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2015年04月01日
富士の巻狩
カテゴリ : [案内望遠鏡]
建久4年(1193年)孟夏、源頼朝が開催した富士の巻狩で、仇討ちがあった。
曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討ったのである。
巻狩というのは今でも祭儀として残る地方があるというから、本来は『お山の神様のご意向伺い』
といった意味を持つ神事であったらしい。
それが、武士が誕生した中世の頃には軍事訓練を兼ねたようで、
狩場を多人数で四方から囲い込みながら、獲物を追いつめるという大規模な狩猟となっていた。
富士の巻狩主催の頼朝は、既にこの年下野那須野や、信濃三原野などでも大規模な巻狩をしていた。
征夷大将軍という、武家政権の首長としての誇示の一環で、
この富士の裾野で行われた巻狩も 御家人達を総動員して、 山の神対する感謝の儀式を捧げ、
盛大な酒宴を開いたという。 そこで仇討ち事件勃発! というのが曾我兄弟の仇討ちである。
この曾我兄弟の仇討ちと伊賀越えの仇討ち、赤穂浪士の討ち入りが、
日本三大仇討ちということになっている。
赤穂浪士の討ち入りはご存知「忠臣蔵」、伊賀越えの仇討ちはいわゆる「鍵屋の辻の決闘」
のことである。これは寛永11年(1634年)秋に渡辺数馬と荒木又右衛門が、数馬の弟の仇
河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った話で、当然ながら多くの小説やら映画になっている。
で、三大仇討の最も古いのが曽我兄弟の一件。
そもそもの事件は、所領争いで、工藤祐経は叔父の伊東祐親に恨みを抱いていた。
祐経は刺客に祐親を待ち伏せさせたのである。
刺客が放った矢は何と、一緒にいた祐親の嫡男の祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。
この刺客は大失敗!当然すぐに討手に殺された。
何しろ 似て非なる 祐(すけ)さんという名ばかりで、角さん登場はおろか、なかなか曽我兄弟に
行きつかない。 が、今しばらく我慢を…
未亡人となった祐泰の妻は曾我祐信へ再稼。
遺児の一萬丸と箱王丸兄弟は曾我の里で成長したのであった。
では、甥の恨みを買った不運な伊東さんち。
その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ死ぬ。
刺客を差向けた甥の工藤祐経は、さっさと源頼朝に従っていた。
一方、祐親の孫である一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗る。
弟の箱王丸は、箱根権現社に稚児として預けられていたが、源頼朝が箱根権現に参拝した際
箱王丸は敵の工藤祐経を見つけて復讐を試みる。
ところがおっとどっこい! 討つどころか逆に祐経に諭されてしまう。
おまけに「赤木柄の短刀」を授けられ… 中略して…
その後 箱王丸は縁戚の北条時政を頼り元服し、曾我五郎時致となった。
またまた 略して、富士の巻狩。
これには当然、工藤祐経も参加していた。
巻狩最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入って、祐経を討ち果たす。
この時、例の「赤木柄の短刀」登場なのだが。 話は 少々すっとばして…
騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。
兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれたのである。
弟の時致はというと、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられた。
と、見てきたかのようにいうが、芝居やらなんやらになっているので、ご容赦。勿論 能にも「夜討曽我」がある。
実態は兎も角、翌日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った遠因、心持を話す。
頼朝は助命も思うが、結局、祐経の遺児に請われて時致を斬った。
というのが 曽我兄弟の物語。
そんなこんなで、この事件の直後、鎌倉では頼朝の消息未確認となり、頼朝暗殺だの、
弟の謀反だのとややこしいことになって…
武士社会での仇討ちの意味やら重みを知らしめた話であった。
三余堂 4月12日 観世九皐会例会で 能 『小袖曽我』を勤める。
曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討ったのである。
巻狩というのは今でも祭儀として残る地方があるというから、本来は『お山の神様のご意向伺い』
といった意味を持つ神事であったらしい。
それが、武士が誕生した中世の頃には軍事訓練を兼ねたようで、
狩場を多人数で四方から囲い込みながら、獲物を追いつめるという大規模な狩猟となっていた。
富士の巻狩主催の頼朝は、既にこの年下野那須野や、信濃三原野などでも大規模な巻狩をしていた。
征夷大将軍という、武家政権の首長としての誇示の一環で、
この富士の裾野で行われた巻狩も 御家人達を総動員して、 山の神対する感謝の儀式を捧げ、
盛大な酒宴を開いたという。 そこで仇討ち事件勃発! というのが曾我兄弟の仇討ちである。
この曾我兄弟の仇討ちと伊賀越えの仇討ち、赤穂浪士の討ち入りが、
日本三大仇討ちということになっている。
赤穂浪士の討ち入りはご存知「忠臣蔵」、伊賀越えの仇討ちはいわゆる「鍵屋の辻の決闘」
のことである。これは寛永11年(1634年)秋に渡辺数馬と荒木又右衛門が、数馬の弟の仇
河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った話で、当然ながら多くの小説やら映画になっている。
で、三大仇討の最も古いのが曽我兄弟の一件。
そもそもの事件は、所領争いで、工藤祐経は叔父の伊東祐親に恨みを抱いていた。
祐経は刺客に祐親を待ち伏せさせたのである。
刺客が放った矢は何と、一緒にいた祐親の嫡男の祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。
この刺客は大失敗!当然すぐに討手に殺された。
何しろ 似て非なる 祐(すけ)さんという名ばかりで、角さん登場はおろか、なかなか曽我兄弟に
行きつかない。 が、今しばらく我慢を…
未亡人となった祐泰の妻は曾我祐信へ再稼。
遺児の一萬丸と箱王丸兄弟は曾我の里で成長したのであった。
では、甥の恨みを買った不運な伊東さんち。
その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ死ぬ。
刺客を差向けた甥の工藤祐経は、さっさと源頼朝に従っていた。
一方、祐親の孫である一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗る。
弟の箱王丸は、箱根権現社に稚児として預けられていたが、源頼朝が箱根権現に参拝した際
箱王丸は敵の工藤祐経を見つけて復讐を試みる。
ところがおっとどっこい! 討つどころか逆に祐経に諭されてしまう。
おまけに「赤木柄の短刀」を授けられ… 中略して…
その後 箱王丸は縁戚の北条時政を頼り元服し、曾我五郎時致となった。
またまた 略して、富士の巻狩。
これには当然、工藤祐経も参加していた。
巻狩最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入って、祐経を討ち果たす。
この時、例の「赤木柄の短刀」登場なのだが。 話は 少々すっとばして…
騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。
兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれたのである。
弟の時致はというと、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられた。
と、見てきたかのようにいうが、芝居やらなんやらになっているので、ご容赦。勿論 能にも「夜討曽我」がある。
実態は兎も角、翌日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った遠因、心持を話す。
頼朝は助命も思うが、結局、祐経の遺児に請われて時致を斬った。
というのが 曽我兄弟の物語。
そんなこんなで、この事件の直後、鎌倉では頼朝の消息未確認となり、頼朝暗殺だの、
弟の謀反だのとややこしいことになって…
武士社会での仇討ちの意味やら重みを知らしめた話であった。
三余堂 4月12日 観世九皐会例会で 能 『小袖曽我』を勤める。
投稿日 2015年04月01日 9:41:26
最終更新日 2015年04月01日 9:43:11
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