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2014年10月01日
高山右近 秋の空の下
カテゴリ : [案内望遠鏡]
毎年10月初めは近隣の八幡宮 秋の例大祭である。
今年も 宵宮の日には昼から参道一杯に 屋台が立ち並んだ。
さて本番、抜けるような秋の高い空の下 威勢の良い神輿が…と行きたいものであるが
そうは問屋が卸さないのが この時期で、必ず雨模様の日が一日はある。
秋雨だの台風だのと文句を言ってはいけない、さて、お立合い!昔から 五穀豊穣国土安穏〜
雨が降ってこその… という次第で、今年は冷たい雨が子供神輿を中止にした。
丁度今頃、といっても四百年昔のことであるが、
徳川幕府は京都との情報のやり取りのために一里飛脚を置き、豊臣軍は戦法を籠城とした。
我が国は戦闘状態である。豊臣氏は公然と浪人を集め始め、何とも落ち着かない。
こんな時にキリシタン大名の高山右近は国外へ出た。日本からの追放である。
利休七哲の一人としても知られた高山右近は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将である。
七哲といわれた 千利休の七高弟は 他に細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)
瀬田正忠(掃部)、牧村利貞(兵部)と、当時のそうそうたる 武将であった。
細川忠興夫人は かのガラシャ、牧村利貞は高山右近の勧めで切支丹となったというから
当時の切支丹の一端が垣間見える。
徳の人という高山右近であるが、あまりの熱心な信仰故か、領内の社寺の破壊や神官や僧侶への
迫害などで 領地付近の古い神社仏閣はほとんど残らないという事態に陥ったという。
右近はキリスト教入信の強制はしなかったが、その影響の大きさで、領民のほとんどが
キリスト教徒となったそうである。 蒲生氏郷や岡田君の演ずる黒田官兵衛なども高山右近の
影響を受けて切支丹になったらしい。
石山本願寺の件で 手痛い思いをしている為にキリスト教の拡大による、一向一揆のような
反乱を恐れたり、社寺への迫害を懸念したり、秀吉の気に染まぬことが政治外交上も
色々とあったようで、1587年に伴天連追放令が豊臣秀吉により出された。
高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てたが、小西行長に庇護されて
小豆島や肥後などに隠遁、その後1588年、加賀の前田利家に招かれ、扶持を受けて暮らしたという。
1614年、慶長19年の徳川家康によるキリシタン国外追放令により、加賀を退去した。
その数日後、家康はいよいよ駿府を出発し京へ向かう。
大坂冬の陣へ一月あまりといったところであった。
高山右近は長崎から他の切支丹と共に船でマニラに同年の12月に到着。
イエズス会などの報告で、既にマニラで知られていた高山右近は大歓迎を受けたが、
老齢の身に病を呼んだのか、翌年になると、間もなく亡くなったという。
徳川軍が大坂城の堀を完全に破壊し、徳川秀忠は江戸城に入り、
家康が駿府城に到着した頃になる。
いよいよ日本におけるキリスト教受難の時に入った。
それが400年前の秋の空の下ということだった。
今年も 宵宮の日には昼から参道一杯に 屋台が立ち並んだ。
さて本番、抜けるような秋の高い空の下 威勢の良い神輿が…と行きたいものであるが
そうは問屋が卸さないのが この時期で、必ず雨模様の日が一日はある。
秋雨だの台風だのと文句を言ってはいけない、さて、お立合い!昔から 五穀豊穣国土安穏〜
雨が降ってこその… という次第で、今年は冷たい雨が子供神輿を中止にした。
丁度今頃、といっても四百年昔のことであるが、
徳川幕府は京都との情報のやり取りのために一里飛脚を置き、豊臣軍は戦法を籠城とした。
我が国は戦闘状態である。豊臣氏は公然と浪人を集め始め、何とも落ち着かない。
こんな時にキリシタン大名の高山右近は国外へ出た。日本からの追放である。
利休七哲の一人としても知られた高山右近は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将である。
七哲といわれた 千利休の七高弟は 他に細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)
瀬田正忠(掃部)、牧村利貞(兵部)と、当時のそうそうたる 武将であった。
細川忠興夫人は かのガラシャ、牧村利貞は高山右近の勧めで切支丹となったというから
当時の切支丹の一端が垣間見える。
徳の人という高山右近であるが、あまりの熱心な信仰故か、領内の社寺の破壊や神官や僧侶への
迫害などで 領地付近の古い神社仏閣はほとんど残らないという事態に陥ったという。
右近はキリスト教入信の強制はしなかったが、その影響の大きさで、領民のほとんどが
キリスト教徒となったそうである。 蒲生氏郷や岡田君の演ずる黒田官兵衛なども高山右近の
影響を受けて切支丹になったらしい。
石山本願寺の件で 手痛い思いをしている為にキリスト教の拡大による、一向一揆のような
反乱を恐れたり、社寺への迫害を懸念したり、秀吉の気に染まぬことが政治外交上も
色々とあったようで、1587年に伴天連追放令が豊臣秀吉により出された。
高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てたが、小西行長に庇護されて
小豆島や肥後などに隠遁、その後1588年、加賀の前田利家に招かれ、扶持を受けて暮らしたという。
1614年、慶長19年の徳川家康によるキリシタン国外追放令により、加賀を退去した。
その数日後、家康はいよいよ駿府を出発し京へ向かう。
大坂冬の陣へ一月あまりといったところであった。
高山右近は長崎から他の切支丹と共に船でマニラに同年の12月に到着。
イエズス会などの報告で、既にマニラで知られていた高山右近は大歓迎を受けたが、
老齢の身に病を呼んだのか、翌年になると、間もなく亡くなったという。
徳川軍が大坂城の堀を完全に破壊し、徳川秀忠は江戸城に入り、
家康が駿府城に到着した頃になる。
いよいよ日本におけるキリスト教受難の時に入った。
それが400年前の秋の空の下ということだった。
投稿日 2014年10月01日 22:57:16
最終更新日 2014年10月01日 22:57:16
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