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2015年10月01日
“ヒトはこうして増えてきた”って言われたって…
カテゴリ : [案内望遠鏡]
少子高齢化で産科医院が激減し、小児科医院も減った。
そこで、数年前から近隣の診療所は小児科診療を始める。
ママの健康も大事だからと、婦人科診療も始まった。
待合室は杖をつく老人と就学前の子供のおしゃべりや、隣に座る年寄りに
子供の方が、得意げに絵本を読み聞かせる姿が見られるようになった。 
甲高い子供の声は 体調不良の身には少々厳しい。が、待合室は明るくなった。 
仏頂面の中高年ばかりでは体調だけでなく、心も不調になるというものである。

そもそも、日本列島で先史時代から今に至るまで、ヒトの数はずっと増えてきたのだろうか。
近年は科学技術の進歩で遺跡発掘調査の結果、どんどんと歴史が塗り替えられる。
すべて未解明と云えば無難だろうが、日本列島のヒトの遺伝形質が多様な処をみると、
何度にも亘って移住を繰返したらしい。人骨から判明出来れば容易なのだろうが、
この列島の土地は、ほとんどが酸性土壌で、人骨が保存されにくいという。が、その他の
発掘などから3万8千年くらい前には、どうも、ヒトが生活していたらしい。

旧石器時代が終わり、1万6千年程前からは縄文時代。
縄模様の土器を持つこの文化は、九州では3千年くらい前まで、東北や関東では2千3百年
くらい前まで続いたという。 縄文人は早くから定住した狩猟採集民で、一万年以上前に遡る
定住集落が鹿児島の上野原遺跡や、静岡の大塵窪遺跡で発見されている。
古代メソポタミアでの≪農業に先立つ定住≫と同じ頃なのだそうだ。
縄文人の遺跡からは東北をはじめとする東日本のほうが、近畿以西より人口密度が高く、
食物になる植物や、河川などで生息する魚貝は勿論、シカやイノシシなども豊富だったの
であろう。 そのうちに 農耕らしきものが始まる。

日本列島に古くから居住していたのが “縄文人”。弥生時代に朝鮮半島から渡来したのが、
“弥生人” という事だが、最近のゲノム分析によると両者の混血が多くなされた可能性もある
というから、事は複雑。 日本人起源については、これからも飽くなき研究が続くのだ。
ところで、生産性の高い水田稲作は弥生時代、紀元前10世紀まで遡る。
が、これは専ら西日本でのこと。紀元前4世紀頃は東北地方、紀元前3世紀頃に関東地方に
伝播したらしい。こうなると、人口は西日本の方が多くなる。 
列島の人口は1万3千年前の縄文時代早期には、ほぼ2万人。 その後は増加を続け、
6千年前には26万人。 この時の1平方キロ当たりの人口密度が0.76人。
狩猟採集の民としては高い数値なのだそうだ。 そんな頃から日本は混んでいた。 
が、4千年前縄文後期なると10万人を切っていたという。 気候の変化、人口増加による
食物資源の不足、移住者による感染症の影響などがあっかもしれない。
しかし、弥生時代にはなんと、百万に達していたらしい。


奈良時代なると古文書から人口推定が可能になる。450万の人口はあったようで、その後
900年代になると640万強となっていた。 1300年には人口密度が1平方キロ当たり
25人となり、当時としては世界最高のレベルだったという。
ただ、必ずしも増加率は右肩上がりではなかった。自然条件の変化は勿論、そこには大きく
社会機構の変化が関わったようである。 荘園制の時代から武士の誕生、戦国時代へ。
そして江戸、ご維新、戦争、戦争。  昭和から平成へと人口変化は文化を映している。
当然、地球の上どちらも、こちらも同様に大きな問題を抱えて…

長くなってきた夜に 大塚柳太郎博士の
 『ヒトはこうして増えてきた』  ―20万年の人口変遷史−(新潮選書)を読む













投稿日 2015年10月06日 16:29:24
最終更新日 2015年10月06日 16:31:01
修正