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2013年10月01日
側用人 間部詮房
カテゴリ : [案内望遠鏡]
徳川家宣(とくがわいえのぶ)は、犬公方や暴れん坊将軍に挟まれた在職期間が三年余りの
江戸幕府第六代将軍だ。 五代将軍綱吉に世嗣がなく、後継候補だった綱吉の娘婿も亡くなり、
次期将軍ということで、家宣が甲府徳川家から江戸城西の丸に入ったのは1704年12月31日
だったという。 時に家宣43歳。 5年後の宝永6年、五代将軍綱吉の死去に伴い48歳で
第六代将軍に就任する。
悪評の生類憐れみの令や酒税を廃止するなどして、庶民の人気は結構高かったらしい。
赤穂浪士でおなじみの柳沢吉保を免職し、甲府徳川家旧臣である間部詮房、新井白石らを登用。
文治政治を推し進め、荻原重秀を使って財政改革と、なかなか張り切っていたようだ。
が、在職3年、正徳2年秋 1712年11月に満50歳で死去。
東京は芝の増上寺にねむっている。いわゆる 正徳の治という政治改革をした将軍である。

五代将軍綱吉の時 あの悪名高き側用人という役職を賜った柳沢吉保の後を継いで
家宣に側用人として将軍家宣に仕えたのは間部詮房。
この人 寛文6年(1666年)、甲府藩主 徳川綱豊の家臣の子として生まれる。
はじめは猿楽師喜多七太夫の弟子であったという。この喜多七太夫は当時の大スターであった。

詮房は貞享元年(1684年)に綱豊、後の6代将軍家宣の用人になる。
まっ、いろいろ事情があったであろうが、綱豊の命によって間部姓となった。
間部詮房は綱豊が家宣となり江戸城西の丸城入に伴って、従五位下越前守に叙任。
側衆として、とんとんと出世して、お大名となった。加増を重ねてその後は高崎藩5万石を得たし、
老中の次席を命じられるまでになったというから、家宣の思い入れを量り知る。
そもそもそ側用人の正式な名称は御側御用人(おそば ごようにん)。
将軍の命令を老中らに伝える役目を担った重職で、名称のごとく御側での御用をこなすのだから
趣味の御相手も重要要素であったろう。

先代の綱吉はたいそうな能好で、側用人柳沢は自邸で個人的な能の会を催したり、綱吉が舞う
能の相手をしたりと政治以外での苦労も多かったようだが…
次代将軍の家宣も負けず劣らずの能をご愛好。 
三日に一度は能や囃子を催す程だったそうな。将軍職に就いてからもその熱は冷めず、
おまけに、鑑賞が稀曲好みで、当時180曲ほどが常の上演曲目だったのが、それ以外のものを
何だかんだと 総計百曲近くも所望して、能楽師たちを悩ませた。
演能が三日に一度では 通常曲外の稀曲をこなして仕上げるのは如何ばかりか。
もっとも、その御蔭でそれまでに埋もれていた『 蝉丸、大原御幸、砧、弱法師 』など、
現在の人気曲が その折に陽の目を見て復活した。

能楽師上がりの間部詮房、儒学者の新井白石と 家宣はがっちりと三人体制で正徳の治を
行ったが、家宣のあまりの能愛好みを新井白石は
       “天下の主にふさわしからぬ事として”
と 諌めたという。 さもありなん… とも思えるし、
勤勉なる仕事中毒、ワーカーホリックであったろう 間部が相手をしていたなら… とも思う。

家宣死後 幼少の家継が将軍職を継ぎ、間もなく病死。
そして、八代将軍徳川吉宗となり、間部、新井の両人は失脚した。
間部はその後も5万石の大名として家が続き、明治維新を迎えたという。
『正徳の治』 もさることながら能『砧』 『弱法師』に間部の恩恵があるやもしれない。 しかし、
間部と言えば、思い浮かぶのは 石坂浩二が扮した大河ドラマでの間部詮房ばかりである。
 




投稿日 2013年10月01日 9:59:57
最終更新日 2013年10月01日 9:59:57
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