書いて いやよい。弥はいよいよで、生は草木が芽吹くこと。
三月の季語に炬燵塞、こたつふさぎ、というのがある。
まさにその通り、この時期は日の出も早くなり 明るい朝が春の息吹を感じさせる。
一方、大陸の砂漠やら、乾燥した地域の塵が飛んできて、辺りがいやに埃っぽい。
いわゆる黄砂である。
強風で上空に巻き上げられた砂塵の嵐は海を越えてやってくる。
空が黄褐色に煙り、うっすらと そこ、ここに積もり、
窓が少しでも空いていようものなら容赦なく 家中が赤土のほこりに塗れる。
気象台などでは、目視で確認した時を、黄砂とするという。
勿論、気象衛星などの観測装置で、科学的に黄砂の分布状況を観測、
光学的に厚さや粒径分布を観測したり、人工衛星の画像を解析しているから
しっかりと 飛散地の元が何処だか判るというものだ。
黄砂情報提供ホームページというのを環境省と気象庁で開設しているから
季節の風物などと云っている場合でない状況を知らされる。
ことに 昨今の状態は他要因も加味されて深刻になった。
日本では7万年前の最終氷期にはすでに 黄砂が飛来していたらしい。
7万年前から6万年前頃、風によって運ばれたことが、堆積した砂や塵から分かる
とのこと。最終氷期の初め頃は現在の3、4倍も砂塵が多かったと推定されるそうで、
とてもじゃぁないが、マスクをしたぐらいでは外に出られない。
更に堆積物を分析すると、約7000万年前から、黄砂が発生していたという。
あまりの数字の大きさだが、人がいない頃から砂塵は飛んできていたという事だ。
殷代の甲骨文字には「霾」と云う字が発見されていて、黄砂の事だとされている。
大陸ではその昔々、「塵雨」とか「雨土」「雨砂」「土霾」「黄霧」などと、
呼ばれていたらしい。 まさに読んで字の如し。
日本では、「泥雨」「紅雪」「黄雪」などの記述が江戸期あたりから見られるように
なったという。 霾(つちふる)、霾曇(よなぐもり)、などの季語で示される黄砂は
なんとも趣ある言葉に衣替えしているが、砂塵に変わりはない。
春によく見られる霞や、夜の月を霞ませての朧月夜だって、多分に黄砂の影響。
とはいえ、なんとも どんよりと靄った空が 弥生の空で
見わたす限り かすみか雲か ということだ。
奇しくも今日、関東は春一番となり、砂塵も舞っている。
©La plume d'oie 鵞毛庵 2007 能「大原御幸」より
Ne sont-ils pas un dernier souvenir des fleurs éffeuillées ?
遠山にかかる白雲は 散りにし花の形見かや
ギャラリーUSHINにて 3月6日〜17日
桜 KAWAII Craft exhibition に 上記作品展示いたします。
陰暦三月は弥生。弥生と書いて いやよい。弥はいよいよで、生は草木が芽吹くこと。
三月の季語に炬燵塞、こたつふさぎ、というのがある。
まさにその通り、この時期は日の出も早くなり 明るい朝が春の息吹を感じさせる。
一方、大陸の砂漠やら、乾燥した地域の塵が飛んできて、辺りがいやに埃っぽい。
いわゆる黄砂である。
強風で上空に巻き上げられた砂塵の嵐は海を越えてやってくる。
空が黄褐色に煙り、うっすらと そこ、ここに積もり、
窓が少しでも空いていようものなら容赦なく 家中が赤土のほこりに塗れる。
気象台などでは、目視で確認した時を、黄砂とするという。
勿論、気象衛星などの観測装置で、科学的に黄砂の分布状況を観測、
光学的に厚さや粒径分布を観測したり、人工衛星の画像を解析しているから
しっかりと 飛散地の元が何処だか判るというものだ。
黄砂情報提供ホームページというのを環境省と気象庁で開設しているから
季節の風物などと云っている場合でない状況を知らされる。
ことに 昨今の状態は他要因も加味されて深刻になった。
日本では7万年前の最終氷期にはすでに 黄砂が飛来していたらしい。
7万年前から6万年前頃、風によって運ばれたことが、堆積した砂や塵から分かる
とのこと。最終氷期の初め頃は現在の3、4倍も砂塵が多かったと推定されるそうで、
とてもじゃぁないが、マスクをしたぐらいでは外に出られない。
更に堆積物を分析すると、約7000万年前から、黄砂が発生していたという。
あまりの数字の大きさだが、人がいない頃から砂塵は飛んできていたという事だ。
殷代の甲骨文字には「霾」と云う字が発見されていて、黄砂の事だとされている。
大陸ではその昔々、「塵雨」とか「雨土」「雨砂」「土霾」「黄霧」などと、
呼ばれていたらしい。 まさに読んで字の如し。
日本では、「泥雨」「紅雪」「黄雪」などの記述が江戸期あたりから見られるように
なったという。 霾(つちふる)、霾曇(よなぐもり)、などの季語で示される黄砂は
なんとも趣ある言葉に衣替えしているが、砂塵に変わりはない。
春によく見られる霞や、夜の月を霞ませての朧月夜だって、多分に黄砂の影響。
とはいえ、なんとも どんよりと靄った空が 弥生の空で
見わたす限り かすみか雲か ということだ。
奇しくも今日、関東は春一番となり、砂塵も舞っている。
©La plume d'oie 鵞毛庵 2007 能「大原御幸」より
Ne sont-ils pas un dernier souvenir des fleurs éffeuillées ?
遠山にかかる白雲は 散りにし花の形見かや
ギャラリーUSHINにて 3月6日〜17日
桜 KAWAII Craft exhibition に 上記作品展示いたします。
投稿日 2013年03月01日 19:09:40
最終更新日 2013年03月01日 19:09:58
【修正】
2013年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
『贈与の歴史学』という新書を手にした。
中世日本史、流通経済史の研究者である桜井英治博士の著書である。
わが国日本は 先進諸国の中でも贈答儀礼をよく保存している社会として
注目を集めてきたそうだ。
人の営みの中で贈答、贈与は古今東西の文化である。
が、ややもすると 義理や儀礼であったり、賄賂になったり。 やれ、贈らねば、受ねばと。
挙句に、返礼で気が重くなり…
とはいえ やめられない、止まらないとばかり、 昨今は企業戦略にも乗せられて
チョコの準備に、そのお返しに勤しむし、その姿をバカバカしいと思いつつも
ゴディバの限定品を横目でしっかりチェックしていたり。
そもそも円滑な人間関係を築く贈り物。これが、中世日本での贈与慣行は
世界にも類を見ないような、ちゃっかりとしたものだったようだ。
中世は年貢が塩や鮭、鮑といった水産物から林産物、鉄や金やら工芸品に
至るまで種々を極めたそうで、それらを物々交換や、換金の為に、市場が生まれる
と云う訳である。 市場経済といっては大袈裟か、なかなかであったらしい。
13世紀後半に 年貢が物でなく銭で、ということになったと云うから 物の売り買いは
当然盛んになる。当時の資料となる日記類には毎日のように、膨大な量の贈答を
繰り返していたことが書かれていたようだ。
そもそも日記は、公家が儀式のためにメモしたものが家記となり、その家の後継者が
引き継ぐという重みのあるものであった。時代を経て、寺社の日記、武家の日記と出現
するが、それなりの身分や立場の者の間でのやり取りが記されていたことになる。
と、いうことは… それらの贈答品がどこから来て、何処へゆく。
多少のチョコレートなら 何時の間にやら消えゆくが 当時の贈答品はどのように
消費されたのか、他人事だからこそ興味津々。
食べ物などはそこそこ自家で消費するにしても、美術工芸の品々はどうしたのか。
第一に 売却。
第二に 贈り物としてよそ様へ再利用。
同じものばかりが 大量に集まれば当然のことになろうが、神社などには奉納される
神馬が集中して、そこは馬取引の市場となった。
多く一般の人々に馬入手の機会が与えられたという。
いわゆるオークションも行われていたようで、品物が換金されると云う訳だ。
次に 贈答品の再利用。
これについては本願寺の第10世法主 証如上人の日記にこまめな記載が残っているそうで、
誰々から贈られた物を 誰々に贈ったとか、贈られてきた物が以前、自分が贈ったもので
廻り巡って戻ってきたとか… 証如上人は呵々と大笑いしたという。
漫画のような話だが、まぁ、驚くほどの事ではなかったのだろう。 16世紀前半の事である。
これらはある程度の立場での話だが、案外割り切った功利的な社会の一面を見た。
一方、庶民には売却するほど物も集まらなかったろうし、
流用するほど贈答先があっただろうか。
ヴィザージュダムールなる今年の限定チョコ。三余堂、一応 確認だけはしておく。
中公新書 中央公論社
中世日本史、流通経済史の研究者である桜井英治博士の著書である。
わが国日本は 先進諸国の中でも贈答儀礼をよく保存している社会として
注目を集めてきたそうだ。
人の営みの中で贈答、贈与は古今東西の文化である。
が、ややもすると 義理や儀礼であったり、賄賂になったり。 やれ、贈らねば、受ねばと。
挙句に、返礼で気が重くなり…
とはいえ やめられない、止まらないとばかり、 昨今は企業戦略にも乗せられて
チョコの準備に、そのお返しに勤しむし、その姿をバカバカしいと思いつつも
ゴディバの限定品を横目でしっかりチェックしていたり。
そもそも円滑な人間関係を築く贈り物。これが、中世日本での贈与慣行は
世界にも類を見ないような、ちゃっかりとしたものだったようだ。
中世は年貢が塩や鮭、鮑といった水産物から林産物、鉄や金やら工芸品に
至るまで種々を極めたそうで、それらを物々交換や、換金の為に、市場が生まれる
と云う訳である。 市場経済といっては大袈裟か、なかなかであったらしい。
13世紀後半に 年貢が物でなく銭で、ということになったと云うから 物の売り買いは
当然盛んになる。当時の資料となる日記類には毎日のように、膨大な量の贈答を
繰り返していたことが書かれていたようだ。
そもそも日記は、公家が儀式のためにメモしたものが家記となり、その家の後継者が
引き継ぐという重みのあるものであった。時代を経て、寺社の日記、武家の日記と出現
するが、それなりの身分や立場の者の間でのやり取りが記されていたことになる。
と、いうことは… それらの贈答品がどこから来て、何処へゆく。
多少のチョコレートなら 何時の間にやら消えゆくが 当時の贈答品はどのように
消費されたのか、他人事だからこそ興味津々。
食べ物などはそこそこ自家で消費するにしても、美術工芸の品々はどうしたのか。
第一に 売却。
第二に 贈り物としてよそ様へ再利用。
同じものばかりが 大量に集まれば当然のことになろうが、神社などには奉納される
神馬が集中して、そこは馬取引の市場となった。
多く一般の人々に馬入手の機会が与えられたという。
いわゆるオークションも行われていたようで、品物が換金されると云う訳だ。
次に 贈答品の再利用。
これについては本願寺の第10世法主 証如上人の日記にこまめな記載が残っているそうで、
誰々から贈られた物を 誰々に贈ったとか、贈られてきた物が以前、自分が贈ったもので
廻り巡って戻ってきたとか… 証如上人は呵々と大笑いしたという。
漫画のような話だが、まぁ、驚くほどの事ではなかったのだろう。 16世紀前半の事である。
これらはある程度の立場での話だが、案外割り切った功利的な社会の一面を見た。
一方、庶民には売却するほど物も集まらなかったろうし、
流用するほど贈答先があっただろうか。
ヴィザージュダムールなる今年の限定チョコ。三余堂、一応 確認だけはしておく。
中公新書 中央公論社
投稿日 2013年02月01日 2:57:30
最終更新日 2013年02月01日 2:57:43
【修正】
2013年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
新年のご挨拶
謹賀新年
午前零時。平成25年は美しい輝く月を愛でながら、新しい歳を迎えることになった。
元旦の午前中は何やかにやと気忙しく過ぎるものであるが、常々三余堂には賀状も
早々に届き、引き締まる思いで新春のご挨拶を手にする。
ワープロが家庭に普及始めた頃から 郵便局の仕分けを悩ませる宛名が減ったかと
思いきや、相変わらずの行き先定まらぬ年賀葉書はあるようだ。
“腕を振るうのは 文面の方で、宛名書きは誰にも読めるようにお願いしまぁ〜す”
と、年末のラジオの声が耳に残っている。
まぁ、読む力も落ちているのは事実で、漢字の書体は楷書、行書、草書、
篆書(てんしょ)に、隷書(れいしょ)とあるのだから、せめて、書き文字としての
行書、慣習的に使いならされた簡易な草書ぐらいは学び、識るべきなのだろう。
法隆寺の五重塔の落書きは 手習いの手慰みだったという。
読み書きが出来るのは当たり前のことのように思いがちだが、読むにも書くにも
文字を習い続けろよ、と、年賀葉書が心に呼びかける。
年初の思いが如何になるかは兎も角、東京国立博物館で特別展「書聖 王羲之」が
1月22日から始まる。 この王羲之先生の文字が、大切なのだそうで…
しかし乍、しっかり学べと云われても、まず読めネェ〜 と、何処かで声がする。
一方、明日は書き初めだとの耳元での囁きもある。
謹賀新年
午前零時。平成25年は美しい輝く月を愛でながら、新しい歳を迎えることになった。
元旦の午前中は何やかにやと気忙しく過ぎるものであるが、常々三余堂には賀状も
早々に届き、引き締まる思いで新春のご挨拶を手にする。
ワープロが家庭に普及始めた頃から 郵便局の仕分けを悩ませる宛名が減ったかと
思いきや、相変わらずの行き先定まらぬ年賀葉書はあるようだ。
“腕を振るうのは 文面の方で、宛名書きは誰にも読めるようにお願いしまぁ〜す”
と、年末のラジオの声が耳に残っている。
まぁ、読む力も落ちているのは事実で、漢字の書体は楷書、行書、草書、
篆書(てんしょ)に、隷書(れいしょ)とあるのだから、せめて、書き文字としての
行書、慣習的に使いならされた簡易な草書ぐらいは学び、識るべきなのだろう。
法隆寺の五重塔の落書きは 手習いの手慰みだったという。
読み書きが出来るのは当たり前のことのように思いがちだが、読むにも書くにも
文字を習い続けろよ、と、年賀葉書が心に呼びかける。
年初の思いが如何になるかは兎も角、東京国立博物館で特別展「書聖 王羲之」が
1月22日から始まる。 この王羲之先生の文字が、大切なのだそうで…
しかし乍、しっかり学べと云われても、まず読めネェ〜 と、何処かで声がする。
一方、明日は書き初めだとの耳元での囁きもある。
投稿日 2013年01月01日 3:04:31
最終更新日 2013年01月01日 3:06:36
【修正】
2012年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
先月末、最古級ひらがな!と 新聞紙上が飾られた。
平安の御代に右大臣を務めた 藤原良相(ふじわらよしみ 813〜867年)の邸宅跡から 一年ほど前に
出土した土器片に仮名文字があったというのである。
現場は京都の中京区で、出土した9世紀後半の土器片の中に“かつらきへ”
葛城へということだろう、和歌とみられる平仮名が書かれていた。
平安京でのまとまった土器の出土で、10世紀と言われていた平仮名の確立が
半世紀も遡ることになった、というから 大変なことなのだ。
なんといっても 我らが意思伝達の重要手段、平仮名の誕生の話である。
漢字の一字一字を、その漢字本来の意味に拘わらず、日本語の音の表記に
用いたのが、万葉仮名で、万葉集がこの手法で著されているのだ。
仮名は、1音に1字を当てる万葉仮名、万葉仮名の草書体を用いた草仮名、そして
平仮名の順に移行したと謂われるが…
かの空海が平仮名を創作したという話もあるという程だから 平仮名の誕生秘話は
興味津々というところである。
最澄や空海が帰朝して、仏教が新たな息吹をわが国にもたらした時代に
弁舌は才気に溢れていた新進気鋭の 藤原良相君、承和元年(834年)仁明天皇に
召し出されて順調にご昇進。長兄をも越えて権中納言になり、権大納言 右近衛大将と ぐんぐん
御出世。 857年には右大臣 左近衛大将に就任。周囲からの人望も厚く、貞観6年(864年)清和天皇に娘を入内させたりと、なかなかのご人物だった様子。
当然 文学への造詣は深く、仏教への信仰には篤く、陰陽道にも通じていた。
と、まるで見たかのような人物説明だが、1200年以上も前のことである。
この藤原良相邸宅跡で出土した土器に 墨で文字が記されていた。
その文字が 万葉仮名でもなく、草仮名でもない平仮名だというのである。
9世紀後半の平安貴族が 宴の席で器に歌を書きつけて交わし合ったのだろうか。
その器に酒を満たしたのか。 邸宅跡の池から皿などの土器破片90点もの中の、
20点に墨の文字が記されていたという。文字が判別できた“かつらきへ”は 当時の 御所での神楽歌一節に出てくるそうだ。 邸で神楽が行われたのだろうか。
周辺が桜の名所という 藤原良相邸は「百花亭」と呼ばれ、天皇の行幸をはじめとし、
公家方が歌会を催したというから 季節の花の下で、紅葉する木々を愛でながら…
当時の一流文化人が集い交流した場と想定される良相邸。その邸跡での墨書土器。
9世紀後半、京洛の貴族階級での平仮名の広まりを示しているということか。
一方、9世紀前半の井戸跡で、檜扇(ひおうぎ)と木簡をも発見。
万葉仮名が記されていたそうだ。同じ遺跡で万葉仮名から平仮名までが見つかった。
仮名の誕生変遷を報せている訳である。
出土品は京都市考古資料館で12月16日まで展示されるという。
投稿日 2012年12月01日 14:14:56
最終更新日 2012年12月01日 14:17:51
【修正】
2012年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
わが国では平安時代後期、大陸では宋代の話が続いた。 ついでに留めの話。
『日本刀歌 』の作者欧陽 脩が科挙の監督をして、蘇軾を見出だしたと記したが、
この蘇軾(1036〜1101 )は北宋代の政治家で、詩人、書家として高名である。
東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれ、その名に親しみを覚えるご仁もあろう。
黄庭堅(こうていけん)、米芾(べいふつ)と並ぶ 書に於ける宋の三大家だそうである。
地方官を歴任後、中央の官吏となるが、時の新法に反対して左遷されて、地方官へ逆戻り。
ついで、詩文で政治を誹謗したと、投獄され、黄州へ左遷。
左遷先の土地を東坡と名づけて、東坡居士と名乗ったそうな。
蘇軾は かの『赤壁賦』の作者で、この黄州時代に詠んだという。
が、この赤壁は自身も承知の上だったらしいが、三国時代の実際の古戦場ではなかった。
現在は、蘇軾が『赤壁賦』を詠んだ所は文赤壁、本物の戦場の方を武赤壁と呼んでいるそうだ。
蘇軾が、この黄州に流されている時に 悲運を嘆いたのが『黄州寒食詩巻』(こうしゅうかんしょくしかん)
という作品で、その書は多くの文字の頭が右に倒れている。文字が歪んでいるのだ。
これが大家の字かぁ〜 と、ながめる。
47歳のとき、自詠の詩2首を書いた快心の作だという。
唐代よりの伝統書法の上に独自の書風を表現したということなのだろう。
字形の変形、文字の大小、強弱、均衡があるのやらないのやら…
何ともゆったりとしたものを伝える書は それまでの時代にはないものなのだという。
その後、旧法派が復権し、蘇軾も中央に復帰する。
師である欧陽 脩と同じく詔書の起草に当る翰林学士等要職を歴任した。
だが、またまた、再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷。
現在の広東省に流され、さらに海南島にまで追いやられたのは62歳の時だった。
66歳の時、新法、旧法両派の融和が図られると、ようやく許されるが、都に向かう帰路で病死。
流され続ける蘇軾は、豪快な詩風で宋代最高の詩人とされるという。
宋代は、それまでに長らく権力を掌握してきた貴族が 唐の王朝から勢力を失い始め崩壊する。
新興地主が力を得て 政治や社会構造の変化が起きた。
貴族中心の優雅な文化へ新しい社会層の革新の風が吹き込み、書法も変えたのだろうか。
自由で動的な清新の気は わが国も貴族から兵の時代への過渡期であった。
『日本刀歌 』の作者欧陽 脩が科挙の監督をして、蘇軾を見出だしたと記したが、
この蘇軾(1036〜1101 )は北宋代の政治家で、詩人、書家として高名である。
東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれ、その名に親しみを覚えるご仁もあろう。
黄庭堅(こうていけん)、米芾(べいふつ)と並ぶ 書に於ける宋の三大家だそうである。
地方官を歴任後、中央の官吏となるが、時の新法に反対して左遷されて、地方官へ逆戻り。
ついで、詩文で政治を誹謗したと、投獄され、黄州へ左遷。
左遷先の土地を東坡と名づけて、東坡居士と名乗ったそうな。
蘇軾は かの『赤壁賦』の作者で、この黄州時代に詠んだという。
が、この赤壁は自身も承知の上だったらしいが、三国時代の実際の古戦場ではなかった。
現在は、蘇軾が『赤壁賦』を詠んだ所は文赤壁、本物の戦場の方を武赤壁と呼んでいるそうだ。
蘇軾が、この黄州に流されている時に 悲運を嘆いたのが『黄州寒食詩巻』(こうしゅうかんしょくしかん)
という作品で、その書は多くの文字の頭が右に倒れている。文字が歪んでいるのだ。
これが大家の字かぁ〜 と、ながめる。
47歳のとき、自詠の詩2首を書いた快心の作だという。
唐代よりの伝統書法の上に独自の書風を表現したということなのだろう。
字形の変形、文字の大小、強弱、均衡があるのやらないのやら…
何ともゆったりとしたものを伝える書は それまでの時代にはないものなのだという。
その後、旧法派が復権し、蘇軾も中央に復帰する。
師である欧陽 脩と同じく詔書の起草に当る翰林学士等要職を歴任した。
だが、またまた、再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷。
現在の広東省に流され、さらに海南島にまで追いやられたのは62歳の時だった。
66歳の時、新法、旧法両派の融和が図られると、ようやく許されるが、都に向かう帰路で病死。
流され続ける蘇軾は、豪快な詩風で宋代最高の詩人とされるという。
宋代は、それまでに長らく権力を掌握してきた貴族が 唐の王朝から勢力を失い始め崩壊する。
新興地主が力を得て 政治や社会構造の変化が起きた。
貴族中心の優雅な文化へ新しい社会層の革新の風が吹き込み、書法も変えたのだろうか。
自由で動的な清新の気は わが国も貴族から兵の時代への過渡期であった。
投稿日 2012年11月01日 0:13:49
最終更新日 2012年11月01日 0:14:08
【修正】