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よそさんの前を御免下さいまし!
こんな親子が三余堂への行きに見送り、帰りに出迎える。
風流な御仁が設えた物だ。
身の丈 1メートル50はあるか信楽たぬき。
福々とした狸殿、編み笠を被り少し首をかしげながら徳利と通帳を持って立っている。
信楽焼<しがらきやき>は、滋賀県は忍者の里 甲賀市の信楽町を中心に作られる陶磁器。
狸の置物と言えば信楽と思っている。
常滑や備前、清水などでも焼かれている徳利片手の狸だが
大狸の信楽焼置物は比較的歴史が浅いのには驚いた。
信楽では 幕末に狸の置物を造っていた記録があるというが、あの大きいのになったのは
明治以降、の作家によるものが最初らしい。
戦後、昭和天皇が信楽へ行幸の際
をさなどき あつめしからになつかしも 信楽焼の狸をみれば
と狸たちに歓迎されたことを歌に詠まれた。
このことで 恐れ多くも、信楽の狸が全国に知られるようになったという。
「他を抜く」と書いてたぬき、よそ様を抜くということに通じるので 商売繁盛とばかりに
店の軒先に置かれることが多いという訳だ。 ご縁起物。
香合に掛軸と 茶席にも登場する気取った狸もいるし、昔話に登場して人を化かすのもいる。
憎めない その図々しさに親しみを感じるのか。
音曲から落語まで取り上げられる話題のつきない存在である。
2月の鉢木が講談仕立なら 次は落語の一席で「狸」といきたいところである。
えぇーっ 先代の小さんは その風貌から狸に似ていると云われましてぇ、
お頼まれしますってぇと 色紙などにもよく狸の絵を描きまして…。
一門はたぬきの噺をすると たぬきの料簡になれ!と教わったもんでございます。
たぬきの料簡 とはなんぞや… えぇーっ キツネは七化け、たぬきは八化け ともうしまして〜
若い噺家の枕の受売りだ。
いろいろあるたぬきの噺は とどのつまり 助けられた御礼話である。
劇作家の宇野信夫氏が そんな噺から 霜夜狸〈しもよだぬき〉 という作品を書いた。
1966年にNHKラジオで放送したものを ついこの間、ラジオドラマ・アーカイブスとして放送していた。
40年前のものである。
新派の大矢市次郎がとっつぁん、文学座の若き加藤武が狸。
孤独に暮らす番小屋の老人と、寒さに耐えかねて老人の死んだ息子に化けたタヌキが、
しだいに心を通わせていく……。
歌舞伎界の大御所・宇野信夫の原作を、森繁久彌が構想15年を経て完成させた人情アニメ。
森繁の語りが絶品だ。と 銘打ってDVDも売られている。
狂言現行曲にも 狸腹鼓〈たぬきのはらつづみ〉、 和泉流のみになるが 隠狸〈かくしだぬき〉、とある。
人間とお狸さまとのかかわりは、狂言も御同様。 で、今日も 寒空の下 たぬき親子に迎えられた。
おかえり!
いまだけさきたゆう
今年は 洞爺湖サミットのために 例年より10日も遅れての朝顔市だった。
生産者は この10日あまりの差に、さぞご苦労があったろう。
土、水、光、虫、病気 等々の管理を経て一年掛けてのお商売物だ。
朝 開いて昼には萎む花。 葉の繁りが邪魔をしてきちんと開花出来ないことがある。
で、 葉が貧相だと養分が蓄えられずに 花が咲かない。
あぁ この不条理を … と カミュ気取りで言ってもはじまらないが、
朝顔を舞台に出すのも 厄介なことだ。
今年も鉢の出来に 黙って玄人の心意気が出る。
市にならぶ鉢にも流行がある。
時の花は 市場調査も条件として重要だ。
同じ 朝顔の鉢をならべての市でも 色も形もじわりじわりと変化する。
鉢も、行燈づくりの支柱も、素材が変わってプラスチィックになる。
そして 宅配便が待ってましたとばかりに 入谷朝顔市 と印刷した専用の段ボールケースで運ぶ。
恐れ入谷の鬼子母神は東京の一部の地域から 全国区となる。
団十郎
団十郎 といって売られているこの朝顔は 所謂市川団十郎家の色を表している。
三余堂に咲く朝顔は これに倣って それぞれ銘がつく。
いかにも涼を呼ぶ大輪の青は 咲大夫。
これは浄瑠璃義太夫の豊竹咲大夫ならぬ 今竹咲大夫。 いまだけさきたゆう である。
五代目志ん生
濃い花は六代目菊五郎
一昨年 流行った 小さな青は 三餘亭小朝。
他にも 六代目菊五郎だの 五代目志ん生だのと、心象としては ちと 古い命名ばかりだが。
鵞毛庵ご推奨、涼をとるための 志ん生の「牡丹燈籠」もよいが、
朝顔の志ん生も なかなか結構なものでござんすョ。
2010年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
西暦の2010年9月1日は陰暦で言うと まだ7月23日。
これから だんだんと月が痩せていき あと1週間もすると 新月となる。葉月である。
先日 今年の正倉院展の二ユースを目にした。すっかり秋の恒例行事だ。
今年は 「五弦琵琶」が19年ぶりに出陳。
一口に琵琶といっても、五弦琵琶、楽琵琶、平家琵琶、盲僧琵琶、等
発展や、系統が互いに影響しあって今日に至っている。
正倉院の御物 聖武天皇御遺愛品は 螺鈿紫檀五絃琵琶 (らでんしたんのごげんびわ) で要するに、
紫檀に螺鈿細工が施された 五弦の琵琶ということだ。教科書などでよく見かける御物の代表選手。
五弦の琵琶としては世界唯一の歴史的遺品だそうである。
奈良時代に伝来し、平安前期頃までは演奏されたらしい五弦の琵琶は、その後廃絶している。
箏と同様に、天皇や殿上人の所作とされた琵琶。
838年遣唐使として藤原貞敏は、唐で琵琶を学んだ。
琵琶博士より楽譜と琵琶三面を相伝したという。
帰国の海で、賜った玄象(げんじょう)、師子丸(ししまる)、青山(せいざん) 、という三面の琵琶を
龍神が惜しんで荒波を立てた。そこで、師子丸を竜神に供えて 海底に沈め、二面の琵琶のみを持ち帰り
朝廷の御物となった。 という。
それを題材にしたのは 能 玄象 。
La plume d'oie (c) 鵞毛庵2010 能「玄象」より
蝉丸、平経正などの、名手や名器の話は説話や能で知ることができる。
村上天皇の頃に、名器玄象が宮中から消失した。
源博雅が、微かに聞こえる音をたどると、羅城門で鬼が玄象 を弾いていた… と、今昔物語にある。
もう一面の琵琶、青山の話。
幼少より仁和寺覚性法親王に仕えた、平経正は琵琶の名手で、青山を下賜されるほどの寵愛を受けた。
平清盛の甥である経正は、木曾義仲が攻めてくると、覚性法親王に名器を返上。
都落ちして、一の谷合戦で討ち死にした。経正はかの敦盛の兄であった。
その後、仁和寺に仕え、経正を良く知る僧行慶は、法親王の命により青山を弾いて回向をした。
すると、公達経正の霊が
おぉ〜! 御弔いのありがたさに、これまで現れ参りたり と
消え、消えと形もなくて、聲は幽かに絶えのこって…
平家の公達らしくお品良くというか、軟弱だというか、草食系というか 解釈は如何様にも…
詩歌管弦に興じた日々を想う 経政の姿が、謡、舞を通して 王朝・貴族の文化を伝える。
最後のおのが姿である 戦いの修羅の様を恥とし、
燈火を吹き消して 暗まぎれより、魄霊は失せにけり、魄霊の影は失せにけり
本来、平氏も源氏も武士で 戦うのがお仕事、と 謂われそうな ヘイシっていうぐらいだから…
と、いう筋の能「経正」は平家物語の「経正都落」の話を基としている。
ちなみに 琵琶で語られる平曲で経正は「竹生島詣」と「経正都落」に登場。
室町期には能と並び愛好されていた琵琶が、三味線の輸入、地歌や筝曲、浄瑠璃などの三味線音楽の
発展と共に衰退していくことになる。
しかしながら、明治天皇は終生、琵琶をお好みになり低迷していた琵琶の社会的評価が上がったとのこと。
琵琶の青山は鎌倉時代に失われたと言われ、ゆかりの地である竹生島の弁財天の宝物殿に、
《経正が青山を弾いた際に使用した》と伝わる撥がある。
九月九皐会定例会で三余堂は、青山を巧みに奏した若い平家の公達 経正となる。
舞台で行慶僧都と経正の二人のみが相対する日は、葉月の三日月を過ぎた頃か。
能 「経正」より La plume d'oie(c) 鵞毛庵 2010
画像はそれぞれクリックすると大きくなります。
御流儀によっては「経政」と表記。 当日は三輪も上演。
これから だんだんと月が痩せていき あと1週間もすると 新月となる。葉月である。
先日 今年の正倉院展の二ユースを目にした。すっかり秋の恒例行事だ。
今年は 「五弦琵琶」が19年ぶりに出陳。
一口に琵琶といっても、五弦琵琶、楽琵琶、平家琵琶、盲僧琵琶、等
発展や、系統が互いに影響しあって今日に至っている。
正倉院の御物 聖武天皇御遺愛品は 螺鈿紫檀五絃琵琶 (らでんしたんのごげんびわ) で要するに、
紫檀に螺鈿細工が施された 五弦の琵琶ということだ。教科書などでよく見かける御物の代表選手。
五弦の琵琶としては世界唯一の歴史的遺品だそうである。
奈良時代に伝来し、平安前期頃までは演奏されたらしい五弦の琵琶は、その後廃絶している。
箏と同様に、天皇や殿上人の所作とされた琵琶。
838年遣唐使として藤原貞敏は、唐で琵琶を学んだ。
琵琶博士より楽譜と琵琶三面を相伝したという。
帰国の海で、賜った玄象(げんじょう)、師子丸(ししまる)、青山(せいざん) 、という三面の琵琶を
龍神が惜しんで荒波を立てた。そこで、師子丸を竜神に供えて 海底に沈め、二面の琵琶のみを持ち帰り
朝廷の御物となった。 という。
それを題材にしたのは 能 玄象 。
La plume d'oie (c) 鵞毛庵2010 能「玄象」より

蝉丸、平経正などの、名手や名器の話は説話や能で知ることができる。
村上天皇の頃に、名器玄象が宮中から消失した。
源博雅が、微かに聞こえる音をたどると、羅城門で鬼が玄象 を弾いていた… と、今昔物語にある。
もう一面の琵琶、青山の話。
幼少より仁和寺覚性法親王に仕えた、平経正は琵琶の名手で、青山を下賜されるほどの寵愛を受けた。
平清盛の甥である経正は、木曾義仲が攻めてくると、覚性法親王に名器を返上。
都落ちして、一の谷合戦で討ち死にした。経正はかの敦盛の兄であった。
その後、仁和寺に仕え、経正を良く知る僧行慶は、法親王の命により青山を弾いて回向をした。
すると、公達経正の霊が
おぉ〜! 御弔いのありがたさに、これまで現れ参りたり と
消え、消えと形もなくて、聲は幽かに絶えのこって…
平家の公達らしくお品良くというか、軟弱だというか、草食系というか 解釈は如何様にも…
詩歌管弦に興じた日々を想う 経政の姿が、謡、舞を通して 王朝・貴族の文化を伝える。
最後のおのが姿である 戦いの修羅の様を恥とし、
燈火を吹き消して 暗まぎれより、魄霊は失せにけり、魄霊の影は失せにけり
本来、平氏も源氏も武士で 戦うのがお仕事、と 謂われそうな ヘイシっていうぐらいだから…
と、いう筋の能「経正」は平家物語の「経正都落」の話を基としている。
ちなみに 琵琶で語られる平曲で経正は「竹生島詣」と「経正都落」に登場。
室町期には能と並び愛好されていた琵琶が、三味線の輸入、地歌や筝曲、浄瑠璃などの三味線音楽の
発展と共に衰退していくことになる。
しかしながら、明治天皇は終生、琵琶をお好みになり低迷していた琵琶の社会的評価が上がったとのこと。
琵琶の青山は鎌倉時代に失われたと言われ、ゆかりの地である竹生島の弁財天の宝物殿に、
《経正が青山を弾いた際に使用した》と伝わる撥がある。
九月九皐会定例会で三余堂は、青山を巧みに奏した若い平家の公達 経正となる。
舞台で行慶僧都と経正の二人のみが相対する日は、葉月の三日月を過ぎた頃か。
能 「経正」より La plume d'oie(c) 鵞毛庵 2010画像はそれぞれクリックすると大きくなります。
御流儀によっては「経政」と表記。 当日は三輪も上演。
投稿日 2010年09月01日 0:25:49
最終更新日 2010年09月01日 0:26:07
【修正】
2010年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
今年二月 足袋のあーほかいぶずと題して 三余堂月次を書いた。
ついこの間まで当たり前だったものが すぐにいとめづらし!になる昨今。
時折 繰り返さないと すっかり歴史物になってしまい、晒木綿のことはもはやめづらしとなった。
めづらしとは すばらしいとか、愛らしいとか、新鮮だとか 要は他にはめったにないとの賛美の語。
iPhonやiPadが普段の生活用品になり、科学の子のヒートテックが安価で求められると
晒しの肌襦袢も足袋も おめづらしい物になる。
三年前にはまだ、まだと思っていた 足袋やが閉じた事情の一つに原材料の問題がある。
開発された新素材が 既存のものを凌駕していく、このことを実感する複雑な酷暑の今夏だ。
なればこそ いまひと たび 晒の効用の一席!
ぱんぱぱっん!! ここで ハリ扇…
と なればハリ扇についても いづれ一席語らねば なぁ
以下 おさらいもかねて…
さらしもめんの下着は汗取りとして恰好の素材である。
晒しとは、綿や麻の布を日光や雨風に当て 繊維の持つ天然色素を抜いて 純白にしたもの。
吸湿性、通気性に富んだ晒綿布は万能選手だ。
先ず 手で裂くことが出来る。 長さも幅も調節能。
下締め、肌着から 紐、縄、布巾、三角巾、包帯等、等 …
常に一反 備えておけば 必ず役立つからと 三余堂夫人は 女学生時代の恩師に叩き込まれた
とのこと。

汗取りの仕事のために待機する晒と三余堂肌襦袢

この時期になると 一年分の 肌襦袢が仕上がってくる。
といっても下着を 畳紙 たとうに恭しく包んで 呉服屋さんが運んで来る訳ではない。
単に、子供が夏休の間に まとめて肌襦袢を縫っていた三余堂夫人の習慣である。
そもそも 三大天然素材のうちの一つの綿が 渡来した年代は不明で
万葉集などに見られる綿は 現在のワタ属の植物ではなさそうだ。
衣料作物としては麻のほうが先輩で、高温と、日照時間が長く必要な綿の生育は
日本では 簡単ではなかったろう。
15世紀後半に朝鮮から綿布が輸入されるようになり、16世紀には 明からの輸入が加わり
上流階級では木綿の着用が流行したそうである。
さらに南蛮貿易によって東南アジア諸国からも 木綿は入ってきた。
国内でも 16世紀になると木綿の栽培が始まったらしい。
その耐久性や 染色などの加工のし易さに、戦国時代の武士たちは
幕や旗差物、袴などの衣料に用いる。
三河などで始まった木綿栽培は、近畿、関東でも栽培されるようになったとか。
江戸初期には農民の着物も麻から木綿へとなっていく。
江戸も中期になると、各地で 銘柄木綿が産出されるようになる。
こうして絹、麻、綿 はその特質を生かして、 季節、身分、用途に合わせて 活躍するようになった。
てなことを記していた…
この年の7月に、九皐会で勤めた殺生石の前ジテで使用した装束の唐織は 享保年間のものであった。
能装束の下は 羽二重で作られた綿入れの胴着、その下に 晒木綿で縫われた汗取りを着用。
胴着は着付けをよく見せ、その下の晒木綿は 汗や汚れから装束を護る。
何十年、何百年と生き続けるものは 目に見えない使い方と手入れが支える。
なにが何でも 晒木綿の肌襦袢は上に着るものを守って働くということなのである。
ついこの間まで当たり前だったものが すぐにいとめづらし!になる昨今。
時折 繰り返さないと すっかり歴史物になってしまい、晒木綿のことはもはやめづらしとなった。
めづらしとは すばらしいとか、愛らしいとか、新鮮だとか 要は他にはめったにないとの賛美の語。
iPhonやiPadが普段の生活用品になり、科学の子のヒートテックが安価で求められると
晒しの肌襦袢も足袋も おめづらしい物になる。
三年前にはまだ、まだと思っていた 足袋やが閉じた事情の一つに原材料の問題がある。
開発された新素材が 既存のものを凌駕していく、このことを実感する複雑な酷暑の今夏だ。
なればこそ いまひと たび 晒の効用の一席!
ぱんぱぱっん!! ここで ハリ扇…
と なればハリ扇についても いづれ一席語らねば なぁ
以下 おさらいもかねて…
さらしもめんの下着は汗取りとして恰好の素材である。
晒しとは、綿や麻の布を日光や雨風に当て 繊維の持つ天然色素を抜いて 純白にしたもの。
吸湿性、通気性に富んだ晒綿布は万能選手だ。
先ず 手で裂くことが出来る。 長さも幅も調節能。
下締め、肌着から 紐、縄、布巾、三角巾、包帯等、等 …
常に一反 備えておけば 必ず役立つからと 三余堂夫人は 女学生時代の恩師に叩き込まれた
とのこと。

汗取りの仕事のために待機する晒と三余堂肌襦袢

この時期になると 一年分の 肌襦袢が仕上がってくる。
といっても下着を 畳紙 たとうに恭しく包んで 呉服屋さんが運んで来る訳ではない。
単に、子供が夏休の間に まとめて肌襦袢を縫っていた三余堂夫人の習慣である。
そもそも 三大天然素材のうちの一つの綿が 渡来した年代は不明で
万葉集などに見られる綿は 現在のワタ属の植物ではなさそうだ。
衣料作物としては麻のほうが先輩で、高温と、日照時間が長く必要な綿の生育は
日本では 簡単ではなかったろう。
15世紀後半に朝鮮から綿布が輸入されるようになり、16世紀には 明からの輸入が加わり
上流階級では木綿の着用が流行したそうである。
さらに南蛮貿易によって東南アジア諸国からも 木綿は入ってきた。
国内でも 16世紀になると木綿の栽培が始まったらしい。
その耐久性や 染色などの加工のし易さに、戦国時代の武士たちは
幕や旗差物、袴などの衣料に用いる。
三河などで始まった木綿栽培は、近畿、関東でも栽培されるようになったとか。
江戸初期には農民の着物も麻から木綿へとなっていく。
江戸も中期になると、各地で 銘柄木綿が産出されるようになる。
こうして絹、麻、綿 はその特質を生かして、 季節、身分、用途に合わせて 活躍するようになった。
てなことを記していた…
この年の7月に、九皐会で勤めた殺生石の前ジテで使用した装束の唐織は 享保年間のものであった。
能装束の下は 羽二重で作られた綿入れの胴着、その下に 晒木綿で縫われた汗取りを着用。
胴着は着付けをよく見せ、その下の晒木綿は 汗や汚れから装束を護る。
何十年、何百年と生き続けるものは 目に見えない使い方と手入れが支える。
なにが何でも 晒木綿の肌襦袢は上に着るものを守って働くということなのである。
投稿日 2010年08月01日 0:04:25
最終更新日 2010年08月01日 0:04:25
【修正】
2010年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
昨年の案内望遠鏡で 深海ワンダーの紹介をした。
涼を求めて 深海散策はなかなかのものであった。
それからしばらくして、可愛いペンギンとオーロラを見る 南極探検をした。
一年後は 宇宙へ飛び立つことに…
事業仕訳とはやぶさの帰還で何かと話題になったJAXAの仕事も垣間見ることができる。
深海ワンダーはキッズワンダーとなり、深海、南極、宇宙の探検となったのだ。
ゲームで楽しみながら学べる子ども向けの学習ウェブコンテンツを文部科学省が制作している。
子供たちが好奇心のまなざしを向け、学びのきっかけを提供することを目的としているというが、
大人も活用の価値あり。文部科学省のお仕事である。
同じく 文部科学省のお仕事。
今年が 国民読書年と御存じよりのお方はおられるかな!!!
手前 まぁ〜ったく 存じよらず。
国民読書年とは、2008年6月6日の衆議院・参議院での全会一致で
「国民読書年に関する決議」にもとづいて制定された。と。
決議では、深刻化する活字離れ、読書離れが危惧される昨今の状況を踏まえて、
文字・活字によって伝えられてきた知的遺産を継承・発展させるために、2010年を「国民読書年」に制定し、政官民協力の下で、国をあげてあらゆる努力を重ねることが宣言されているそうな… ふぅ〜む。
解ったような、分からぬような。
一応こんなサイトがある。
「国民読書年」云々のサイト、結局 辿り、たどりして チャレンジクイズ文化財ってな〜に?
に到着する。
文化財の定義やら 国宝の話やら きちんと確認しておくべきことがよく判る。
能を担う者として当然のことが、文化財の指定を受けていても案外不勉強なものである。
一度は目を通したい内容であった。これこそ 文部科学省のお仕事。
が、はたして 此処へどれだけの人がアクセスしているのか。
夏の暑中、まっ、キッズワンダーには勝てない。
鵞毛庵からも 一寸一言!
La plume d'oie (c)2006
深海ワンダーならぬ、ジュール・ヴェルヌ 「海底二万里」1870年初版の復刻版(ポケットサイズ) 鵞毛庵の蔵書である。
なんだか読書年にはぴったりかもしれない。ワクワクしながら子供の頃に日本語訳を読んだ方も多いのでは?
ちらりと背後に見えるのは海にちなんだ作品。
グラスの底に見える海、よォく覗き込むと...
Au fond des verres où l' on aperçoit la mer ,quand on se penche bien.....
涼を求めて 深海散策はなかなかのものであった。
それからしばらくして、可愛いペンギンとオーロラを見る 南極探検をした。
一年後は 宇宙へ飛び立つことに…
事業仕訳とはやぶさの帰還で何かと話題になったJAXAの仕事も垣間見ることができる。
深海ワンダーはキッズワンダーとなり、深海、南極、宇宙の探検となったのだ。
ゲームで楽しみながら学べる子ども向けの学習ウェブコンテンツを文部科学省が制作している。
子供たちが好奇心のまなざしを向け、学びのきっかけを提供することを目的としているというが、
大人も活用の価値あり。文部科学省のお仕事である。
同じく 文部科学省のお仕事。
今年が 国民読書年と御存じよりのお方はおられるかな!!!
手前 まぁ〜ったく 存じよらず。
国民読書年とは、2008年6月6日の衆議院・参議院での全会一致で
「国民読書年に関する決議」にもとづいて制定された。と。
決議では、深刻化する活字離れ、読書離れが危惧される昨今の状況を踏まえて、
文字・活字によって伝えられてきた知的遺産を継承・発展させるために、2010年を「国民読書年」に制定し、政官民協力の下で、国をあげてあらゆる努力を重ねることが宣言されているそうな… ふぅ〜む。
解ったような、分からぬような。
一応こんなサイトがある。
「国民読書年」云々のサイト、結局 辿り、たどりして チャレンジクイズ文化財ってな〜に?
に到着する。
文化財の定義やら 国宝の話やら きちんと確認しておくべきことがよく判る。
能を担う者として当然のことが、文化財の指定を受けていても案外不勉強なものである。
一度は目を通したい内容であった。これこそ 文部科学省のお仕事。
が、はたして 此処へどれだけの人がアクセスしているのか。
夏の暑中、まっ、キッズワンダーには勝てない。
鵞毛庵からも 一寸一言!
La plume d'oie (c)2006 深海ワンダーならぬ、ジュール・ヴェルヌ 「海底二万里」1870年初版の復刻版(ポケットサイズ) 鵞毛庵の蔵書である。
なんだか読書年にはぴったりかもしれない。ワクワクしながら子供の頃に日本語訳を読んだ方も多いのでは?
ちらりと背後に見えるのは海にちなんだ作品。
グラスの底に見える海、よォく覗き込むと...
Au fond des verres où l' on aperçoit la mer ,quand on se penche bien.....
投稿日 2010年07月01日 0:26:50
最終更新日 2010年07月01日 14:31:32
【修正】
2010年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
柳というと 〜昔こいしィ 銀座のやなぎ 〜 。
東京行進曲である。
西条八十作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子の唄である。 勿論、流行当時は三余堂存在せず。
日本の映画主題歌の第一号で、昭和4年に発売し25万枚のヒット。どういうわけか、小生口ずさめる。
最近、五月のはじめに銀座の柳祭りなるものを開催している。
その柳も今は緑濃く 衣替えの日を迎えた。
「道のべに清水流るゝ柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」 山家集・新古今集
と、ことに桜を愛でた西行が柳を詠んでいる。
室町の初め、西行の庵にある老木の桜を世阿弥が 「西行桜」という能にした。
室町後期に、観世小次郎信光(1435〜1516)は、西行の詠んだ柳を主題に「遊行柳」という能を作った。
La plume d'oie(c)鵞毛庵 2010 能の花シリーズ
遊行柳 道のべに清水流るゝ柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ
遊行上人(一遍上人)の教えを広めようとする僧が、老人と出会い、朽木の柳に案内される。
草の生い茂った古道を進むと、塚の上に柳の老木。昔西行が歌に詠んだ柳であると告げて消えた。
僧が、念仏を唱えると老翁が再び姿を現し、念仏への報謝の舞を心静かに舞う。
夜明けの風に目覚めた僧が目にしたのは、朽木の柳だった。
そのかみ洛陽や。清水寺のいにしえ。五色に見えし瀧波を。尋ねのぼりし水上に。
金色の光さす。朽木の柳たちまちに。楊柳観音と現れ。今に絶えせぬ跡とめて。
利生あらたなる。歩を運ぶ霊地なり。されば都の花盛り。大宮人の御遊にも。
蹴鞠の庭の面。四本の木蔭枝たれて。暮に数ある 沓の音。
柳桜をこきまぜて。錦をかざる諸人の。花やかなるや小簾の隙洩りくる風の匂いより。
手飼の虎の引綱も。ながき思に楢の葉の。その柏木の及びなき。恋路もよしなしや。
これは老いたる柳色の。狩衣も風折も。風にただよう足もとの。弱きもよしや老木の柳。
気力なうしてよわよわと。立ち舞うも夢人を。現と見るぞはかなき。
栃木県那須町芦野の国道沿いに とても朽木とは言い難い柳がある。 遊行柳ということだ。
何代も植え継がれてきたのだろう。
西行が訪れたという 言い伝えの地を芭蕉もたずねている。
「田一枚植えて立ち去る柳かな」 芭蕉
能 遊行柳での設定地は、白河の関を過ぎて程なくした所となっているので
現在の遊行柳がある場所ではない。 念のため …
西行の「道の辺……」、芭蕉の「田一枚…」さらに 蕪村の「柳散清水涸石處々」の句碑も並び、
観光客の名所となっているとか。
今週末5日 秋田の唐松能舞台で薪能公演 「遊行柳 」を勤める。
又、20日には「西行桜」を東京の国立能楽堂 能を知る会で勤める。
東京行進曲である。
西条八十作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子の唄である。 勿論、流行当時は三余堂存在せず。
日本の映画主題歌の第一号で、昭和4年に発売し25万枚のヒット。どういうわけか、小生口ずさめる。
最近、五月のはじめに銀座の柳祭りなるものを開催している。
その柳も今は緑濃く 衣替えの日を迎えた。
「道のべに清水流るゝ柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」 山家集・新古今集
と、ことに桜を愛でた西行が柳を詠んでいる。
室町の初め、西行の庵にある老木の桜を世阿弥が 「西行桜」という能にした。
室町後期に、観世小次郎信光(1435〜1516)は、西行の詠んだ柳を主題に「遊行柳」という能を作った。
La plume d'oie(c)鵞毛庵 2010 能の花シリーズ
遊行柳 道のべに清水流るゝ柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ
遊行上人(一遍上人)の教えを広めようとする僧が、老人と出会い、朽木の柳に案内される。
草の生い茂った古道を進むと、塚の上に柳の老木。昔西行が歌に詠んだ柳であると告げて消えた。
僧が、念仏を唱えると老翁が再び姿を現し、念仏への報謝の舞を心静かに舞う。
夜明けの風に目覚めた僧が目にしたのは、朽木の柳だった。
そのかみ洛陽や。清水寺のいにしえ。五色に見えし瀧波を。尋ねのぼりし水上に。
金色の光さす。朽木の柳たちまちに。楊柳観音と現れ。今に絶えせぬ跡とめて。
利生あらたなる。歩を運ぶ霊地なり。されば都の花盛り。大宮人の御遊にも。
蹴鞠の庭の面。四本の木蔭枝たれて。暮に数ある 沓の音。
柳桜をこきまぜて。錦をかざる諸人の。花やかなるや小簾の隙洩りくる風の匂いより。
手飼の虎の引綱も。ながき思に楢の葉の。その柏木の及びなき。恋路もよしなしや。
これは老いたる柳色の。狩衣も風折も。風にただよう足もとの。弱きもよしや老木の柳。
気力なうしてよわよわと。立ち舞うも夢人を。現と見るぞはかなき。
栃木県那須町芦野の国道沿いに とても朽木とは言い難い柳がある。 遊行柳ということだ。
何代も植え継がれてきたのだろう。
西行が訪れたという 言い伝えの地を芭蕉もたずねている。
「田一枚植えて立ち去る柳かな」 芭蕉
能 遊行柳での設定地は、白河の関を過ぎて程なくした所となっているので
現在の遊行柳がある場所ではない。 念のため …
西行の「道の辺……」、芭蕉の「田一枚…」さらに 蕪村の「柳散清水涸石處々」の句碑も並び、
観光客の名所となっているとか。
今週末5日 秋田の唐松能舞台で薪能公演 「遊行柳 」を勤める。
又、20日には「西行桜」を東京の国立能楽堂 能を知る会で勤める。
投稿日 2010年06月01日 0:17:05
最終更新日 2010年06月01日 0:17:35
【修正】
2010年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
上海国際博覧会が本日より 10月31日まで、中華人民共和国上海市の上海世博園で開かれる。
いわゆる 上海万博。
今も、太陽の塔の大阪万博は 鮮明な記憶の中に生きているし、沖縄海洋博というのもあった。
さほどのインパクトもなく過ぎたが、 愛知万博からは早くも五年が過ぎた。
上海博は愛知博に次ぐ大規模な国際博覧会で、テーマはより良い都市、より良い生活。
2002年に メキシコシティ、モスクワ、麗水、ヴロツワフを破り 上海万博開催が決定したそうである。
開催前の報道は 何かと話題騒然で …
上海には租界の時代があった。
1842年の南京条約で 開港した上海につくられた租界のことである。
英、米、仏がそれぞれ租界を設定し、後に英米の共同租界とフランスのフランス租界になったそうだ。
歴史に翻弄された 悲哀もあり、欧米の華やかさもありと 実に魅惑的な響きを持った上海。
1946年には上海にあったすべての租界は姿を消す。が、今なお租界時代の建築が残っている。
フランス租界ではやはり 5月1日に 鈴蘭は売られたのだろうか。
今日、フランスでは鈴蘭の日。風薫るフランスの五月を鵞毛庵が只今準備しているという。
以前はスズランの花ならぬ その日にちなんだチョコレートなどが パリから届いた。
日本ほどではないが 菓子屋もこんな時は商売に余念がなかったのであろう。
スズランはユリ科、スズラン属に属する多年草の総称である。
細かく見れば いろいろと種類があるようだが、君影草とか、谷間の姫百合とも云うそうだ。
根から、葉から全てに有毒物質があり、口にすると重症の場合は死に至る。
山菜として珍重されるギョウジャニンニクと似ている。
誤食し中毒症状を起こした話を聞いたことがあるし、スズランを活けた水を
誤って飲んで死亡した例もあるとか。
日本では在来種が高地に自生して、北海道を代表する花として知られる。
園芸店のものは ヨーロッパ原産のドイツスズランということで、花の香りが強い。
今年も三余堂夫人は 小さな鉢を おてんとうさまと程よい風を求めての移動をくりかえす。
5月1日開花をめざして。
まっ 無事にスズランは開花! 万博も…
つぼみができた 4月18日
咲くか 5月1日に! 4月27日
移動の効果か、何とか開花
いわゆる 上海万博。
今も、太陽の塔の大阪万博は 鮮明な記憶の中に生きているし、沖縄海洋博というのもあった。
さほどのインパクトもなく過ぎたが、 愛知万博からは早くも五年が過ぎた。
上海博は愛知博に次ぐ大規模な国際博覧会で、テーマはより良い都市、より良い生活。
2002年に メキシコシティ、モスクワ、麗水、ヴロツワフを破り 上海万博開催が決定したそうである。
開催前の報道は 何かと話題騒然で …
上海には租界の時代があった。
1842年の南京条約で 開港した上海につくられた租界のことである。
英、米、仏がそれぞれ租界を設定し、後に英米の共同租界とフランスのフランス租界になったそうだ。
歴史に翻弄された 悲哀もあり、欧米の華やかさもありと 実に魅惑的な響きを持った上海。
1946年には上海にあったすべての租界は姿を消す。が、今なお租界時代の建築が残っている。
フランス租界ではやはり 5月1日に 鈴蘭は売られたのだろうか。
今日、フランスでは鈴蘭の日。風薫るフランスの五月を鵞毛庵が只今準備しているという。
以前はスズランの花ならぬ その日にちなんだチョコレートなどが パリから届いた。
日本ほどではないが 菓子屋もこんな時は商売に余念がなかったのであろう。
スズランはユリ科、スズラン属に属する多年草の総称である。
細かく見れば いろいろと種類があるようだが、君影草とか、谷間の姫百合とも云うそうだ。
根から、葉から全てに有毒物質があり、口にすると重症の場合は死に至る。
山菜として珍重されるギョウジャニンニクと似ている。
誤食し中毒症状を起こした話を聞いたことがあるし、スズランを活けた水を
誤って飲んで死亡した例もあるとか。
日本では在来種が高地に自生して、北海道を代表する花として知られる。
園芸店のものは ヨーロッパ原産のドイツスズランということで、花の香りが強い。
今年も三余堂夫人は 小さな鉢を おてんとうさまと程よい風を求めての移動をくりかえす。
5月1日開花をめざして。
まっ 無事にスズランは開花! 万博も…
つぼみができた 4月18日

咲くか 5月1日に! 4月27日移動の効果か、何とか開花
投稿日 2010年05月01日 0:18:37
最終更新日 2010年05月01日 1:01:08
【修正】
2010年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
名代の面々による賑やかな出し物で 取り壊し直前の舞台を飾る歌舞伎座。
二月案内望遠鏡でふれた 三人吉三、 「厄払い」の名セリフが 四月の歌舞伎座に掛かる。
菊五郎丈の 「こいつぁはるからッ…」 「音羽屋ァッ !」 と。
そんな舞台は仕掛けの宝庫だ。
歌舞伎の舞台は中央の床を大きく丸く切り取り、その部分を回転させることができる。
廻る部分の前半分で芝居をしている間に、背中合せの後ろ半分で次の場面の設えをする。
180度回転させれば、別の場面だ。
二つの場を交互に見せたり、装置の転換を観客の目前で見て、場面転換の効果をさらに挙げる。
明治以降は、国内外の劇場でも見られるようになった。
歌舞伎独特の舞台機構は 舞台下の奈落で人力によって動かした。
たいした 発明だったのである。 それを 廻り舞台という。
廻り舞台とセリ
1758年 並木正三(なみきしょうざ)が独楽の回転から考案したという。
近松門左衛門や鶴屋南北、河竹黙阿弥などと比べて、耳慣れない狂言作者だった並木正三。
舞台装置の考案者として、歌舞伎史上 欠くことのできない名前なのだ。
東海道四谷怪談、いわゆるお岩さんの芝居や、平家女護島(へいけにょごのしま)、これは能にある
《俊寛》の芝居だが、幕切に舞台が廻って一面が大海原になり、岩の上にたたずむ俊寛の姿を強調する。
廻り舞台の真骨頂。
初期の歌舞伎の舞台は菱川師宣の屏風絵で 能舞台を模しているのが判る。
客席の中に張り出している本舞台、下手に伸びている橋掛り(はしがかり)。
舞台の両袖に桟敷席、周辺の土間で好きな場所に敷物を敷いて芝居を観る。
屋根は舞台と桟敷のみ。雨天中止だったという。 この頃の舞台は廻っていない。
差し詰め どっかの野球場だなぁ…
1858年に出たという錦絵を見ると 花道が客席の中を通り、客席全体に屋根がある。
享保9年、1724年に幕府から屋根の許可が出たそうで、瓦葺屋根の芝居小屋になった由。
そして、客席は土間から板張りの床になり、席も枡に仕切られる。
この頃は 舞台も廻るし、セリも上がり、一大スペクタクルを舞台で見せるようになっていく。
原型だった能舞台は。 もともとが寺社の境内などでの仮設の野外舞台。
橋掛リは舞台の真後ろに付いていたようで、今の配置は秀吉の時代になったようだ。
現在の能舞台とほぼ同じ形になったのは、江戸期元禄時代頃。
舞台と見所 (けんしょ) と呼ぶ客席とが1つの建物の中に収まる劇場形式になったのは、
明治14年に東京の芝公園内に建てられた能楽堂が最初。
能舞台 向かって左方が橋掛かり
能は、擦リ足の運びを見せるため、床材の吟味が厳しく、極上檜材。
根太の上に敷き並べ、小さな鎹 (かすがい) で裏からとめている。
水平に見える本舞台は、正面先に向かってわずかに低く傾斜し、橋掛リも
幕口へ向かって低い。
能舞台の床下は、その地面に穴を掘り、そこに一抱えほどの焼物の大瓶を置いた。
穴の数は本舞台に七つ、横板に二つ、橋掛リに三つまたは四つと。 瓶は音響のためと聞かされていた。
近年の科学的測定によると 残響を適度に保つためというより、瓶が余分な周波数成分を吸収するという。
ほどよい残響は 床下の地表を目の細かい土で覆い固める鏝叩キの技法によるものらしい。
廻り舞台が電動になるがごとく、近年築の能楽堂は コンクリート打ちの床下、音響は構造計算で考慮。
床下には舞台を廻す人もなく、音響の為の大瓶もなくなるということか…
二月案内望遠鏡でふれた 三人吉三、 「厄払い」の名セリフが 四月の歌舞伎座に掛かる。
菊五郎丈の 「こいつぁはるからッ…」 「音羽屋ァッ !」 と。
そんな舞台は仕掛けの宝庫だ。
歌舞伎の舞台は中央の床を大きく丸く切り取り、その部分を回転させることができる。
廻る部分の前半分で芝居をしている間に、背中合せの後ろ半分で次の場面の設えをする。
180度回転させれば、別の場面だ。
二つの場を交互に見せたり、装置の転換を観客の目前で見て、場面転換の効果をさらに挙げる。
明治以降は、国内外の劇場でも見られるようになった。
歌舞伎独特の舞台機構は 舞台下の奈落で人力によって動かした。
たいした 発明だったのである。 それを 廻り舞台という。
廻り舞台とセリ

1758年 並木正三(なみきしょうざ)が独楽の回転から考案したという。
近松門左衛門や鶴屋南北、河竹黙阿弥などと比べて、耳慣れない狂言作者だった並木正三。
舞台装置の考案者として、歌舞伎史上 欠くことのできない名前なのだ。
東海道四谷怪談、いわゆるお岩さんの芝居や、平家女護島(へいけにょごのしま)、これは能にある
《俊寛》の芝居だが、幕切に舞台が廻って一面が大海原になり、岩の上にたたずむ俊寛の姿を強調する。
廻り舞台の真骨頂。
初期の歌舞伎の舞台は菱川師宣の屏風絵で 能舞台を模しているのが判る。
客席の中に張り出している本舞台、下手に伸びている橋掛り(はしがかり)。
舞台の両袖に桟敷席、周辺の土間で好きな場所に敷物を敷いて芝居を観る。
屋根は舞台と桟敷のみ。雨天中止だったという。 この頃の舞台は廻っていない。
差し詰め どっかの野球場だなぁ…
1858年に出たという錦絵を見ると 花道が客席の中を通り、客席全体に屋根がある。
享保9年、1724年に幕府から屋根の許可が出たそうで、瓦葺屋根の芝居小屋になった由。
そして、客席は土間から板張りの床になり、席も枡に仕切られる。
この頃は 舞台も廻るし、セリも上がり、一大スペクタクルを舞台で見せるようになっていく。
原型だった能舞台は。 もともとが寺社の境内などでの仮設の野外舞台。
橋掛リは舞台の真後ろに付いていたようで、今の配置は秀吉の時代になったようだ。
現在の能舞台とほぼ同じ形になったのは、江戸期元禄時代頃。
舞台と見所 (けんしょ) と呼ぶ客席とが1つの建物の中に収まる劇場形式になったのは、
明治14年に東京の芝公園内に建てられた能楽堂が最初。
能舞台 向かって左方が橋掛かり 能は、擦リ足の運びを見せるため、床材の吟味が厳しく、極上檜材。
根太の上に敷き並べ、小さな鎹 (かすがい) で裏からとめている。
水平に見える本舞台は、正面先に向かってわずかに低く傾斜し、橋掛リも
幕口へ向かって低い。
能舞台の床下は、その地面に穴を掘り、そこに一抱えほどの焼物の大瓶を置いた。
穴の数は本舞台に七つ、横板に二つ、橋掛リに三つまたは四つと。 瓶は音響のためと聞かされていた。
近年の科学的測定によると 残響を適度に保つためというより、瓶が余分な周波数成分を吸収するという。
ほどよい残響は 床下の地表を目の細かい土で覆い固める鏝叩キの技法によるものらしい。
廻り舞台が電動になるがごとく、近年築の能楽堂は コンクリート打ちの床下、音響は構造計算で考慮。
床下には舞台を廻す人もなく、音響の為の大瓶もなくなるということか…
投稿日 2010年05月24日 16:55:36
最終更新日 2010年05月24日 16:55:49
【修正】
2010年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
何だこれは…
つんつんと細い針のような葉が 踏みつけられても致し方ないように、ちょこんと顔をだしている。
どうも これは昨秋に植えたものらしい。 いつ植えた…… 三余堂は植えてはいない。念のため。
春先の庭で 小さく土の上に花を咲かせるための球根が葉を出したのか。
とにかく草の間から細い葉が出て 花芽をつつんでいるというわけだ。
あぁ〜 クロッカスだな。
足元に見つけた
クロッカスは秋植えの球根で、子供の頃は ヒヤシンスとならべて 水栽培をしたものである。
水栽培用の透明な鉢で、根が伸びていく様を見ながらも 花が枯れるまで ことさら世話をした
記憶もない。
直径4cmくらいの球茎で、小さな玉葱だと言われれば、これまた そんなものか… と皮を剥きたくなる。
葉は細長く、花の終わった後も長く、ながく、見苦しく、伸びていたのを思い出す。
地中海沿岸から小アジアが原産地だというが、今年の雪に埋もれてもしっかりと芽を出している。
もっとも アルプスの山の麓一面に 野生のクロッカスの花が咲いている写真を見たことがある。
要は ほっておいても、寒くても、時期が来れば春を報せるということなのだろう。
地上すれすれのところに咲くと思われるこの庭の花は 何色だろうか。黄色か白か、あるいは薄紫か。
長く赤いめしべのサフラン
薄紫といえば 似たような花にサフランがある。
以前、クロッカスだ、と思いながら スパイスの本に見つけた。
日本へは江戸時代に薬として伝わった。生薬として、鎮静、鎮痛のために使われるという。
国内での栽培は、明治になってからで、今では大分県の竹田市の名産だ。
小さな花のめしべをひとつ、ひとつ、手で摘み取る作業をしている。
1キロのめしべを収穫するためには数万個の球根がいるというから まことに気の遠くなる話。
竹田産のサフランは、有効成分が国外産の数倍もあり、品質の高さは海外でも有名だとか。
独特の香りの長く赤いめしべは、水に溶かすと鮮やかな黄色になる。
料理のブイヤベースやのパエリアなどでみる、あの色だ。
紀元前からヨーロッパでは、めしべが香料や染料として利用されていたというし、
古代ギリシアではその黄色がロイヤルカラーとされた時代もあるそうだ。
そんな サフランは秋に咲く。
クロッカスは早春に咲く。春サフランとも云うそうである。が、観賞専用。
スパイスのサフランとは全くの別物。
似て非なるものは何事もご用心、これも念のため。
つんつんと細い針のような葉が 踏みつけられても致し方ないように、ちょこんと顔をだしている。
どうも これは昨秋に植えたものらしい。 いつ植えた…… 三余堂は植えてはいない。念のため。
春先の庭で 小さく土の上に花を咲かせるための球根が葉を出したのか。
とにかく草の間から細い葉が出て 花芽をつつんでいるというわけだ。
あぁ〜 クロッカスだな。
足元に見つけた

クロッカスは秋植えの球根で、子供の頃は ヒヤシンスとならべて 水栽培をしたものである。
水栽培用の透明な鉢で、根が伸びていく様を見ながらも 花が枯れるまで ことさら世話をした
記憶もない。
直径4cmくらいの球茎で、小さな玉葱だと言われれば、これまた そんなものか… と皮を剥きたくなる。
葉は細長く、花の終わった後も長く、ながく、見苦しく、伸びていたのを思い出す。
地中海沿岸から小アジアが原産地だというが、今年の雪に埋もれてもしっかりと芽を出している。
もっとも アルプスの山の麓一面に 野生のクロッカスの花が咲いている写真を見たことがある。
要は ほっておいても、寒くても、時期が来れば春を報せるということなのだろう。
地上すれすれのところに咲くと思われるこの庭の花は 何色だろうか。黄色か白か、あるいは薄紫か。
長く赤いめしべのサフラン

薄紫といえば 似たような花にサフランがある。
以前、クロッカスだ、と思いながら スパイスの本に見つけた。
日本へは江戸時代に薬として伝わった。生薬として、鎮静、鎮痛のために使われるという。
国内での栽培は、明治になってからで、今では大分県の竹田市の名産だ。
小さな花のめしべをひとつ、ひとつ、手で摘み取る作業をしている。
1キロのめしべを収穫するためには数万個の球根がいるというから まことに気の遠くなる話。
竹田産のサフランは、有効成分が国外産の数倍もあり、品質の高さは海外でも有名だとか。
独特の香りの長く赤いめしべは、水に溶かすと鮮やかな黄色になる。
料理のブイヤベースやのパエリアなどでみる、あの色だ。
紀元前からヨーロッパでは、めしべが香料や染料として利用されていたというし、
古代ギリシアではその黄色がロイヤルカラーとされた時代もあるそうだ。
そんな サフランは秋に咲く。
クロッカスは早春に咲く。春サフランとも云うそうである。が、観賞専用。
スパイスのサフランとは全くの別物。
似て非なるものは何事もご用心、これも念のため。
投稿日 2010年03月01日 1:31:24
最終更新日 2010年03月01日 1:31:24
【修正】
2010年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
月も朧に白魚の 篝(かがり)もかすむ 春の空
冷てえ風にほろ酔いの 心持ちよく うかうかと
浮かれ烏(がらす)のただ一羽 ねぐらへ帰る川端で
竿の雫か濡れ手で粟 思いがけなく 手にいる百両
(呼び声がする) おん厄払いましょう、厄おとし !
ほんに 今夜は 節分か
西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落とし
豆だくさんに一文の 銭と違って金包み
こいつぁ 春からっ 縁起が いいわえ
三人吉三廓初買(さんにんきちさ くるわの はつかい) 通称三人吉三巴白浪
若く美しい女装の泥棒、ご存知 お嬢吉三(おじょうきちざ)が、夜鷹を殺して百両奪った後の名文句。
「厄払い」と呼ばれるお嬢吉三のセリフである。江戸の節分の様を語っている。
その頃の江戸の湾の沖では、舟を浮かべて、篝火を焚き白魚を集めて漁をしていた。
ひとつの風物詩だったろう。
節分は 季節を分ける ということで、春夏秋冬 のすべてにある。
今では春だけを節分と呼ぶようになったが、大晦日という意味合いもあり、
鬼やらいの行事として豆まきが現在にも伝わっている。
そもそもは宮中での行事 儺(ついな)で、炒った豆で鬼をはらう風習があったそうだ。
狂言には まさに節分という曲がある。
節分の夜に、独りで留守番をしていた妻のところへ、蓬莱の島から鬼が来て
妻の気を引こうと、歌ったり、踊ったりと、悪戦苦闘。
がしかし、妻は鬼から隠れ蓑や隠れ傘を巻き上げて、終いには
「福は内へ!鬼は外へ!」と豆をぶつけて鬼を退散させるという話しである。
江戸時代、庶民に採り入れられたその行事は、当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したものを
戸口に立てたり、寺社で豆撒きをしたりするようになったという。
季節の変わり目には邪気、邪鬼が生じると考えられ、それを払ったのだ。
鬼の準備も怠りなく
さて、芝居の場面は節分の夜、満月に近い月の夜の大川端。
今の暦なら2月下旬か、海は霞が立ち春を少しばかり感じて、
冬から春への何とも言えない微妙な陽気が伝わってくる。
その頃は、年の数の豆と一緒に一銭、または十二銭を紙や古い褌に包んで、家の外に捨てたそうだ。
これを拾い歩きながら 「おん厄払いましょう」と言いつつ、厄払いの文章を言う人がいたという。
その声が聞こえたら豆と一文銭を外に投げたらしい。
で、 ほんに 今夜は… というセリフになる訳だ。
厄も夜鷹も西の果てに流して 拾った豆が百両なら こいつぁ… 春から !
ということである。
葛飾北斎は北斎漫画や北斎画譜に江戸時代の節分の様を描いている。
これには 追われる赤鬼、青鬼の反対側に、「福は内」の方も描かれていて、恵比寿と大黒の神様が
奥座敷で鯛をさかなに ちくと一杯。なかなか豪勢なものである。
今年は2月3日が節分。せいぜい 大声で鬼は外! というより、
三余堂、 福は内で鰯を肴にちくと一杯か。
煎り豆のつまみも なかなか おつで
冷てえ風にほろ酔いの 心持ちよく うかうかと
浮かれ烏(がらす)のただ一羽 ねぐらへ帰る川端で
竿の雫か濡れ手で粟 思いがけなく 手にいる百両
(呼び声がする) おん厄払いましょう、厄おとし !
ほんに 今夜は 節分か
西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落とし
豆だくさんに一文の 銭と違って金包み
こいつぁ 春からっ 縁起が いいわえ
三人吉三廓初買(さんにんきちさ くるわの はつかい) 通称三人吉三巴白浪
若く美しい女装の泥棒、ご存知 お嬢吉三(おじょうきちざ)が、夜鷹を殺して百両奪った後の名文句。
「厄払い」と呼ばれるお嬢吉三のセリフである。江戸の節分の様を語っている。
その頃の江戸の湾の沖では、舟を浮かべて、篝火を焚き白魚を集めて漁をしていた。
ひとつの風物詩だったろう。
節分は 季節を分ける ということで、春夏秋冬 のすべてにある。
今では春だけを節分と呼ぶようになったが、大晦日という意味合いもあり、
鬼やらいの行事として豆まきが現在にも伝わっている。
そもそもは宮中での行事 儺(ついな)で、炒った豆で鬼をはらう風習があったそうだ。
狂言には まさに節分という曲がある。
節分の夜に、独りで留守番をしていた妻のところへ、蓬莱の島から鬼が来て
妻の気を引こうと、歌ったり、踊ったりと、悪戦苦闘。
がしかし、妻は鬼から隠れ蓑や隠れ傘を巻き上げて、終いには
「福は内へ!鬼は外へ!」と豆をぶつけて鬼を退散させるという話しである。
江戸時代、庶民に採り入れられたその行事は、当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したものを
戸口に立てたり、寺社で豆撒きをしたりするようになったという。
季節の変わり目には邪気、邪鬼が生じると考えられ、それを払ったのだ。
鬼の準備も怠りなくさて、芝居の場面は節分の夜、満月に近い月の夜の大川端。
今の暦なら2月下旬か、海は霞が立ち春を少しばかり感じて、
冬から春への何とも言えない微妙な陽気が伝わってくる。
その頃は、年の数の豆と一緒に一銭、または十二銭を紙や古い褌に包んで、家の外に捨てたそうだ。
これを拾い歩きながら 「おん厄払いましょう」と言いつつ、厄払いの文章を言う人がいたという。
その声が聞こえたら豆と一文銭を外に投げたらしい。
で、 ほんに 今夜は… というセリフになる訳だ。
厄も夜鷹も西の果てに流して 拾った豆が百両なら こいつぁ… 春から !
ということである。
葛飾北斎は北斎漫画や北斎画譜に江戸時代の節分の様を描いている。
これには 追われる赤鬼、青鬼の反対側に、「福は内」の方も描かれていて、恵比寿と大黒の神様が
奥座敷で鯛をさかなに ちくと一杯。なかなか豪勢なものである。
今年は2月3日が節分。せいぜい 大声で鬼は外! というより、
三余堂、 福は内で鰯を肴にちくと一杯か。
煎り豆のつまみも なかなか おつで

投稿日 2010年02月01日 0:21:52
最終更新日 2010年02月01日 0:21:52
【修正】
2010年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
恭頌新禧

大晦日の夕方からの強い風がすっかり収まった年越しの空は 煌煌と輝く月、堂々と構えた
オリオンの星々が美しく辺りを照らす。
近隣の八幡宮への参拝者を整理する係の人の声で 年の明けたことを知る。
一寸 偵察に出て 八幡様の明かりを確認
たいして大声でもないのに 青梅街道を挟んで、 家々の屋根を越えて聞こえてくるのは、
空気が冷たく澄んでいるのだ。
三余堂前を 初詣に向かう人の声が響く。吐く息は白い。
手にした破魔矢の鈴の音は参詣帰りを告げ いよいよ 平成22年の始動である。
身の引き締まる空気の中で 玄関の正月飾りを見上げた。
ぅおぉ〜っ さぶぅっ! 迎えた年のお詣りは日が高くなってから…
寅の絵馬選びも おてんとうさまの下でしっかりと見定めんとしよう!
庚寅の歳 相変わりませず よろしく御付合いの程を願い上げます。 三余堂

大晦日の夕方からの強い風がすっかり収まった年越しの空は 煌煌と輝く月、堂々と構えた
オリオンの星々が美しく辺りを照らす。
近隣の八幡宮への参拝者を整理する係の人の声で 年の明けたことを知る。
一寸 偵察に出て 八幡様の明かりを確認

たいして大声でもないのに 青梅街道を挟んで、 家々の屋根を越えて聞こえてくるのは、
空気が冷たく澄んでいるのだ。
三余堂前を 初詣に向かう人の声が響く。吐く息は白い。
手にした破魔矢の鈴の音は参詣帰りを告げ いよいよ 平成22年の始動である。
身の引き締まる空気の中で 玄関の正月飾りを見上げた。
ぅおぉ〜っ さぶぅっ! 迎えた年のお詣りは日が高くなってから…
寅の絵馬選びも おてんとうさまの下でしっかりと見定めんとしよう!
庚寅の歳 相変わりませず よろしく御付合いの程を願い上げます。 三余堂
投稿日 2010年01月01日 3:42:13
最終更新日 2010年01月05日 0:49:05
【修正】
2009年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
12月6日 日曜日 午前7:15 NHKFMラジオ放送 能楽鑑賞 −観世流− 《鉢木》 を放送する。
この番組は 放送枠の移動はあったが一応、定期的に放送される唯一の能楽関連の時間で、
歴史も古い。
聴取者の要望に応えて 枠は残ったものの、長年の間に開始時間はじりじりと早くなっていく気がする。
要はリスナーからの メールが殺到すれば もっと聞きやすい時間帯になり、リクエストのファクシミリが
どんどん送られれば お気に入りの能楽師で、お好みの曲目が放送されるかもしれない。
全国の聴取者の御要望があればこそ!
現在ラジオは 普段聞き慣れている人にとっては 日常の友であり、分身のようなものであるという。
常に携帯し、朝から晩まで情報源として活用する。又、FM、AMと駆使して音楽や、スポーツを楽しむ。
今や、深夜のラジオは中高年がNHKに聞き入る。 そう、《ラジオ深夜便》である。
ラジオを手元に持たない人も多いことであろうが、 災害有事のためにも 是非一台!
そして、眠れぬ夜に、早朝目覚めた時に そっーと一人楽しむことが出来るラジオを貴方も一台!!
そもそもラジオとは 無線分野では、送受信技術全般を指している。
そして電波や無線や放射線を指す言葉である。
電波を使って、音声信号を、不特定多数のために放送する仕組みがラジオ放送だ。
最も歴史の古い振幅変調による中波放送の、基本的な方式は100年間も変わっていない。
現在でもラジオの主流である。この方式および受信機は一般に「AM放送」「AMラジオ」と呼ばれる。
また周波数変調による超短波ラジオ放送も広く聴取され、「FM放送」「FMラジオ」と呼ばれる。
てなことを、アマチュア無線の講習で聞いたような気がする。いや、聴いた筈である。
一応 三余堂はコールサインを取得して、電波利用料なる税金を納めている。
無線での音声放送(ラジオ)を世界で初めて実現したのはエジソンの会社の技師、フェッセンデンだった。
1906年12月24日に、アメリカ・マサチューセッツの自分の無線局から、世界初のラジオ放送。
自らのクリスマスの挨拶をラジオ放送したという。
フェッセンデン以後、実験・試験的なラジオ放送が世界各地で行われるようになる。
正式な放送は1920年にアメリカ・ペンシルベニアのピッツバーグで開始されたと言われる。
これはAM方式。
極長距離を伝送できる短波ラジオ放送を最初に行ったのはオランダの国営放送。
1927年に海外植民地向けに試験放送を開始。
翌1928年には当時オランダ領だったインドネシア・ジャワ島での受信に成功したという。
FM方式による放送はアメリカで1938年から試験的に開始。
2000年代に入って、地上デジタルラジオ放送が開始された。
今や、衛星放送も、インターネットラジオも始まっている。
日本初のラジオ放送は、1925年(大正14年)3月22日午前9時30分、
現在のNHK東京放送局が、東京・芝浦の東京高等工芸学校内に設けた仮送信所から発した。
第一声は
「アーアー、聞こえますか。(間)JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。
こんにち只今より放送を開始致します」 だったという。
「アーアー」は、聴取者が感度の良い部分に調節できるようにするための配慮なのだとか。
現在のラジオは ボタンでチャンネルを一発選局方式のものもある。
当時の受信機の性能に対して出力が弱かったため、東京市内でないとよく聴こえなかったそうだ。
同年の7月には現在の港区愛宕山の放送局からの本放送が、
継いで、大阪、名古屋と放送が始まる。
FM局は下って、1970年前後に多くが開局していった。
《能楽鑑賞》は AM局からFM局に引っ越しをしたように記憶する。
そして、より良い音質で放送されるようになった訳である。
6日の放送 《鉢木》は はてさて、どのような具合で音の波に乗りますやら。
2月三余堂月並のトピアリーに続いて鉢木ご鑑賞の一席御再読、おん願上げっ!
この番組は 放送枠の移動はあったが一応、定期的に放送される唯一の能楽関連の時間で、
歴史も古い。
聴取者の要望に応えて 枠は残ったものの、長年の間に開始時間はじりじりと早くなっていく気がする。
要はリスナーからの メールが殺到すれば もっと聞きやすい時間帯になり、リクエストのファクシミリが
どんどん送られれば お気に入りの能楽師で、お好みの曲目が放送されるかもしれない。
全国の聴取者の御要望があればこそ!
現在ラジオは 普段聞き慣れている人にとっては 日常の友であり、分身のようなものであるという。
常に携帯し、朝から晩まで情報源として活用する。又、FM、AMと駆使して音楽や、スポーツを楽しむ。
今や、深夜のラジオは中高年がNHKに聞き入る。 そう、《ラジオ深夜便》である。
ラジオを手元に持たない人も多いことであろうが、 災害有事のためにも 是非一台!
そして、眠れぬ夜に、早朝目覚めた時に そっーと一人楽しむことが出来るラジオを貴方も一台!!
そもそもラジオとは 無線分野では、送受信技術全般を指している。
そして電波や無線や放射線を指す言葉である。
電波を使って、音声信号を、不特定多数のために放送する仕組みがラジオ放送だ。
最も歴史の古い振幅変調による中波放送の、基本的な方式は100年間も変わっていない。
現在でもラジオの主流である。この方式および受信機は一般に「AM放送」「AMラジオ」と呼ばれる。
また周波数変調による超短波ラジオ放送も広く聴取され、「FM放送」「FMラジオ」と呼ばれる。
てなことを、アマチュア無線の講習で聞いたような気がする。いや、聴いた筈である。
一応 三余堂はコールサインを取得して、電波利用料なる税金を納めている。
無線での音声放送(ラジオ)を世界で初めて実現したのはエジソンの会社の技師、フェッセンデンだった。
1906年12月24日に、アメリカ・マサチューセッツの自分の無線局から、世界初のラジオ放送。
自らのクリスマスの挨拶をラジオ放送したという。
フェッセンデン以後、実験・試験的なラジオ放送が世界各地で行われるようになる。
正式な放送は1920年にアメリカ・ペンシルベニアのピッツバーグで開始されたと言われる。
これはAM方式。
極長距離を伝送できる短波ラジオ放送を最初に行ったのはオランダの国営放送。
1927年に海外植民地向けに試験放送を開始。
翌1928年には当時オランダ領だったインドネシア・ジャワ島での受信に成功したという。
FM方式による放送はアメリカで1938年から試験的に開始。
2000年代に入って、地上デジタルラジオ放送が開始された。
今や、衛星放送も、インターネットラジオも始まっている。
日本初のラジオ放送は、1925年(大正14年)3月22日午前9時30分、
現在のNHK東京放送局が、東京・芝浦の東京高等工芸学校内に設けた仮送信所から発した。
第一声は
「アーアー、聞こえますか。(間)JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。
こんにち只今より放送を開始致します」 だったという。
「アーアー」は、聴取者が感度の良い部分に調節できるようにするための配慮なのだとか。
現在のラジオは ボタンでチャンネルを一発選局方式のものもある。
当時の受信機の性能に対して出力が弱かったため、東京市内でないとよく聴こえなかったそうだ。
同年の7月には現在の港区愛宕山の放送局からの本放送が、
継いで、大阪、名古屋と放送が始まる。
FM局は下って、1970年前後に多くが開局していった。
《能楽鑑賞》は AM局からFM局に引っ越しをしたように記憶する。
そして、より良い音質で放送されるようになった訳である。
6日の放送 《鉢木》は はてさて、どのような具合で音の波に乗りますやら。
2月三余堂月並のトピアリーに続いて鉢木ご鑑賞の一席御再読、おん願上げっ!
投稿日 2009年12月01日 0:00:48
最終更新日 2009年12月01日 7:40:19
【修正】
2009年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
吉永小百合が佐渡へ旅するコマーシャルが盛んに流れていた。
「ここが今や、日本有数の能の島だと言ったら、彼はどんな顔をするでしょうか」
五十歳から行く大人の旅 JR東日本 と。
JR東日本 大人の休日倶楽部 TV-CM 佐渡の能篇 秋。 と、いうものらしい。
ゆっくりと 吉永小百合と佐渡を旅したい方、こちらで ご一緒に!
大化の改新以後に佐渡国が置かれたという。
古代から遠流の地だった。 順徳天皇、日蓮…
都からの流人が、その文化を伝え、西廻りの航路が、西日本や北陸の文化を伝えた。
そして貴族や武家、土地の者の文化が渾然となって、佐渡特有のものがつくられていく。
吉永小百合の言う 「彼はどんな顔をするでしょうか」 と問われているのは 世阿弥。
能の大成者、世阿弥が配流された島が佐渡であった。
何故 流されたか…
晩年、佐渡での世阿弥は瀬戸内寂聴著 『秘花』 新潮社刊 で思いを馳せることが出来る。
世阿弥は 12歳の時、将軍 足利義満の寵愛を後ろ盾に、頂点を極めた。
義満の死を境に、甥の音阿弥に地位を奪われ、長男の死、次男の出家。
そして自らは佐渡への流刑。いわれの 判らぬ流刑だった。
小説は佐渡へ向かう船中で、自らの前半生を振り返るところから始まる。
米も魚もよくとれ、水も豊富で、他者を受け入れるおおらかさがある佐渡の地。
そこでの 寂聴、世阿弥の晩年の世界が 展開する。
すぐれた能役者、能作者、能楽論書の著者であった世阿弥も、
百年たてば同時代の舞台を見た人は誰もいなくなることを意識していた。
だが、能の本は残る。「書いたものの命は強い」と語る世阿弥。
「私は死後も自分の小説が読まれるとは思っていません。けれども書いているうちに、世阿弥に自分を
重ねた部分はある。小説は結局、自分を書くものですから」と 瀬戸内寂聴。
杉本苑子著 『華の碑文』中央公論社刊 では世阿弥の生涯、平岩弓枝著 『獅子の座』 文芸春秋社刊 では足利義満の生涯を それぞれ義満、世阿弥を絡めて描いている。
秋の夜長に 三人の女性小説家による作品で、世阿弥の生きた時代を読み比べるのも一興。
「ここが今や、日本有数の能の島だと言ったら、彼はどんな顔をするでしょうか」
五十歳から行く大人の旅 JR東日本 と。
JR東日本 大人の休日倶楽部 TV-CM 佐渡の能篇 秋。 と、いうものらしい。
ゆっくりと 吉永小百合と佐渡を旅したい方、こちらで ご一緒に!
大化の改新以後に佐渡国が置かれたという。
古代から遠流の地だった。 順徳天皇、日蓮…
都からの流人が、その文化を伝え、西廻りの航路が、西日本や北陸の文化を伝えた。
そして貴族や武家、土地の者の文化が渾然となって、佐渡特有のものがつくられていく。
吉永小百合の言う 「彼はどんな顔をするでしょうか」 と問われているのは 世阿弥。
能の大成者、世阿弥が配流された島が佐渡であった。
何故 流されたか…
晩年、佐渡での世阿弥は瀬戸内寂聴著 『秘花』 新潮社刊 で思いを馳せることが出来る。
世阿弥は 12歳の時、将軍 足利義満の寵愛を後ろ盾に、頂点を極めた。
義満の死を境に、甥の音阿弥に地位を奪われ、長男の死、次男の出家。
そして自らは佐渡への流刑。いわれの 判らぬ流刑だった。
小説は佐渡へ向かう船中で、自らの前半生を振り返るところから始まる。
米も魚もよくとれ、水も豊富で、他者を受け入れるおおらかさがある佐渡の地。
そこでの 寂聴、世阿弥の晩年の世界が 展開する。
すぐれた能役者、能作者、能楽論書の著者であった世阿弥も、
百年たてば同時代の舞台を見た人は誰もいなくなることを意識していた。
だが、能の本は残る。「書いたものの命は強い」と語る世阿弥。
「私は死後も自分の小説が読まれるとは思っていません。けれども書いているうちに、世阿弥に自分を
重ねた部分はある。小説は結局、自分を書くものですから」と 瀬戸内寂聴。
杉本苑子著 『華の碑文』中央公論社刊 では世阿弥の生涯、平岩弓枝著 『獅子の座』 文芸春秋社刊 では足利義満の生涯を それぞれ義満、世阿弥を絡めて描いている。
秋の夜長に 三人の女性小説家による作品で、世阿弥の生きた時代を読み比べるのも一興。
投稿日 2009年11月01日 0:00:36
最終更新日 2009年11月01日 7:22:40
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2009年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
あちらも百年、こちらも百年、「100年記念の年」になると 昨年末三余堂月次《百萬》で書いた。
お陰さまで 全国各地で九皐会百周年の記念会は、無事進行中である。
むっ!もう一つ、百年があった。
今年三月には 早稲田大学の演劇博物館で
「世阿弥発見100年―吉田東伍と能楽研究の歩み―」と題する企画展をやっていた。
一般に世阿弥の秘伝書といわれるものは、「道のため、家のため」の書であった。
別に数百年もの間、土に埋まっていた訳でなく、自然の惠を人の手が丹精した
和紙と墨の力は、過去何千年と生き抜いた証明がある。
原本がすっかり朽ち果てるとは思えない。
室町から江戸の間は、能役者や一部の権力者、観世家、徳川家康などの大名家に秘蔵され、
人の目に触れることはなかったし、その必要もなかった。
が、御維新後、世の事情で顔を出した写本があったのだ。
明治41年に、『申楽談儀』 さるがくだんぎ を吉田東伍が翻刻・刊行し、その存在が初めて
広く知られることになった。
数百年間、伝説的であった世阿弥の姿を明らかにする大発見!
能の大成期について具体的に知ることができる貴重な『申楽談儀』は、世阿弥の芸談を子息の
元能が書き留めたものである。
どのような経緯か長い時を経て 実業家・安田善次郎の手元にあった伝書が、吉田東伍によって
翻刻・刊行され、一般の人の目に触れた。
数百年の間には勿論、それなりに、それなりの人が必要として、写本、写本、写本を繰り返す。。
なんたって 秘伝書。秘されれば 見なくちゃ、みなくっちゃっ!
スキャナー、コピーがあるわけでなし。
当然 加筆も、誤筆も、悪筆で訳の判らないものも出てこよう。
僕、ここだけでいいから、そっちは君写せば! ぅっわぁ〜 いいのぉ。でも、メンド!!
やっとの思いで 写本したら お茶をこぼして駄目にィってなことも … あるかもしれない!
吉田東伍の業績は 『申楽談儀』の存在を広く伝えることには寄与したが、書写を重ねた本を
底本としているし、欠損は他の写本で補ったりして厳密さを欠いたらしい。
その上、安田の手元にあった伝書は大正十二年の関東大震災によってすべて焼失!
とはいえ、吉田東伍が「能楽創始の根本史料」と記した如く、刊行した『世阿弥十六部集』は、
能楽研究の第一級資料として高く評価され、研究者による研究を生んで現在にいたる。
戦後は、表章が携わった岩波文庫版『申楽談儀』、『世阿弥 禅竹』で、いろいろな写本を
参照して原文を復原する試みを行っているので 興味のある御仁は 図書館ででも…。
書棚から引き出された『世阿弥 禅竹』
ツンドクでも結構ケースに焼けがあるなぁ…
10月10日から東大の駒場博物館で特別展
《観世家のアーカイブ ―世阿弥直筆本と能楽テクストの世界―》
と題した展示がある。
ここでも世阿弥と歴代の観世太夫に触れることができる。
文中敬称略
お陰さまで 全国各地で九皐会百周年の記念会は、無事進行中である。
むっ!もう一つ、百年があった。
今年三月には 早稲田大学の演劇博物館で
「世阿弥発見100年―吉田東伍と能楽研究の歩み―」と題する企画展をやっていた。
一般に世阿弥の秘伝書といわれるものは、「道のため、家のため」の書であった。
別に数百年もの間、土に埋まっていた訳でなく、自然の惠を人の手が丹精した
和紙と墨の力は、過去何千年と生き抜いた証明がある。
原本がすっかり朽ち果てるとは思えない。
室町から江戸の間は、能役者や一部の権力者、観世家、徳川家康などの大名家に秘蔵され、
人の目に触れることはなかったし、その必要もなかった。
が、御維新後、世の事情で顔を出した写本があったのだ。
明治41年に、『申楽談儀』 さるがくだんぎ を吉田東伍が翻刻・刊行し、その存在が初めて
広く知られることになった。
数百年間、伝説的であった世阿弥の姿を明らかにする大発見!
能の大成期について具体的に知ることができる貴重な『申楽談儀』は、世阿弥の芸談を子息の
元能が書き留めたものである。
どのような経緯か長い時を経て 実業家・安田善次郎の手元にあった伝書が、吉田東伍によって
翻刻・刊行され、一般の人の目に触れた。
数百年の間には勿論、それなりに、それなりの人が必要として、写本、写本、写本を繰り返す。。
なんたって 秘伝書。秘されれば 見なくちゃ、みなくっちゃっ!
スキャナー、コピーがあるわけでなし。
当然 加筆も、誤筆も、悪筆で訳の判らないものも出てこよう。
僕、ここだけでいいから、そっちは君写せば! ぅっわぁ〜 いいのぉ。でも、メンド!!
やっとの思いで 写本したら お茶をこぼして駄目にィってなことも … あるかもしれない!
吉田東伍の業績は 『申楽談儀』の存在を広く伝えることには寄与したが、書写を重ねた本を
底本としているし、欠損は他の写本で補ったりして厳密さを欠いたらしい。
その上、安田の手元にあった伝書は大正十二年の関東大震災によってすべて焼失!
とはいえ、吉田東伍が「能楽創始の根本史料」と記した如く、刊行した『世阿弥十六部集』は、
能楽研究の第一級資料として高く評価され、研究者による研究を生んで現在にいたる。
戦後は、表章が携わった岩波文庫版『申楽談儀』、『世阿弥 禅竹』で、いろいろな写本を
参照して原文を復原する試みを行っているので 興味のある御仁は 図書館ででも…。
書棚から引き出された『世阿弥 禅竹』

ツンドクでも結構ケースに焼けがあるなぁ…10月10日から東大の駒場博物館で特別展
《観世家のアーカイブ ―世阿弥直筆本と能楽テクストの世界―》
と題した展示がある。
ここでも世阿弥と歴代の観世太夫に触れることができる。
文中敬称略
投稿日 2009年10月01日 1:29:06
最終更新日 2009年10月01日 1:29:06
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カテゴリ : [案内望遠鏡]
この「能楽さんぽ」が La plume d'oie ラ•プリュム•ドワの兄妹サイトとして誕生したのが2006年10月。
「でもォ、アイツとじゃなぁ…」 と始めたこの 三余堂と鵞毛庵の能楽さんぽ は
また、歳を重ねることになった。 表紙の文面も 時移り事去り、そろそろ装束替えをと考えた。
ところが このサイトはそうそう手入れが出来ない代物と判明。
半年ごとのリモデル家電製品宜しく サイトの仕様も、どんどん時代遅れになっていく。
こちとらぁ 月に二度や三度のアップで、まだ三年っぱかりでぇ! と啖呵を切ったって始まらない。
簡単に 新装できないのは大した内容でもないのに小難しくタラタラ文章を並べず、
案内望遠鏡の意に沿って、視野広く対象の星を追跡しやすくするために主望遠鏡を助けるがごとく、
ご案内やらお知らせやら、訂正を掲載せよ、と 示唆されたわけだ。
そこで 表紙差替えのつもりで 改めてご挨拶を。
三余堂亭主が「能」についてのあれこれをお話しする「能楽さんぽ」が 鵞毛庵の
La plume d'oie ラ•プリュム•ドワの兄妹サイトとして誕生したのが2006年10月。
「でもォ、アイツとじゃなぁ…」 と始めた三余堂と鵞毛庵の能楽さんぽも、また、
歳を重ねることになりました。2009年は日本での活動を展開している鵞毛庵です。
当初、能に関する名所旧跡を訪ねるサイトだと思われた方もありましたが、アニハカランヤ!
能楽師と西洋の文字を綴って能を表しているカリグラファーとの 掛合漫才。
またまた、気儘なさんぽへ出ようと思います。
2009.10.01. 三余堂
「でもォ、アイツとじゃなぁ…」 と始めたこの 三余堂と鵞毛庵の能楽さんぽ は
また、歳を重ねることになった。 表紙の文面も 時移り事去り、そろそろ装束替えをと考えた。
ところが このサイトはそうそう手入れが出来ない代物と判明。
半年ごとのリモデル家電製品宜しく サイトの仕様も、どんどん時代遅れになっていく。
こちとらぁ 月に二度や三度のアップで、まだ三年っぱかりでぇ! と啖呵を切ったって始まらない。

簡単に 新装できないのは大した内容でもないのに小難しくタラタラ文章を並べず、
案内望遠鏡の意に沿って、視野広く対象の星を追跡しやすくするために主望遠鏡を助けるがごとく、
ご案内やらお知らせやら、訂正を掲載せよ、と 示唆されたわけだ。
そこで 表紙差替えのつもりで 改めてご挨拶を。
三余堂亭主が「能」についてのあれこれをお話しする「能楽さんぽ」が 鵞毛庵の
La plume d'oie ラ•プリュム•ドワの兄妹サイトとして誕生したのが2006年10月。
「でもォ、アイツとじゃなぁ…」 と始めた三余堂と鵞毛庵の能楽さんぽも、また、
歳を重ねることになりました。2009年は日本での活動を展開している鵞毛庵です。
当初、能に関する名所旧跡を訪ねるサイトだと思われた方もありましたが、アニハカランヤ!
能楽師と西洋の文字を綴って能を表しているカリグラファーとの 掛合漫才。
またまた、気儘なさんぽへ出ようと思います。
2009.10.01. 三余堂
投稿日 2009年10月01日 1:29:06
最終更新日 2009年10月01日 1:29:06
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2009年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
文房四宝、 ぶんぼうしほう は、筆紙墨硯の四つをさす。書にとっては 大切なお道具。
骨董価値を持つ硯、墨などは美術品として 精巧な彫のもの等が博物館のケースに
鎮座ましましているのを観る。 その硯でその墨を磨ると どんなことになるのやらん…
墨は、油煙や松煙などから取ったすすを膠で練り固めたもので、古代中国の甲骨文に
墨書の跡がある。
日本最古の墨書は、松阪市貝蔵遺跡で出土した土器にみられる。4世紀初頭という。
国内では奈良時代の後期、松の木片を燃焼させて煤を採取する 松煙墨が奈良県和束町で
作られたとされる。
油を燃した煤を膠で固めた 油煙墨の製造が始まったのは鎌倉時代である。
江戸時代は各地で製造されるようになったが、歴史と実績の奈良に職人が集まることとなり、
現在も奈良は墨の主要産地だ。墨製造見学が修学旅行のコースにも組まれている。
年月が経って乾燥した墨は、膠の分解が進むためにのびが良く、
墨色に立体感が出て、誠に宜しくなる!
ということだ… なにが誠によろしいのやら 使えば 違いがわかる ということか。 古墨と呼ぶ。
墨の原料は煤で、基本的に色は黒。
しかし 黒とっても 青墨、紫墨、茶墨などと色味の違いはある。
松煙墨は松の燃焼温度にむらがあるために 重厚な黒味から青灰色まで墨色に幅ができるらしい。
油煙墨の油は菜種が最適とされる。繋ぎとなる膠は 動物性のもので、いわゆる、コラーゲン。
骨や皮から抽出、高級品は鹿である。この膠、年と共に成分が変質して弱くなる。
こうして 膠が枯れてくるのだ。
ものの本によれば 年月を経ると膠が枯れ、滲みも増し、墨色表現が広がる、と。
枯れて、よくなる!!
お習字で丸をつけるのは朱墨。朱墨の原料は、鉱物として天然に採掘される辰砂だ。
朱の顔料や漢方薬の原料として珍重されていた。能の型を書き付ける時も この朱が入いる。
朱墨となじみの黒インク
明治31年、田口精爾が開明墨汁として、発明した墨汁で会社を興した。
現在の開明株式会社の創始者である。くしくも 矢来能楽堂近隣 牛込区築土八幡であった。
墨汁は天然の煤ではなく工業的に作られたカーボンを使っているものがある。
このカーボンは、コピー機などで使われるトナーと似た成分の場合があるらしい。インクである。
中国で開発された固形墨も黒色インクの一種になる。
各地域の初期文明でも 植物の実や種、鉱物、イカなどの海洋生物から
様々な色のインクが作り出された。
先日 鵞毛庵が 手製のインクを届けてくれた。
つけペンで文字を書くことは 日常の生活に馴染まなくなった。勿論 インク壺も机上にはなくなった。
が、せっかくの届け物。 試しにと ペン先とペン軸を引き出しの奥から探しあてる。
紙の上を走るペン先から生み出される文字は のびが良く、色に立体感が出て、誠に宜し!
引出奥の墨、墨、と手製のインク
9月11・12日は 鵞毛庵が代々木でインクづくりの講習会を開く。詳細はこちら。
骨董価値を持つ硯、墨などは美術品として 精巧な彫のもの等が博物館のケースに
鎮座ましましているのを観る。 その硯でその墨を磨ると どんなことになるのやらん…
墨は、油煙や松煙などから取ったすすを膠で練り固めたもので、古代中国の甲骨文に
墨書の跡がある。
日本最古の墨書は、松阪市貝蔵遺跡で出土した土器にみられる。4世紀初頭という。
国内では奈良時代の後期、松の木片を燃焼させて煤を採取する 松煙墨が奈良県和束町で
作られたとされる。
油を燃した煤を膠で固めた 油煙墨の製造が始まったのは鎌倉時代である。
江戸時代は各地で製造されるようになったが、歴史と実績の奈良に職人が集まることとなり、
現在も奈良は墨の主要産地だ。墨製造見学が修学旅行のコースにも組まれている。
年月が経って乾燥した墨は、膠の分解が進むためにのびが良く、
墨色に立体感が出て、誠に宜しくなる!
ということだ… なにが誠によろしいのやら 使えば 違いがわかる ということか。 古墨と呼ぶ。
墨の原料は煤で、基本的に色は黒。
しかし 黒とっても 青墨、紫墨、茶墨などと色味の違いはある。
松煙墨は松の燃焼温度にむらがあるために 重厚な黒味から青灰色まで墨色に幅ができるらしい。
油煙墨の油は菜種が最適とされる。繋ぎとなる膠は 動物性のもので、いわゆる、コラーゲン。
骨や皮から抽出、高級品は鹿である。この膠、年と共に成分が変質して弱くなる。
こうして 膠が枯れてくるのだ。
ものの本によれば 年月を経ると膠が枯れ、滲みも増し、墨色表現が広がる、と。
枯れて、よくなる!!
お習字で丸をつけるのは朱墨。朱墨の原料は、鉱物として天然に採掘される辰砂だ。
朱の顔料や漢方薬の原料として珍重されていた。能の型を書き付ける時も この朱が入いる。
朱墨となじみの黒インク

明治31年、田口精爾が開明墨汁として、発明した墨汁で会社を興した。
現在の開明株式会社の創始者である。くしくも 矢来能楽堂近隣 牛込区築土八幡であった。
墨汁は天然の煤ではなく工業的に作られたカーボンを使っているものがある。
このカーボンは、コピー機などで使われるトナーと似た成分の場合があるらしい。インクである。
中国で開発された固形墨も黒色インクの一種になる。
各地域の初期文明でも 植物の実や種、鉱物、イカなどの海洋生物から
様々な色のインクが作り出された。
先日 鵞毛庵が 手製のインクを届けてくれた。
つけペンで文字を書くことは 日常の生活に馴染まなくなった。勿論 インク壺も机上にはなくなった。
が、せっかくの届け物。 試しにと ペン先とペン軸を引き出しの奥から探しあてる。
紙の上を走るペン先から生み出される文字は のびが良く、色に立体感が出て、誠に宜し!
引出奥の墨、墨、と手製のインク
9月11・12日は 鵞毛庵が代々木でインクづくりの講習会を開く。詳細はこちら。
投稿日 2009年09月01日 0:16:15
最終更新日 2009年09月01日 12:04:48
【修正】
2009年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
近年の夏は 急激な天候の変化に過ごし辛く、思いもよらない災害に巻き込まれる。
ご苦労されている地域の方々に、お見舞い申し上げ、一刻も早い回復を願うばかりである。
今月の災害記事
なんとも遣る方なき様相、暦の上では一週間もすると秋になり、残暑を見舞う。
まだ 梅雨も明けやらぬ 処が多い中、暦の上では秋が来る。
立秋に至って 梅雨明けが無い時、梅雨明けなし ということらしいが。
暦は、時の流れを年、月、日といった単位に当てはめたものだ。
また それを記した暦表、カレンダーも暦と云っている。
月齢、日の出、日の入り、月の出、月の入りの時刻、汐の干満、行事、吉凶を記したものも暦。
七月三余堂月次・準備中のヒトコマ でも触れたが 処変れば 暦変わるで興味がつきない。
どちらも 気候、土地、生活、習慣、宗教 による 文化そのものの反映だ。
今日は何の日 が 大好きなのは日本人ばかりだろうか。
記念日の無い日はナイ!のである。
嘉吉3年 秋立つ頃、8月8日は 能の祖とされる世阿弥元清が没した日ということになっている。
西暦でいうと 1443年。
播磨守護であった赤松満祐が、将軍足利義教を自邸に招いて殺害した
という 嘉吉の乱は1441年。
赤松満祐は 能を催し、そこへ将軍を招いての事だという話もある。
芝居がかった設定とは言え、あながち無いとは云えぬ。
面をかけたシテの大夫。 が その実は… 手にする長刀振り廻し、狙うは将軍 足利義教 なりィ !
千恵蔵、はたまた歌右衛門の刺客が顔を出す… 東映時代劇の一シーンじゃぁ あるまいし。
当時の能の姿は どのようなものであったか、将軍家は 代々能がお気に入りだった。
その時すでに、世阿弥は佐渡に流されて6、7年を経過していた。
世阿弥は室町時代、将軍足利義満 の特別な庇護により、能を大成し、作品や能楽論書を著した。
晩年、後援者の足利義満没後は 台頭する次の世代、音阿弥元重に人気を奪われ
佐渡へ流されるなど と不遇であったが、詳細は不明のようである。
しかし、世阿弥の残した風姿花伝等の20を越える芸道理論書、
高砂、井筒、砧、融などの人気現行曲は めんめんと引き継がれて今日に至っている。
近年解説つきの番組、要するにプログラムに 世阿弥作と ことさら書かれることもあるが、
番組に 作者を記す習慣はない。
作者の名は見当たらない能の番組
寺社仏閣、全国各地を巡り 果てに遠流となった 芸人集団の統領 世阿弥。
古今東西 そんな人物の役目は如何に! まぁ これも東映時代劇かっ。
世阿弥は時代背景を手繰ると 誠に興味をそそられる人物である 。
まずまず この立秋は森羅万象穏やかなることを願って 流された佐渡の方へ向って 遥拝!
ご苦労されている地域の方々に、お見舞い申し上げ、一刻も早い回復を願うばかりである。
今月の災害記事

なんとも遣る方なき様相、暦の上では一週間もすると秋になり、残暑を見舞う。
まだ 梅雨も明けやらぬ 処が多い中、暦の上では秋が来る。
立秋に至って 梅雨明けが無い時、梅雨明けなし ということらしいが。
暦は、時の流れを年、月、日といった単位に当てはめたものだ。
また それを記した暦表、カレンダーも暦と云っている。
月齢、日の出、日の入り、月の出、月の入りの時刻、汐の干満、行事、吉凶を記したものも暦。
七月三余堂月次・準備中のヒトコマ でも触れたが 処変れば 暦変わるで興味がつきない。
どちらも 気候、土地、生活、習慣、宗教 による 文化そのものの反映だ。
今日は何の日 が 大好きなのは日本人ばかりだろうか。
記念日の無い日はナイ!のである。
嘉吉3年 秋立つ頃、8月8日は 能の祖とされる世阿弥元清が没した日ということになっている。
西暦でいうと 1443年。
播磨守護であった赤松満祐が、将軍足利義教を自邸に招いて殺害した
という 嘉吉の乱は1441年。
赤松満祐は 能を催し、そこへ将軍を招いての事だという話もある。
芝居がかった設定とは言え、あながち無いとは云えぬ。
面をかけたシテの大夫。 が その実は… 手にする長刀振り廻し、狙うは将軍 足利義教 なりィ !
千恵蔵、はたまた歌右衛門の刺客が顔を出す… 東映時代劇の一シーンじゃぁ あるまいし。
当時の能の姿は どのようなものであったか、将軍家は 代々能がお気に入りだった。
その時すでに、世阿弥は佐渡に流されて6、7年を経過していた。
世阿弥は室町時代、将軍足利義満 の特別な庇護により、能を大成し、作品や能楽論書を著した。
晩年、後援者の足利義満没後は 台頭する次の世代、音阿弥元重に人気を奪われ
佐渡へ流されるなど と不遇であったが、詳細は不明のようである。
しかし、世阿弥の残した風姿花伝等の20を越える芸道理論書、
高砂、井筒、砧、融などの人気現行曲は めんめんと引き継がれて今日に至っている。
近年解説つきの番組、要するにプログラムに 世阿弥作と ことさら書かれることもあるが、
番組に 作者を記す習慣はない。
作者の名は見当たらない能の番組

寺社仏閣、全国各地を巡り 果てに遠流となった 芸人集団の統領 世阿弥。
古今東西 そんな人物の役目は如何に! まぁ これも東映時代劇かっ。
世阿弥は時代背景を手繰ると 誠に興味をそそられる人物である 。
まずまず この立秋は森羅万象穏やかなることを願って 流された佐渡の方へ向って 遥拝!
投稿日 2009年08月12日 7:34:32
最終更新日 2009年08月12日 7:34:34
【修正】
2009年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
2006年秋の初見参以来 三余堂月次の補いにと始めた毎月一日の 案内望遠鏡の項。
案内望遠鏡 とはguiding telescope。
写真撮影用の望遠鏡に平行に取り付けてある望遠鏡で、視野広く対象星を
追跡し易くするために添えたものということである。 と、
紹介しながら、 一方でその補いが 反って 邪魔をしているかもしれない、とも書いた。
勝手なことを言いながら ほとんど能楽さんぽは 毎月、あらぬ方へのさんぽになる。
ご案内! ということであれば まぁ 何でもご案内申し上げるということで…
先日 岩田いくま杉並区議のメールマガジンで サイトの紹介があった。
文部科学省のホームページで 開設1ヶ月、17万件のアクセスを記録した
深海ワンダーなるものだ。
最近は啓発や教育を目的として 動画を活用したり、インターネットテレビで配信したりと
官公庁が 企画制作会社と作り上げた作品がいろいろとあるということは 何となく承知している。
ご時世だなぁ〜 と云ったって そうそう誰もがパソコンを使いこなしている訳でもなし、
と 複雑な思いで 深海ワンダー を覗く。
潜水調査船「深海ワンダー号」で、人工頭脳「ジュール」をパートナーとして、深海探検の旅に出発。
要は ゲーム。と 侮ることなかれ。
世界に誇る日本の深海研究の現状、文部科学省の果たしている役割などについて
理解が出来るようにと作成したものというが、老若男女、それぞれの立場で 一見の価値あり。
内容のご案内より 先ず ちとご覧ナれ。
この うっとうしい季節に 涼を呼ぶ。
深海ワンダー
http://www.mext.go.jp/wonder/
案内望遠鏡 とはguiding telescope。
写真撮影用の望遠鏡に平行に取り付けてある望遠鏡で、視野広く対象星を
追跡し易くするために添えたものということである。 と、
紹介しながら、 一方でその補いが 反って 邪魔をしているかもしれない、とも書いた。
勝手なことを言いながら ほとんど能楽さんぽは 毎月、あらぬ方へのさんぽになる。
ご案内! ということであれば まぁ 何でもご案内申し上げるということで…
先日 岩田いくま杉並区議のメールマガジンで サイトの紹介があった。
文部科学省のホームページで 開設1ヶ月、17万件のアクセスを記録した
深海ワンダーなるものだ。
最近は啓発や教育を目的として 動画を活用したり、インターネットテレビで配信したりと
官公庁が 企画制作会社と作り上げた作品がいろいろとあるということは 何となく承知している。
ご時世だなぁ〜 と云ったって そうそう誰もがパソコンを使いこなしている訳でもなし、
と 複雑な思いで 深海ワンダー を覗く。
潜水調査船「深海ワンダー号」で、人工頭脳「ジュール」をパートナーとして、深海探検の旅に出発。
要は ゲーム。と 侮ることなかれ。
世界に誇る日本の深海研究の現状、文部科学省の果たしている役割などについて
理解が出来るようにと作成したものというが、老若男女、それぞれの立場で 一見の価値あり。
内容のご案内より 先ず ちとご覧ナれ。
この うっとうしい季節に 涼を呼ぶ。
深海ワンダー
http://www.mext.go.jp/wonder/
投稿日 2009年07月01日 14:46:00
最終更新日 2009年07月01日 14:46:00
【修正】
2009年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
仏教で 釈迦入滅のときの伝説によって聖木とされる 沙羅の木。
釈尊涅槃の際、東西南北に生えていて時ならぬ花を咲かせたと伝えられる木。
二本づつあった為に双樹、沙羅双樹、裟羅双樹と云われる木。
インド北部が原産で 日本では温室でなければ育たないという木。
よって 日本でいうところの 沙羅の木は ツバキ科のナツツバキということらしい。
茶花として 白く清楚な花が軸に添って飾られる。 朝に開花し、夕方には落花する一日花。
祗園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色
盛者必滅の理をあらはす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
てなわけで この沙羅双樹の花の色は 夏椿のことのようである。
名の如く 花は椿によく似た姿をもつが 秋には薄く、やわらかなその葉は 紅葉して散る。
初夏、 “ボッサッッ…” と 音ともならぬ気配が 落花の時を告げる。
この時期になると、国立能楽堂の中庭には 大きく育った夏椿、沙羅の木が見事な白い花をつけ、
それはみごとな落ちっぷりである。
本来の沙羅双樹は インドの高地などに生える高木の 二葉柿(フタバガキ)科のサラノキ。
こちらが お釈迦様入滅ゆかりの木で、葉の1枚が20センチにもなり、花は小さな房状で芳香あり。
インドのお釈迦様も日本でお釈迦様になると 花木も天竺風から和風へ となるってことで。
和風の沙羅の木には 伊豆半島より以西の山地に自生するという 花や葉の小振りなものがある。
花は梅花ほどの大きさで 姫沙羅という。 庭木や盆栽などでも栽培されている。
箱根にはヒメシャラ林がある。 神奈川県の天然記念物に指定されていることを知った。
以前、三余堂には 夏椿と姫沙羅が それぞれ双樹となって配していた。
日当たりの具合か、今 沙羅双樹は沙羅無樹となり、姫沙羅一本のみが独特の木肌をみせている。
葉は 重なり合いながらも 緑の紗をかけたように日の光を透し、
白い小振りの五弁の花が 黄色のしべを包む。
“ボッサッッ…” という 落花の気配は 姫 というには驚くほどの大きさで 陽の傾きを知らせる。
また、あしたに新しい花を咲かせる為に 本日の了を告げる ということか。
姫沙羅
独特の木肌
葉が陽を透かして
釈尊涅槃の際、東西南北に生えていて時ならぬ花を咲かせたと伝えられる木。
二本づつあった為に双樹、沙羅双樹、裟羅双樹と云われる木。
インド北部が原産で 日本では温室でなければ育たないという木。
よって 日本でいうところの 沙羅の木は ツバキ科のナツツバキということらしい。
茶花として 白く清楚な花が軸に添って飾られる。 朝に開花し、夕方には落花する一日花。
祗園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色
盛者必滅の理をあらはす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
てなわけで この沙羅双樹の花の色は 夏椿のことのようである。
名の如く 花は椿によく似た姿をもつが 秋には薄く、やわらかなその葉は 紅葉して散る。
初夏、 “ボッサッッ…” と 音ともならぬ気配が 落花の時を告げる。
この時期になると、国立能楽堂の中庭には 大きく育った夏椿、沙羅の木が見事な白い花をつけ、
それはみごとな落ちっぷりである。
本来の沙羅双樹は インドの高地などに生える高木の 二葉柿(フタバガキ)科のサラノキ。
こちらが お釈迦様入滅ゆかりの木で、葉の1枚が20センチにもなり、花は小さな房状で芳香あり。
インドのお釈迦様も日本でお釈迦様になると 花木も天竺風から和風へ となるってことで。
和風の沙羅の木には 伊豆半島より以西の山地に自生するという 花や葉の小振りなものがある。
花は梅花ほどの大きさで 姫沙羅という。 庭木や盆栽などでも栽培されている。
箱根にはヒメシャラ林がある。 神奈川県の天然記念物に指定されていることを知った。
以前、三余堂には 夏椿と姫沙羅が それぞれ双樹となって配していた。
日当たりの具合か、今 沙羅双樹は沙羅無樹となり、姫沙羅一本のみが独特の木肌をみせている。
葉は 重なり合いながらも 緑の紗をかけたように日の光を透し、
白い小振りの五弁の花が 黄色のしべを包む。
“ボッサッッ…” という 落花の気配は 姫 というには驚くほどの大きさで 陽の傾きを知らせる。
また、あしたに新しい花を咲かせる為に 本日の了を告げる ということか。
姫沙羅

独特の木肌

葉が陽を透かして
投稿日 2009年06月06日 19:55:40
最終更新日 2009年06月06日 19:55:57
【修正】
2009年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
住宅地の中に 見たカリンの畑。
以前は農地だったであろう処が 緑地として残すためか 今はカリンが植えられている。
カリンの前は 芋か何かの作物だったこともあった。
その前は 栄養たっぷりの色をした土が小山のように積み上がっていた。
四月に満開だったカリンのその後は 陽の光にかがやく葉をたたえ 実を結ぶ序章。
かりんの向こうに満開のもも 三月下旬の様子
カリンの花
新緑のカリン 低木に剪定
バラ科の植物と知ると、 なるほど 同じバラ科のボケの花に似ている。
低木に花をつけたカリンは馴染がなかったので 初めは何の木かと 訝しく思った。
そのうちに 楕円形の黄色い大きな実を見た。 ほぉー カリンかぁ 〜
きれいに剪定された低木には不釣り合いな 大きな、おおきな 実がなっていた。
10月も下旬 芳しい香りがする。
秋になる実は ビタミCなど 咳や痰、喉の炎症に効く成分があるという。
生食には御世辞にも向かない 堅さと、渋み。
これが砂糖漬けやジャム、果実酒になるのだから 不思議なもンだ 。
ちなみに 小麦粉、砂糖、水、食塩、重曹などを練って 棒状にして油で揚げ、
黒砂糖などの蜜でからめて乾燥させた菓子は カリンの砂糖漬けのことではない。
かりんとう、花梨糖 という菓子は全く別物なのでご注意のほど。
大きな実がいくつかに割られ、ぷかぷかと焼酎に浮かんだカリンは 飴色の酒になって
喉に良いと 風邪の季節に台所の床下から登場する。
渋みが抜けて 甘い。 別に旨いものではない。
要するに 薬ということで ウマいからクウ というものではない。
生薬ということは 毒にもなるということで種は気をつけろ といわれている。
花もきれい、葉の緑も紅葉も美しく、芳しい香りの大きな実、 とくれば お次は 毒だなぁ…
吹く風にあたっただけで死んでしまう 附子(ぶす) という毒が入っているから絶対に近づくなと
太郎冠者、次郎冠者に言って 出かけた主人が、隠していた砂糖をすっかり 彼らに食われてしまう、
という狂言がある。
曲名 附子。 五月九皐会で野村萬蔵師が勤める。
当時の貴重品 砂糖を猛毒のブス だと言った主人。
この 附子は トリカブトの根の毒のことで 四谷怪談のお岩さんが飲まされたのも これだとか。
勿論 この附子、生薬で用法によっては 我らもお世話になっているわけだ。
まっ、 どの道、お里の知れないものは 遠くからそっーと 愛でているのも選択肢 !
以前は農地だったであろう処が 緑地として残すためか 今はカリンが植えられている。
カリンの前は 芋か何かの作物だったこともあった。
その前は 栄養たっぷりの色をした土が小山のように積み上がっていた。
四月に満開だったカリンのその後は 陽の光にかがやく葉をたたえ 実を結ぶ序章。
かりんの向こうに満開のもも 三月下旬の様子

カリンの花新緑のカリン 低木に剪定
バラ科の植物と知ると、 なるほど 同じバラ科のボケの花に似ている。
低木に花をつけたカリンは馴染がなかったので 初めは何の木かと 訝しく思った。
そのうちに 楕円形の黄色い大きな実を見た。 ほぉー カリンかぁ 〜
きれいに剪定された低木には不釣り合いな 大きな、おおきな 実がなっていた。
10月も下旬 芳しい香りがする。
秋になる実は ビタミCなど 咳や痰、喉の炎症に効く成分があるという。
生食には御世辞にも向かない 堅さと、渋み。
これが砂糖漬けやジャム、果実酒になるのだから 不思議なもンだ 。
ちなみに 小麦粉、砂糖、水、食塩、重曹などを練って 棒状にして油で揚げ、
黒砂糖などの蜜でからめて乾燥させた菓子は カリンの砂糖漬けのことではない。
かりんとう、花梨糖 という菓子は全く別物なのでご注意のほど。
大きな実がいくつかに割られ、ぷかぷかと焼酎に浮かんだカリンは 飴色の酒になって
喉に良いと 風邪の季節に台所の床下から登場する。
渋みが抜けて 甘い。 別に旨いものではない。
要するに 薬ということで ウマいからクウ というものではない。
生薬ということは 毒にもなるということで種は気をつけろ といわれている。
花もきれい、葉の緑も紅葉も美しく、芳しい香りの大きな実、 とくれば お次は 毒だなぁ…
吹く風にあたっただけで死んでしまう 附子(ぶす) という毒が入っているから絶対に近づくなと
太郎冠者、次郎冠者に言って 出かけた主人が、隠していた砂糖をすっかり 彼らに食われてしまう、
という狂言がある。
曲名 附子。 五月九皐会で野村萬蔵師が勤める。
当時の貴重品 砂糖を猛毒のブス だと言った主人。
この 附子は トリカブトの根の毒のことで 四谷怪談のお岩さんが飲まされたのも これだとか。
勿論 この附子、生薬で用法によっては 我らもお世話になっているわけだ。
まっ、 どの道、お里の知れないものは 遠くからそっーと 愛でているのも選択肢 !
投稿日 2009年05月01日 14:09:42
最終更新日 2009年05月01日 14:09:42
【修正】
2009年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
正確な文字数が把握できる升目に、一字一字を書込む原稿用紙。
日本語の文章を書くために誂えた用紙である。小学校の作文の時間からの馴染だ。
通常用いられる原稿用紙は400字詰と200字詰の二種類で、1行を20字。
升目は正方形に近いかたちにつくられ、行と行との間に振仮名、傍点を記入しやすいように
ある程度の余白がある。行間の余白を取らず横長の升目のものもある。
老舗の原稿用紙を使って文章をしたためると、 ちょっとした文士気分で作文も上等になるかと…
あぁ 勘違いも甚だしい限りだが、名入りの原稿用紙には憧れたものだ。
原稿用紙の起源は、隠元禅師でご存じの黄檗宗が 経典の版木をつくるに当たって、
縦一行の字数を20字横10行と定め、これを1頁と定めたことによるらしい。
要するに、明朝風の出版活動が我が国に置いて活発に展開された産物 ということで 新聞活字の
明朝体もこの時の名残だということである.。
その後も 原稿用紙は、頼山陽が『日本外史』を記すのに用いた升目様の用紙であったとか、
400字詰様式の起源はやれなんだとか、あるようだ。
一字一字を区切った用紙は漢文を記す為に、適したものと深い関係があろう。
明治になってからは 活版印刷が一般的になる中で、新聞・雑誌などに原稿を掲載する際、
字数が正確に計れることが 最重要視されたことも関係する。
書かれたものの 分量の単位として原稿用紙換算が利用されている為か、日本語ワープロソフトには
原稿用紙のフォーマットがテンプレートとして入っている。 ネット検索をすると
原稿用紙のダウンロードができます! の文字が溢れるように出てくる。
作家の丹羽文雄お気に入りの満寿屋の原稿用紙。
大切な目と万年筆の保護に、永久保存の効く中性紙使用と説明書きにあり
書くために生まれてきたその書き味をぜひ一度お試しください、ともある。
洋紙の原稿用紙は相馬屋から というのは相馬屋源四郎商店 。
明治中期に和半紙だった原稿用紙を 尾崎紅葉の助言で洋紙にして売り出した。
夏目漱石、北原白秋、石川啄木、坪内逍遥といった文豪たちにご愛用頂きました、と言われては
末は 芥川賞か、直木賞。はたまた 本屋大賞か。使わずばなるまい。
名入れ百冊単位でお受けします!
文士じゃあるまいし… 学校の作文の時間にはもったいねぇ。
勿論 銀座の伊東屋にも特製の原稿用紙はある。
利用者の便宜、製作者のこだわりなど さまざまな飾りやデザインで工夫が凝らされている
原稿用紙。
好事家はどこにも居られるもので ○○紙店、××屋、と駆けずり回って いろいろと楽しむ。
原稿用紙を売る老舗店。どちらも 付近は文芸の香りを味わえる。
文士の利用した旅館、編集者と打ち合せに使った洋食堂のあと、わいわいと集まった飲み屋。
神楽坂の相馬屋までちょっと 用足しに行けばそんな気になれる。 か… ?
矢来能楽堂で観能の節は御立ちよりも。 ただし 日曜は定休なり。
日曜の夕暮れ相馬屋
日本語の文章を書くために誂えた用紙である。小学校の作文の時間からの馴染だ。
通常用いられる原稿用紙は400字詰と200字詰の二種類で、1行を20字。
升目は正方形に近いかたちにつくられ、行と行との間に振仮名、傍点を記入しやすいように
ある程度の余白がある。行間の余白を取らず横長の升目のものもある。
老舗の原稿用紙を使って文章をしたためると、 ちょっとした文士気分で作文も上等になるかと…
あぁ 勘違いも甚だしい限りだが、名入りの原稿用紙には憧れたものだ。
原稿用紙の起源は、隠元禅師でご存じの黄檗宗が 経典の版木をつくるに当たって、
縦一行の字数を20字横10行と定め、これを1頁と定めたことによるらしい。
要するに、明朝風の出版活動が我が国に置いて活発に展開された産物 ということで 新聞活字の
明朝体もこの時の名残だということである.。
その後も 原稿用紙は、頼山陽が『日本外史』を記すのに用いた升目様の用紙であったとか、
400字詰様式の起源はやれなんだとか、あるようだ。
一字一字を区切った用紙は漢文を記す為に、適したものと深い関係があろう。
明治になってからは 活版印刷が一般的になる中で、新聞・雑誌などに原稿を掲載する際、
字数が正確に計れることが 最重要視されたことも関係する。
書かれたものの 分量の単位として原稿用紙換算が利用されている為か、日本語ワープロソフトには
原稿用紙のフォーマットがテンプレートとして入っている。 ネット検索をすると
原稿用紙のダウンロードができます! の文字が溢れるように出てくる。
作家の丹羽文雄お気に入りの満寿屋の原稿用紙。
大切な目と万年筆の保護に、永久保存の効く中性紙使用と説明書きにあり
書くために生まれてきたその書き味をぜひ一度お試しください、ともある。
洋紙の原稿用紙は相馬屋から というのは相馬屋源四郎商店 。
明治中期に和半紙だった原稿用紙を 尾崎紅葉の助言で洋紙にして売り出した。
夏目漱石、北原白秋、石川啄木、坪内逍遥といった文豪たちにご愛用頂きました、と言われては
末は 芥川賞か、直木賞。はたまた 本屋大賞か。使わずばなるまい。
名入れ百冊単位でお受けします!

文士じゃあるまいし… 学校の作文の時間にはもったいねぇ。
勿論 銀座の伊東屋にも特製の原稿用紙はある。

利用者の便宜、製作者のこだわりなど さまざまな飾りやデザインで工夫が凝らされている
原稿用紙。
好事家はどこにも居られるもので ○○紙店、××屋、と駆けずり回って いろいろと楽しむ。
原稿用紙を売る老舗店。どちらも 付近は文芸の香りを味わえる。
文士の利用した旅館、編集者と打ち合せに使った洋食堂のあと、わいわいと集まった飲み屋。
神楽坂の相馬屋までちょっと 用足しに行けばそんな気になれる。 か… ?
矢来能楽堂で観能の節は御立ちよりも。 ただし 日曜は定休なり。
日曜の夕暮れ相馬屋

投稿日 2009年04月03日 7:41:26
最終更新日 2009年04月03日 7:42:39
【修正】
2009年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]

よそさんの前を御免下さいまし!
こんな親子が三余堂への行きに見送り、帰りに出迎える。
風流な御仁が設えた物だ。
身の丈 1メートル50はあるか信楽たぬき。
福々とした狸殿、編み笠を被り少し首をかしげながら徳利と通帳を持って立っている。
信楽焼<しがらきやき>は、滋賀県は忍者の里 甲賀市の信楽町を中心に作られる陶磁器。
狸の置物と言えば信楽と思っている。
常滑や備前、清水などでも焼かれている徳利片手の狸だが
大狸の信楽焼置物は比較的歴史が浅いのには驚いた。
信楽では 幕末に狸の置物を造っていた記録があるというが、あの大きいのになったのは
明治以降、の作家によるものが最初らしい。
戦後、昭和天皇が信楽へ行幸の際
をさなどき あつめしからになつかしも 信楽焼の狸をみれば
と狸たちに歓迎されたことを歌に詠まれた。
このことで 恐れ多くも、信楽の狸が全国に知られるようになったという。
「他を抜く」と書いてたぬき、よそ様を抜くということに通じるので 商売繁盛とばかりに
店の軒先に置かれることが多いという訳だ。 ご縁起物。
香合に掛軸と 茶席にも登場する気取った狸もいるし、昔話に登場して人を化かすのもいる。
憎めない その図々しさに親しみを感じるのか。
音曲から落語まで取り上げられる話題のつきない存在である。
2月の鉢木が講談仕立なら 次は落語の一席で「狸」といきたいところである。
えぇーっ 先代の小さんは その風貌から狸に似ていると云われましてぇ、
お頼まれしますってぇと 色紙などにもよく狸の絵を描きまして…。
一門はたぬきの噺をすると たぬきの料簡になれ!と教わったもんでございます。
たぬきの料簡 とはなんぞや… えぇーっ キツネは七化け、たぬきは八化け ともうしまして〜
若い噺家の枕の受売りだ。
いろいろあるたぬきの噺は とどのつまり 助けられた御礼話である。
劇作家の宇野信夫氏が そんな噺から 霜夜狸〈しもよだぬき〉 という作品を書いた。
1966年にNHKラジオで放送したものを ついこの間、ラジオドラマ・アーカイブスとして放送していた。
40年前のものである。
新派の大矢市次郎がとっつぁん、文学座の若き加藤武が狸。
孤独に暮らす番小屋の老人と、寒さに耐えかねて老人の死んだ息子に化けたタヌキが、
しだいに心を通わせていく……。
歌舞伎界の大御所・宇野信夫の原作を、森繁久彌が構想15年を経て完成させた人情アニメ。
森繁の語りが絶品だ。と 銘打ってDVDも売られている。
狂言現行曲にも 狸腹鼓〈たぬきのはらつづみ〉、 和泉流のみになるが 隠狸〈かくしだぬき〉、とある。
人間とお狸さまとのかかわりは、狂言も御同様。 で、今日も 寒空の下 たぬき親子に迎えられた。
おかえり!

投稿日 2009年03月01日 0:36:47
最終更新日 2009年03月01日 0:36:47
【修正】
2009年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
日頃 何気なく車で通り過ぎていた、近所の住宅の中に盆栽園をみつけた。
盆栽は、草木を鉢に植えて、枝ぶりから鉢に至るまでの姿全体を鑑賞する。
梅、桜、松 … 鉢の木、鉢木 である。
草木の自然を、鉢の上に縮尺して再現することを目指すという。
枝を針金で固定したり、曲げたり、剪定をしたり、岩や石を置いて根を這わせたり
手間と時間をかけて作っていく。 相手は生き物。常なる変化と対峙して、限りがない。
昔、中国の唐の時代に行われていた 「盆景」 が平安時代に日本へ入ってきて盆栽を生んだという。
盆景は箱庭の親類といったら 無礼になろうか。
蛇足ながら 今や子供を伴って盆景展へ出向くむきも無かろうが
子供が会場で、人差し指を立てたら危険信号。
しっかり手をつなぎ、空いた手から目を離す事なかれ。
山川草木が、自然の大地が、海が、小さな盆の上に再現され 思わず指が近ずく…
必ずや海にある筈のない大穴ができ、山に窪みが増える!
江戸時代には武士の間で盆栽の栽培が盛んになり、興隆する。
鬼平なんぞが チョッキン、チョッキンとしながら 与力の報告を聞いている様を思われよ。
盆栽は粋な趣味である。暴れん坊将軍では 大店の旦那も 別宅の奥で鋏を握っていた。
が、管理が大変だ。
生活環境の推移により 手間と時間が必要な趣味は愛好者が 次第に熟年層となる。
戦後は、年寄り臭い趣味とされていた。しかし、近年、盆栽が海外でも注目を集めるとともに、
若者の間でも再認識されるようになったと聞く。 どこかで聞いたような話である。
関東大震災後に、被災した東京小石川周辺の盆栽業者が移住した、埼玉県さいたま市には、
盆栽町という地名がある。日本屈指の盆栽郷とされ、海外の盆栽愛好家にも知られる地区だという。
国内外の観光客も多く訪れて 盆栽見学だそうだ。
植物にハサミを入れて形作るのは 大自然を縮尺する盆栽ばかりではない。
樹木や低木を刈り込んで動物や 球や円錐をつくったりするトピアリー がある。
こちらは 西洋の伝統的園芸技法。 盆栽の 柘植の玉仕立て の親分サイズといったところか。
本来の樹形を生かして 仕立てる盆栽に対して トピアリーは人工的な形を目指している。
大きな鹿と大きな手
大分前になるが シザーハンズという両手が鋏の人造人間の映画があった。
最初は両手のハサミを持て余していた、ジョニー・デップ扮する人造人間。
ある時ハサミで庭木を美しく動物などの造形物に刈り取る。 見事な作品をつくりあげた。
古代ローマ時代に 奴隷の庭師が、生垣に主人と自分のイニシャルを刈り込んだのが
トピアリーの最初といわれているそうだ。この技法が普及したのは16世紀以降のヨーロッパらしい。
円錐や球体の幾何学的な形に樹木を刈り込んだトピアリーが 王宮や貴族の館で流行したという。
左右対称に整然とつくられ、トピアリーで飾られた、そんな西洋の庭園が目に浮かぶ。
実物大の像の親子
先日の読売夕刊紙でトピアリーガーデンが紹介されていた。
くしくも 三余堂数軒先のシャッター前。リボンをつけて、お洒落してのかわいい小鳥が二羽。
この夜寒に 無造作に置かれている
盆栽は、草木を鉢に植えて、枝ぶりから鉢に至るまでの姿全体を鑑賞する。
梅、桜、松 … 鉢の木、鉢木 である。
草木の自然を、鉢の上に縮尺して再現することを目指すという。
枝を針金で固定したり、曲げたり、剪定をしたり、岩や石を置いて根を這わせたり
手間と時間をかけて作っていく。 相手は生き物。常なる変化と対峙して、限りがない。
昔、中国の唐の時代に行われていた 「盆景」 が平安時代に日本へ入ってきて盆栽を生んだという。
盆景は箱庭の親類といったら 無礼になろうか。
蛇足ながら 今や子供を伴って盆景展へ出向くむきも無かろうが
子供が会場で、人差し指を立てたら危険信号。
しっかり手をつなぎ、空いた手から目を離す事なかれ。
山川草木が、自然の大地が、海が、小さな盆の上に再現され 思わず指が近ずく…
必ずや海にある筈のない大穴ができ、山に窪みが増える!
江戸時代には武士の間で盆栽の栽培が盛んになり、興隆する。
鬼平なんぞが チョッキン、チョッキンとしながら 与力の報告を聞いている様を思われよ。
盆栽は粋な趣味である。暴れん坊将軍では 大店の旦那も 別宅の奥で鋏を握っていた。
が、管理が大変だ。
生活環境の推移により 手間と時間が必要な趣味は愛好者が 次第に熟年層となる。
戦後は、年寄り臭い趣味とされていた。しかし、近年、盆栽が海外でも注目を集めるとともに、
若者の間でも再認識されるようになったと聞く。 どこかで聞いたような話である。
関東大震災後に、被災した東京小石川周辺の盆栽業者が移住した、埼玉県さいたま市には、
盆栽町という地名がある。日本屈指の盆栽郷とされ、海外の盆栽愛好家にも知られる地区だという。
国内外の観光客も多く訪れて 盆栽見学だそうだ。
植物にハサミを入れて形作るのは 大自然を縮尺する盆栽ばかりではない。
樹木や低木を刈り込んで動物や 球や円錐をつくったりするトピアリー がある。
こちらは 西洋の伝統的園芸技法。 盆栽の 柘植の玉仕立て の親分サイズといったところか。
本来の樹形を生かして 仕立てる盆栽に対して トピアリーは人工的な形を目指している。
大きな鹿と大きな手

大分前になるが シザーハンズという両手が鋏の人造人間の映画があった。
最初は両手のハサミを持て余していた、ジョニー・デップ扮する人造人間。
ある時ハサミで庭木を美しく動物などの造形物に刈り取る。 見事な作品をつくりあげた。
古代ローマ時代に 奴隷の庭師が、生垣に主人と自分のイニシャルを刈り込んだのが
トピアリーの最初といわれているそうだ。この技法が普及したのは16世紀以降のヨーロッパらしい。
円錐や球体の幾何学的な形に樹木を刈り込んだトピアリーが 王宮や貴族の館で流行したという。
左右対称に整然とつくられ、トピアリーで飾られた、そんな西洋の庭園が目に浮かぶ。
実物大の像の親子

先日の読売夕刊紙でトピアリーガーデンが紹介されていた。
くしくも 三余堂数軒先のシャッター前。リボンをつけて、お洒落してのかわいい小鳥が二羽。
この夜寒に 無造作に置かれている
投稿日 2009年02月01日 0:37:44
最終更新日 2009年02月01日 0:37:44
【修正】
2009年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
恭賀新年

冷たい北風の吹く 東京の元日。三余堂窓から 遥拝にて初詣終了。
気持も新たに 2009年の朝を迎え 思うこと。
旧臘、弁当に折り込まれた料亭の用紙の一言。
花は色 人はこころ と…
隅にも一言 季節により内容が変わります!

冷たい北風の吹く 東京の元日。三余堂窓から 遥拝にて初詣終了。
気持も新たに 2009年の朝を迎え 思うこと。
旧臘、弁当に折り込まれた料亭の用紙の一言。
花は色 人はこころ と…
隅にも一言 季節により内容が変わります!
投稿日 2009年01月01日 0:01:45
最終更新日 2009年01月01日 0:01:45
【修正】
2008年12月31日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
鵞毛庵の記事がなかなか 上がってこない。
ケンショウ炎で ゴミ捨てもままならないらしい。姪が大掃除の助っ人に出かけた。
今頃は 暮にしては暖かなパリでの年越しの準備。
腱鞘炎は手や指の過労によって起こるという。 鵞毛庵にとっては 職業病だ。
まずいことである。
関節をまたいで 骨に付いている筋肉と、骨との付着部分を腱という。
そこが滑らかに動くように外側から包んでいる部分を腱鞘というのだそうだ。
ケンのさや、ということだ。この鞘を使いすぎて腫らしたってことか???
昨今、耳にするコンドロイチンだの、IPA(イコサペンタエン酸)だのが 腱鞘炎には効き目があるらしい。
『 …コンドロイチンは 加齢と共に生体内で減少し、生成する量も減って参りまぁ〜す。
ネバネバ食品、フカヒレ、すっぽん、牛テールからも摂れまぁ〜す。こちら サメの軟骨から精製しましたサプリメント… 』
と、やっていた。
IPAはサンマの宣伝で聞いたし、
カルシウムをとって筋肉を動きよくしろ、と 牛乳屋のチラシにあった。
いくら パリの空の下 青魚を焼いて、納豆とひじきの煮つけを食っていても
加齢には勝てぬ庵主なのか。
ともあれ この一年 能楽さんぽに御付合いを頂き、有難く感謝申し上げると共に
各位に置かれまして 明年が多幸の日々となられますよう 祈り上げる次第で 御座候!
2008 近隣で見た季節
節分の朝 2008
花散る 2008
見つけた秋 2008
ケンショウ炎で ゴミ捨てもままならないらしい。姪が大掃除の助っ人に出かけた。
今頃は 暮にしては暖かなパリでの年越しの準備。
腱鞘炎は手や指の過労によって起こるという。 鵞毛庵にとっては 職業病だ。
まずいことである。
関節をまたいで 骨に付いている筋肉と、骨との付着部分を腱という。
そこが滑らかに動くように外側から包んでいる部分を腱鞘というのだそうだ。
ケンのさや、ということだ。この鞘を使いすぎて腫らしたってことか???
昨今、耳にするコンドロイチンだの、IPA(イコサペンタエン酸)だのが 腱鞘炎には効き目があるらしい。
『 …コンドロイチンは 加齢と共に生体内で減少し、生成する量も減って参りまぁ〜す。
ネバネバ食品、フカヒレ、すっぽん、牛テールからも摂れまぁ〜す。こちら サメの軟骨から精製しましたサプリメント… 』
と、やっていた。
IPAはサンマの宣伝で聞いたし、
カルシウムをとって筋肉を動きよくしろ、と 牛乳屋のチラシにあった。
いくら パリの空の下 青魚を焼いて、納豆とひじきの煮つけを食っていても
加齢には勝てぬ庵主なのか。
ともあれ この一年 能楽さんぽに御付合いを頂き、有難く感謝申し上げると共に
各位に置かれまして 明年が多幸の日々となられますよう 祈り上げる次第で 御座候!
2008 近隣で見た季節
節分の朝 2008 花散る 2008

見つけた秋 2008

投稿日 2008年12月31日 0:36:13
最終更新日 2008年12月31日 0:36:13
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2008年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
今年は締めくくりの月に入る。陰暦12月も様々の異称を持つ。
僧も馳せ走る慌ただしい月だからと 師走というのはお馴染だ。
極月、ごくげつとも云う。駐車場の看板ではない。
ちなみに駐車場では 月極 となり、つきぎめと読むので念のため。
最近の温暖化傾向ではしっくりと来ないが、 春を待つ、春待月と記されもする。
冬至の後に 狩猟の獲物を神に供えた祭りの《臘 ろう》 から 年の暮れを ロウという。
臘月は もっとも日が短くなり、月初めは冬至より早く日の入りが来る。
街は 当たり前のようにクリスマスの飾りがなされ、さして 慌ただしく追われるつもりがなくても
そそくさと 歩かなくては信号を渡りきることが出来ないような気になる。
これが 師走なのだ。
さてさて、去年は… 文字を読む 過去の日記 2007 12
その前の年は… 食後の一服は世界さんぽ 過去の日記 2006 12
と案内望遠鏡を振り返ってみる。
ふぅ〜ん 変わりばえしねぇなぁ と思いつつ、咲き始めた山茶花を深夜の窓から覗く。
暗い冷気のなかで
サザンカ咲く
臘月朔日のヤマボウシ
天空に輝く オリオンも 変わりばえしねぇなぁ と三余堂を見下ろしていた。
僧も馳せ走る慌ただしい月だからと 師走というのはお馴染だ。
極月、ごくげつとも云う。駐車場の看板ではない。
ちなみに駐車場では 月極 となり、つきぎめと読むので念のため。
最近の温暖化傾向ではしっくりと来ないが、 春を待つ、春待月と記されもする。
冬至の後に 狩猟の獲物を神に供えた祭りの《臘 ろう》 から 年の暮れを ロウという。
臘月は もっとも日が短くなり、月初めは冬至より早く日の入りが来る。
街は 当たり前のようにクリスマスの飾りがなされ、さして 慌ただしく追われるつもりがなくても
そそくさと 歩かなくては信号を渡りきることが出来ないような気になる。
これが 師走なのだ。
さてさて、去年は… 文字を読む 過去の日記 2007 12
その前の年は… 食後の一服は世界さんぽ 過去の日記 2006 12
と案内望遠鏡を振り返ってみる。
ふぅ〜ん 変わりばえしねぇなぁ と思いつつ、咲き始めた山茶花を深夜の窓から覗く。
暗い冷気のなかで
サザンカ咲く
臘月朔日のヤマボウシ天空に輝く オリオンも 変わりばえしねぇなぁ と三余堂を見下ろしていた。
投稿日 2008年12月17日 3:17:48
最終更新日 2008年12月17日 3:18:19
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2008年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
以前 11月1日は年賀はがき発売の日。季節の区切りを感じていた。
今年は、10月30日 からの売り出し。
今年の年賀はがき
1月1日に 年賀状を配達するような制度をとり始めたのは 明治32年だそうである。
全国的に広がったのは 6年後、明治38年だ。 西歴1909年。100年の歴史を持つ。
ことしも まだまだ暑いという頃から 宣伝が始まっていた年賀はがき。
今は日本郵便社員と云うのだろうか、予約に郵便局員が汗をカキかき各家を廻り、
近所の郵便局では 窓口で用をたすごとに宣伝チラシと購入申し込みを渡された。
今年は39.5億枚の年賀状を発行するという。人口を1億3000万として 一人30枚当たり…
正月松の内まで、スーパーやコンビニに 年賀の挨拶を印刷したお年玉年賀はがきが売られている。
結局のところ、お年玉付き年賀はがきは どれだけ流通するのか。
スーパーやコンビニでどれほど廃棄処分に回されるのか。
今年のお年玉商品は 実に豊かである。そして 世相を表してもいる。
マッサージチェア、生ゴミ処理機、メタボ対策機器、折りたたみ自転車、アウトドア用品 等、等。
但し 当たるのは切手がせいぜい。
昭和24年 初めてお年玉付きの年賀はがきを発行。寄付金付きのものは3円で1億5千万枚も
発行されたそうだ。 因みに 寄付ナシは2円で3千万枚の発行とか。
その後 昭和50年代後半から 各地方独自の絵入り印刷のものが出始めた。
東京都限定
平成になってからは 再生紙やインクジェット、写真が奇麗にでるのやなにやかにや。
今年は オリンピック招致を願ってか五輪の色をモチーフに エコはがきも売られていた。
まことに 賑やかなことである。
一応、発売日には ニュースに取り上げられて、売れ行き好調、種類によっては 売り切れ増刷などと
言っていた。 が、三余堂御用達郵便局では なんでもござれとばかりに並ぶ。
おまけに 豚にみまごう丑の開運招福根付け も登場
来年の干支は???
さ〜ぁ! 今から 戦闘開始 ! なんて だれがするものかと 郵便局の前を通り抜ける。
今年は、10月30日 からの売り出し。
今年の年賀はがき

1月1日に 年賀状を配達するような制度をとり始めたのは 明治32年だそうである。
全国的に広がったのは 6年後、明治38年だ。 西歴1909年。100年の歴史を持つ。
ことしも まだまだ暑いという頃から 宣伝が始まっていた年賀はがき。
今は日本郵便社員と云うのだろうか、予約に郵便局員が汗をカキかき各家を廻り、
近所の郵便局では 窓口で用をたすごとに宣伝チラシと購入申し込みを渡された。
今年は39.5億枚の年賀状を発行するという。人口を1億3000万として 一人30枚当たり…
正月松の内まで、スーパーやコンビニに 年賀の挨拶を印刷したお年玉年賀はがきが売られている。
結局のところ、お年玉付き年賀はがきは どれだけ流通するのか。
スーパーやコンビニでどれほど廃棄処分に回されるのか。
今年のお年玉商品は 実に豊かである。そして 世相を表してもいる。
マッサージチェア、生ゴミ処理機、メタボ対策機器、折りたたみ自転車、アウトドア用品 等、等。
但し 当たるのは切手がせいぜい。
昭和24年 初めてお年玉付きの年賀はがきを発行。寄付金付きのものは3円で1億5千万枚も
発行されたそうだ。 因みに 寄付ナシは2円で3千万枚の発行とか。
その後 昭和50年代後半から 各地方独自の絵入り印刷のものが出始めた。
東京都限定

平成になってからは 再生紙やインクジェット、写真が奇麗にでるのやなにやかにや。
今年は オリンピック招致を願ってか五輪の色をモチーフに エコはがきも売られていた。
まことに 賑やかなことである。
一応、発売日には ニュースに取り上げられて、売れ行き好調、種類によっては 売り切れ増刷などと
言っていた。 が、三余堂御用達郵便局では なんでもござれとばかりに並ぶ。
おまけに 豚にみまごう丑の開運招福根付け も登場
来年の干支は???

さ〜ぁ! 今から 戦闘開始 ! なんて だれがするものかと 郵便局の前を通り抜ける。
投稿日 2008年11月01日 22:29:32
最終更新日 2008年11月01日 22:32:34
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2008年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
10月1日は 都民の日。 東京都立のところは 特別な催しがあったり、都内の学校は休みになったり。
まぶしい秋の日差しの中 ご協力おねがいしまぁ〜す!の高い声が 駅の階段で出迎える。
ボーイスカウト、女子中高生、と衣替えで冬の制服に身を包み 各所で声を張り上げる。
赤い羽根共同募金が始まる日なのだ。
まだやっていたのか、と思う向き、それって なんですか?という御仁、
さまざまあれど 10月1日の風物だった。 鵞毛庵も お願いしまぁ〜す と 立ったという。
そして、夕刊各紙はこぞって その様子を一面に載せていた。
まだまだ 暑さの名残りを身に受けて冬服の紺色は うっとうしい時期である。
が、近年は 紺、紺、紺、と 重苦しく感じない。
温暖化のためだろう、制服も今日から衣替えとはいかないのだ。
季節は10月1日を虫食む。衣替えも都民の日もへったくれも ありゃぁしない。
駅では 毎日何かの募金、署名集め、ティッシュ配りと それぞれの定位置がある。
その趣旨が忘却の彼方にいってしまったような 赤羽根共同募金は 位置取りも大変だ。
ボーイのリーダーが こっち、こっちと 邪魔にならない場所を確保して 団員を立たせる。
地方では 如何なのか。
学校が休みではなかろうし、晴天の下 甲高い声が叫びとぶこともないと思うが。
祭りの準備が進む
秋霖の一日
もっとも この時期は冷たい秋霖 <しゅうりん>で なかなか 晴れないものである。
しとしとと音のあるような、無いような雨の晩はまさに三余である。
読書に利用するべき三つの余暇、 冬は 年の余り 秋は 日の余り 陰雨は 時の余りである。
いつまでも続く陰気な雨は 本を読め、学べ、勉学に勤しめと言っている。
祭りに向けて準備万端整った 御神酒所も 神輿も 祭り囃子の座所も、
秋霖に どこか沈んで浮き立たない。
その横の 公孫樹並木の下では 傘をさしながら せっせとギンナン拾いに勤しむ姿を見つけた。
宵宮の囃子の音が聞こえてくれば 勉学なんぞに勤しんでいられるわけもなく
杏子飴屋のおやじは今年も元気かと 熟して落ちた銀杏をそっと除けながら
傘を手に急ぐ三余堂である!
御神酒所も冷たい雨を静かにうける
秋雨に烟<けぶ>る鴨脚樹<イチョウ>の並木は 東京都の木でもある。
まぶしい秋の日差しの中 ご協力おねがいしまぁ〜す!の高い声が 駅の階段で出迎える。
ボーイスカウト、女子中高生、と衣替えで冬の制服に身を包み 各所で声を張り上げる。
赤い羽根共同募金が始まる日なのだ。
まだやっていたのか、と思う向き、それって なんですか?という御仁、
さまざまあれど 10月1日の風物だった。 鵞毛庵も お願いしまぁ〜す と 立ったという。
そして、夕刊各紙はこぞって その様子を一面に載せていた。
まだまだ 暑さの名残りを身に受けて冬服の紺色は うっとうしい時期である。
が、近年は 紺、紺、紺、と 重苦しく感じない。
温暖化のためだろう、制服も今日から衣替えとはいかないのだ。
季節は10月1日を虫食む。衣替えも都民の日もへったくれも ありゃぁしない。
駅では 毎日何かの募金、署名集め、ティッシュ配りと それぞれの定位置がある。
その趣旨が忘却の彼方にいってしまったような 赤羽根共同募金は 位置取りも大変だ。
ボーイのリーダーが こっち、こっちと 邪魔にならない場所を確保して 団員を立たせる。
地方では 如何なのか。
学校が休みではなかろうし、晴天の下 甲高い声が叫びとぶこともないと思うが。
祭りの準備が進む
秋霖の一日もっとも この時期は冷たい秋霖 <しゅうりん>で なかなか 晴れないものである。
しとしとと音のあるような、無いような雨の晩はまさに三余である。
読書に利用するべき三つの余暇、 冬は 年の余り 秋は 日の余り 陰雨は 時の余りである。
いつまでも続く陰気な雨は 本を読め、学べ、勉学に勤しめと言っている。
祭りに向けて準備万端整った 御神酒所も 神輿も 祭り囃子の座所も、
秋霖に どこか沈んで浮き立たない。
その横の 公孫樹並木の下では 傘をさしながら せっせとギンナン拾いに勤しむ姿を見つけた。
宵宮の囃子の音が聞こえてくれば 勉学なんぞに勤しんでいられるわけもなく
杏子飴屋のおやじは今年も元気かと 熟して落ちた銀杏をそっと除けながら
傘を手に急ぐ三余堂である!
御神酒所も冷たい雨を静かにうける

秋雨に烟<けぶ>る鴨脚樹<イチョウ>の並木は 東京都の木でもある。
投稿日 2008年10月01日 0:59:56
最終更新日 2008年10月01日 0:59:56
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2008年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
先月の鵞毛庵の写真の中で 使われていたペン置。
箸置きとして作られたものであろう。能管をかたどった黄瀬戸である。
親爺殿が昭和30年代に 瀬戸焼の窯元へ稽古に出向いたことが縁で
パリの空の下も、東京も 黄瀬戸は活躍する。
薄茶茶碗はもとより いもの煮っころがし、香の物tが黄瀬戸の器に盛られる。
その取り皿も 緑の斑紋のついた朽葉色の陶器。
毎年の干支の飾りもしかり。
何を思うか このネズミ
小生制作、三余の銘を入れた薄茶茶碗を主催会の記念として出したこともあった。
瀬戸で制作した黄瀬戸である。ご指導の諸先生方はさぞ御苦労であったろう ???
黄瀬戸は 瀬戸、美濃で焼かれる薄い茶というか、渋い黄の色をした陶器である。
桃山期のものが珍重されるとか、やれ 上薬の色、つまり釉色(ゆうしょく)がどうのとか
蘊蓄(うんちく)、好みはさまざまあれど…
今風にいえば 硫酸銅が出す緑の色と あの黄枯茶(きがらちゃ)の色がなんともロハスな感じィ
ということか 拙宅では人気の焼物だ。
そもそも 瀬戸物の瀬戸は 愛知県名古屋からちょぃっと東へ行った処の地名である。
右を見たら加藤センセ、左を見たら加藤君、上を見れば 加藤さん、横を見ても遠くを見ても 加藤さぁん、瀬戸は 加藤さんの街である。 そして 陶磁器工業地でもある。
陶土が産出し、焼き物の燃料となる黒松が多かったことで、陶祖 加藤景正以来、
その名を瀬戸物として全国に馳せたのである。
1300年の歴史と伝統に 我々も一方ならぬ世話になっている。
所謂 瀬戸物。食器は勿論、セラミックス、衛生陶器つまり 便器、それから 碍子(がいし) 。
碍子(がいし)は 電柱を見上げると配線の間にみえる白いもの。
多種の碍子が使われている 横チョの電柱
明治6年には、瀬戸の加藤杢左衛門(かとうもくざえもん)によって、電信碍子がつくられたそうだ。
電気を逃がさずに電線と支柱を結びつける。電線がたるんでしまうことを防ぐ役割も担っているとか。
焼物の絶縁性や、屋外でも劣化しにくい性質を生かして、碍子は陶器で作られるようになり、
あっちの加藤さんも、こっちの加藤さんもこの仕事に携わって、瀬戸市の大事な産業になった。
閑話休題
黄瀬戸の笛は今カリグラフィーのペン置になっているようだが、パリで過ごす本物の笛は元気だろうか。
鵞毛庵、東京では笛の稽古をしていた。
黄瀬戸の笛を駆使する 迷手の奏でる 音やいかに。
笛の名手として聞こえた、清経は平重盛の三男であった。
平家一門が都落ちした後、豊前国柳浦にて入水の前に笛を吹く。享年21。
世阿弥が書いた能 清経 を6月に勤めた。
箸置きとして作られたものであろう。能管をかたどった黄瀬戸である。
親爺殿が昭和30年代に 瀬戸焼の窯元へ稽古に出向いたことが縁で
パリの空の下も、東京も 黄瀬戸は活躍する。
薄茶茶碗はもとより いもの煮っころがし、香の物tが黄瀬戸の器に盛られる。
その取り皿も 緑の斑紋のついた朽葉色の陶器。
毎年の干支の飾りもしかり。
何を思うか このネズミ
小生制作、三余の銘を入れた薄茶茶碗を主催会の記念として出したこともあった。
瀬戸で制作した黄瀬戸である。ご指導の諸先生方はさぞ御苦労であったろう ???
黄瀬戸は 瀬戸、美濃で焼かれる薄い茶というか、渋い黄の色をした陶器である。
桃山期のものが珍重されるとか、やれ 上薬の色、つまり釉色(ゆうしょく)がどうのとか
蘊蓄(うんちく)、好みはさまざまあれど…
今風にいえば 硫酸銅が出す緑の色と あの黄枯茶(きがらちゃ)の色がなんともロハスな感じィ
ということか 拙宅では人気の焼物だ。
そもそも 瀬戸物の瀬戸は 愛知県名古屋からちょぃっと東へ行った処の地名である。
右を見たら加藤センセ、左を見たら加藤君、上を見れば 加藤さん、横を見ても遠くを見ても 加藤さぁん、瀬戸は 加藤さんの街である。 そして 陶磁器工業地でもある。
陶土が産出し、焼き物の燃料となる黒松が多かったことで、陶祖 加藤景正以来、
その名を瀬戸物として全国に馳せたのである。
1300年の歴史と伝統に 我々も一方ならぬ世話になっている。
所謂 瀬戸物。食器は勿論、セラミックス、衛生陶器つまり 便器、それから 碍子(がいし) 。
碍子(がいし)は 電柱を見上げると配線の間にみえる白いもの。
多種の碍子が使われている 横チョの電柱明治6年には、瀬戸の加藤杢左衛門(かとうもくざえもん)によって、電信碍子がつくられたそうだ。
電気を逃がさずに電線と支柱を結びつける。電線がたるんでしまうことを防ぐ役割も担っているとか。
焼物の絶縁性や、屋外でも劣化しにくい性質を生かして、碍子は陶器で作られるようになり、
あっちの加藤さんも、こっちの加藤さんもこの仕事に携わって、瀬戸市の大事な産業になった。
閑話休題
黄瀬戸の笛は今カリグラフィーのペン置になっているようだが、パリで過ごす本物の笛は元気だろうか。
鵞毛庵、東京では笛の稽古をしていた。
黄瀬戸の笛を駆使する 迷手の奏でる 音やいかに。
笛の名手として聞こえた、清経は平重盛の三男であった。
平家一門が都落ちした後、豊前国柳浦にて入水の前に笛を吹く。享年21。
世阿弥が書いた能 清経 を6月に勤めた。

投稿日 2008年09月01日 9:24:06
最終更新日 2008年09月04日 21:35:48
【修正】
2008年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
いまだけさきたゆう今年は 洞爺湖サミットのために 例年より10日も遅れての朝顔市だった。
生産者は この10日あまりの差に、さぞご苦労があったろう。
土、水、光、虫、病気 等々の管理を経て一年掛けてのお商売物だ。
朝 開いて昼には萎む花。 葉の繁りが邪魔をしてきちんと開花出来ないことがある。
で、 葉が貧相だと養分が蓄えられずに 花が咲かない。
あぁ この不条理を … と カミュ気取りで言ってもはじまらないが、
朝顔を舞台に出すのも 厄介なことだ。
今年も鉢の出来に 黙って玄人の心意気が出る。
市にならぶ鉢にも流行がある。
時の花は 市場調査も条件として重要だ。
同じ 朝顔の鉢をならべての市でも 色も形もじわりじわりと変化する。
鉢も、行燈づくりの支柱も、素材が変わってプラスチィックになる。
そして 宅配便が待ってましたとばかりに 入谷朝顔市 と印刷した専用の段ボールケースで運ぶ。
恐れ入谷の鬼子母神は東京の一部の地域から 全国区となる。
団十郎

団十郎 といって売られているこの朝顔は 所謂市川団十郎家の色を表している。
三余堂に咲く朝顔は これに倣って それぞれ銘がつく。
いかにも涼を呼ぶ大輪の青は 咲大夫。
これは浄瑠璃義太夫の豊竹咲大夫ならぬ 今竹咲大夫。 いまだけさきたゆう である。
五代目志ん生
濃い花は六代目菊五郎一昨年 流行った 小さな青は 三餘亭小朝。
他にも 六代目菊五郎だの 五代目志ん生だのと、心象としては ちと 古い命名ばかりだが。
鵞毛庵ご推奨、涼をとるための 志ん生の「牡丹燈籠」もよいが、
朝顔の志ん生も なかなか結構なものでござんすョ。
投稿日 2008年08月01日 15:55:13
最終更新日 2008年08月01日 15:57:31
【修正】
2008年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
吊花、つりばな という落葉低木がある。
五月の連休前後に 密やかに緑淡色からほんのり赤紫の小さな花柄を下げる。5ミリほどの花である。
結んだ実は秋に熟して紫紅色になり、5個に裂開する。そして、目にも鮮やかな朱赤の種がのぞく。

三余堂吊花
吊花の実がはじけて
秋の紅葉が錦の織物のように美しいところから 錦の木、錦木の名前で知られる低木がある。
カエデ、スズランノキと並び世界三大紅葉樹のひとつのなだそうだ。
枝に矢筈のような羽がある。
弓の弦を受ける矢筈、やはずのような羽を枝につけているので 見つけるのが容易い。
若枝は緑色。やがて表皮を突き破って、板状の羽根ができる。カミソリの刃のように。
羽根は年々大きくなるが、4年目には成長をやめるらしい。
ニシキギ
花も実も 吊花 とそっくりである。
三余堂の庭には 秋の錦を愛でるために 錦木があった。
ややもすると朱赤の実がはじけるまで 気づかれないままにいる吊花もある。
日陰で絶えた錦木、多少は日を浴びながらも 余命いくばくかと心配な吊花。
ともに ニシキギ科ニシキギ属。ご親戚。
昔 奥州の縁組の風習で 男が女の家の門に錦木を立て、応ずる心があれば家に取り入れた。
取り入れがなければ さらに加えて立て、千束を限りとしたという。
錦木は、恋文の役目をたした鹿角の風習であった。
立てそめてかへる 心は一の千束 (ちづか) まつべき心地こそせね 山家集
世阿弥の作という能 錦木は、この話を題材にしているといわれている。
JR花輪線十和田南駅より徒歩1分。
命あるときには結ばれなかった悲恋物語として語り継がれる錦木塚がある。
五月の連休前後に 密やかに緑淡色からほんのり赤紫の小さな花柄を下げる。5ミリほどの花である。
結んだ実は秋に熟して紫紅色になり、5個に裂開する。そして、目にも鮮やかな朱赤の種がのぞく。

三余堂吊花
吊花の実がはじけて秋の紅葉が錦の織物のように美しいところから 錦の木、錦木の名前で知られる低木がある。
カエデ、スズランノキと並び世界三大紅葉樹のひとつのなだそうだ。
枝に矢筈のような羽がある。
弓の弦を受ける矢筈、やはずのような羽を枝につけているので 見つけるのが容易い。
若枝は緑色。やがて表皮を突き破って、板状の羽根ができる。カミソリの刃のように。
羽根は年々大きくなるが、4年目には成長をやめるらしい。
ニシキギ 花も実も 吊花 とそっくりである。
三余堂の庭には 秋の錦を愛でるために 錦木があった。
ややもすると朱赤の実がはじけるまで 気づかれないままにいる吊花もある。
日陰で絶えた錦木、多少は日を浴びながらも 余命いくばくかと心配な吊花。
ともに ニシキギ科ニシキギ属。ご親戚。
昔 奥州の縁組の風習で 男が女の家の門に錦木を立て、応ずる心があれば家に取り入れた。
取り入れがなければ さらに加えて立て、千束を限りとしたという。
錦木は、恋文の役目をたした鹿角の風習であった。
立てそめてかへる 心は一の千束 (ちづか) まつべき心地こそせね 山家集
世阿弥の作という能 錦木は、この話を題材にしているといわれている。
JR花輪線十和田南駅より徒歩1分。
命あるときには結ばれなかった悲恋物語として語り継がれる錦木塚がある。
投稿日 2008年07月24日 21:20:33
最終更新日 2008年07月24日 21:20:51
【修正】
2008年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
松下電器産業から 2008年4月末 待っていまた! の新しい乾電池
【EVOLTA エボルタ】が発表された。
アルカリ電池を進化させた製品で さらなる長持ちと 10年間の使用推奨期間を誇る。
つまり10年は保存がきくということである。 災害・非常用等の備蓄用には結構な代物だ。
エボルタ登場
乾電池の多くには、使用推奨期限が刻印されている。あくまで 使用開始をする推奨する期限で
期限までに使い終わるようにと云っているのではないらしい。
このエボルタは 従来のアルカリ乾電池より電力容量が大きく 電圧が落ちにくいということだ。
デジカメや音楽プレーヤー向きという。
まぁ 取敢えず デジカメと携帯ラジオで たまにお世話になる程度であるが……
マンガン電池からエボルタまで
最も歴史の古いマンガン乾電池は 素材が安価で、安く作れるが 容量が小さい。
電池の生産量が8割という アルカリ電池は マンガン電池より 容量は大きいが
デジカメに対応できるほどの力はなく、電圧が下がってしまう。
そこで ニッケル乾電池登場!
正確にはニッケルマンガン乾電池と云うのだそうだ。
松下電器産業が2004年4月1日に発売した乾電池である。
オキシライド乾電池のことだ。
この5月まではこれをデジカメに利用していた。 が、これは 初期の電圧が高くなるために
豆球のライトや玩具などには不向きで 製造元である松下電器産業は使用不可としている。
この4年後の今年 オキシライドの欠点がなく ほぼすべての機種に利用でき 長持ちする電池誕生。
アルカリ乾電池 エボルタ である。
単三2本を背中に背負って ロボット EVOLTA君は グランドキャニオンの540メートルの崖を登った。
http://evolta.jp/
エボルタ君
乾電池は 明治20年 日本の時計技師屋井先蔵が「屋井式乾電池」を発明。
その前後で特許の取得をしている ドイツのガスナー、デンマークのヘレンセン がいるが
屋井先蔵せんせいの御蔭で 何と豊かな日常を過ごしているか。
兎にも角にも 乾電池は日本人の発明である。
素晴らしき発明に 有難く感謝して カセットを聴く。 CDでなく MDでなく。
そして 謡でなく トラゾウを。
【EVOLTA エボルタ】が発表された。
アルカリ電池を進化させた製品で さらなる長持ちと 10年間の使用推奨期間を誇る。
つまり10年は保存がきくということである。 災害・非常用等の備蓄用には結構な代物だ。
エボルタ登場

乾電池の多くには、使用推奨期限が刻印されている。あくまで 使用開始をする推奨する期限で
期限までに使い終わるようにと云っているのではないらしい。
このエボルタは 従来のアルカリ乾電池より電力容量が大きく 電圧が落ちにくいということだ。
デジカメや音楽プレーヤー向きという。
まぁ 取敢えず デジカメと携帯ラジオで たまにお世話になる程度であるが……
マンガン電池からエボルタまで最も歴史の古いマンガン乾電池は 素材が安価で、安く作れるが 容量が小さい。
電池の生産量が8割という アルカリ電池は マンガン電池より 容量は大きいが
デジカメに対応できるほどの力はなく、電圧が下がってしまう。
そこで ニッケル乾電池登場!
正確にはニッケルマンガン乾電池と云うのだそうだ。
松下電器産業が2004年4月1日に発売した乾電池である。
オキシライド乾電池のことだ。
この5月まではこれをデジカメに利用していた。 が、これは 初期の電圧が高くなるために
豆球のライトや玩具などには不向きで 製造元である松下電器産業は使用不可としている。
この4年後の今年 オキシライドの欠点がなく ほぼすべての機種に利用でき 長持ちする電池誕生。
アルカリ乾電池 エボルタ である。
単三2本を背中に背負って ロボット EVOLTA君は グランドキャニオンの540メートルの崖を登った。
http://evolta.jp/
エボルタ君乾電池は 明治20年 日本の時計技師屋井先蔵が「屋井式乾電池」を発明。
その前後で特許の取得をしている ドイツのガスナー、デンマークのヘレンセン がいるが
屋井先蔵せんせいの御蔭で 何と豊かな日常を過ごしているか。
兎にも角にも 乾電池は日本人の発明である。
素晴らしき発明に 有難く感謝して カセットを聴く。 CDでなく MDでなく。
そして 謡でなく トラゾウを。
投稿日 2008年06月02日 11:16:45
最終更新日 2008年06月02日 11:17:13
【修正】
2008年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
中国大陸でまだ秦が天下を統一しない頃、書物の材料は竹と木であった。
竹は1メートルに満たない長さの簡 、つまり竹のふだで、それに8字から30字くらいを1 行に書く。
100 字程度を書く時は、木の札を使っていた。
それ以上文字を書くには 竹や木の簡を何本も 鞣革 なめしがわで編み連ねた冊をつくる。
冊 さく という字は簡をなめし革でつらねた象形文字なのだそうである。
中国の最も古い書物の形態だ。
紙が発明される以前は 竹や木の札、竹簡、木簡、が多く用いられてきたが、帛 はくもあった。
秦の始皇帝以前の大陸では帛も書写の材料となった。絹製の布である。
帛を書物とする場合には もっぱら 軸をつけて巻いた巻子本、かんすぼんの形態をとったらしい。
安宅の関で武蔵坊弁慶が … それ つぅ〜ら つぅら …
と読み上げた巻物の形を思い浮かべられたし。
後に始皇帝となる 秦王政を暗殺に行った 荊軻が剣を忍ばせていったのは 帛の巻子であった。
絹でできた帛は大変に高価で 特別なものであったのだ。
4月鵞毛庵の記事 でも触れているが 書物は内容、形態ともにまさに宝物であった。
紙の発明は ずっと時代が下って後漢時代 、世界中の書物にとっての大革命ということだ。
その後 紙がもっぱら書物の材料となる。書物の形も変化する。
日本へは奈良時代に伝わった巻子本。
仏典などに利用されて 経巻や法帖類で目にすることの多い折本、 おりほんは習字手本や
揮毫帖などにも用いられている。
折本
折本の背の部分を糊づけしたもので、広げると風にひるがえるようになる 旋風葉 せんぷうよう。
料紙を二つ折りにして重ね、折目の部分に糊づけした粘葉装 でっちょうそう。
三井家所蔵の古今和歌集などにこの装丁が見られ 平安末期には日本ですでに行われていた。
鎌倉、室町、江戸期に至るまでこの様式は続いていたという。
粘葉装は唐代に盛んで、宋代には益々増大していった。
が、糊を一枚ごとに入れる為 虫害を受けやすい。
そこで 糊で貼り合わせる代りに糸で綴じる方法が案出された。
これらを経て糸で綴じた綫縫 せんぼう に至る。これは大陸から 朝鮮や日本にも伝わって
日本では列帖装れっちょうそう、大和綴 やまととじなど、独自の方法が生まれたということだが。
もっぱら袋綴 ふくろとじと言っている。
普通の和装本に使用されているものである。
四つ目綴じ
生活に溶け込んで常に目にする、四つ目綴じの本。 確認すると明治何年、大正何年と印されている。
そう 謡本。
目にする謡本は 一冊一冊を手で製本、装丁、糸針で綴じる 宝物ということである。
糸の切れた物は 綴じ替えながら受け継がれていく。
華やかに飾る中に 実用の要点を押さえた綴じ方には いろいろな工夫や流行がある。
四つ目綴じの本が 康煕王朝に流行った康熙綴じに、麻の葉綴じにと変身していく。
帰国中の鵞毛庵は 和綴じの講習で腕に磨きをかけていた。
下から 麻の葉綴じ、康煕綴じ、亀甲綴じ
竹は1メートルに満たない長さの簡 、つまり竹のふだで、それに8字から30字くらいを1 行に書く。
100 字程度を書く時は、木の札を使っていた。
それ以上文字を書くには 竹や木の簡を何本も 鞣革 なめしがわで編み連ねた冊をつくる。
冊 さく という字は簡をなめし革でつらねた象形文字なのだそうである。
中国の最も古い書物の形態だ。
紙が発明される以前は 竹や木の札、竹簡、木簡、が多く用いられてきたが、帛 はくもあった。
秦の始皇帝以前の大陸では帛も書写の材料となった。絹製の布である。
帛を書物とする場合には もっぱら 軸をつけて巻いた巻子本、かんすぼんの形態をとったらしい。
安宅の関で武蔵坊弁慶が … それ つぅ〜ら つぅら …
と読み上げた巻物の形を思い浮かべられたし。
後に始皇帝となる 秦王政を暗殺に行った 荊軻が剣を忍ばせていったのは 帛の巻子であった。
絹でできた帛は大変に高価で 特別なものであったのだ。
4月鵞毛庵の記事 でも触れているが 書物は内容、形態ともにまさに宝物であった。
紙の発明は ずっと時代が下って後漢時代 、世界中の書物にとっての大革命ということだ。
その後 紙がもっぱら書物の材料となる。書物の形も変化する。
日本へは奈良時代に伝わった巻子本。
仏典などに利用されて 経巻や法帖類で目にすることの多い折本、 おりほんは習字手本や
揮毫帖などにも用いられている。
折本

折本の背の部分を糊づけしたもので、広げると風にひるがえるようになる 旋風葉 せんぷうよう。
料紙を二つ折りにして重ね、折目の部分に糊づけした粘葉装 でっちょうそう。
三井家所蔵の古今和歌集などにこの装丁が見られ 平安末期には日本ですでに行われていた。
鎌倉、室町、江戸期に至るまでこの様式は続いていたという。
粘葉装は唐代に盛んで、宋代には益々増大していった。
が、糊を一枚ごとに入れる為 虫害を受けやすい。
そこで 糊で貼り合わせる代りに糸で綴じる方法が案出された。
これらを経て糸で綴じた綫縫 せんぼう に至る。これは大陸から 朝鮮や日本にも伝わって
日本では列帖装れっちょうそう、大和綴 やまととじなど、独自の方法が生まれたということだが。
もっぱら袋綴 ふくろとじと言っている。
普通の和装本に使用されているものである。
四つ目綴じ

生活に溶け込んで常に目にする、四つ目綴じの本。 確認すると明治何年、大正何年と印されている。
そう 謡本。
目にする謡本は 一冊一冊を手で製本、装丁、糸針で綴じる 宝物ということである。
糸の切れた物は 綴じ替えながら受け継がれていく。
華やかに飾る中に 実用の要点を押さえた綴じ方には いろいろな工夫や流行がある。
四つ目綴じの本が 康煕王朝に流行った康熙綴じに、麻の葉綴じにと変身していく。
帰国中の鵞毛庵は 和綴じの講習で腕に磨きをかけていた。
下から 麻の葉綴じ、康煕綴じ、亀甲綴じ

投稿日 2008年05月02日 7:57:57
最終更新日 2008年05月02日 7:58:24
【修正】
2008年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
東京は桜の開花宣言が今日だ、明日だと耳にしながら秋田へ出かけた。
秋田は 慶長7年(1602)に 常陸の国から国替えを命ぜられた佐竹氏によって治められた。
佐竹義宣が JR東日本秋田駅近くの台地 久保田に城をつくった。
現在この久保田城跡は千秋公園として憩いの地になっている。
久保田城は別名「矢留城」ともいい、公的には「秋田城」とも称していたという。
千秋、矢留、久保田など今も地名として残っている。
久保田城は 天守閣がなく、土塁をめぐらして内側にだけ石垣を築いていたようで、
一の郭は、本丸・二の丸・兵器蔵、二の郭は、外堀に囲まれた三の丸と重臣の屋敷、
三の郭・四の郭まで土手をめぐらした構成であったらしい。
城自体はあまり防備に重点を置かずに 城下町をすべて迷路にして
街全体が防御のために造られていたということである。
確かに 古い街なみが整然としているというには 程遠い気がする。
佐竹氏12代の居城 久保田城本丸は 御維新後の明治13年に焼失。
その後、公園として明治29年に千秋園と称され県営となり、昭和28年には秋田市営となる。
現在の千秋公園は丘の上の歴史ある 市民憩いの場、といった感じである。
まだまだ 硬い蕾が北の地を感じるが、四月下旬には桜祭りが開かれる。
夏には蓮の花で一杯になる堀 まだまだ さくらも遠い
秋田散歩の次は あきた能楽さんぽの話。
3月24日のあきた能楽さんぽに珍客があった。
講座にAKTテレビ夕方のニュース番組 スーパーニュース担当キャスターの
女性アナウンサーとカメラマン氏が取材に訪れた。
スーパーニュース? 各地方版があるようだが 東京のフジテレビ系列ということか。
夕方6時のスーパーニュースという番組のコーナーで 数分間の放映。
受講風景、受講生へのインタビュー、謡などを折り込んで
アナウンサー自身の体験記がまとめられていた。

インタビューや撮影、準備や機材運び、なんでもコンビがやります!
受講者は事前に知らせてくれれば 床屋へ行って 髭をアタって男前に、あるいは
護岸工事も入念に しっかりと塗り固め 女っぷりを上げてきたのに と思っただろう。
三余堂も秋田発の前夜に知った。
番組制作は担当キャスター自ら取材対象を見つけて カメラマンと共に東奔西走。
突撃! 隣の晩ごはん 方式なのか。 (日本テレビ系列で 突然夕飯時分に訪問、取材をする番組があった)
取材先では 何事も物怖じせず体験して 局へ帰って編集、放送 となるのだろう。
勿論 女性アナウンサーは受講生と共に 声も出し、謡を謡って…
しっかりとして なかなかのものであった。
カメラマンも女性アナも はいっ 声を出して!
本放送は 受講生のインタビューや女性アナの独吟?も 放映
地方局の番組は その地を知るに手っ取り早い。その地の文化、気風を伝える。
CS放送などで地方局の生番組を選べるようなると 面白いのだが…
秋田は 慶長7年(1602)に 常陸の国から国替えを命ぜられた佐竹氏によって治められた。
佐竹義宣が JR東日本秋田駅近くの台地 久保田に城をつくった。
現在この久保田城跡は千秋公園として憩いの地になっている。
久保田城は別名「矢留城」ともいい、公的には「秋田城」とも称していたという。
千秋、矢留、久保田など今も地名として残っている。
久保田城は 天守閣がなく、土塁をめぐらして内側にだけ石垣を築いていたようで、
一の郭は、本丸・二の丸・兵器蔵、二の郭は、外堀に囲まれた三の丸と重臣の屋敷、
三の郭・四の郭まで土手をめぐらした構成であったらしい。
城自体はあまり防備に重点を置かずに 城下町をすべて迷路にして
街全体が防御のために造られていたということである。
確かに 古い街なみが整然としているというには 程遠い気がする。
佐竹氏12代の居城 久保田城本丸は 御維新後の明治13年に焼失。
その後、公園として明治29年に千秋園と称され県営となり、昭和28年には秋田市営となる。
現在の千秋公園は丘の上の歴史ある 市民憩いの場、といった感じである。
まだまだ 硬い蕾が北の地を感じるが、四月下旬には桜祭りが開かれる。
夏には蓮の花で一杯になる堀 まだまだ さくらも遠い秋田散歩の次は あきた能楽さんぽの話。
3月24日のあきた能楽さんぽに珍客があった。
講座にAKTテレビ夕方のニュース番組 スーパーニュース担当キャスターの
女性アナウンサーとカメラマン氏が取材に訪れた。
スーパーニュース? 各地方版があるようだが 東京のフジテレビ系列ということか。
夕方6時のスーパーニュースという番組のコーナーで 数分間の放映。
受講風景、受講生へのインタビュー、謡などを折り込んで
アナウンサー自身の体験記がまとめられていた。

インタビューや撮影、準備や機材運び、なんでもコンビがやります!
受講者は事前に知らせてくれれば 床屋へ行って 髭をアタって男前に、あるいは
護岸工事も入念に しっかりと塗り固め 女っぷりを上げてきたのに と思っただろう。
三余堂も秋田発の前夜に知った。
番組制作は担当キャスター自ら取材対象を見つけて カメラマンと共に東奔西走。
突撃! 隣の晩ごはん 方式なのか。 (日本テレビ系列で 突然夕飯時分に訪問、取材をする番組があった)
取材先では 何事も物怖じせず体験して 局へ帰って編集、放送 となるのだろう。
勿論 女性アナウンサーは受講生と共に 声も出し、謡を謡って…
しっかりとして なかなかのものであった。
カメラマンも女性アナも はいっ 声を出して!

本放送は 受講生のインタビューや女性アナの独吟?も 放映
地方局の番組は その地を知るに手っ取り早い。その地の文化、気風を伝える。
CS放送などで地方局の生番組を選べるようなると 面白いのだが…
投稿日 2008年04月01日 12:20:50
最終更新日 2008年04月01日 12:20:50
【修正】
2008年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
花や葉を蔓状の曲線でつないだ文様を唐草という。
平安時代に 大陸からの蔓草文様という意味で からくさ という名が使われていたようだ。
古代から洋の東西、その時代で変化をみせて 多くのものに取り入れられている。
エジプトの睡蓮文様が唐草文様の起源といわれるが 詳しくは 鵞毛庵の記事に任せるとして
日本では正倉院宝物に西方からの唐草文様が多くみられる。
文様の種類は数々あれど その後、日本の文様として牡丹唐草、ぼたんからくさ文様は定着する。
三宅坂の国立小劇場の緞帳の中に 牡丹唐草文の見事な綴織 (つづれおり)のものがある。
唐草文様の中でも 華やかな図柄は 装束、帯等々と目にする機会も多い。
正倉院古裂柄
牡丹唐草図
2月の鵞毛庵能の花シリーズで 春節の獅子にふれているが
唐代に盛んに使われた牡丹の唐草文様は獅子などと組み合わせて、華麗な文様を描き出している。
大陸伝来の唐獅子は幻想動物の獅子で、法隆寺や正倉院にその姿を見ることが出来る。
法隆寺展、正倉院展、書物などでお目にかかった御仁も多かろうと思う。
空海や円仁が唐から持ち帰った曼荼羅には獅子の図があった。
仏法護持の神獣ということか。
その後 12世紀末の鳥獣戯画に唐獅子は登場、興福寺供養での獅子舞なども行われているようだ。
能の起源となる 田楽や猿楽と並んで民間で獅子舞も行われたであろう。
勇猛な唐獅子の姿をかり 邪気を払う呪術的な要素も持った芸能は現在に至る。
能 石橋 (しゃっきょう) は百獣の王としての獅子が華麗な牡丹の花姿と対峙して登場する。
歌舞伎の鏡獅子や連子師の元になる。
紅白の牡丹の花が咲き誇る 大きな作り物が舞台中央に登場する。
張りつめた 冷たい気の中 静寂のうちに落ちる花の露の密やかな音がきこえる。
大、小、太鼓が露を伝える その息と力で。
そして親獅子、子獅子の登場。獅子の頭も白は親、子は赤く
勇壮な親獅子、血気盛んな子獅子、 三間四方の舞台で処狭しと ぴョコタン、ピョこたん と跳ねる。
華やかそのものの演出である。
武家は唐獅子図を好んだ。
日光東照宮の装飾彫刻の中で多用される 唐獅子と牡丹の図柄。 豪華絢爛 。
まさに 唐獅子牡丹である。
義理と人情を 秤にかけりゃ 義理が重たい 男の世界
幼なじみの 観音様にゃ 俺の心は お見通し 背中で吠えてる 唐獅子牡丹
健サンは背中に彫る。
やがて夜明けの 来るそれまでは 意地でささえる 夢ひとつ 背中で呼んでる 唐獅子牡丹 と
帯に牡丹唐草を選ぶ小生であった ……
平安時代に 大陸からの蔓草文様という意味で からくさ という名が使われていたようだ。
古代から洋の東西、その時代で変化をみせて 多くのものに取り入れられている。
エジプトの睡蓮文様が唐草文様の起源といわれるが 詳しくは 鵞毛庵の記事に任せるとして
日本では正倉院宝物に西方からの唐草文様が多くみられる。
文様の種類は数々あれど その後、日本の文様として牡丹唐草、ぼたんからくさ文様は定着する。
三宅坂の国立小劇場の緞帳の中に 牡丹唐草文の見事な綴織 (つづれおり)のものがある。
唐草文様の中でも 華やかな図柄は 装束、帯等々と目にする機会も多い。
正倉院古裂柄
牡丹唐草図2月の鵞毛庵能の花シリーズで 春節の獅子にふれているが
唐代に盛んに使われた牡丹の唐草文様は獅子などと組み合わせて、華麗な文様を描き出している。
大陸伝来の唐獅子は幻想動物の獅子で、法隆寺や正倉院にその姿を見ることが出来る。
法隆寺展、正倉院展、書物などでお目にかかった御仁も多かろうと思う。
空海や円仁が唐から持ち帰った曼荼羅には獅子の図があった。
仏法護持の神獣ということか。
その後 12世紀末の鳥獣戯画に唐獅子は登場、興福寺供養での獅子舞なども行われているようだ。
能の起源となる 田楽や猿楽と並んで民間で獅子舞も行われたであろう。
勇猛な唐獅子の姿をかり 邪気を払う呪術的な要素も持った芸能は現在に至る。
能 石橋 (しゃっきょう) は百獣の王としての獅子が華麗な牡丹の花姿と対峙して登場する。
歌舞伎の鏡獅子や連子師の元になる。
紅白の牡丹の花が咲き誇る 大きな作り物が舞台中央に登場する。
張りつめた 冷たい気の中 静寂のうちに落ちる花の露の密やかな音がきこえる。
大、小、太鼓が露を伝える その息と力で。
そして親獅子、子獅子の登場。獅子の頭も白は親、子は赤く
勇壮な親獅子、血気盛んな子獅子、 三間四方の舞台で処狭しと ぴョコタン、ピョこたん と跳ねる。
華やかそのものの演出である。
武家は唐獅子図を好んだ。
日光東照宮の装飾彫刻の中で多用される 唐獅子と牡丹の図柄。 豪華絢爛 。
まさに 唐獅子牡丹である。
義理と人情を 秤にかけりゃ 義理が重たい 男の世界
幼なじみの 観音様にゃ 俺の心は お見通し 背中で吠えてる 唐獅子牡丹
健サンは背中に彫る。
やがて夜明けの 来るそれまでは 意地でささえる 夢ひとつ 背中で呼んでる 唐獅子牡丹 と
帯に牡丹唐草を選ぶ小生であった ……

投稿日 2008年03月02日 9:38:32
最終更新日 2008年03月02日 9:38:51
【修正】
2008年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
まもなく 立春である。冷たい日はまだまだ続く。
最新のソーラーシステムによる 床暖房も オンドルも無いながら
三余堂は年間を通して素足で過ごす。せめて板の間ではスリッパを履くようにと云われる。
大きなお世話である。
スリッパは 右方は此方、左方は彼方、何処にや…… となるのが落ちであろうし。
だいたい スリッパだ、靴下だなどと 極寒の地でもないお江戸ではおこがましい。
日常の生活に当り前の様に靴下、スリッパ いや、足袋が取り入られるようになったのは
明治期以降ということだ。
足袋保護のため楽屋で使用する上履き

そもそも 足袋は 読んで字のごとく 足を包む袋である。
平安の頃 山野で生計を立てるような人々は 足袋の原型と思われる 獣の皮で親指の部分に
股をつけた履物を用いるようになったらしい。
其の頃 都の貴族は 襪 (しとうず) という履物を用いていた。
平安中期には、革足袋の原型となるものが用いられ始めていたということで、
鎌倉期の宇治拾遺物語の中に、「猿の皮の足袋に沓きりはなして」 と、すでに足袋という言葉が
出てくる。
もっとも 今のような形かどうか。
近世以前、武士は足袋や襪などの履物は履かないものとされていた。
合戦の武装には毛履などの沓、革足袋、革製の襪のような物が用いられた。
鎌倉、室町初期は、足袋を鹿皮や猿皮をなめした革で作っていた。
武士の間で革足袋が普及すると、白の革足袋や、小桜などの模様の小紋足袋を履く習慣が生まれ、
その後、戦乱が広がるにつれ、軍装として革足袋の使用が一般化したということらしい。
武家の間では、足袋の使用については規定があった。
礼装の際や主君の前では素足であるのが正当とされたということで、
三余堂もこれに倣っている訳である。
江戸時代初期は革足袋が専らであった。主に輸入の鹿革が多く使用されていた。が、
鎖国の為に鹿革の輸入量が激減、明暦の江戸大火で防火用として革の羽織が流行し、
革の値段が高騰した という事が影響して、木綿足袋の普及に至ったということだ。
初期は晒木綿の布を重ね、補強に太い糸で田畑の畝のように縫ったそうだ。
当時の足袋はまだ革足袋の名残で 鞐(こはぜ) ではなく紐で止めていた。
江戸時代も足袋の使用に関する厳しい規定があった。
足袋の着用は50歳以上、10月1日から2月20日の間のみ。
病気等での足袋の着用は主君の許可にて 足袋御免 となる。
大奥も、足袋着用の期間が厳格に定められていたそうだ。 武家の男女礼装は素足である。
武家の間では人前で足袋を用いるのは無礼ということか。
もっとも 木綿足袋が普及すると共にし、有名無実化していったらしい。 さもありなん。
誰しも 麗しきおみあしとはいかんじゃろぅ! 冷えもよろしくない。
が、足袋御免の制度自体は文久2年(1862)年の武家服制改革まで存在していた。
公家にも指貫には勅許がないと襪を履くことはできないという制度も残っていたというが。
さてさて 一般庶民は如何に。
江戸初期、農民や町民にとって足の保護の為に使われる、作業用の履物、祭礼の衣装であった。
中期、商人などの町人の台頭で、日常生活にも足袋が取り入れられるようになっていった。
その習慣はやがて武士階級に取り入られるようになり、一般的な習慣になっていった。
日常生活で、武家階級は白足袋、町人の男は紺足袋や黒足袋、女は白足袋を用いたという。
もっとも それも立場や階級で紺足袋も白足袋もある。
必殺仕掛人の早乙女主水は紺足袋である。
橋蔵の平次は白足袋で、下っぴきの八五郎は紺足袋 … 。
まぁ テレビや映画のチャンバラを鵜呑みにしてはいけない。映像の演出というものがある。
農民はというと、それまでと同じく専ら作業用の履物であって、普段は素足。
紺足袋と白足袋
能や狂言が確立した頃、能は白に晒された鹿皮の革足袋が用いられ、
狂言は生成りの革足袋が用いられていたようである。
現在 狂言足袋は流儀などで多少違いがあるが、細かい黄色の縞のものや薄い黄色で
鹿革の足袋の名残をここにみる。
装束を付ける時、初めに着け、最後に脱ぐのが足袋である。
舞台で使用する足袋は 神田駿河台の店で誂る。足にしっくりと沿った足袋の提供あってこその舞台。
どちらも違わず高齢化が物作りに押し寄せて 老舗の足袋店も呑込もうとしている。
今日も足袋は舞台で三余堂を支える。
最新のソーラーシステムによる 床暖房も オンドルも無いながら
三余堂は年間を通して素足で過ごす。せめて板の間ではスリッパを履くようにと云われる。
大きなお世話である。
スリッパは 右方は此方、左方は彼方、何処にや…… となるのが落ちであろうし。
だいたい スリッパだ、靴下だなどと 極寒の地でもないお江戸ではおこがましい。
日常の生活に当り前の様に靴下、スリッパ いや、足袋が取り入られるようになったのは
明治期以降ということだ。
足袋保護のため楽屋で使用する上履き

そもそも 足袋は 読んで字のごとく 足を包む袋である。
平安の頃 山野で生計を立てるような人々は 足袋の原型と思われる 獣の皮で親指の部分に
股をつけた履物を用いるようになったらしい。
其の頃 都の貴族は 襪 (しとうず) という履物を用いていた。
平安中期には、革足袋の原型となるものが用いられ始めていたということで、
鎌倉期の宇治拾遺物語の中に、「猿の皮の足袋に沓きりはなして」 と、すでに足袋という言葉が
出てくる。
もっとも 今のような形かどうか。
近世以前、武士は足袋や襪などの履物は履かないものとされていた。
合戦の武装には毛履などの沓、革足袋、革製の襪のような物が用いられた。
鎌倉、室町初期は、足袋を鹿皮や猿皮をなめした革で作っていた。
武士の間で革足袋が普及すると、白の革足袋や、小桜などの模様の小紋足袋を履く習慣が生まれ、
その後、戦乱が広がるにつれ、軍装として革足袋の使用が一般化したということらしい。
武家の間では、足袋の使用については規定があった。
礼装の際や主君の前では素足であるのが正当とされたということで、
三余堂もこれに倣っている訳である。
江戸時代初期は革足袋が専らであった。主に輸入の鹿革が多く使用されていた。が、
鎖国の為に鹿革の輸入量が激減、明暦の江戸大火で防火用として革の羽織が流行し、
革の値段が高騰した という事が影響して、木綿足袋の普及に至ったということだ。
初期は晒木綿の布を重ね、補強に太い糸で田畑の畝のように縫ったそうだ。
当時の足袋はまだ革足袋の名残で 鞐(こはぜ) ではなく紐で止めていた。
江戸時代も足袋の使用に関する厳しい規定があった。
足袋の着用は50歳以上、10月1日から2月20日の間のみ。
病気等での足袋の着用は主君の許可にて 足袋御免 となる。
大奥も、足袋着用の期間が厳格に定められていたそうだ。 武家の男女礼装は素足である。
武家の間では人前で足袋を用いるのは無礼ということか。
もっとも 木綿足袋が普及すると共にし、有名無実化していったらしい。 さもありなん。
誰しも 麗しきおみあしとはいかんじゃろぅ! 冷えもよろしくない。
が、足袋御免の制度自体は文久2年(1862)年の武家服制改革まで存在していた。
公家にも指貫には勅許がないと襪を履くことはできないという制度も残っていたというが。
さてさて 一般庶民は如何に。
江戸初期、農民や町民にとって足の保護の為に使われる、作業用の履物、祭礼の衣装であった。
中期、商人などの町人の台頭で、日常生活にも足袋が取り入れられるようになっていった。
その習慣はやがて武士階級に取り入られるようになり、一般的な習慣になっていった。
日常生活で、武家階級は白足袋、町人の男は紺足袋や黒足袋、女は白足袋を用いたという。
もっとも それも立場や階級で紺足袋も白足袋もある。
必殺仕掛人の早乙女主水は紺足袋である。
橋蔵の平次は白足袋で、下っぴきの八五郎は紺足袋 … 。
まぁ テレビや映画のチャンバラを鵜呑みにしてはいけない。映像の演出というものがある。
農民はというと、それまでと同じく専ら作業用の履物であって、普段は素足。
紺足袋と白足袋
能や狂言が確立した頃、能は白に晒された鹿皮の革足袋が用いられ、
狂言は生成りの革足袋が用いられていたようである。
現在 狂言足袋は流儀などで多少違いがあるが、細かい黄色の縞のものや薄い黄色で
鹿革の足袋の名残をここにみる。
装束を付ける時、初めに着け、最後に脱ぐのが足袋である。
舞台で使用する足袋は 神田駿河台の店で誂る。足にしっくりと沿った足袋の提供あってこその舞台。
どちらも違わず高齢化が物作りに押し寄せて 老舗の足袋店も呑込もうとしている。
今日も足袋は舞台で三余堂を支える。
投稿日 2008年02月02日 10:10:30
最終更新日 2008年02月02日 10:10:47
【修正】
2008年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
恭賀新年

今年は 戌子 の歳になる。
閏の年で、なにかと 世情も喧しいことであろうと拝察し、年越し早々に近くへ初詣。
神様に懇ろにご挨拶と外へ出たが その手前のコンビニで ビールなぞ購入して
参道の入り口て゛遥拝! 謹賀新年!

平成戌子の新年 昭和戌子生れの三余堂 子の置物を飾る
平成20年、西暦2008年、何暦、カニ暦 ……
干支に六曜 二十四節季と 暦の中の言葉は 聞き慣れているようで いないようで。
いざ 今年は何の年かとなると 十二支はすぐに思い浮かぶが 十干のほうが心もとない。
ことしは 戊子 つちのえね となる。
国立国会図書館の日本の暦をご覧ぜよ。
http://www.ndl.go.jp/koyomi/kotoba/02_eto01.html
年頭にあたり 暦について一読するのもなかなか。ついつい 読みふける。
おまけに謎解きまで用意されて ふぅーむ!
ちょっとした 正月雑学習 である。

今年は 戌子 の歳になる。
閏の年で、なにかと 世情も喧しいことであろうと拝察し、年越し早々に近くへ初詣。
神様に懇ろにご挨拶と外へ出たが その手前のコンビニで ビールなぞ購入して
参道の入り口て゛遥拝! 謹賀新年!

平成戌子の新年 昭和戌子生れの三余堂 子の置物を飾る
平成20年、西暦2008年、何暦、カニ暦 ……
干支に六曜 二十四節季と 暦の中の言葉は 聞き慣れているようで いないようで。
いざ 今年は何の年かとなると 十二支はすぐに思い浮かぶが 十干のほうが心もとない。
ことしは 戊子 つちのえね となる。
国立国会図書館の日本の暦をご覧ぜよ。
http://www.ndl.go.jp/koyomi/kotoba/02_eto01.html
年頭にあたり 暦について一読するのもなかなか。ついつい 読みふける。
おまけに謎解きまで用意されて ふぅーむ!
ちょっとした 正月雑学習 である。
投稿日 2008年01月01日 2:26:49
最終更新日 2008年01月19日 21:39:10
【修正】
2007年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
案内望遠鏡 とはguiding telescope。
写真撮影用の望遠鏡に平行に取り付けてある望遠鏡で、視野広く対象星を
追跡し易くするために添えたものということである。
ということで 三余堂月次の補いにでもと始めたことであったが、反って 邪魔をしているかもしれない。その一つが 記事中の言葉の読みである。
すべて漢字にルビを施せば 事は簡単であったが、 サイト上でルビを打つのは
体裁良く仕上がらず、読めないような小さな字では致し方なく、
まぁ 小難しいことを書くわけでなし 大昔の岩波文庫のように なんでもかんでも
読み仮名、振り仮名は要るまいと判断したわけである。
まてよっ!
作家は漢字にルビを振ることでその小説の雰囲気や自らの主張を伝えんとしている。
貴方、貴女、をあなたと読ませたり、あんたと読ませたり。彼方もあなたと読むし、
我輩だの流石だのの読み方も 破れそうな紙製本にごちゃごちゃとルビをふった
岩波文庫で鍛えられた。
講談本や落語の本にも世話になったが。
既に使われなくなっていた 旧字体や書写体が読めるのは謡本のお蔭ばかりではない。
みんな読み仮名の御蔭で 普段日常的に使わずとも識っている。
しかも その道、その分野で 読みが違うことも 体感していた。
先月の案内望遠鏡の記事にもあるように 女郎花を謡では おみなめし と読ませている。
勿論 辞書でおみなめしは引ける。但し おみなえしへ と゛うぞ!
草子洗小町という謡に スサノウノミコトが登場するが ソサノウノミコトと読ませる。
以前 神社の老婦人が謡の稽古で 頑として 『私どもは すさのうでございます』 と
最期まで そのように謡っておられた。
まぁ 読み方も時代で変わるもので 他人事とかいて 平気でたにんごとと読む輩が居る昨今、
到頭、辞書もひとごとばかりでなく たにんごと と読むことを容認した。
寝台なぞは今でこそ しんだい特急あさかぜ というが、明治期にはもっぱら ねだい
と云ったそうである。 ちなみに吉行淳之介の小説に寝台 (ネダイ) を見つけた。
同じ文字を書いて どちらが正しいのへちまのと 喧々諤々。
大概 内ではこうでございます、で閑話休題となる。
最近は面白い辞書もででいる
ほとんどの場合 どれも正しい。呉音で読むか、漢音で読むかの違いである。
時は桓武天皇の御世、延暦年間に漢音が奨励された。
行政関連、学者は 遣唐使などによってもたらされた 長安風の発音を用いたという事のようだ。
それまでの呉音は仏教用語などとして今でも使用。
交易があれば言葉も流通する。大陸の地方の発音も伝えらた。
行灯(アンドン)の行は 中国江南地方の発音が伝わったということらしく 難解な読み方
とされても生きている。 漢音は行をコウ、呉音はギョウ。
例の宮内庁御用達は ごようだつが呉音、ごようたつが漢音 なじみの深い ごようたしは
何処から来たのやら ……。
近代アイテム
よめねぇやつは 辞書を引け!
もっとも 他人事のごとく多くの人の間違いが 正しいこと になることもある。
云いまわしが時代につれ変わり 文字も換わるからと 勝手に思い込みで読むのは如何かと。
辞書を引く習慣を身に付け わかりきっている字も確認し、他の読み方を探り、言葉を曖昧にしない。
辞書はきちんと案内をしてくれる。 何事も 然り。
山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ 加藤楸邨
三余堂にも山茶花が咲き始めた。人は はじめ さんさかと謂っていたそうである。
写真撮影用の望遠鏡に平行に取り付けてある望遠鏡で、視野広く対象星を
追跡し易くするために添えたものということである。
ということで 三余堂月次の補いにでもと始めたことであったが、反って 邪魔をしているかもしれない。その一つが 記事中の言葉の読みである。
すべて漢字にルビを施せば 事は簡単であったが、 サイト上でルビを打つのは
体裁良く仕上がらず、読めないような小さな字では致し方なく、
まぁ 小難しいことを書くわけでなし 大昔の岩波文庫のように なんでもかんでも
読み仮名、振り仮名は要るまいと判断したわけである。
まてよっ!
作家は漢字にルビを振ることでその小説の雰囲気や自らの主張を伝えんとしている。
貴方、貴女、をあなたと読ませたり、あんたと読ませたり。彼方もあなたと読むし、
我輩だの流石だのの読み方も 破れそうな紙製本にごちゃごちゃとルビをふった
岩波文庫で鍛えられた。
講談本や落語の本にも世話になったが。
既に使われなくなっていた 旧字体や書写体が読めるのは謡本のお蔭ばかりではない。
みんな読み仮名の御蔭で 普段日常的に使わずとも識っている。
しかも その道、その分野で 読みが違うことも 体感していた。
先月の案内望遠鏡の記事にもあるように 女郎花を謡では おみなめし と読ませている。
勿論 辞書でおみなめしは引ける。但し おみなえしへ と゛うぞ!
草子洗小町という謡に スサノウノミコトが登場するが ソサノウノミコトと読ませる。
以前 神社の老婦人が謡の稽古で 頑として 『私どもは すさのうでございます』 と
最期まで そのように謡っておられた。
まぁ 読み方も時代で変わるもので 他人事とかいて 平気でたにんごとと読む輩が居る昨今、
到頭、辞書もひとごとばかりでなく たにんごと と読むことを容認した。
寝台なぞは今でこそ しんだい特急あさかぜ というが、明治期にはもっぱら ねだい
と云ったそうである。 ちなみに吉行淳之介の小説に寝台 (ネダイ) を見つけた。
同じ文字を書いて どちらが正しいのへちまのと 喧々諤々。
大概 内ではこうでございます、で閑話休題となる。
最近は面白い辞書もででいる

ほとんどの場合 どれも正しい。呉音で読むか、漢音で読むかの違いである。
時は桓武天皇の御世、延暦年間に漢音が奨励された。
行政関連、学者は 遣唐使などによってもたらされた 長安風の発音を用いたという事のようだ。
それまでの呉音は仏教用語などとして今でも使用。
交易があれば言葉も流通する。大陸の地方の発音も伝えらた。
行灯(アンドン)の行は 中国江南地方の発音が伝わったということらしく 難解な読み方
とされても生きている。 漢音は行をコウ、呉音はギョウ。
例の宮内庁御用達は ごようだつが呉音、ごようたつが漢音 なじみの深い ごようたしは
何処から来たのやら ……。
近代アイテム
よめねぇやつは 辞書を引け! もっとも 他人事のごとく多くの人の間違いが 正しいこと になることもある。
云いまわしが時代につれ変わり 文字も換わるからと 勝手に思い込みで読むのは如何かと。
辞書を引く習慣を身に付け わかりきっている字も確認し、他の読み方を探り、言葉を曖昧にしない。
辞書はきちんと案内をしてくれる。 何事も 然り。
山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ 加藤楸邨

三余堂にも山茶花が咲き始めた。人は はじめ さんさかと謂っていたそうである。
投稿日 2007年12月01日 15:39:57
最終更新日 2007年12月01日 15:39:57
【修正】
2007年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
以前隣家に 萩の大株があった。
南側の塀越しに薄紅色の花を望んだ。
長月夕方になると まだまだ がんばる蝉の声に雑じって虫の音が聞こえ始める。
そんな頃 ちらっと見える萩の花に秋の七草を思った。
何処そこにありそうな 萩が花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花 だが
近年は なかなかお目にかかれない。
時節の移り目に無残な枯れ色を見せ、そのうちに 抜いてよいのやら、悪いのやらとなり…
いつの間にか 小さなちいさなみどりの芽が出、やがて 蚊の温床のように緑が茂る。
そんな 秋草を庭で愛でるのは 今 らしくないのか。
草なのか、木なのか、秋の七草は床の間の植物か。
尾花はススキ、萩は小低木だか草のお化けだか、
葛花は葛根湯、くず粉、その蔓は行李にもなるし、繊維で葛布もできる。
撫子の花も薄い紅をして 毎年じわじわと移動する多年草。
女郎花、能では おみなめしと云う。黄色の小花が傘状につく、利尿剤とか。
藤袴は 淡紫の小さな花が房状につく、そして 朝貌の花。これまた なんの古名か…
鵞毛庵の観た桔梗もよし、槿もよし、昼顔でもなんでもいいやぁ
朝顔市から届けられた宿根系の朝顔が毎年越冬する 霜月にも葉を繁らせる これぞ朝貌の花か
要するに ほっといても毎年花が付く。毎年、まいとし、何年も、なんねんも。
宿根草、 しゅっこんそうと音便にして云う。
地上部分は枯れるが 地下茎や根が残って翌年も、また次の年も芽を出す。
これが秋の七草だ。
秋の七草がそろそろ終わりに近づく頃 毎秋の繰り返しに正倉院展が始まる。
今年は10月27日から11月12日まで 奈良国立博物館で開かれる。
東京では さっぱりであるが 京都など地下鉄の正倉院展ポスターはみごとなものだ。
正倉院には9,000点もの宝物が納められており、奈良天平文化を伝えている。
今年の正倉院展は聖武天皇、光明皇后遺愛の品々、文房具などの70点が展示され
文様表現の優れた宝物が多く出展されるのが特徴とのこと。
第59回展となる今年は17点の初出展があるという。
うぅ〜む …… 。 興味のないものは一つとしてない正倉院の品々である。
正倉院の宝物を見る
正倉院の校倉 (あぜくら) はもと東大寺の倉で、光明皇后が亡き聖武天皇の遺品を
東大寺大仏に奉献したことに始まった。その後 大仏開眼会 (だいぶつかいげんえ) に
関わった物をはじめとして 仏具・調度・服飾、楽器類などあらゆる物が納められた。
宝物に及ばず 製作技法も西方を源流とするものが多々あるし、能の源流のひとつ
散楽の様子を識ることの出来るものもある。
過去の文化は今の文化、今の文化は未来の文化である。 てなこと云ってもこんな地球じぁな …
シルクロード紀行だの 西域の残照だのと 囲み記事にも事欠かない宝物殿である。
が、今年もそんな季節になったかぁ。≠ニ 隣の萩になりそうである。
枯れ草と 抜き取られる前にしっかり鑑賞しなくてはなるまい。
南側の塀越しに薄紅色の花を望んだ。
長月夕方になると まだまだ がんばる蝉の声に雑じって虫の音が聞こえ始める。
そんな頃 ちらっと見える萩の花に秋の七草を思った。
何処そこにありそうな 萩が花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花 だが
近年は なかなかお目にかかれない。
時節の移り目に無残な枯れ色を見せ、そのうちに 抜いてよいのやら、悪いのやらとなり…
いつの間にか 小さなちいさなみどりの芽が出、やがて 蚊の温床のように緑が茂る。
そんな 秋草を庭で愛でるのは 今 らしくないのか。
草なのか、木なのか、秋の七草は床の間の植物か。
尾花はススキ、萩は小低木だか草のお化けだか、
葛花は葛根湯、くず粉、その蔓は行李にもなるし、繊維で葛布もできる。
撫子の花も薄い紅をして 毎年じわじわと移動する多年草。
女郎花、能では おみなめしと云う。黄色の小花が傘状につく、利尿剤とか。
藤袴は 淡紫の小さな花が房状につく、そして 朝貌の花。これまた なんの古名か…
鵞毛庵の観た桔梗もよし、槿もよし、昼顔でもなんでもいいやぁ
朝顔市から届けられた宿根系の朝顔が毎年越冬する 霜月にも葉を繁らせる これぞ朝貌の花か要するに ほっといても毎年花が付く。毎年、まいとし、何年も、なんねんも。
宿根草、 しゅっこんそうと音便にして云う。
地上部分は枯れるが 地下茎や根が残って翌年も、また次の年も芽を出す。
これが秋の七草だ。
秋の七草がそろそろ終わりに近づく頃 毎秋の繰り返しに正倉院展が始まる。
今年は10月27日から11月12日まで 奈良国立博物館で開かれる。
東京では さっぱりであるが 京都など地下鉄の正倉院展ポスターはみごとなものだ。
正倉院には9,000点もの宝物が納められており、奈良天平文化を伝えている。
今年の正倉院展は聖武天皇、光明皇后遺愛の品々、文房具などの70点が展示され
文様表現の優れた宝物が多く出展されるのが特徴とのこと。
第59回展となる今年は17点の初出展があるという。
うぅ〜む …… 。 興味のないものは一つとしてない正倉院の品々である。
正倉院の宝物を見る

正倉院の校倉 (あぜくら) はもと東大寺の倉で、光明皇后が亡き聖武天皇の遺品を
東大寺大仏に奉献したことに始まった。その後 大仏開眼会 (だいぶつかいげんえ) に
関わった物をはじめとして 仏具・調度・服飾、楽器類などあらゆる物が納められた。
宝物に及ばず 製作技法も西方を源流とするものが多々あるし、能の源流のひとつ
散楽の様子を識ることの出来るものもある。
過去の文化は今の文化、今の文化は未来の文化である。 てなこと云ってもこんな地球じぁな …
シルクロード紀行だの 西域の残照だのと 囲み記事にも事欠かない宝物殿である。
が、今年もそんな季節になったかぁ。≠ニ 隣の萩になりそうである。
枯れ草と 抜き取られる前にしっかり鑑賞しなくてはなるまい。
投稿日 2007年11月01日 13:00:16
最終更新日 2007年11月01日 13:00:16
【修正】
2007年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
三余堂近くの八幡様の例大祭は、 今年、五年に一度の流鏑馬神事の年だった。
真夏の蝉が賑やかな時期から 参道に覆い被るように茂った木々の枝払いが
クレーン車を使ってなされ、9月早々には 馬場となる参道の整備がはじまった。
また、これまで神事所役のうち家臣の役を国学院の学生の奉仕に依っていたが、
今年は地元の青年も 的場、采揚、矢拾、覧筥の役として募集をした。
準備万端 、 さて当日 9月30日 ……
参道に流鏑馬の馬場を造る
準備万端
それまでの 30度を越す残暑の日々に替わって 11月半ばの気温と強い雨。
中止である。
この数年、9月の末から10月の初めは 必ず雨で祭囃子も湿り気味であった。
今までは櫓を組んで 朝7時から テケテンッ テケテンッ と例大祭を報せていた。
が、近年は 近隣からうるさいという苦情が出るようになったそうである。
今年は 櫓を止めた、囃子連中の朝も9時頃からになった。おまけに雨もちらついている。
なんともはや 言い難し。
ところで 能楽さんぽへよくお出掛け下さいました=@と 始めたこのサイトも一年になった。
号にしている三余(さんよ)とは、中国の魏の薫遇という人の
読書当以三餘 冬者歳之餘 夜者日之餘 陰雨者時之餘
(出典 魏志・王粛伝)
からの引用で 1年のうちで勉学は農作業(仕事)の出来ない冬の季節、
1日のうちでは夜、そして雨の日を有効活用せよ、といっている。
と 挨拶方々記した。せいぜい 飲んだくれて寝る前に 活用したいものだが。
遠くの祭囃子を聞きながら そんなことを想う というなら、ちと様になるが
鼻の先で ピーヒョロ テケテンッ では止めて欲しいという人もあろう。
こっちとら 浮かれちまって しごとになんねぇのが …
有志で造られた万灯神輿が青梅街道を練る
野中の一軒家とはいかない 昨今 音を出すことはどちら様も敏感になる。
初見参から 一年の祭りの日の雑感であった。
真夏の蝉が賑やかな時期から 参道に覆い被るように茂った木々の枝払いが
クレーン車を使ってなされ、9月早々には 馬場となる参道の整備がはじまった。
また、これまで神事所役のうち家臣の役を国学院の学生の奉仕に依っていたが、
今年は地元の青年も 的場、采揚、矢拾、覧筥の役として募集をした。
準備万端 、 さて当日 9月30日 ……
参道に流鏑馬の馬場を造る
準備万端それまでの 30度を越す残暑の日々に替わって 11月半ばの気温と強い雨。
中止である。
この数年、9月の末から10月の初めは 必ず雨で祭囃子も湿り気味であった。
今までは櫓を組んで 朝7時から テケテンッ テケテンッ と例大祭を報せていた。
が、近年は 近隣からうるさいという苦情が出るようになったそうである。
今年は 櫓を止めた、囃子連中の朝も9時頃からになった。おまけに雨もちらついている。
なんともはや 言い難し。
ところで 能楽さんぽへよくお出掛け下さいました=@と 始めたこのサイトも一年になった。
号にしている三余(さんよ)とは、中国の魏の薫遇という人の
読書当以三餘 冬者歳之餘 夜者日之餘 陰雨者時之餘
(出典 魏志・王粛伝)
からの引用で 1年のうちで勉学は農作業(仕事)の出来ない冬の季節、
1日のうちでは夜、そして雨の日を有効活用せよ、といっている。
と 挨拶方々記した。せいぜい 飲んだくれて寝る前に 活用したいものだが。
遠くの祭囃子を聞きながら そんなことを想う というなら、ちと様になるが
鼻の先で ピーヒョロ テケテンッ では止めて欲しいという人もあろう。
こっちとら 浮かれちまって しごとになんねぇのが …
有志で造られた万灯神輿が青梅街道を練る

野中の一軒家とはいかない 昨今 音を出すことはどちら様も敏感になる。
初見参から 一年の祭りの日の雑感であった。
投稿日 2007年10月08日 9:36:32
最終更新日 2007年10月08日 9:36:55
【修正】
2007年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
9月も衣替えになる。 夏は終了ということである。
この猛暑の夏休みに 今も学校は 読書感想文を宿題に出すのだろうか。
100選だの ナツイチだのと文庫を厳選して売り出す。
集英社文庫では 古典作品にふれてもらおうと、4作品を特別企画として
今までとは違った イメージの装丁に一新。
漱石のこころ、 武者小路の友情、 宮沢賢治 銀河鉄道の夜、 太宰の人間失格。
この 人間失格の装丁が 大変な人気なのである。
新装一カ月で 7万5千部売れたそうである。
人気コミック デスノート の小畑健氏の手になる表紙????
話だけでは さっぱりわからんので 先ずはこの文庫を入手とばかりに …
立ち寄る書店は どこも売り切れであった。
太宰の人間失格は 新潮社文庫の100選が平積みになるばかり。
新潮社装丁室のデザインも充分 今風で洒落ている。
しかたがないので 集英社文庫ニュース なるチラシで 装丁を確認する。
集英社文庫・ナツイチ
文庫本でさえ 乱造気味の出版物は 印刷、製本など 多少チャチになった気がするが
表紙をみて ンーッ! と興味を惹かれるなら 作戦成功である。
小学館の日本古典全集のカバーにも 人気イラストレーターを起用しているとか。
イメージで 先ず読者を 取り込むということであろう。
書店に新装版が並ぶと 中身を暗記するほど知った者も 思わず見直す。
同じ本でも装いが変われば つい手に取って見るものだ。
もはや 漱石も武者小路も古典といわれる現在
いままで ご縁の遠かった御仁にも 縁ができる。
新装版は 作品の命を延ばす。
PHP文庫
昭和60年初版後 この数年絶版であった本は
平成18年 新装出版になった。古びることのない歴史の本である。
が それは本ばかりではない。
繰り返し、繰り返し 時をかけて練り上げていく物は 多かれ少なかれ 同じである。
新装、改装は 長い時間を生き抜くものの課題である。 能もその一つ。
観世九皐会のホームページも 改装なった。
観世九皐会
この猛暑の夏休みに 今も学校は 読書感想文を宿題に出すのだろうか。
100選だの ナツイチだのと文庫を厳選して売り出す。
集英社文庫では 古典作品にふれてもらおうと、4作品を特別企画として
今までとは違った イメージの装丁に一新。
漱石のこころ、 武者小路の友情、 宮沢賢治 銀河鉄道の夜、 太宰の人間失格。
この 人間失格の装丁が 大変な人気なのである。
新装一カ月で 7万5千部売れたそうである。
人気コミック デスノート の小畑健氏の手になる表紙????
話だけでは さっぱりわからんので 先ずはこの文庫を入手とばかりに …
立ち寄る書店は どこも売り切れであった。
太宰の人間失格は 新潮社文庫の100選が平積みになるばかり。
新潮社装丁室のデザインも充分 今風で洒落ている。
しかたがないので 集英社文庫ニュース なるチラシで 装丁を確認する。
集英社文庫・ナツイチ

文庫本でさえ 乱造気味の出版物は 印刷、製本など 多少チャチになった気がするが
表紙をみて ンーッ! と興味を惹かれるなら 作戦成功である。
小学館の日本古典全集のカバーにも 人気イラストレーターを起用しているとか。
イメージで 先ず読者を 取り込むということであろう。
書店に新装版が並ぶと 中身を暗記するほど知った者も 思わず見直す。
同じ本でも装いが変われば つい手に取って見るものだ。
もはや 漱石も武者小路も古典といわれる現在
いままで ご縁の遠かった御仁にも 縁ができる。
新装版は 作品の命を延ばす。
PHP文庫
昭和60年初版後 この数年絶版であった本は
平成18年 新装出版になった。古びることのない歴史の本である。
が それは本ばかりではない。
繰り返し、繰り返し 時をかけて練り上げていく物は 多かれ少なかれ 同じである。
新装、改装は 長い時間を生き抜くものの課題である。 能もその一つ。
観世九皐会のホームページも 改装なった。
観世九皐会
投稿日 2007年09月01日 11:38:14
最終更新日 2007年09月05日 0:22:09
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