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2012年10月01日
日本刀の歌
カテゴリ : [案内望遠鏡]
宋代の詩人に欧陽 脩という人がいた。
日本では、藤原道長全盛の時代から奥州辺りが不穏な状況になってきた 前九年の役のころに
生きたことになる。
焼物で有名な景徳鎮の置かれた 景徳の末年に生まれ、六十数年の生涯だった。
科挙に合格後、高官への道が開け、詔書の起草に当る翰林学士等要職を歴任。
科挙試験を監督していたので、詩人、書家として有名な蘇軾などを見出だした。
学者、詩人でもある。
その欧陽 脩の作品に 『日本刀歌 』 というのがある。
日本はすでに遣唐使が廃止されて、宋とは正式な国交もなく、一般人の渡航は
禁止されていたという。が、僧侶の入宋はもとより 両国の商船は行き来があった。
宋の商人は主に博多や越前敦賀へ来航していたという。
越前守であった清盛の父、平忠盛は日宋の私貿易で、舶来品を朝廷に献上して
お覚えめでたしとなった訳だ。
日本へは宋銭、陶磁器、絹織物、香料や薬品、書籍や文具、絵画、経典と
あらゆるものが輸入され、日本の貨幣文化は大いに影響を受けたという事である。
日本からは硫黄などの鉱物や、日本の刀などが輸出された。
硫黄の輸出が始まったのは 宋で火器が発展した為のようだが、
宋には火器に使用する火薬の原料、つまり、硫黄を産出する思わしい火山がなく
硫黄の国内自給ができないので、有力な輸入先として日本に目を付けた。
喜界島に流され、一人ぼっちになった俊寛は 九州からやってきた商人に
硫黄と食物を交換して貰い、飢えを凌いでいたようである。
さて、日本刀。
最初にこの呼称を用いたのは、欧陽 脩の詩という。
日本では 刀、太刀、剣であった。 蛇足ながら 日本で、日本刀と呼ぶようになったのは 幕末以降、
西洋の刀剣との区別のためだったとか…
宋の文人にとって 日本が如何に魅力的なところかを 『日本刀歌 』が示している。
先ず、当時すでに宝刀と呼ぶにふさわしい刀が日本にあることを知っており、
買い付けにいく様子や、刀の外装や容貌などの美術的価値の高さを歌い、
日本の国は豊かで気風が良いと言っている。
且つ、始皇帝の命で不老不死の薬を求めて日本に来たことになっている叙福が、
焚書前の書物を沢山日本にもたらしているはずで、日本はそれらを大切に保存し
外部流出を禁じていたと…
宋の知識人たちは当時、日本というと、『中国の古書のある国 』と連想したようで、
先王の大典に比べれば、どんなに素晴らしい宝刀も錆びた短刀のようなもので
云うに足りない、と。そんな風に うたっている。
『日本刀歌 』
昆夷(伝説の名刀の産地) 道遠くして 復た通ぜず,
世に玉を切ると傳ふるも 誰か能く 窮めん。
宝刀は近ごろ日本国より出で,
越賈(越の国の商人) 之を滄海の東に得たり
魚皮にて 裝貼す 香木の鞘
黄と白の閑雑する 鍮と銅
百金もて伝えて 好事の手に入る
佩服すれば以って 妖凶を禳う可し
伝聞するに其の国は 大島に居り
土壤 沃饒にして風俗 好しと
其の先(先祖)の徐福は 秦民を詐り
藥を採り淹留して 丱童 老ゆ (叙福は童男童女を数千伴ったと史記にある)
百工の五種 之とともに 居り
今に至るも 器玩は皆な 精巧
前朝(唐)に 貢を献じてしばしば往来し
士人は 往々にして 詞藻に工なり
徐福行く時は書未だ焚かれず
逸書百篇 今 尚 存す
令(法律) 厳しく 中国に伝うるを許さず
世を挙げて 人の古文を識る無し
先王の大典は 夷貊に藏れ,
蒼波浩蕩として 津(渡し場)を通ずる無し
人をして 感激して 坐に流涕せしむ
渋たる 短刀 何ぞ云ふに足らん
思い込みとは云いながらも 宋の文化人にとって、あこがれの地 日本であった。
大海原の向こうに夢を見たのは 日本ばかりではない。
日本では、藤原道長全盛の時代から奥州辺りが不穏な状況になってきた 前九年の役のころに
生きたことになる。
焼物で有名な景徳鎮の置かれた 景徳の末年に生まれ、六十数年の生涯だった。
科挙に合格後、高官への道が開け、詔書の起草に当る翰林学士等要職を歴任。
科挙試験を監督していたので、詩人、書家として有名な蘇軾などを見出だした。
学者、詩人でもある。
その欧陽 脩の作品に 『日本刀歌 』 というのがある。
日本はすでに遣唐使が廃止されて、宋とは正式な国交もなく、一般人の渡航は
禁止されていたという。が、僧侶の入宋はもとより 両国の商船は行き来があった。
宋の商人は主に博多や越前敦賀へ来航していたという。
越前守であった清盛の父、平忠盛は日宋の私貿易で、舶来品を朝廷に献上して
お覚えめでたしとなった訳だ。
日本へは宋銭、陶磁器、絹織物、香料や薬品、書籍や文具、絵画、経典と
あらゆるものが輸入され、日本の貨幣文化は大いに影響を受けたという事である。
日本からは硫黄などの鉱物や、日本の刀などが輸出された。
硫黄の輸出が始まったのは 宋で火器が発展した為のようだが、
宋には火器に使用する火薬の原料、つまり、硫黄を産出する思わしい火山がなく
硫黄の国内自給ができないので、有力な輸入先として日本に目を付けた。
喜界島に流され、一人ぼっちになった俊寛は 九州からやってきた商人に
硫黄と食物を交換して貰い、飢えを凌いでいたようである。
さて、日本刀。
最初にこの呼称を用いたのは、欧陽 脩の詩という。
日本では 刀、太刀、剣であった。 蛇足ながら 日本で、日本刀と呼ぶようになったのは 幕末以降、
西洋の刀剣との区別のためだったとか…
宋の文人にとって 日本が如何に魅力的なところかを 『日本刀歌 』が示している。
先ず、当時すでに宝刀と呼ぶにふさわしい刀が日本にあることを知っており、
買い付けにいく様子や、刀の外装や容貌などの美術的価値の高さを歌い、
日本の国は豊かで気風が良いと言っている。
且つ、始皇帝の命で不老不死の薬を求めて日本に来たことになっている叙福が、
焚書前の書物を沢山日本にもたらしているはずで、日本はそれらを大切に保存し
外部流出を禁じていたと…
宋の知識人たちは当時、日本というと、『中国の古書のある国 』と連想したようで、
先王の大典に比べれば、どんなに素晴らしい宝刀も錆びた短刀のようなもので
云うに足りない、と。そんな風に うたっている。
『日本刀歌 』
昆夷(伝説の名刀の産地) 道遠くして 復た通ぜず,
世に玉を切ると傳ふるも 誰か能く 窮めん。
宝刀は近ごろ日本国より出で,
越賈(越の国の商人) 之を滄海の東に得たり
魚皮にて 裝貼す 香木の鞘
黄と白の閑雑する 鍮と銅
百金もて伝えて 好事の手に入る
佩服すれば以って 妖凶を禳う可し
伝聞するに其の国は 大島に居り
土壤 沃饒にして風俗 好しと
其の先(先祖)の徐福は 秦民を詐り
藥を採り淹留して 丱童 老ゆ (叙福は童男童女を数千伴ったと史記にある)
百工の五種 之とともに 居り
今に至るも 器玩は皆な 精巧
前朝(唐)に 貢を献じてしばしば往来し
士人は 往々にして 詞藻に工なり
徐福行く時は書未だ焚かれず
逸書百篇 今 尚 存す
令(法律) 厳しく 中国に伝うるを許さず
世を挙げて 人の古文を識る無し
先王の大典は 夷貊に藏れ,
蒼波浩蕩として 津(渡し場)を通ずる無し
人をして 感激して 坐に流涕せしむ
渋たる 短刀 何ぞ云ふに足らん
思い込みとは云いながらも 宋の文化人にとって、あこがれの地 日本であった。
大海原の向こうに夢を見たのは 日本ばかりではない。
投稿日 2012年10月01日 3:18:52
最終更新日 2012年10月01日 3:19:04
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