http://nogakusanpo.maya-g.com
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2008年07月01日
吊花、つりばな という落葉低木がある。
五月の連休前後に 密やかに緑淡色からほんのり赤紫の小さな花柄を下げる。5ミリほどの花である。
結んだ実は秋に熟して紫紅色になり、5個に裂開する。そして、目にも鮮やかな朱赤の種がのぞく。



錦木塚伝説 その壱
三余堂吊花 

錦木塚伝説 その壱  吊花の実がはじけて



秋の紅葉が錦の織物のように美しいところから 錦の木、錦木の名前で知られる低木がある。
カエデ、スズランノキと並び世界三大紅葉樹のひとつのなだそうだ。
枝に矢筈のような羽がある。
弓の弦を受ける矢筈、やはずのような羽を枝につけているので 見つけるのが容易い。
若枝は緑色。やがて表皮を突き破って、板状の羽根ができる。カミソリの刃のように。
羽根は年々大きくなるが、4年目には成長をやめるらしい。

錦木塚伝説 その壱ニシキギ
花も実も 吊花 とそっくりである。
三余堂の庭には 秋の錦を愛でるために 錦木があった。
ややもすると朱赤の実がはじけるまで 気づかれないままにいる吊花もある。
日陰で絶えた錦木、多少は日を浴びながらも 余命いくばくかと心配な吊花。
ともに ニシキギ科ニシキギ属。ご親戚。


昔 奥州の縁組の風習で 男が女の家の門に錦木を立て、応ずる心があれば家に取り入れた。
取り入れがなければ さらに加えて立て、千束を限りとしたという。
錦木は、恋文の役目をたした鹿角の風習であった。

立てそめてかへる 心は一の千束 (ちづか) まつべき心地こそせね  山家集

世阿弥の作という能 錦木は、この話を題材にしているといわれている。

JR花輪線十和田南駅より徒歩1分。
命あるときには結ばれなかった悲恋物語として語り継がれる錦木塚がある。













投稿日 2008年07月02日 11:21:38
最終更新日 2008年07月02日 11:21:38
修正
カテゴリ : [案内望遠鏡]
錦木塚記事 編集中

能 錦木の題材となる 錦木塚へ錦木塚





錦木塚 



秋田県鹿角市  錦木伝説の地
              能 錦木は世阿弥の作といわれる



投稿日 2008年07月01日 0:10:38
最終更新日 2008年07月01日 0:10:38
修正
2008年06月20日
三余堂が度々訪れる秋田は美人で名高く、その代表が小野小町。 絶世の美女であり歌人としても優れた小野小町は、諸説ありますが、秋田の雄勝というところが出身地とされています。

能にはこの小町を題材にした曲目に「草子洗小町」「通小町」「鸚鵡小町」「関寺小町」「卒都婆小町」があり、優れた歌人、深草少将の百夜通い、年老いて乞食となった姿などが描かれています。


小野小町La plume d’oie©鵞毛庵 2003

草子洗小町 (画像はクリックすると拡大)

霞立てば遠山になる朝ぼらけ
Quand brume s’élève,
lointaines paraissent les montagnes dans l’aube indécise
平筆でローマ時代の書体リュスティカの重ね書きの上にカラス口で自由書体。 
 La plume d’oie©鵞毛庵 2005  小野小町   

卒都婆小町 (画像はクリックすると拡大)

花を佛に手向けつつ 悟りの道に入らうよ 悟りの道に入らうよ
De mes mains tendues offrant des fleurs au Bouddha,
je veux entrer en la voie de l’illumination, je veux entrer en la voie de l’illumination
竹や葦のカラム(ペン)を使用して自由書体。

小野小町といえば能「通小町」の題材でもある有名な深草少将の百夜通い。一説には、少将に毎夜芍薬の花を持参させたというのがあり、また、百夜目の逢瀬がかなわなかったことに由来して、その昔は小町が植えたとされた99本の枝をつける芍薬があったとか。

生誕地とされる秋田県の雄勝郡雄勝町(現在は湯沢市)では、毎年6月に「小町まつり」が催され

小町芍薬苑は6月が芍薬の花まつり。

130種類6000株植えられているなんて、今頃はきっと素晴らしい光景でしょう。芍薬苑のサイトの図鑑に「小町」の名のついた芍薬がないのが意外な気もするけれど、新幹線やお米にお株を取られたのかな? 

          
                小野小町 

こちらの芍薬は「サラベルナール」。
その名前から、おそらくフランス人が改良した品種なのだろうと思います。サラ・ベルナールSARAH BERNHARDT(1844〜1923)はフランスの舞台女優として一世を風靡した人です。
立てば芍薬と、容姿端麗な女性を形容しますが、これは花も大きくて厚みがあり端麗というより豪華絢爛。

庵主は立てばギクシャク.....


投稿日 2008年06月21日 5:50:41
最終更新日 2008年06月21日 5:51:36
修正
2008年06月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
秋田から 羽後境につく     JR東日本 北の駅舎風景 壱 
                      JR東日本奥羽本線羽後境





JR東日本 北の駅舎風景 壱  秋田県大仙市協和町 唐松能舞台へ
秋田県中央部に位置していた協和町は2005年3月に周辺の
大曲市、太田町、神岡町、中仙町、仙北町、西仙北町、南外村と合併し、
大仙市 だいせんしとなった。


まほろばの里と称し唐松岳の麓に整備された史跡公園に能舞台がある。
現存最古の京都西本願寺の北能舞台をモデルにしたという。
1990年にふるさと創生資金を活用して造られた。

この羽後境駅から向かう。
  

              JR東日本 北の駅舎風景 壱  
                 駅舎を見る





投稿日 2008年06月12日 1:06:50
最終更新日 2008年06月12日 1:07:27
修正
2008年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
松下電器産業から 2008年4月末 待っていまた! の新しい乾電池
【EVOLTA エボルタ】が発表された。
アルカリ電池を進化させた製品で さらなる長持ちと 10年間の使用推奨期間を誇る。
つまり10年は保存がきくということである。 災害・非常用等の備蓄用には結構な代物だ。


エボルタ登場     EVOLTA エボルタ君グランドキャニオンを登る


乾電池の多くには、使用推奨期限が刻印されている。あくまで 使用開始をする推奨する期限で
期限までに使い終わるようにと云っているのではないらしい。
このエボルタは 従来のアルカリ乾電池より電力容量が大きく 電圧が落ちにくいということだ。
デジカメや音楽プレーヤー向きという。
まぁ 取敢えず デジカメと携帯ラジオで たまにお世話になる程度であるが……


EVOLTA エボルタ君グランドキャニオンを登る  マンガン電池からエボルタまで


最も歴史の古いマンガン乾電池は 素材が安価で、安く作れるが 容量が小さい。
電池の生産量が8割という アルカリ電池は マンガン電池より 容量は大きいが 
デジカメに対応できるほどの力はなく、電圧が下がってしまう。

そこで ニッケル乾電池登場!

正確にはニッケルマンガン乾電池と云うのだそうだ。
松下電器産業が2004年4月1日に発売した乾電池である。
オキシライド乾電池のことだ。
この5月まではこれをデジカメに利用していた。 が、これは 初期の電圧が高くなるために
豆球のライトや玩具などには不向きで 製造元である松下電器産業は使用不可としている。

この4年後の今年 オキシライドの欠点がなく ほぼすべての機種に利用でき 長持ちする電池誕生。
アルカリ乾電池 エボルタ である。
単三2本を背中に背負って ロボット EVOLTA君は グランドキャニオンの540メートルの崖を登った。



http://evolta.jp/EVOLTA エボルタ君グランドキャニオンを登るエボルタ君


乾電池は 明治20年 日本の時計技師屋井先蔵が「屋井式乾電池」を発明。
その前後で特許の取得をしている ドイツのガスナー、デンマークのヘレンセン がいるが
屋井先蔵せんせいの御蔭で 何と豊かな日常を過ごしているか。

兎にも角にも 乾電池は日本人の発明である。 
素晴らしき発明に 有難く感謝して カセットを聴く。  CDでなく MDでなく。
そして 謡でなく トラゾウを。














投稿日 2008年06月02日 11:16:45
最終更新日 2008年06月02日 11:17:13
修正
2008年05月20日
巴里も新緑生い茂った季節。この時期になると公園や花壇には薔薇と並んでアイリスが咲き誇ります。
このアイリスを見ると、大概の日本人が 「いずれアヤメかカキツバタ」 と悩むところの 文目 杜若 花菖蒲 が話題に。


        いずれ文目か杜若 
             La plume d’oie© 鵞毛庵 2003
                  
こちらは「杜若」の作品に用いた頭文字の装飾部分の試作。完成品(現在鎌倉能舞台で展示していただいています。)は こちらで。      

ゴティックスタイルで装飾頭文字のバックになっている柄は業平菱模様。「杜若」を演じる際の装束からデザインしています。花はもちろん「かきつばた」で花びらに白い筋、地の色に陰と光を重ねて描いてゆく中世装飾画の技法を用いています。

ではアヤメはどうかというと、花びら中央に黄や白の網目模様が入っているというのが違い早分かりのポイント。

さてはて花菖蒲は?


いずれ文目か杜若 La plume d’oie© 鵞毛庵 2008

初節句のお祝いに描いた装飾文字モノグラムです。羊皮紙に頭文字のCはゴティック風にアカンサスの葉模様、端午の節句なので兜と花菖蒲をあしらいました。 (イグアナは...お祝い先のお宅の家族の一員)。

花菖蒲は青紫系や黄色などで、花びらに黄色い筋。でもここでは筋目に光が当たっているように描いてあるので、こうやって見るとどの花なのか。。。

そして、ここでまた本来は端午の節句には花菖蒲ではなくて菖蒲だというややこしいお話。

菖蒲はサトイモ科の植物で、「尚武」にあやかって発音が同じということから端午の節句に欠かせないものとなり、菖蒲湯にも浸ったりしますね。この菖蒲の葉に似た植物で綺麗な花が咲くものを花菖蒲と呼ぶようになり、両方が混同されてしまい今に至っています。

筋目が白いのもあれば黄色いのもあるし、光琳の燕子花図だって黄色い筋目もあったりして...やはりいずれが何とやら。

しかし、どれもみなアヤメ科アヤメ属の同じ花なのです。

従って西洋ではすべてアイリス(イリス)と呼ばれて、多くみかけるのはジャーマンアイリス種です。色も大きさもさまざまに品種改良されていて綺麗ですが、今風に言うならば、アヤメや杜若が醤油系だとすれば、こちらのアイリスはソース系とでも。


                      いずれ文目か杜若 パリの公園にて

このジャーマンアイリスの日本語名称はドイツアヤメ。アヤメというぐらいですから、花びらの模様は確かに網目です。
投稿日 2008年05月21日 4:48:17
最終更新日 2008年05月21日 4:50:07
修正
2008年05月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
桜の花に別れを告げると あっという間に 景色の色が変わる。
若葉 青葉の季節になった。
若葉して 御目〈おんめ〉の雫〈しづく〉ぬぐはばや 
と 奈良の唐招堤寺の鑑真和上の像を拝した芭蕉がよんだ。
境内を覆うみずみずしい若葉で 布教の為の渡来に苦労して失明した和上の御目を
ぬぐって差し上げたいということであろう。
その年の新しい緑には力がある。


街路樹も日、一日と色濃くなって 一年中で最も緑を感じる季節となった。
街路樹は新しい緑となる。
銀座の柳も、練馬の欅も、小さな芽吹きが 柔らかな新緑、そして 胸を張るような若い緑を湛える。
篠懸 すずかけも、花水木も、花が終わって その葉が車の騒音を吸い取っていく。
そのなかに青梅街道の 銀杏もある。 杉並区の木に指定されている。




またたく間に繁り始めた銀杏 わかばの緑

青梅街道は起点を東京都新宿区の新宿大ガード西交差点、青梅市を経由し、
東京23区の新宿区、中野区、杉並区、練馬区を突き抜けて 山梨県甲府市に至る。

慶長年間の1603年、青梅で採れる石灰を運搬する路として整備されたという。 
江戸城築城のためだ。当時の名称は成木街道であった。
江戸時代の中頃には すでに青梅街道と呼ばれていたらしい。
明治2年、新宿と田無間に乗合馬車が開通。
大正10年に、新宿・荻窪間に路面電車開通。
昭和37年、青梅街道の地下に現在の 東京メトロ丸ノ内線が 荻窪駅まで開通。
これにともない 路面電車は昭和38年に廃止された。



青梅街道善福寺交差点 銀杏並木 わかばの緑



杉並区を南北に分けていくこの青梅街道。
晩秋は金色に輝き、冬は太陽の恵みを大地にもたらすべく 葉を落とす銀杏の街路樹。
今 灼熱の夏に涼風を送るために 若葉を湛えはじめた。




常緑の木々には新緑の季節は落ち葉の季節でもあるわかばの緑




投稿日 2008年05月13日 21:22:27
最終更新日 2008年05月13日 21:22:55
修正
2008年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
中国大陸でまだ秦が天下を統一しない頃、書物の材料は竹と木であった。
竹は1メートルに満たない長さの簡 、つまり竹のふだで、それに8字から30字くらいを1 行に書く。
100 字程度を書く時は、木の札を使っていた。
それ以上文字を書くには 竹や木の簡を何本も 鞣革 なめしがわで編み連ねた冊をつくる。
冊 さく という字は簡をなめし革でつらねた象形文字なのだそうである。
中国の最も古い書物の形態だ。


紙が発明される以前は 竹や木の札、竹簡、木簡、が多く用いられてきたが、帛 はくもあった。
秦の始皇帝以前の大陸では帛も書写の材料となった。絹製の布である。
帛を書物とする場合には もっぱら 軸をつけて巻いた巻子本、かんすぼんの形態をとったらしい。
安宅の関で武蔵坊弁慶が … それ つぅ〜ら つぅら … 
と読み上げた巻物の形を思い浮かべられたし。
後に始皇帝となる 秦王政を暗殺に行った 荊軻が剣を忍ばせていったのは 帛の巻子であった。
絹でできた帛は大変に高価で 特別なものであったのだ。
4月鵞毛庵の記事 でも触れているが 書物は内容、形態ともにまさに宝物であった。


紙の発明は ずっと時代が下って後漢時代 、世界中の書物にとっての大革命ということだ。
その後 紙がもっぱら書物の材料となる。書物の形も変化する。
日本へは奈良時代に伝わった巻子本。
仏典などに利用されて 経巻や法帖類で目にすることの多い折本、 おりほんは習字手本や
揮毫帖などにも用いられている。


折本 書物の綴じ


折本の背の部分を糊づけしたもので、広げると風にひるがえるようになる 旋風葉 せんぷうよう。
料紙を二つ折りにして重ね、折目の部分に糊づけした粘葉装 でっちょうそう。
三井家所蔵の古今和歌集などにこの装丁が見られ 平安末期には日本ですでに行われていた。
鎌倉、室町、江戸期に至るまでこの様式は続いていたという。

粘葉装は唐代に盛んで、宋代には益々増大していった。
が、糊を一枚ごとに入れる為 虫害を受けやすい。
そこで 糊で貼り合わせる代りに糸で綴じる方法が案出された。
これらを経て糸で綴じた綫縫 せんぼう に至る。これは大陸から 朝鮮や日本にも伝わって
日本では列帖装れっちょうそう、大和綴 やまととじなど、独自の方法が生まれたということだが。
もっぱら袋綴 ふくろとじと言っている。
普通の和装本に使用されているものである。 


四つ目綴じ書物の綴じ


生活に溶け込んで常に目にする、四つ目綴じの本。 確認すると明治何年、大正何年と印されている。 
そう 謡本。
目にする謡本は 一冊一冊を手で製本、装丁、糸針で綴じる 宝物ということである。
糸の切れた物は 綴じ替えながら受け継がれていく。
華やかに飾る中に 実用の要点を押さえた綴じ方には いろいろな工夫や流行がある。
四つ目綴じの本が 康煕王朝に流行った康熙綴じに、麻の葉綴じにと変身していく。
帰国中の鵞毛庵は 和綴じの講習で腕に磨きをかけていた。





下から 麻の葉綴じ、康煕綴じ、亀甲綴じ書物の綴じ










投稿日 2008年05月02日 7:57:57
最終更新日 2008年05月02日 7:58:24
修正
2008年04月20日
ちょっとお祝い事があり宝尽しのイニシャル。

                   宝尽し  La plume d’oie©鵞毛庵2008               
              
書体はLOMBARDE(ロンバルド)といって、13世紀以降のゴティック書体のテキストの頭文字などに使われています。
従来のゴティックの写本の装飾頭文字のスタイルを現代風さらに和風にアレンジしています。


宝尽し
従来のスタイルで書かれた作品 La plume d’oie©鵞毛庵 2000

イニシャルのHは亀甲、Mは七宝で埋めてアカンサスの葉をあしらい、和風のおめでたい鶴亀と宝尽しにしました。

宝尽しは、もともと中国で瑞祥を表した道具類を集めた文様が室町時代に日本に取り入れられたもので、当時の貴重な品、縁起の良い品物で埋めつくした文様です。


               宝尽し 宝尽しの袱紗


このイニシャルでは分銅、宝珠、宝鑰(ほうやく)、打出の小槌、金嚢(きんのう)、丁子(グローブ)、書物(謡本)を配しました。

今の時代では、え〜〜?どうしてこれが縁起よいの?と思うような品物ばかりですが、昔はさまざまな理由から珍重されていたものです。

「分銅」は秤のおもりですが、金や銀で分銅型に鋳造してお金の代わりに非常時に備えたことから蓄えのシンボル。

「宝珠」は密教の法具で、如意宝珠とも呼ばれ、金銀財宝望むものなら何でも出せるというもの。

「宝鑰(ほうやく)」とは鍵のことで、蔵の鍵をかたどったもので、蔵ということから財産を象徴。

「打出の小槌」は一寸法師のお話にもありますが、望みを何でもかなえてくれるもの。

「金嚢(きんのう)」はお金を入れる巾着。巾着には香料やお金、お守りなど大切なものを入れていました。

「丁子(グローブ)」は丁字とも書き、香辛料のグローブです。平安時代に日本に輸入され、その芳香と希少価値から珍重されたもの。香料のみでなく、染料、薬にも使われました。ここで用いたデザインは、丁子入れです。今ではスーパーでも普通に売っている香辛料ですが...

「書物」は巻子で表されることが多いですが、ここでは書物の形で謡本です。かつては巻物や書物は知識の宝庫とされ、現在では考えられないほどとても大切にされていました。

宝珠や打出の小槌はポケットに忍ばせたいかもなぁ。
投稿日 2008年04月20日 12:45:50
最終更新日 2008年04月20日 12:46:11
修正
2008年04月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
秋田の久保田城址ではまだ堅い蕾をつけていた桜は 東京で桜挿頭の様相を呈していた。
その 一週間後 三余堂は中山道の中津川にかかる花を愛でた。

中津川の支流 四つ目川の桜中津川の花見

中津川は中山道にある。
江戸時代に五街道が整備されて中山道は お江戸の日本橋から京三条大橋までの
六十九の宿場を持つ。
日本橋から数えて四十五番目の宿場が中津川である。
現在は 中央自動車道や中央本線の整備で名古屋への足もよくなった。
長野の松本までも 一時間半あまりである。

その昔 東海道膝栗毛の弥次さん喜多さんは江戸への帰り道、中山道六十九次を行ったようだ。
そこに書かれた中津川宿は、旅芸人などのいる賑やかな町であったらしい。
木曽山中の商業の中心地で、穀物、塩、酒、呉服、木綿、紙などが扱われ、市も立ち賑わいを
見せていたのが 中津川宿である。

広重は『木曾海道六拾九次之内』を描いている。

中山道広重美術館  http://museum.city.ena.gifu.jp/top.html

広重は一宿に一枚を描いた。だが、中津川宿は「晴れ」と「雨」の二枚がある。
篠つくような雨の中を、合羽を羽織った3人の武士が急ぐさまを描く雨があるのだ。



中津川から望む山々 中津川の花見


中津川の駅に降り立って、遠く北に目をやると丘のように広がる山を見る。恵那山だ。
日本の百名山に挙げられる 二千メートルほどの標高を持つ恵那山(えなさん)は
伊邪那岐命 イザナギノミコト、伊邪美岐命 イザナミノミコト、が天照大神の胞衣(えな)を
納めたと伝えられている。
その恵那の山々を前田青邨画伯は描いている。
中津川は画伯の故郷である。
袱紗に染められた中津川からの山々は ご縁があって三余堂の手元にもある。
もっぱら これからの時期に利用する。中津川で恵那の山に残る雪と桜の花を愛でる頃だ。




中津川の花見恵那山を見遣る 卯月中津川能楽さんぽの日



青邨記念館  http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/museum/seison/


投稿日 2008年04月13日 12:35:03
最終更新日 2008年04月13日 12:35:39
修正
2008年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
東京は桜の開花宣言が今日だ、明日だと耳にしながら秋田へ出かけた。

秋田は 慶長7年(1602)に 常陸の国から国替えを命ぜられた佐竹氏によって治められた。
佐竹義宣が JR東日本秋田駅近くの台地 久保田に城をつくった。
現在この久保田城跡は千秋公園として憩いの地になっている。
久保田城は別名「矢留城」ともいい、公的には「秋田城」とも称していたという。
千秋、矢留、久保田など今も地名として残っている。

久保田城は 天守閣がなく、土塁をめぐらして内側にだけ石垣を築いていたようで、
一の郭は、本丸・二の丸・兵器蔵、二の郭は、外堀に囲まれた三の丸と重臣の屋敷、
三の郭・四の郭まで土手をめぐらした構成であったらしい。
城自体はあまり防備に重点を置かずに 城下町をすべて迷路にして
街全体が防御のために造られていたということである。
確かに 古い街なみが整然としているというには 程遠い気がする。
佐竹氏12代の居城 久保田城本丸は 御維新後の明治13年に焼失。
その後、公園として明治29年に千秋園と称され県営となり、昭和28年には秋田市営となる。

現在の千秋公園は丘の上の歴史ある 市民憩いの場、といった感じである。
まだまだ 硬い蕾が北の地を感じるが、四月下旬には桜祭りが開かれる。


夕方のニュースは能楽さんぽ 夏には蓮の花で一杯になる堀 まだまだ さくらも遠い


秋田散歩の次は あきた能楽さんぽの話。

3月24日のあきた能楽さんぽに珍客があった。
講座にAKTテレビ夕方のニュース番組 スーパーニュース担当キャスターの
女性アナウンサーとカメラマン氏が取材に訪れた。
スーパーニュース? 各地方版があるようだが 東京のフジテレビ系列ということか。
夕方6時のスーパーニュースという番組のコーナーで 数分間の放映。
受講風景、受講生へのインタビュー、謡などを折り込んで 
アナウンサー自身の体験記がまとめられていた。 


夕方のニュースは能楽さんぽ
インタビューや撮影、準備や機材運び、なんでもコンビがやります!

受講者は事前に知らせてくれれば 床屋へ行って 髭をアタって男前に、あるいは 
護岸工事も入念に しっかりと塗り固め 女っぷりを上げてきたのに と思っただろう。
三余堂も秋田発の前夜に知った。
番組制作は担当キャスター自ら取材対象を見つけて カメラマンと共に東奔西走。
突撃! 隣の晩ごはん 方式なのか。 (日本テレビ系列で 突然夕飯時分に訪問、取材をする番組があった)
取材先では 何事も物怖じせず体験して 局へ帰って編集、放送 となるのだろう。
勿論 女性アナウンサーは受講生と共に 声も出し、謡を謡って…
しっかりとして なかなかのものであった。



カメラマンも女性アナも はいっ 声を出して!夕方のニュースは能楽さんぽ
  本放送は 受講生のインタビューや女性アナの独吟?も 放映

 
地方局の番組は その地を知るに手っ取り早い。その地の文化、気風を伝える。
CS放送などで地方局の生番組を選べるようなると 面白いのだが…







投稿日 2008年04月01日 12:20:50
最終更新日 2008年04月01日 12:20:50
修正
2008年03月20日
                  桜色
                        La plume d’oie©鵞毛庵 2005 部分
                      大原御幸    遠山にかかる白雲は散りにし花の形見かや
                      Aux montagnes lointaines ces blancs nuages accrochés,
                      ne sont-ils pas un dernier souvenir des fleurs effeuillées ?
書体はフランスの最初の王で朝あるメロヴィング王朝の頃のもの(5世紀末〜8世紀半ば)。縦横、大小サイズも変えて重ね書きしています。
画像はクリックして拡大してご覧ください。


日本はいよいよ桜の季節!

日本人が桜を愛でるようになったのは平安期以降で、それまでは花といえば中国から伝わった梅を指していました。万葉集などに出てくる花の大半は梅。平安時代の古今和歌集になると、桜のほうがたくさん詠まれています。その頃の桜の主流は山桜なので、色は白。でも山を覆うとうっすらと桜色に。

フランスでなかなかお目にかかれないのがこの桜色。西洋でピンク系の色というと結構濃い目の派手な色合いが一般的で、白いけれどもほんのりと桜色、パステル系ともちょっと違った淡く薄いピンクなど、日本人の好みの色合いを探し出すのは困難です。
フランスで多く植えられている桜は、濃い色の八重桜だしなぁ。


桜色La plume d’oie©鵞毛庵2007 大原御幸
遠山にかかる白雲は散りにし花の形見かや
Ne sont-ils pas un dernier souvenir des fleurs effeuillées ?
幅の広いペンや面相筆を使用して自由書体で  こちらも画像をクリック!

今年ももうすぐパリの植物園の「白妙」も咲き始める頃か。白妙というくらいですから花の色は白なのですが、よく見ると花びらの一部がほんのり桜色です。ここでやっと桜色にめぐり会い。
                  桜色
            
投稿日 2008年03月20日 21:18:24
最終更新日 2008年03月20日 21:18:38
修正
2008年03月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
観世九皐会三月定例能、月並に野守が出た。

山伏が大和の春日野の池にたどり着く。
出会った野守の老人に尋ねると、野守たちが 鏡の代りにしているので 
野守の鏡 という名だと教える。
昔 昼は野守、夜は鬼神の姿となる鬼がいた。その鬼が持っていた鏡を野守だという。
山伏は、箸鷹の野守の鏡得てしがな …  という古歌を思い出す。
老人は、それもこの池を詠んだものであることを云う。
ある時、帝が鷹狩りの折 野守が水中に白斑の鷹の姿があることを教えた。
それは木の上にいた鷹の影が水に写っていたものだった。
そこで、 箸鷹の野守の鏡得てしがな 思い思わず外ながら見ん となる。 
はしたかの のもりのかがみ えてしがな おもいおもわず よそながらみん

雄略天皇鷹狩りの時という。

塚の中に姿を消した老人の野守は 夜になると鬼神となって現れた。
天上界から地獄の底までを映し出す大きな鏡を持って。
そして、大地を踏み破って去って行く。   という 話である。



野守というと 額田王の歌を思い起こされよう。
万葉集の中に 天皇の蒲生野に遊猟したまひし時に額田王の作りし歌 として

あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る  
とある。 後の天武天皇、大海人皇子の歌に額田王が 返した歌である。

井上靖の小説 額田王 等々で そこのいきさつは お読み頂きたいが …
標野は 立入禁止の標を立てた野のことで、天皇の直轄地。
故に野を守る野守が 番人としている訳だ。 
古今和歌集の  
春日野の飛火の野守 出でて見よ 今いく日ありて若菜摘みてむ を能 野守 では シテの老野守が 
春日野の飛ぶ火の野守いでで見れば 今幾程ぞ 若菜摘む と謡う

野のことは 何でも 野守のおじぃさんに聞けば ご存じ!
野は 奈良東方、春日野の飛火野。
春日野は興福寺、東大寺、春日大社などの広大な範囲になる。 
その中でも春日大社参道の南側を特に 飛火野 とぶひの という。
そこの野守は 夜になると天上地獄の赤裸々な姿をご存じ!
天上、地獄、つまり宇宙の真実を映し出す鏡を持ってる おじぃさん? 
いやいや、眼光鋭き鬼神なり。が、この鬼神の私がこわけりゃ引っ込みますよ とも言う。
地獄案内をたっぷりしてくれる。 いろいろなものを見せ、解き明かしてくれる。


昨日 スペースシャトル エンデバー号が、日本時間午後3時28分に打上げ成功。
土井隆雄宇宙飛行士の手によって スペースシャトルのロボットアームの起動・点検など実施。
地上約400キロメートル上空に建設が進められている巨大な有人施設。 
国際宇宙ステーションの一部となる「きぼう」日本実験棟 を据付けるという訳だ。
「きぼう」は、宇宙飛行士が長期間活動することができる、日本では初めての有人施設となる。
3回に分けて、アメリカフロリダ州からスペースシャトルで打上げられるとのこと。
その第1回が昨日だった。

野守の鬼神は 大きな鏡でセンコクゴショウチ だったろう。



奈良市観光センターhttp://www.narashikanko.jp/      
宇宙航空研究開発機構http://kibo.jaxa.jp/index.html    
投稿日 2008年03月14日 23:39:37
最終更新日 2008年03月14日 23:40:00
修正
2008年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
花や葉を蔓状の曲線でつないだ文様を唐草という。
平安時代に 大陸からの蔓草文様という意味で からくさ という名が使われていたようだ。
古代から洋の東西、その時代で変化をみせて 多くのものに取り入れられている。
エジプトの睡蓮文様が唐草文様の起源といわれるが 詳しくは 鵞毛庵の記事に任せるとして
日本では正倉院宝物に西方からの唐草文様が多くみられる。
文様の種類は数々あれど その後、日本の文様として牡丹唐草、ぼたんからくさ文様は定着する。
三宅坂の国立小劇場の緞帳の中に 牡丹唐草文の見事な綴織 (つづれおり)のものがある。

唐草文様の中でも 華やかな図柄は 装束、帯等々と目にする機会も多い。

正倉院古裂柄牡丹唐草 牡丹唐草牡丹唐草図

2月の鵞毛庵能の花シリーズで 春節の獅子にふれているが
唐代に盛んに使われた牡丹の唐草文様は獅子などと組み合わせて、華麗な文様を描き出している。
大陸伝来の唐獅子は幻想動物の獅子で、法隆寺や正倉院にその姿を見ることが出来る。
法隆寺展、正倉院展、書物などでお目にかかった御仁も多かろうと思う。
空海や円仁が唐から持ち帰った曼荼羅には獅子の図があった。
仏法護持の神獣ということか。


その後 12世紀末の鳥獣戯画に唐獅子は登場、興福寺供養での獅子舞なども行われているようだ。
能の起源となる 田楽や猿楽と並んで民間で獅子舞も行われたであろう。
勇猛な唐獅子の姿をかり 邪気を払う呪術的な要素も持った芸能は現在に至る。
能 石橋 (しゃっきょう) は百獣の王としての獅子が華麗な牡丹の花姿と対峙して登場する。
歌舞伎の鏡獅子や連子師の元になる。
紅白の牡丹の花が咲き誇る 大きな作り物が舞台中央に登場する。
張りつめた 冷たい気の中 静寂のうちに落ちる花の露の密やかな音がきこえる。
大、小、太鼓が露を伝える その息と力で。
そして親獅子、子獅子の登場。獅子の頭も白は親、子は赤く 
勇壮な親獅子、血気盛んな子獅子、 三間四方の舞台で処狭しと ぴョコタン、ピョこたん と跳ねる。
華やかそのものの演出である。


武家は唐獅子図を好んだ。
日光東照宮の装飾彫刻の中で多用される 唐獅子と牡丹の図柄。 豪華絢爛 。
まさに 唐獅子牡丹である。

義理と人情を 秤にかけりゃ 義理が重たい 男の世界
幼なじみの 観音様にゃ 俺の心は お見通し 背中で吠えてる 唐獅子牡丹

健サンは背中に彫る。

やがて夜明けの 来るそれまでは 意地でささえる 夢ひとつ 背中で呼んでる 唐獅子牡丹 と
                 
帯に牡丹唐草を選ぶ小生であった ……牡丹唐草









投稿日 2008年03月02日 9:38:32
最終更新日 2008年03月02日 9:38:51
修正
2008年02月20日
 足袋、たび、旅で、まめたび煎餅を食べながら旅ィゆけェばぁ〜〜、てなわけないですが、能ではよく旅の僧が何かに出会って話が展開することがしばしば。今月取り上げる作品の「石橋」はまさに旅の僧の展開です。どうして「石橋」かというと、 先日、庵主が見た春節の獅子舞がいとめでたしというのが理由。

 能「石橋」は寂昭法師が入唐し各地を巡り、清涼山で文殊菩薩のお使いとされる獅子が、咲き乱れる牡丹の花の間に勇ましく舞う姿に出会うという、千秋万歳を寿ぐおめでたい曲目。
 

                 石橋
                   La plume d’oie©鵞毛庵 2007

 この石橋は苔むして滑りやすく、狭いし長いし、谷の深さは千丈もあってそう簡単に渡れるものではないと寂昭が樵から聞かされることから着想しての作品。そんな所は自分じゃ絶対渡れやしない!と思いながらカラス口を使っての自由書体です。カラス口は製図用の線引きの道具ですが、今はコンピューターの時代となり、殆どお蔵入りにちかいもの。製造中止したメーカーもあるそうですが、それをフランスはじめ、あちこちのカリグラファー達は文字を書く道具として多いに利用しています。

 パリの中華街界隈に住む庵主は、先日2月7日の春節では例年の如くたっぷりと中国の獅子舞を
満喫!


石橋 
パリ13区にある中華大手スーパーの陳氏兄弟公司にて

 画像をご覧になって随分カラフルだなぁと思うかもしれません。これは清朝の乾隆皇帝が夢に五色の色彩豊かな聖獣を見たのが始まりだとか。 
中国にしろ日本にしろ、実際に獅子、つまりライオンが生息していたわけではないので、それぞれ文献などからの想像した姿。ライオンといっても、ジャングル大帝レオのようなタテガミふっさふさのアフリカ系ではなく、お獅子の元祖はタテガミが地味なインドライオンです。それが日本の庶民的な獅子舞の獅子頭にもみられるけど、能の「石橋」や歌舞伎の毛振りが有名な「連獅子」や「鏡獅子」の獅子頭はタテガミたっぷりです。中国も北方系のお獅子はマルチーズの親玉のような体中フサフサ。このように種類はいろいろですが、昔の情報源としてはイランあたりからシルクロード経由だと想像されますので、やはり元祖はインドライオンなのでしょう。

  このインドライオンは18世紀頃までは西アジア(インドやイラン一帯)に広く生息していたそうですが、人口増加や狩猟の対象になったりして、20世紀始めには生息数が20頭ぐらいまで減ってしまったとか。現在は絶滅寸前ながらもインドの北西にあるギルの森の自然保護区域に絶滅危機保護種として2〜300頭ぐらい生息しているそうです。検索したら上野動物園などにもいることが判明。こちらを参考までに

もし実際にご覧になる機会があれば、ははぁ〜〜ん、こいつがお獅子の元祖か、と観察してみるのも楽しいかもしれません。

 余談ですが、中国の揚州名物には豚の肉団子「獅子頭(しずとう)」というのがあります。大きな肉団子です。ご利益丸かじりで霊獣の頭をがぶりッ。

 「石橋」といえば、もうひとつ。ラジオフランスから出しているOCORAという世界の民俗音楽のアルバムがあるのですが、その日本のシリーズの中に「石橋」があります。1983年、今は亡き観世元昭師のフランス公演の際にスタジオ録音されたものです。もう25年経つのですねぇ。なんか昨日のことのよう....。


   
石橋なのになんで翁なの?と、硬いこと言わずに。                                                    石橋
この他に、雅楽、声明、薩摩琵琶、長唄などなど数枚でています。
投稿日 2008年03月14日 8:45:55
最終更新日 2008年03月14日 8:46:11
修正
2008年02月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
案内望遠鏡でふれた 足袋のもとと云われる、襪 しとうずは 一体どんなものか。
あれじゃぁ わかんねぇ ということで 画をご参照願いたし!


まあ こんな感じで…足袋のつづきは また旅ものでぇ〜 

まさに足の袋で、底や、鞐(こはぜ)は 無く紐で結ぶ。                               
大陸の唐から原型が伝わり、これを下沓 シタクツと呼び、シタグツの音便でシタウズ。        
そしてシトウズになったということだ。 襪は錦、綾、麻などを表地に,白麻などを裏地に用いた。  
まぁ、一般人には関係のない 朝廷の装束 である。


だいだい 履物は実用の為だけではなく、別世界へ行く為の手段と考えられていたようである。
魂の宿るものとされ、神仏に履物を奉納したり,正月や季節ごとに村境に履物を吊るして
魔除けとする風習が各地にあるという。
又、この世とあの世の境で神様をお迎えするためのものだとも。

履物は婚礼において縁結びの役割をしており、平安の貴族は、婿の履いて来た沓を
花嫁の両親が抱いて寝る〈沓取りの儀〉という風習があったそうだ。
民間は、履物を結婚祝いや結納品として贈ることがあったようだし 逆に 縁切寺では
女が駆けこむ代りに、寺の境内にその履物を投げこめば、夫と別れられたとか…
こちらの世と別の世とは履物とはだしの関係か。

聖と俗、非日常と日常が、履物とはだしの対立で示されるのは 
どうも我が国ばかりではなさそうで、神の言葉として ≪足からくつを脱ぎなさい。あなたが
立っている場所は聖なる地だからである。≫と旧約聖書にあるそうな。
ギリシア、ローマでも神殿などへの参内は、はだしでなければならなかったと伝えられ、
エジプトやインドでも神官は はだしで神殿に入ったということだ。
イスラム教徒は,モスクに入るときは履物を脱ぐ。
一般に、はだしが神前での礼を表すと考えられたのであろう。


昔、といっても大昔。
旅に出る時に素足でわらじを履くと足を痛めるので特別に、鹿皮の袋で足を包んで出掛けた。
わらじが履けるように、指が分かれた袋になる。鼻緒を親指と第二趾ではさんで歩く。
これが基で その名もずばり、旅、タビ、足袋との説もある。
日本独特の、履物足袋は大事な旅道具。
親指と四本の指は 地面をつかみ、踏ん張りがきき 誠に結構な履物。 


能の舞台では どんな大旅行をしても足袋以外の履物を排している。
舞台をぐるっと廻って都へ参ろうと、かの地へいこうと、神も鬼も
妙齢の夫人も婆さんも、山谷を駆け巡ろうが、合戦であろうが みな足袋である。
親指と四本の指は 舞台という地面をつかみ、踏ん張りを効かせ身体を運んで行く。
誠に結構な履物、足袋。 
ハコビの技、舞の技の足元は足袋が全てを表した。 
能の特色のひとつである。



一枚一枚手で焼かれた 足袋のつづきは また旅ものでぇ〜  五寸程の香ばしさ


投稿日 2008年02月13日 9:43:04
最終更新日 2008年02月13日 9:44:22
修正
2008年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
まもなく 立春である。冷たい日はまだまだ続く。
最新のソーラーシステムによる 床暖房も オンドルも無いながら
三余堂は年間を通して素足で過ごす。せめて板の間ではスリッパを履くようにと云われる。
大きなお世話である。
スリッパは 右方は此方、左方は彼方、何処にや…… となるのが落ちであろうし。
だいたい スリッパだ、靴下だなどと 極寒の地でもないお江戸ではおこがましい。
日常の生活に当り前の様に靴下、スリッパ いや、足袋が取り入られるようになったのは
明治期以降ということだ。



足袋保護のため楽屋で使用する上履き
足袋



そもそも 足袋は 読んで字のごとく 足を包む袋である。
平安の頃 山野で生計を立てるような人々は 足袋の原型と思われる 獣の皮で親指の部分に
股をつけた履物を用いるようになったらしい。
其の頃 都の貴族は 襪 (しとうず) という履物を用いていた。
平安中期には、革足袋の原型となるものが用いられ始めていたということで、
鎌倉期の宇治拾遺物語の中に、「猿の皮の足袋に沓きりはなして」 と、すでに足袋という言葉が
出てくる。
もっとも 今のような形かどうか。
近世以前、武士は足袋や襪などの履物は履かないものとされていた。
合戦の武装には毛履などの沓、革足袋、革製の襪のような物が用いられた。
鎌倉、室町初期は、足袋を鹿皮や猿皮をなめした革で作っていた。   
武士の間で革足袋が普及すると、白の革足袋や、小桜などの模様の小紋足袋を履く習慣が生まれ、
その後、戦乱が広がるにつれ、軍装として革足袋の使用が一般化したということらしい。
武家の間では、足袋の使用については規定があった。
礼装の際や主君の前では素足であるのが正当とされたということで、
三余堂もこれに倣っている訳である。


江戸時代初期は革足袋が専らであった。主に輸入の鹿革が多く使用されていた。が、
鎖国の為に鹿革の輸入量が激減、明暦の江戸大火で防火用として革の羽織が流行し、
革の値段が高騰した という事が影響して、木綿足袋の普及に至ったということだ。
初期は晒木綿の布を重ね、補強に太い糸で田畑の畝のように縫ったそうだ。
当時の足袋はまだ革足袋の名残で 鞐(こはぜ) ではなく紐で止めていた。

江戸時代も足袋の使用に関する厳しい規定があった。
足袋の着用は50歳以上、10月1日から2月20日の間のみ。
病気等での足袋の着用は主君の許可にて 足袋御免 となる。
大奥も、足袋着用の期間が厳格に定められていたそうだ。 武家の男女礼装は素足である。
武家の間では人前で足袋を用いるのは無礼ということか。
もっとも 木綿足袋が普及すると共にし、有名無実化していったらしい。 さもありなん。

誰しも 麗しきおみあしとはいかんじゃろぅ! 冷えもよろしくない

が、足袋御免の制度自体は文久2年(1862)年の武家服制改革まで存在していた。
公家にも指貫には勅許がないと襪を履くことはできないという制度も残っていたというが。

さてさて 一般庶民は如何に。

江戸初期、農民や町民にとって足の保護の為に使われる、作業用の履物、祭礼の衣装であった。 
中期、商人などの町人の台頭で、日常生活にも足袋が取り入れられるようになっていった。
その習慣はやがて武士階級に取り入られるようになり、一般的な習慣になっていった。
日常生活で、武家階級は白足袋、町人の男は紺足袋や黒足袋、女は白足袋を用いたという。
もっとも それも立場や階級で紺足袋も白足袋もある。 
必殺仕掛人の早乙女主水は紺足袋である。
橋蔵の平次は白足袋で、下っぴきの八五郎は紺足袋 … 。
まぁ テレビや映画のチャンバラを鵜呑みにしてはいけない。映像の演出というものがある。
農民はというと、それまでと同じく専ら作業用の履物であって、普段は素足。                  


紺足袋と白足袋 足袋

能や狂言が確立した頃、能は白に晒された鹿皮の革足袋が用いられ、
狂言は生成りの革足袋が用いられていたようである。
現在 狂言足袋は流儀などで多少違いがあるが、細かい黄色の縞のものや薄い黄色で
鹿革の足袋の名残をここにみる。


装束を付ける時、初めに着け、最後に脱ぐのが足袋である。
舞台で使用する足袋は 神田駿河台の店で誂る。足にしっくりと沿った足袋の提供あってこその舞台。
どちらも違わず高齢化が物作りに押し寄せて 老舗の足袋店も呑込もうとしている。




今日も足袋は舞台で三余堂を支える。足袋







投稿日 2008年02月02日 10:10:30
最終更新日 2008年02月02日 10:10:47
修正
2008年01月20日
 ここ数年、能の花シリーズとは別に、歌会の御題にあわせて原文がフランス語のものをお書初めをしている庵主ですが、今年の「火」というのは題材としては事欠かないのだけれど、いざお書初めとなると内容が暗かったり縁起よくなかったり。さらにどうしても今まで作品にしている葵上や「道成寺」のような執念や怨念がメラメラ〜〜っというほうに気がいってしまいがち。

                     燃える魂とは...
                         道成寺 部分

 「火」から「炎」、「火焔」へいろいろと連想した庵主。能の装束にもしばしば見られる火焔文様、火焔太鼓、不動明王、ゴティック建築の後期のフランボワイヤン様式。フランボワイヤンとはまさに燃えているといった意味で、15世紀ごろになりますが、教会やお城などで見かけることができます。

燃える魂とは...これはパリ市内にあるサン・セヴラン教会。

まさに炎です。

 不動明王の背後には迦楼羅焔(かるらえん)。この迦楼羅とは人間の三毒を食べてしまうという火の鳥のこと。百八つあるといわれる煩悩は大きく三つに分けられ、それは貪ること、怒ること、愚かなことで、三毒と云います。実は西遊記にでてくる三人の従者はこの三毒を表しているとか何とか聞いたなぁ〜などと、横道にそれ、仏教の地獄の火車、生計が苦しい状態をいう火の車、そうそう、フランス語でも状況が悪いことを云うのに似た表現があり、だけど、中国語で火車は汽車や列車のこで、と また横道へ。

 あれやこれやで、やっとヴィクトル・ユーゴの小説「笑う男」の中の一節である 

Le corp est cendre, l’âme est flamme 「肉体は灰、魂は炎(ほむら)」

になりました。これを、たとえ肉体は滅んでも、情熱は生き続けるというように解釈してペンを取った作品がこちら。


                燃える魂とは...
 さて、この「笑う男」という小説、誰に話しても知らない人ばかりで、かく言う庵主もそうでした。そこで早速検索。和訳は大正年間になされて以降、少し改定されたものの新しいものは出ていないらしく、アメリカでは1928年に映画化されているのが判りました。
あらずじはこちらで

 この映画の複雑なあらすじを読むに、これはやはり...メラメラ〜〜のほうでしょうか。
投稿日 2008年01月20日 22:28:00
最終更新日 2008年01月20日 22:28:32
修正
2008年01月13日
カテゴリ : [三余堂月次]
                        便利は不便のインターネット再開につき おまけの いや、お年玉の 月次記事ご披露 !


       御慶     こつぁァ はるから…… 


関東で 松の明ける正月7日は お飾りの一斉撤去。
近年 門松が立つ家を近隣で見ることは とんとなくなった。
元旦の旗日に日の丸を出す家は皆無で、獅子舞も来ないし、羽根つきの音なんぞ
聞こえるわけもない。凧揚げの声も響かず 静かなものである。
元日から コンビニは勿論 スーパーも平常営業。
故に 松が明けようと、どうしようとそんなこと関係ない ……  というのが 街の様子である。 
お飾りも スーパーで山積にして売っているのを 買うようじゃぁ致し方あるまい。
三余堂も 昔ながらの注連飾りではなくなっている。

そんな玄関の飾りを取外すべく上方に 目を向けた。 その時、

外すは松飾か蜂の巣かこつぁァ はるから…… 

雨樋と塀の間に 蜂の巣を見る。 蜂の巣? すっかり枯れた蜂の巣発見。 
小さくうつくしい六角の部屋、へや、ヘヤが建設されている。
コアシナガバチだろうか、まさか 蜜蜂でもあるまい。勿論 スズメバチの巣ではない。
ブンブンと蜂が舞っていた記憶もなし、何故、今発見か。



              こつぁァ はるから…… 
巣の中に蜂のかぶとの動き見ゆ  高浜虚子

蜂の巣は春の季語。動くかぶとのない時期に出くわした。
こいつぁァ はるから……  となれば 有難しありがたし。
三余堂 蜂の巣を外すの場、  チョッン! 















投稿日 2008年04月01日 12:30:29
最終更新日 2008年04月01日 12:30:50
修正
2008年01月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
困ったもんだ!

というのは、三余堂のPCがお釈迦を装い始めたらく、立ち上がったりネットに繋がったりをぐずっているとか。
そこで本日は三余堂の代わりに鵞毛庵が助っ人として登場と相成りました。

改めて、


皆様、新年、明けましておめでとうございます。
                   こいつは はるから ……

とはいっても、日本もここフランスも正月気分は段々と薄れてまいりました。日本では松も取れ、七草、鏡開きも済み、フランスでは1月6日のキリスト公現祭(エピファニー)を過ぎてクリスマス・年始の飾りも少しづつ外されています。

鵞毛庵は巴里にいながらにして、七草粥もどきを食べ、当庵の鏡餅は画像のような具合ですので鏡開きならぬ普通のお餅で、でもきちんと小豆から煮てお汁粉をいただきました。そして、毎年、この時期になると欠かせないのがガレット・デ・ロワというパイ菓子。 
そういえば、昨年の今頃、PCではなくてこのサイト自身に問題が生じて、鵞毛庵はガレットをぱくつきながら悪戦苦闘しておりました。


さて、そのガレット、なんぞや?エピファニーとはなんぞや?

エピファニー(ご公現)とは、キリスト誕生に際して東方より三博士がお祝いに駆けつけた日。馬小屋に傅いている三人の図を目にしたことがあるかと思います。この三博士が、お祝いの品を届けたというのがクリスマスプレゼントの起源。現在でもイタリアやスペインでは子供にはこの日にプレゼントをします。


こいつは はるから ……ガレット・デ・ロワとエピファニーの図

フランスでは、1月の声を聞くとエピファニーを記念したガレット・デ・ロワというアーモンドペーストの入ったパイ菓子と王冠がパン屋さんやお菓子屋さんの店頭に並びます。なぜ王冠かというと、日本語での三博士はフランス語ではロワ(王様の意)・デ・マージュと呼んで王冠を被っているからです。
このパイの中にフェーヴという陶器の人形などがひとつ入っており、それに当たった人が王様になれるというお遊び付き。


 鵞毛庵フェーヴコレクション一部 
お財布に入れると金運を招くという節も。
   こいつは はるから …… 


フェーヴというのは本来は蚕豆のことで、古代から食され、貧困な土地でも育つために豊作のシンボルとされていました。また、冬至の行事として冬との決別に豊穣には欠かせない太陽をあがめるための王様を一日選んだという古い習慣があり、このパイ菓子を食べる習慣はキリスト教の三博士来訪と合わさって、今でもしっかりとフランス人の生活に根付いているおめでたい伝統行事です。

能ももともとの起源は五穀豊穣を願った民俗芸能の田楽などから来ていると言われています。フランスのこんな古い風習もやはり五穀豊穣を願ってのこと。
などとブツブツ言いつつ、またしても高カロリーのガレットを口にして自分の体が豊穣状態!
こいつは はるから...
     

鵞毛庵が今年ゲットしたフェーヴとガレット←1月8日と11日の日記                                                 
投稿日 2008年01月14日 4:58:23
最終更新日 2008年01月14日 4:58:43
修正