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2012年11月01日
蘇軾・蘇東坡
カテゴリ : [案内望遠鏡]
わが国では平安時代後期、大陸では宋代の話が続いた。 ついでに留めの話。
『日本刀歌 』の作者欧陽 脩が科挙の監督をして、蘇軾を見出だしたと記したが、
この蘇軾(1036〜1101 )は北宋代の政治家で、詩人、書家として高名である。
東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれ、その名に親しみを覚えるご仁もあろう。
黄庭堅(こうていけん)、米芾(べいふつ)と並ぶ 書に於ける宋の三大家だそうである。

地方官を歴任後、中央の官吏となるが、時の新法に反対して左遷されて、地方官へ逆戻り。
ついで、詩文で政治を誹謗したと、投獄され、黄州へ左遷。
左遷先の土地を東坡と名づけて、東坡居士と名乗ったそうな。
蘇軾は かの『赤壁賦』の作者で、この黄州時代に詠んだという。
が、この赤壁は自身も承知の上だったらしいが、三国時代の実際の古戦場ではなかった。
現在は、蘇軾が『赤壁賦』を詠んだ所は文赤壁、本物の戦場の方を武赤壁と呼んでいるそうだ。
蘇軾が、この黄州に流されている時に 悲運を嘆いたのが『黄州寒食詩巻』(こうしゅうかんしょくしかん)
という作品で、その書は多くの文字の頭が右に倒れている。文字が歪んでいるのだ。 
これが大家の字かぁ〜 と、ながめる。

蘇軾・蘇東坡


47歳のとき、自詠の詩2首を書いた快心の作だという。
唐代よりの伝統書法の上に独自の書風を表現したということなのだろう。
字形の変形、文字の大小、強弱、均衡があるのやらないのやら…   
何ともゆったりとしたものを伝える書は それまでの時代にはないものなのだという。

その後、旧法派が復権し、蘇軾も中央に復帰する。
師である欧陽 脩と同じく詔書の起草に当る翰林学士等要職を歴任した。
だが、またまた、再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷。
現在の広東省に流され、さらに海南島にまで追いやられたのは62歳の時だった。
66歳の時、新法、旧法両派の融和が図られると、ようやく許されるが、都に向かう帰路で病死。
流され続ける蘇軾は、豪快な詩風で宋代最高の詩人とされるという。

宋代は、それまでに長らく権力を掌握してきた貴族が 唐の王朝から勢力を失い始め崩壊する。
新興地主が力を得て 政治や社会構造の変化が起きた。
貴族中心の優雅な文化へ新しい社会層の革新の風が吹き込み、書法も変えたのだろうか。
自由で動的な清新の気は わが国も貴族から兵の時代への過渡期であった。






投稿日 2012年11月01日 0:13:49
最終更新日 2012年11月01日 0:14:08
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