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2009年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
吉永小百合が佐渡へ旅するコマーシャルが盛んに流れていた。
「ここが今や、日本有数の能の島だと言ったら、彼はどんな顔をするでしょうか」
五十歳から行く大人の旅 JR東日本 と。
JR東日本 大人の休日倶楽部 TV-CM 佐渡の能篇 秋。 と、いうものらしい。
   ゆっくりと 吉永小百合と佐渡を旅したい方、こちらで ご一緒に!

大化の改新以後に佐渡国が置かれたという。
古代から遠流の地だった。  順徳天皇、日蓮…
都からの流人が、その文化を伝え、西廻りの航路が、西日本や北陸の文化を伝えた。
そして貴族や武家、土地の者の文化が渾然となって、佐渡特有のものがつくられていく。
吉永小百合の言う 「彼はどんな顔をするでしょうか」 と問われているのは 世阿弥。
能の大成者、世阿弥が配流された島が佐渡であった。
何故 流されたか…  

晩年、佐渡での世阿弥は瀬戸内寂聴著 『秘花』 新潮社刊 で思いを馳せることが出来る。



世阿弥は 12歳の時、将軍 足利義満の寵愛を後ろ盾に、頂点を極めた。
義満の死を境に、甥の音阿弥に地位を奪われ、長男の死、次男の出家。
そして自らは佐渡への流刑。いわれの 判らぬ流刑だった。
小説は佐渡へ向かう船中で、自らの前半生を振り返るところから始まる。 
米も魚もよくとれ、水も豊富で、他者を受け入れるおおらかさがある佐渡の地。
そこでの 寂聴、世阿弥の晩年の世界が 展開する。

すぐれた能役者、能作者、能楽論書の著者であった世阿弥も、
百年たてば同時代の舞台を見た人は誰もいなくなることを意識していた。
だが、能の本は残る。「書いたものの命は強い」と語る世阿弥。
「私は死後も自分の小説が読まれるとは思っていません。けれども書いているうちに、世阿弥に自分を
重ねた部分はある。小説は結局、自分を書くものですから」と 瀬戸内寂聴。


杉本苑子著 『華の碑文』中央公論社刊 では世阿弥の生涯、平岩弓枝著 『獅子の座』 文芸春秋社刊 では足利義満の生涯を それぞれ義満、世阿弥を絡めて描いている。 
秋の夜長に 三人の女性小説家による作品で、世阿弥の生きた時代を読み比べるのも一興。







投稿日 2009年11月01日 0:00:36
最終更新日 2009年11月01日 7:22:40
修正
2009年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
12月6日 日曜日 午前7:15  NHKFMラジオ放送  能楽鑑賞 −観世流− 《鉢木》 を放送する。

この番組は 放送枠の移動はあったが一応、定期的に放送される唯一の能楽関連の時間で、
歴史も古い。
聴取者の要望に応えて 枠は残ったものの、長年の間に開始時間はじりじりと早くなっていく気がする。
要はリスナーからの メールが殺到すれば もっと聞きやすい時間帯になり、リクエストのファクシミリが
どんどん送られれば お気に入りの能楽師で、お好みの曲目が放送されるかもしれない。
全国の聴取者の御要望があればこそ!

現在ラジオは 普段聞き慣れている人にとっては 日常の友であり、分身のようなものであるという。
常に携帯し、朝から晩まで情報源として活用する。又、FM、AMと駆使して音楽や、スポーツを楽しむ。
今や、深夜のラジオは中高年がNHKに聞き入る。 そう、《ラジオ深夜便》である。
ラジオを手元に持たない人も多いことであろうが、 災害有事のためにも 是非一台!
そして、眠れぬ夜に、早朝目覚めた時に そっーと一人楽しむことが出来るラジオを貴方も一台!!

そもそもラジオとは 無線分野では、送受信技術全般を指している。
そして電波や無線や放射線を指す言葉である。
電波を使って、音声信号を、不特定多数のために放送する仕組みがラジオ放送だ。 

最も歴史の古い振幅変調による中波放送の、基本的な方式は100年間も変わっていない。
現在でもラジオの主流である。この方式および受信機は一般に「AM放送」「AMラジオ」と呼ばれる。
また周波数変調による超短波ラジオ放送も広く聴取され、「FM放送」「FMラジオ」と呼ばれる。
てなことを、アマチュア無線の講習で聞いたような気がする。いや、聴いた筈である。
一応 三余堂はコールサインを取得して、電波利用料なる税金を納めている。

無線での音声放送(ラジオ)を世界で初めて実現したのはエジソンの会社の技師、フェッセンデンだった。
1906年12月24日に、アメリカ・マサチューセッツの自分の無線局から、世界初のラジオ放送。
自らのクリスマスの挨拶をラジオ放送したという。
フェッセンデン以後、実験・試験的なラジオ放送が世界各地で行われるようになる。
正式な放送は1920年にアメリカ・ペンシルベニアのピッツバーグで開始されたと言われる。
これはAM方式。
極長距離を伝送できる短波ラジオ放送を最初に行ったのはオランダの国営放送。
1927年に海外植民地向けに試験放送を開始。
翌1928年には当時オランダ領だったインドネシア・ジャワ島での受信に成功したという。
FM方式による放送はアメリカで1938年から試験的に開始。
2000年代に入って、地上デジタルラジオ放送が開始された。
今や、衛星放送も、インターネットラジオも始まっている。

日本初のラジオ放送は、1925年(大正14年)3月22日午前9時30分、
現在のNHK東京放送局が、東京・芝浦の東京高等工芸学校内に設けた仮送信所から発した。
第一声は
    「アーアー、聞こえますか。(間)JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。
                            こんにち只今より放送を開始致します」    だったという。
「アーアー」は、聴取者が感度の良い部分に調節できるようにするための配慮なのだとか。 
現在のラジオは ボタンでチャンネルを一発選局方式のものもある。
当時の受信機の性能に対して出力が弱かったため、東京市内でないとよく聴こえなかったそうだ。
同年の7月には現在の港区愛宕山の放送局からの本放送が、
継いで、大阪、名古屋と放送が始まる。
FM局は下って、1970年前後に多くが開局していった。

《能楽鑑賞》は AM局からFM局に引っ越しをしたように記憶する。
そして、より良い音質で放送されるようになった訳である。
6日の放送 《鉢木》は はてさて、どのような具合で音の波に乗りますやら。
2月三余堂月並のトピアリーに続いて鉢木ご鑑賞の一席御再読、おん願上げっ!






投稿日 2009年12月01日 0:00:48
最終更新日 2009年12月01日 7:40:19
修正
2010年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
恭頌新禧


年の初めの御挨拶


大晦日の夕方からの強い風がすっかり収まった年越しの空は 煌煌と輝く月、堂々と構えた
オリオンの星々が美しく辺りを照らす。
近隣の八幡宮への参拝者を整理する係の人の声で 年の明けたことを知る。


一寸 偵察に出て 八幡様の明かりを確認   年の初めの御挨拶


たいして大声でもないのに 青梅街道を挟んで、 家々の屋根を越えて聞こえてくるのは、
空気が冷たく澄んでいるのだ。 
三余堂前を 初詣に向かう人の声が響く。吐く息は白い。
手にした破魔矢の鈴の音は参詣帰りを告げ いよいよ 平成22年の始動である。

身の引き締まる空気の中で 玄関の正月飾りを見上げた。
ぅおぉ〜っ  さぶぅっ! 迎えた年のお詣りは日が高くなってから… 
寅の絵馬選びも おてんとうさまの下でしっかりと見定めんとしよう!
           庚寅の歳 相変わりませず よろしく御付合いの程を願い上げます。  三余堂












投稿日 2010年01月01日 3:42:13
最終更新日 2010年01月05日 0:49:05
修正
2010年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
月も朧に白魚の 篝(かがり)もかすむ 春の空
冷てえ風にほろ酔いの 心持ちよく うかうかと
浮かれ烏(がらす)のただ一羽  ねぐらへ帰る川端で
竿の雫か濡れ手で粟 思いがけなく 手にいる百両
            (呼び声がする)  おん厄払いましょう、厄おとし ! 

ほんに 今夜は 節分か 
西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落とし 
豆だくさんに一文の 銭と違って金包み 
こいつぁ 春からっ  縁起が  いいわえ

                        三人吉三廓初買(さんにんきちさ くるわの はつかい)  通称三人吉三巴白浪 



若く美しい女装の泥棒、ご存知 お嬢吉三(おじょうきちざ)が、夜鷹を殺して百両奪った後の名文句。
「厄払い」と呼ばれるお嬢吉三のセリフである。江戸の節分の様を語っている。
その頃の江戸の湾の沖では、舟を浮かべて、篝火を焚き白魚を集めて漁をしていた。
ひとつの風物詩だったろう。

節分は 季節を分ける ということで、春夏秋冬 のすべてにある。
今では春だけを節分と呼ぶようになったが、大晦日という意味合いもあり、
鬼やらいの行事として豆まきが現在にも伝わっている。
そもそもは宮中での行事 儺(ついな)で、炒った豆で鬼をはらう風習があったそうだ。

狂言には まさに節分という曲がある。
節分の夜に、独りで留守番をしていた妻のところへ、蓬莱の島から鬼が来て
妻の気を引こうと、歌ったり、踊ったりと、悪戦苦闘。
がしかし、妻は鬼から隠れ蓑や隠れ傘を巻き上げて、終いには
「福は内へ!鬼は外へ!」と豆をぶつけて鬼を退散させるという話しである。

江戸時代、庶民に採り入れられたその行事は、当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したものを
戸口に立てたり、寺社で豆撒きをしたりするようになったという。
季節の変わり目には邪気、邪鬼が生じると考えられ、それを払ったのだ。

ほんに今夜は節分か 鬼の準備も怠りなく


さて、芝居の場面は節分の夜、満月に近い月の夜の大川端。
今の暦なら2月下旬か、海は霞が立ち春を少しばかり感じて、
冬から春への何とも言えない微妙な陽気が伝わってくる。
その頃は、年の数の豆と一緒に一銭、または十二銭を紙や古い褌に包んで、家の外に捨てたそうだ。
これを拾い歩きながら 「おん厄払いましょう」と言いつつ、厄払いの文章を言う人がいたという。
その声が聞こえたら豆と一文銭を外に投げたらしい。
で、 ほんに 今夜は… というセリフになる訳だ。
厄も夜鷹も西の果てに流して 拾った豆が百両なら こいつぁ… 春から !
ということである。

葛飾北斎は北斎漫画や北斎画譜に江戸時代の節分の様を描いている。
これには 追われる赤鬼、青鬼の反対側に、「福は内」の方も描かれていて、恵比寿と大黒の神様が
奥座敷で鯛をさかなに ちくと一杯。なかなか豪勢なものである。
今年は2月3日が節分。せいぜい 大声で鬼は外! というより、
三余堂、 福は内で鰯を肴にちくと一杯か。



煎り豆のつまみも なかなか おつでほんに今夜は節分か









投稿日 2010年02月01日 0:21:52
最終更新日 2010年02月01日 0:21:52
修正
2010年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
何だこれは…
つんつんと細い針のような葉が 踏みつけられても致し方ないように、ちょこんと顔をだしている。
どうも これは昨秋に植えたものらしい。 いつ植えた…… 三余堂は植えてはいない。念のため。
春先の庭で 小さく土の上に花を咲かせるための球根が葉を出したのか。 
とにかく草の間から細い葉が出て 花芽をつつんでいるというわけだ。
あぁ〜 クロッカスだな。


足元に見つけた 春をまつ


クロッカスは秋植えの球根で、子供の頃は ヒヤシンスとならべて 水栽培をしたものである。
水栽培用の透明な鉢で、根が伸びていく様を見ながらも 花が枯れるまで ことさら世話をした
記憶もない。
直径4cmくらいの球茎で、小さな玉葱だと言われれば、これまた そんなものか… と皮を剥きたくなる。
葉は細長く、花の終わった後も長く、ながく、見苦しく、伸びていたのを思い出す。

地中海沿岸から小アジアが原産地だというが、今年の雪に埋もれてもしっかりと芽を出している。
もっとも アルプスの山の麓一面に 野生のクロッカスの花が咲いている写真を見たことがある。
要は ほっておいても、寒くても、時期が来れば春を報せるということなのだろう。
地上すれすれのところに咲くと思われるこの庭の花は 何色だろうか。黄色か白か、あるいは薄紫か。







長く赤いめしべのサフラン春をまつ


薄紫といえば 似たような花にサフランがある。
以前、クロッカスだ、と思いながら スパイスの本に見つけた。
日本へは江戸時代に薬として伝わった。生薬として、鎮静、鎮痛のために使われるという。
国内での栽培は、明治になってからで、今では大分県の竹田市の名産だ。
小さな花のめしべをひとつ、ひとつ、手で摘み取る作業をしている。
1キロのめしべを収穫するためには数万個の球根がいるというから まことに気の遠くなる話。
竹田産のサフランは、有効成分が国外産の数倍もあり、品質の高さは海外でも有名だとか。
独特の香りの長く赤いめしべは、水に溶かすと鮮やかな黄色になる。
料理のブイヤベースやのパエリアなどでみる、あの色だ。
紀元前からヨーロッパでは、めしべが香料や染料として利用されていたというし、
古代ギリシアではその黄色がロイヤルカラーとされた時代もあるそうだ。
そんな サフランは秋に咲く。

クロッカスは早春に咲く。春サフランとも云うそうである。が、観賞専用。
スパイスのサフランとは全くの別物。
似て非なるものは何事もご用心、これも念のため。


投稿日 2010年03月01日 1:31:24
最終更新日 2010年03月01日 1:31:24
修正
2010年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
名代の面々による賑やかな出し物で 取り壊し直前の舞台を飾る歌舞伎座。
二月案内望遠鏡でふれた 三人吉三、 「厄払い」の名セリフが 四月の歌舞伎座に掛かる。
菊五郎丈の 「こいつぁはるからッ…」 「音羽屋ァッ !」  と。

そんな舞台は仕掛けの宝庫だ。
歌舞伎の舞台は中央の床を大きく丸く切り取り、その部分を回転させることができる。
廻る部分の前半分で芝居をしている間に、背中合せの後ろ半分で次の場面の設えをする。
180度回転させれば、別の場面だ。
二つの場を交互に見せたり、装置の転換を観客の目前で見て、場面転換の効果をさらに挙げる。
明治以降は、国内外の劇場でも見られるようになった。 
歌舞伎独特の舞台機構は 舞台下の奈落で人力によって動かした。
たいした 発明だったのである。 それを 廻り舞台という。


廻り舞台とセリ 床下の極意

1758年 並木正三(なみきしょうざ)が独楽の回転から考案したという。
近松門左衛門や鶴屋南北、河竹黙阿弥などと比べて、耳慣れない狂言作者だった並木正三。  
舞台装置の考案者として、歌舞伎史上 欠くことのできない名前なのだ。 
東海道四谷怪談、いわゆるお岩さんの芝居や、平家女護島(へいけにょごのしま)、これは能にある 
《俊寛》の芝居だが、幕切に舞台が廻って一面が大海原になり、岩の上にたたずむ俊寛の姿を強調する。   
廻り舞台の真骨頂。


初期の歌舞伎の舞台は菱川師宣の屏風絵で 能舞台を模しているのが判る。
客席の中に張り出している本舞台、下手に伸びている橋掛り(はしがかり)。
舞台の両袖に桟敷席、周辺の土間で好きな場所に敷物を敷いて芝居を観る。
屋根は舞台と桟敷のみ。雨天中止だったという。  この頃の舞台は廻っていない。
                                      差し詰め  どっかの野球場だなぁ…
1858年に出たという錦絵を見ると 花道が客席の中を通り、客席全体に屋根がある。
享保9年、1724年に幕府から屋根の許可が出たそうで、瓦葺屋根の芝居小屋になった由。
そして、客席は土間から板張りの床になり、席も枡に仕切られる。
この頃は 舞台も廻るし、セリも上がり、一大スペクタクルを舞台で見せるようになっていく。


原型だった能舞台は。 もともとが寺社の境内などでの仮設の野外舞台。
橋掛リは舞台の真後ろに付いていたようで、今の配置は秀吉の時代になったようだ。
現在の能舞台とほぼ同じ形になったのは、江戸期元禄時代頃。
舞台と見所 (けんしょ) と呼ぶ客席とが1つの建物の中に収まる劇場形式になったのは、
明治14年に東京の芝公園内に建てられた能楽堂が最初。


床下の極意能舞台 向かって左方が橋掛かり 




能は、擦リ足の運びを見せるため、床材の吟味が厳しく、極上檜材。
根太の上に敷き並べ、小さな鎹 (かすがい) で裏からとめている。
水平に見える本舞台は、正面先に向かってわずかに低く傾斜し、橋掛リも 
幕口へ向かって低い。
能舞台の床下は、その地面に穴を掘り、そこに一抱えほどの焼物の大瓶を置いた。
穴の数は本舞台に七つ、横板に二つ、橋掛リに三つまたは四つと。 瓶は音響のためと聞かされていた。
近年の科学的測定によると 残響を適度に保つためというより、瓶が余分な周波数成分を吸収するという。 
ほどよい残響は 床下の地表を目の細かい土で覆い固める鏝叩キの技法によるものらしい。 

廻り舞台が電動になるがごとく、近年築の能楽堂は コンクリート打ちの床下、音響は構造計算で考慮。
床下には舞台を廻す人もなく、音響の為の大瓶もなくなるということか…
投稿日 2010年05月24日 16:55:36
最終更新日 2010年05月24日 16:55:49
修正
2010年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
上海国際博覧会が本日より 10月31日まで、中華人民共和国上海市の上海世博園で開かれる。
いわゆる 上海万博。
今も、太陽の塔の大阪万博は 鮮明な記憶の中に生きているし、沖縄海洋博というのもあった。
さほどのインパクトもなく過ぎたが、 愛知万博からは早くも五年が過ぎた。
上海博は愛知博に次ぐ大規模な国際博覧会で、テーマはより良い都市、より良い生活。
2002年に メキシコシティ、モスクワ、麗水、ヴロツワフを破り 上海万博開催が決定したそうである。
開催前の報道は 何かと話題騒然で …  

上海には租界の時代があった。
1842年の南京条約で 開港した上海につくられた租界のことである。
英、米、仏がそれぞれ租界を設定し、後に英米の共同租界とフランスのフランス租界になったそうだ。
歴史に翻弄された 悲哀もあり、欧米の華やかさもありと 実に魅惑的な響きを持った上海。
1946年には上海にあったすべての租界は姿を消す。が、今なお租界時代の建築が残っている。
フランス租界ではやはり 5月1日に 鈴蘭は売られたのだろうか。

今日、フランスでは鈴蘭の日。風薫るフランスの五月を鵞毛庵が只今準備しているという。
以前はスズランの花ならぬ その日にちなんだチョコレートなどが パリから届いた。
日本ほどではないが 菓子屋もこんな時は商売に余念がなかったのであろう。
スズランはユリ科、スズラン属に属する多年草の総称である。
細かく見れば いろいろと種類があるようだが、君影草とか、谷間の姫百合とも云うそうだ。
根から、葉から全てに有毒物質があり、口にすると重症の場合は死に至る。
山菜として珍重されるギョウジャニンニクと似ている。
誤食し中毒症状を起こした話を聞いたことがあるし、スズランを活けた水を
誤って飲んで死亡した例もあるとか。

日本では在来種が高地に自生して、北海道を代表する花として知られる。
園芸店のものは ヨーロッパ原産のドイツスズランということで、花の香りが強い。
今年も三余堂夫人は 小さな鉢を おてんとうさまと程よい風を求めての移動をくりかえす。
5月1日開花をめざして。

まっ 無事にスズランは開花! 万博も… 



つぼみができた 4月18日 鈴蘭の日

鈴蘭の日 咲くか 5月1日に! 4月27日

                
移動の効果か、何とか開花 鈴蘭の日 





投稿日 2010年05月01日 0:18:37
最終更新日 2010年05月01日 1:01:08
修正
2010年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
柳というと 〜昔こいしィ 銀座のやなぎ 〜 。
東京行進曲である。
西条八十作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子の唄である。 勿論、流行当時は三余堂存在せず。
日本の映画主題歌の第一号で、昭和4年に発売し25万枚のヒット。どういうわけか、小生口ずさめる。



最近、五月のはじめに銀座の柳祭りなるものを開催している。
その柳も今は緑濃く 衣替えの日を迎えた。

       「道のべに清水流るゝ柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」   山家集・新古今集 
と、ことに桜を愛でた西行が柳を詠んでいる。
室町の初め、西行の庵にある老木の桜を世阿弥が 「西行桜」という能にした。
室町後期に、観世小次郎信光(1435〜1516)は、西行の詠んだ柳を主題に「遊行柳」という能を作った。



La plume d'oie(c)鵞毛庵 2010 能の花シリーズ   老木の柳 
遊行柳 道のべに清水流るゝ柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ


遊行上人(一遍上人)の教えを広めようとする僧が、老人と出会い、朽木の柳に案内される。
草の生い茂った古道を進むと、塚の上に柳の老木。昔西行が歌に詠んだ柳であると告げて消えた。
僧が、念仏を唱えると老翁が再び姿を現し、念仏への報謝の舞を心静かに舞う。
夜明けの風に目覚めた僧が目にしたのは、朽木の柳だった。


       そのかみ洛陽や。清水寺のいにしえ。五色に見えし瀧波を。尋ねのぼりし水上に。
      金色の光さす。朽木の柳たちまちに。楊柳観音と現れ。今に絶えせぬ跡とめて。
      利生あらたなる。歩を運ぶ霊地なり。されば都の花盛り。大宮人の御遊にも。
      蹴鞠の庭の面。四本の木蔭枝たれて。暮に数ある 沓の音。
      柳桜をこきまぜて。錦をかざる諸人の。花やかなるや小簾の隙洩りくる風の匂いより。
      手飼の虎の引綱も。ながき思に楢の葉の。その柏木の及びなき。恋路もよしなしや。
      これは老いたる柳色の。狩衣も風折も。風にただよう足もとの。弱きもよしや老木の柳。
      気力なうしてよわよわと。立ち舞うも夢人を。現と見るぞはかなき。




栃木県那須町芦野の国道沿いに とても朽木とは言い難い柳がある。 遊行柳ということだ。
何代も植え継がれてきたのだろう。
西行が訪れたという 言い伝えの地を芭蕉もたずねている。
      「田一枚植えて立ち去る柳かな」  芭蕉
能 遊行柳での設定地は、白河の関を過ぎて程なくした所となっているので
現在の遊行柳がある場所ではない。 念のため …
西行の「道の辺……」、芭蕉の「田一枚…」さらに 蕪村の「柳散清水涸石處々」の句碑も並び、
観光客の名所となっているとか。


今週末5日 秋田の唐松能舞台で薪能公演 「遊行柳 」を勤める。
又、20日には「西行桜」を東京の国立能楽堂 能を知る会で勤める。







投稿日 2010年06月01日 0:17:05
最終更新日 2010年06月01日 0:17:35
修正
2010年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
昨年の案内望遠鏡で 深海ワンダーの紹介をした。 
涼を求めて 深海散策はなかなかのものであった。
それからしばらくして、可愛いペンギンとオーロラを見る 南極探検をした。
一年後は 宇宙へ飛び立つことに…
事業仕訳とはやぶさの帰還で何かと話題になったJAXAの仕事も垣間見ることができる。

深海ワンダーはキッズワンダーとなり、深海、南極、宇宙の探検となったのだ。
ゲームで楽しみながら学べる子ども向けの学習ウェブコンテンツを文部科学省が制作している。
子供たちが好奇心のまなざしを向け、学びのきっかけを提供することを目的としているというが、
大人も活用の価値あり。文部科学省のお仕事である。

同じく 文部科学省のお仕事。
今年が 国民読書年と御存じよりのお方はおられるかな!!!
手前 まぁ〜ったく 存じよらず。
国民読書年とは、2008年6月6日の衆議院・参議院での全会一致で
「国民読書年に関する決議」にもとづいて制定された。と。
決議では、深刻化する活字離れ、読書離れが危惧される昨今の状況を踏まえて、
文字・活字によって伝えられてきた知的遺産を継承・発展させるために、2010年を「国民読書年」に制定し、政官民協力の下で、国をあげてあらゆる努力を重ねることが宣言されているそうな…  ふぅ〜む。
解ったような、分からぬような。
一応こんなサイトがある。

「国民読書年」云々のサイト、結局 辿り、たどりして チャレンジクイズ文化財ってな〜に? 
に到着する。
文化財の定義やら 国宝の話やら きちんと確認しておくべきことがよく判る。
能を担う者として当然のことが、文化財の指定を受けていても案外不勉強なものである。
一度は目を通したい内容であった。これこそ 文部科学省のお仕事。

が、はたして 此処へどれだけの人がアクセスしているのか。
夏の暑中、まっ、キッズワンダーには勝てない。








鵞毛庵からも 一寸一言!

文部科学省のお仕事  La plume d'oie (c)2006 

深海ワンダーならぬ、ジュール・ヴェルヌ 「海底二万里」1870年初版の復刻版(ポケットサイズ) 鵞毛庵の蔵書である。
なんだか読書年にはぴったりかもしれない。ワクワクしながら子供の頃に日本語訳を読んだ方も多いのでは?

ちらりと背後に見えるのは海にちなんだ作品。

グラスの底に見える海、よォく覗き込むと... 
Au fond des verres où l' on aperçoit la mer ,quand on se penche bien.....


投稿日 2010年07月01日 0:26:50
最終更新日 2010年07月01日 14:31:32
修正
2010年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
今年二月 足袋のあーほかいぶずと題して 三余堂月次を書いた。
ついこの間まで当たり前だったものが すぐにいとめづらし!になる昨今。
時折 繰り返さないと すっかり歴史物になってしまい、晒木綿のことはもはやめづらしとなった。
めづらしとは すばらしいとか、愛らしいとか、新鮮だとか 要は他にはめったにないとの賛美の語。
iPhonやiPadが普段の生活用品になり、科学の子のヒートテックが安価で求められると
晒しの肌襦袢も足袋も おめづらしい物になる。 
三年前にはまだ、まだと思っていた 足袋やが閉じた事情の一つに原材料の問題がある。
開発された新素材が 既存のものを凌駕していく、このことを実感する複雑な酷暑の今夏だ。
なればこそ いまひと たび 晒の効用の一席!  
                             ぱんぱぱっん!! ここで ハリ扇… 
                                         と なればハリ扇についても いづれ一席語らねば なぁ



以下 おさらいもかねて…
さらしもめんの下着は汗取りとして恰好の素材である。
晒しとは、綿や麻の布を日光や雨風に当て 繊維の持つ天然色素を抜いて 純白にしたもの。
吸湿性、通気性に富んだ晒綿布は万能選手だ。
先ず 手で裂くことが出来る。 長さも幅も調節能。
下締め、肌着から 紐、縄、布巾、三角巾、包帯等、等 …
常に一反 備えておけば 必ず役立つからと 三余堂夫人は 女学生時代の恩師に叩き込まれた
とのこと。


晒木綿を今一度
  汗取りの仕事のために待機する晒と三余堂肌襦袢
               晒木綿を今一度

この時期になると 一年分の 肌襦袢が仕上がってくる。
といっても下着を 畳紙 たとうに恭しく包んで 呉服屋さんが運んで来る訳ではない。
単に、子供が夏休の間に まとめて肌襦袢を縫っていた三余堂夫人の習慣である。

そもそも 三大天然素材のうちの一つの綿が 渡来した年代は不明で 
万葉集などに見られる綿は 現在のワタ属の植物ではなさそうだ。
衣料作物としては麻のほうが先輩で、高温と、日照時間が長く必要な綿の生育は
日本では 簡単ではなかったろう。
15世紀後半に朝鮮から綿布が輸入されるようになり、16世紀には 明からの輸入が加わり
上流階級では木綿の着用が流行したそうである。
さらに南蛮貿易によって東南アジア諸国からも 木綿は入ってきた。

国内でも 16世紀になると木綿の栽培が始まったらしい。
その耐久性や 染色などの加工のし易さに、戦国時代の武士たちは
幕や旗差物、袴などの衣料に用いる。
三河などで始まった木綿栽培は、近畿、関東でも栽培されるようになったとか。
江戸初期には農民の着物も麻から木綿へとなっていく。
江戸も中期になると、各地で 銘柄木綿が産出されるようになる。
こうして絹、麻、綿 はその特質を生かして、 季節、身分、用途に合わせて 活躍するようになった。

てなことを記していた…
この年の7月に、九皐会で勤めた殺生石の前ジテで使用した装束の唐織は 享保年間のものであった。 
能装束の下は 羽二重で作られた綿入れの胴着、その下に 晒木綿で縫われた汗取りを着用。
胴着は着付けをよく見せ、その下の晒木綿は 汗や汚れから装束を護る。
何十年、何百年と生き続けるものは 目に見えない使い方と手入れが支える。
なにが何でも 晒木綿の肌襦袢は上に着るものを守って働くということなのである。











投稿日 2010年08月01日 0:04:25
最終更新日 2010年08月01日 0:04:25
修正
2010年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
西暦の2010年9月1日は陰暦で言うと まだ7月23日。
これから だんだんと月が痩せていき あと1週間もすると 新月となる。葉月である。
先日 今年の正倉院展の二ユースを目にした。すっかり秋の恒例行事だ。
今年は 「五弦琵琶」が19年ぶりに出陳。


一口に琵琶といっても、五弦琵琶、楽琵琶、平家琵琶、盲僧琵琶、等
発展や、系統が互いに影響しあって今日に至っている。
正倉院の御物 聖武天皇御遺愛品は 螺鈿紫檀五絃琵琶 (らでんしたんのごげんびわ) で要するに、
紫檀に螺鈿細工が施された 五弦の琵琶ということだ。教科書などでよく見かける御物の代表選手。
五弦の琵琶としては世界唯一の歴史的遺品だそうである。
奈良時代に伝来し、平安前期頃までは演奏されたらしい五弦の琵琶は、その後廃絶している。


箏と同様に、天皇や殿上人の所作とされた琵琶。 
838年遣唐使として藤原貞敏は、唐で琵琶を学んだ。
琵琶博士より楽譜と琵琶三面を相伝したという。 
帰国の海で、賜った玄象(げんじょう)、師子丸(ししまる)、青山(せいざん) 、という三面の琵琶を
龍神が惜しんで荒波を立てた。そこで、師子丸を竜神に供えて 海底に沈め、二面の琵琶のみを持ち帰り
朝廷の御物となった。 という。

それを題材にしたのは 能 玄象 。 

La plume d'oie (c) 鵞毛庵2010  能「玄象」より  琵琶


蝉丸、平経正などの、名手や名器の話は説話や能で知ることができる。
村上天皇の頃に、名器玄象が宮中から消失した。
源博雅が、微かに聞こえる音をたどると、羅城門で鬼が玄象 を弾いていた… と、今昔物語にある。
もう一面の琵琶、青山の話。
幼少より仁和寺覚性法親王に仕えた、平経正は琵琶の名手で、青山を下賜されるほどの寵愛を受けた。
平清盛の甥である経正は、木曾義仲が攻めてくると、覚性法親王に名器を返上。
都落ちして、一の谷合戦で討ち死にした。経正はかの敦盛の兄であった。


その後、仁和寺に仕え、経正を良く知る僧行慶は、法親王の命により青山を弾いて回向をした。
すると、公達経正の霊が 
おぉ〜! 御弔いのありがたさに、これまで現れ参りたり と
                            消え、消えと形もなくて、聲は幽かに絶えのこって…   
  平家の公達らしくお品良くというか、軟弱だというか、草食系というか 解釈は如何様にも… 

詩歌管弦に興じた日々を想う 経政の姿が、謡、舞を通して 王朝・貴族の文化を伝える。
最後のおのが姿である 戦いの修羅の様を恥とし、
             燈火を吹き消して 暗まぎれより、魄霊は失せにけり、魄霊の影は失せにけり
 本来、平氏も源氏も武士で 戦うのがお仕事、と 謂われそうな    ヘイシっていうぐらいだから…




と、いう筋の能「経正」は平家物語の「経正都落」の話を基としている。
ちなみに 琵琶で語られる平曲で経正は「竹生島詣」と「経正都落」に登場。
室町期には能と並び愛好されていた琵琶が、三味線の輸入、地歌や筝曲、浄瑠璃などの三味線音楽の
発展と共に衰退していくことになる。
しかしながら、明治天皇は終生、琵琶をお好みになり低迷していた琵琶の社会的評価が上がったとのこと。

琵琶の青山は鎌倉時代に失われたと言われ、ゆかりの地である竹生島の弁財天の宝物殿に、
《経正が青山を弾いた際に使用した》と伝わる撥がある。
九月九皐会定例会で三余堂は、青山を巧みに奏した若い平家の公達 経正となる。
舞台で行慶僧都と経正の二人のみが相対する日は、葉月の三日月を過ぎた頃か。



琵琶 能 「経正」より  La plume d'oie(c) 鵞毛庵 2010

画像はそれぞれクリックすると大きくなります。

御流儀によっては「経政」と表記。 当日は三輪も上演。
投稿日 2010年09月01日 0:25:49
最終更新日 2010年09月01日 0:26:07
修正
2010年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
例大祭の井草囃子の音が聞こえてきた。今年もこの音色に浮かれて10月の案内望遠鏡を書いている。
2006年9月に始まったWEB能楽さんぽ。
当初は、記事入力で精一杯で どれほどの閲覧があるかなど考えなかった。 
2年ほどたった頃、そのアクセス数を知るところとなる。
スタート時に200もの方に閲覧頂いていたと知って、驚愕の行ったり来たり。 が、よくよく知れば …
開始当時のアクセスは200程だが、同じ閲覧者が何度も閲覧した場合を1と数えると 27人の閲覧。
しかもこれは 一日ではなくて1か月のことであった。

2年目はひと月に2,000以上のアクセス、600以上の閲覧者数になっていた。 驚きモモの木山椒の木。
また2年。 しばらく振りにアクセス数を確認したところ、
月に5,000以上のアクセス 2,000程の閲覧実数があった。 これをどう判断するべきか。
まず、兎にも角にも感謝申し上げる。 
ネット社会の中で海を越えて閲覧の方、日本語に通じた外国の方、老若男女、まったく存じ上げない方に 一介の者の 拙い文章にお付き合い頂いていることを。

仏蘭西在住の鵞毛庵と始めた このWEBは今では形式も古いようで、サポート打ち切りが
いつやって来るやらと 思うばかりである。
ホームページなのか、ブログなのか、こだわり始めたらキリはないが、なるべく、なるべく簡素に!
これが形式への希望で 写真が載せられればオンノジだった。
既存の鵞毛庵のサイト改築ということで始まったが、ネット社会の驚異的な進歩と普及の中
このサイトも5年目に入る。
当初、写真や作品の掲載、文字の色などに心奪われていたら 携帯では写真も何も見ることが出来ない 
と知って驚いたり、機種やブラウザで異なった印象の画面になることも解かった。
最近は携帯での閲覧がとても多く、絵もなきゃ、写真も見られずのサイトでは 下手糞な駄文が
連なることへ反省しきりである。書きゃぁいいってもんではない。
さっぱりと、数百字の洒落た文章にしたいものである。

携帯閲覧の多い中、今でもWindows 95や98というOS利用者がいるのは嬉しい限りである。
これからはiPadの時代なのだろうが、書かれる内容はもっぱら600年も前からの繰返しのことに拠る。
つい先日 平凡社から別冊太陽 《世阿弥》が出た。
1976年に太陽で《世阿弥の生涯》、1978年別冊太陽 《世阿弥》等がでてから30年以上
執筆者はすっかり代替わりし、内容も今現在の社会を強く意識した編集と感じるが、
図書館でも、アマゾンでも活用してそれぞれを読み比べるのも一興だ。 さてさて面白さは如何に…
「能を識る」にはさすがの纏めである。 


五年目の第一稿

昨年は鵞毛庵も三十数年の在仏生活の本拠が東京に移り、能の花シリーズの作品が充実してきた。
時折、ご要望もあるので以前の記事を織り交ぜながらも 能の花を絡ませて徒然に綴っていきたい。
が…

過去を振り返れば あぁでもない、こうでもないと、文章に修正をしたくなるし、先へ進めば壁がある。
《山椒魚》 に手を入れ続けた文豪井伏鱒二先生と ご同様と言ってはとんでもないことは 承知の上で、
ちょっと そんなことを呟いてみたナウ!  と、ネットの新星140字のツイッターなら書くのだろう。





                                                 
投稿日 2010年10月01日 0:00:35
最終更新日 2010年10月01日 0:00:35
修正
2010年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
能、絵画、陶器などに造詣が深く それらを素材としてふんだんに採り上げている 白洲正子の随筆集に
「かくれ里」がある。
藝術新潮に連載されたのは もう四十年も前のことになるが、その随筆をまとめたもので、
読売文学賞を受賞している。
最近、その愛蔵版が、野中昭夫氏他の沢山の美しい写真とともに再編集されて新潮社から発行された。
吉野、葛城、伊賀、越前や滋賀などのひっそりとした里を訪ね、歴史や伝承習俗を肌で感じ、
自然が語りかける言葉、閑寂な地の人たちに守られ続ける風景文化を筆者がつづる。

世を避けて忍ぶ村里 と、字引にあったという 「かくれ里」に 著者が見たものは 四十年たった今も
読者に浮き浮きとした気分を誘う。


  …民俗学の方では、山に住む神人が、冬の祭りなどに里へ現れ、鎮魂の舞を舞った後、
    いずこともなく去って行く山間の僻地をいうのだそうで、謡曲で「行くへも知らずなりにけり」 
    とか「失せにけり」 というのは、皆そういう風習の名残であろう 云々…
 


著者は里へ下って豊穣祈願の舞を舞って何時ともなく、行方も知れず失せていく山の神人の話をしている。
山に住む鬼婆とか鬼女で、人を食うと考えられている山姥。
山中を行く旅人に宿を提供する美しい女性(にょしょう)が、旅人が寝入った後に取って食うという。
山姥の説話は各地にあるが、山の神に仕える巫女が妖怪化したともいわれ、
人に福を授ける存在として登場したり、とりつかれた家は富むという伝承があったり、
山姥を守護神として祀る考えもあるから、その正体は様々である。
『遠野物語』には、山隠れする女が山姥になったという話があり、出産のために女性が入山する習俗や、
村落の祭で選ばれた女が山にこもるという風習もあったそうだ。 
出産、子孫繁栄にまつわる話は古事記にまでさかのぼると思う。人を喰う恐ろしい鬼女の性格と、
柔和で母性的な面をもつ山姥は、いわゆる山の神。山岳信仰の名残りでもある。

喜多川歌麿による山姥と金太郎の浮世絵があるが、山姥伝承として、足柄山の金太郎の母もいる。
能の「山姥」は勿論、「安達原(流儀によっては 黒塚)」をはじめ 浄瑠璃、常磐津、清元、長唄などには
山姥物といわれる作品が数々ある。
能 「山姥」に、里へ下りて苗とりをしたという故事が猿楽や田楽に取り入れられた姿が垣間見られるのは、
取りも直さず、山姥が民間に信仰され親しまれていたということだろう。
山々を廻り廻る山姥は 行くへも知らずなりにけり となるのだが…

能に橋掛り、歌舞伎に花道があるように、目的地にたどり着くまでの道中に魅力を感じ、その「道草」の
なかで拾われた著者の発見云々、と綴られるエッセイは 時空を超えて身も心もその道草へ誘う。
三余堂亭主 探し物の時の常套句。 「行くへも知らずなりにけり」。 で、 諦めるときは 「失せにけり」。
さてさて、秋の夜長には 諦めずに「かくれ里」へ探し物を … 
 


かくれ里  白洲正子著  出版社: 新潮社 愛蔵版 2010/09 発行

かくれ里 

能 「山姥」より  La plume d'oie(c)鵞毛庵 2010



投稿日 2010年11月01日 1:18:04
最終更新日 2010年11月01日 1:18:18
修正
2010年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
「鸚鵡(おうむ)は能く言して飛鳥を離れず。猩々 (しょうじょう)は能く言して禽獣を離れず」と
礼記(らいき)にあるそうだが 大酒飲みで真っ赤な顔の 人のようでもあり、人のようでもなし…  
その昔、猩々という想像の生き物が大陸で作り上げられた。 
ちなみに猩々はオランウータンの和名ということだが。黒猩々がチンパンジーで、大猩々はゴリラ。

人に似た顔と子供のような声、鮮やかな赤い体毛で、人語を解し、酒を好む。
その血はあくまでも赤く 黄味を帯びた深紅の色は一際目を引き、猩々緋という色名に象徴される。
戦国時代、この色が馬上の陣羽織として活躍したのは当然のことと思う。

昔読んだ洋物小説で子供の病気の代表選手に 猩紅熱 というのが必ず登場していた。
あれも真っ赤になるから 猩紅 と名付けられた。
ショウジョウトンボ、ショウジョウエビ、ショウジョウバカマ等、みんな赤い。
時節柄 よく見かけるあのポインセチアも和名はショウジョウボク、 猩々木と書く。
日本には、明治期に入って来たという植物。
当時、あの赤は 猩々をすぐに連想させたのだろう。
酒に惹かれる蠅は、酒好き猩々になぞらえてショウジョウバエと名付けられた。


かの白楽天、白居易45歳の力作に 「琵琶行」がある。冒頭に 潯陽江頭夜客送と詠われいる。
ご存知よりも多いと思うが、朗誦すると10分以上もかかるという大作の長歌で、実に美しい。
白居易が左遷された頃の作品で、中唐代。
その頃、潯陽江あたりは蘆や荻が一面に茫々と生い茂った寒村だったようだ。
といったって潯陽江、今でいう揚子江はあまりにも大きい。  その潯陽江での話をひとつ。 

 
潯陽の里に高風(こうふう)という親孝行者が住んでいたと思いねぇ…
ある晩のこと高風は、市で酒を売れば繁盛するってぇ夢を見て、市で酒売りをしていたら 
いっくら飲んでも飲んでも 顔色一つ変わらないお客がいたってンだ。
お客さま、その飲みっぷり! ただもんじゃぁござんせんねぇ〜
いったい 何処のどちら様でございましょうか?
へぇっ〜  あの広い海ン中にお棲みなさるっ!  ほぉっ〜 猩々さまぁっ!!
と 腰も抜かさんばかりに驚いた高風。
テンで、川のほとりに酒壷を供えて夜すがら待っておりますってぇと…
真っ赤なお顔の猩々さまのお出ましいっ〜 て、 言ったって、赤いのなんのって。 
そのおん出立は赤い頭に赤地の唐織、緋の大口か、はた又赤地の半切、
つまりキンキンキラキラの赤袴。 笑みを浮かべたお顔はほろ酔い機嫌。
ン、まぁ 旦那、いいごきげんて゛ござんすねっ。 ちくと、一杯 いかがです!
こうして 酒をたんと持って参りました!と、猩々にたっぷりと酒を振舞ったりなんかして。
ちょっと ご機嫌な猩々さまは 益々ご機嫌よろしく、一杯か、いっぱいか きこしめして
オミ足もごきげんに酔態の様。 ゆったりと 楽しそうに舞われまして今までの酒代と言いましょうか、
孝行者の高風に 酌めども尽きない酒の泉が湧く壷を賜ったってぇから さぁ大変。
“おまえさん、おまえさぁんっ、 やだよ、この人、夢見てんだよ、何の夢だろうねぇ、にやにやしてさ。”
と、おかみさんが言ったかどうだか。                                            
高風、その酒壷のおかげで末長く栄えまして、誠におめでたいこって、 あっ、お後がよろしいようで…


と、能 猩々では描いている。  
                                             
シテの舞は 水上を動く猩々の様を見せるための工夫が随所に施されているというわけで、
真っ赤なほおずきのお化けのような猩々が 得も言われぬ特別な足のさばきを 水面にみたてた
舞台の上に見せる、いや魅せる。  めでたい祝言曲。
ちなみに 番組上で 乱 と表されていればこの能を示す。


葡萄の美酒とばかりに 解禁が天下の一大事と大騒ぎした時代があった。
海の向こうの広い大陸、その向こうに砂漠、それを越えた その又向こうの西洋のお酒。
街のスーパーでもあやかり商法で、販売したボジョレー・ヌーヴォーはそれなりの見目麗しき
おばさんが声を張り上げて売り子をしていたが、今や解禁一週間と持たない話題である。
しかし 酒をこよなく愛でる人は洋の東西も、古今も問わない。


汲めどもつきぬ 酒の壷
Le bon vin fait parler le latin.
良いワインはラテン語をしゃべらせる.... つまり、よい酒を飲むと饒舌になる、楽しい酒になる、という意味の格言。
La plume d'oie(c)鵞毛庵2010

“おまえさぁ〜ん   いつからここに こんな壷! やだねぇ、蠅がいっぱいたかってるよぉ…”






投稿日 2010年12月01日 1:16:07
最終更新日 2010年12月01日 1:17:39
修正
2011年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
恭頌新禧

年頭のご挨拶まで

室町期以降の幕府、大名家に於いての新年行事に謡初め (うたいぞめ) があった。
能役者の大事な勤めで、「うたひはじめ」とも呼んだようだ。
当初は室町幕府での新年酒宴に出仕して 祝言の謡をちょっと謡う程度であったものが、
だんだんと儀式化していったという訳である。
江戸時代になると 徳川家のしきたりが土台となった形式だったようで、
家綱の生母が没するまでは正月二日、それ以後は三日に行われたようだ。
能役者、といっても出仕の中心は観世太夫なのだが、謡う姿勢も平伏したまま、拝領の時服で舞うなどの
特有の決まりごとがあったらしい。
謡初めの謡が終わると 将軍を筆頭に、各大名が自ら着ていた肩衣を脱ぎ与えるという儀式が
あったというからなかなかのパーフォーマンスである。
もっとも、毎年、毎年、そんなに大勢から肩衣ばかり賜ってもと ご心配の向きもあろうが、
それらは後日 金子、つまり 現金と交換される慣習だったという。
そんな 謡い初めの行事は宮中や寺社などでも行われていたようだが、形式は兎も角 
謡、詠、歌、唄、となんでも 年初にはじめて声を出せば 謡初め である。
せいぜい大きな声で … 年の初めに それぞれの謡初めを!
辛卯の春を寿ぎ 能楽さんぽでの本年も相変らぬ御付合いを願い上げ候と御挨拶の三余堂、 
                            さてさて 謡初めの前にはしっかり おせちに御雑煮と…









投稿日 2011年01月01日 0:20:14
最終更新日 2011年01月01日 0:20:14
修正
2011年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
節分を控えた、今の東京は乾燥の極みで 皮をむいた食べかけのミカンは瞬く間にカラカラとなる。
そんなミカンの仲間、大きいものはバンペイユのような人の頭ほどの実から 
キンカンのような小さなものまでさまざまで どれもこれも、蜜柑の仲間らしいことは判るが 名前となると…

砂糖漬けにするミカンという程度の認識であったが、ザボンという大きな柑橘類のことは知っていた。
江戸時代初期に渡来したというザボンは文旦(ブンタン)とも云うが、原産地は東南アジアなどの
南方のようで、その呼称は清の人の名だとか、なんだとか。 清の船が薩摩沖でも座礁したのか、
船を助けた折に礼として貰ったことがきっかけで日本国内に広まったと聞いたことがある。
真偽のほどは判らない。が、当たらずとも遠からずと勝手に思っている。 

ザボンは、高さ3mほどまで育つというから結構な高さの樹で、品種も多種あるようだ。
果実は直径15から25センチ、重さは500gから2kgぐらいまでになるという。
ちなみにナツミカンやハッサクは御親戚とのこと。
昨年末に遠方の知人から庭先に出来たものだろうか、御裾分けに預かった。
皮の厚い果実は、果汁が少なく、少々ぱさぱさした感じで、酸味が強く砂糖を振りかけた。
もっとも、賞味せよと賜ったのではなく正月飾りにでも、ということだったらしい。果実の収穫は年末頃が
多いとのことで、濃き緑の葉を付けて、目に鮮やかな黄色く大きな実は正月の飾りに持ってこいだった。
歳時記にも冬の季語としてある ザボン。朱欒と書く。

今年になって三余堂にほど近い、三階建てのビルの横に顔を出している大きな果実を見つけた。
それも電信柱と競わんばかりの上方に子供の頭ほどの実を見た。    一瞬身構える!
街なかの、あの高さ、あんな大きさの実。 熟して落下か、 収穫するのか。
いやはや、その下を歩いていたのか。 
ザッボォッンッ! 頭上に落下したら…   なんて思ってはいられない。


一体何時から生息していたのか〜 ザボン・朱欒 ザボン・朱欒

投稿日 2011年02月01日 0:07:47
最終更新日 2011年02月01日 0:07:47
修正
2011年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
西遊記でおなじみ三蔵法師。
本来は経、律、論、の三蔵に通じた僧のことを三蔵法師と言うらしいが、専ら、馴染みのあるのは
唐代の僧である玄奘(げんじょう)。
玄奘は経文の原典を求めてインドへ、そして『般若心経』を唐へ持ち帰った。
後にその業績が、『西遊記』となり、一般に三蔵法師と僧玄奘がごちゃごちゃになった。
もっとも、8世紀頃になると、三蔵法師は経を訳す僧という意味にまで幅が広がったようで、玄奘が後世、
俗称として三蔵法師となったのも頷ける。

三蔵法師こと僧玄奘は、17年に及ぶインドでの日々から 経典657部を、携えて 長安に帰ったのが 645年。
ただちに 翻訳開始。 これが我が国、くしくも 「大化の改新始まる」 とされる年である。
時の唐の皇帝、太宗は玄奘の功績に対して序文を寄せ、当時の皇太子で後の3代皇帝高宗も
文を寄せた。
これらの碑文は『雁塔聖教序』と称し「序」と「記」の一対の碑をなし、陝西省西安の大慈恩寺内に現存。
慈恩寺は太宗が建立したもので、ここにインド式建築の大雁塔を建造。
この大雁塔の上層の石室に、インドから持ち帰った経典を保管したという。

太宗皇帝の指示で『雁塔聖教序』を書いたのが 褚遂良(ちょ すいりょう)という、書家で当時の官僚である。 
褚遂良、58歳の作とされる雁塔聖教序は、中国書法史上の大傑作ということだ。
ふぅ〜むと、不案内ながら 法書選の『雁塔聖教序』を繰る。
書に造詣の深いご仁なら どなたも御存知で、蘊蓄などがおありと存ずる次第ながら…
全821字、仏教伝来の経緯、玄奘の功績を讃え、永徽4年(653年)に中書令 臣 褚遂良書 とあるが、
端正な美しい文字が 躍動するように並び、思わず見入る。

雁塔聖教序    


細く、太く、強く、弱く、しなやかにそして華麗に…
次に これを碑に彫った石工を思った。 萬 文韶(ばん ぶんしょう) 刻字 とある。
一文字の画と画をつなぐ 見えない空間、息、力、速さを石の上に蘇らせた技。
ふぅ〜むと また改めて 眺め入った。
    
雁塔聖教序


褚遂良(596年〜 658年)は 初唐の三大家といわれる欧陽詢、虞世南といった書家の中でもっとも若く、
太宗、高宗に仕えた気骨の名臣ということである。
と、いうのも高宗が、かの有名なる 則天武后を皇后に迎えることに反対して 左遷され、
結局 63歳で没したときは ベトナム中部まで流されていったという。
欧陽詢や、虞世南の文字も習字の本などで見知っている向きも多いことであろう。
それら親ほども年の離れた書家の後を推挙され、太宗に仕えた褚遂良は、先人の後を継ぎつつも
新境地へ向かっての模索という 大きな使命も担って碑文を書したのだろう。
楷書、行書、草書の三体を芸術的に完成させたとする、古今第一の書聖 王羲之の真書鑑定の職務を
果たしていたというが、新しきを生み出す為に古きに立ち返り、如何に学んだか。

      
雁塔聖教序


雛祭りのあられをつまみに いま一度、褚遂良とその先人達の書を並べてみる。









投稿日 2011年03月01日 0:21:57
最終更新日 2011年03月01日 0:21:57
修正
2011年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
狂言綺語と書いて、きょうげんきご、能では専ら きょうげんきぎょと読んでいる。
誤った戯言や むやみに飾り立てた言葉のことを言う。
和歌などを卑しめる時の表現ということだが、そのような 狂言綺語をもてあそぶようなことをするのは
仏の教えに背くこととされていたそうな。
平安時代になると 和歌が仏の道の修行に繋がるという考えがあり、これを弄ぶとは何たることぞ!
ということだったようである。
武士の時代となった鎌倉時代には 紫式部が書いた源氏物語は狂言綺語で 
その為に 紫式部が地獄に落ちたという説が広まる。源氏物語は人々を惑わす絵空事ということか。
そこで 式部の救済のために源氏を供養することが行われた。


むかしむかし、今の京都市上京区に比叡山東塔竹林院の里坊、安居院 (あぐい) があった。
そこには説教の名手澄憲 (ちょうけん) という天台の坊さまがいて、安居院流の唱導の祖ということであった。
この坊さま 保元・平治の乱でご存知、かの藤原信西入道の七男なんだと。
安居院法印澄憲さまが石山寺へ参詣途中、女に呼びとめられたとさ。
そして「源氏物語」についてなんじゃカンジャと話をすることに。
挙句、女は供養を頼んで消えていってしもうた…。
『ははぁ〜ん、あの女は紫式部の霊じゃなぁ…、ではでは光源氏と式部の供養をいたしましょう。』
すると、紫式部が美しい紫の衣に緋の袴姿で現れて、源氏物語の巻名を読み込んだ謡にあわせて
舞ったんだと。 いやはや 実は式部は観世音菩薩さまの化身であったとさ。




「そもそも桐壺の、ゆふべの煙速やかに、法性の空に至り、帚木の夜の言の葉は…」と
源氏の巻名が順に読み込まれて始まる詞章に 紫式部の霊が舞い、
「思へば夢の浮橋も、夢のあひだの言葉なり夢のあひだの言葉なり」と静かな留めを迎える。
夢、現、の中に源氏供養を題材にした能が まさに『源氏供養』。
かの関白秀吉がお好みの曲で、文禄元年から文禄二年の 一年間に自ら七たび 舞ったという。
平成二十三年の秀吉さま 岸谷五朗は お舞いなさるか。
平成二十三年四月十日、悪夢からのひと月。 三余堂、九皐会定例会にて 紫式部の霊となる。 
                                              鎮魂の意も込めて。


源氏供養 能「源氏供養」 (c)La plume d'oie 鵞毛庵











投稿日 2011年04月01日 9:47:06
最終更新日 2011年04月01日 9:47:31
修正
2011年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
眼鏡をかけたり、はずしたり…   記入は楷書ではっきりと! との注意書きである。
そもそも、楷書とは何ぞや。
漢字の書体の一つ。 一画の中に起筆、送筆、収筆がはっきりとしている書体。
ようするに、いつの間にか始まって、いつとは無しに終わっちゃぁいけない。
はじまるよぉっ! はい、いくよォ〜  さぁ、おしまいっ。 
角にきたら向きをかえて、さぁ、いくぞぉっ〜っ てな具合の文字ということか。
以前、テレビで見た宝塚音楽学校の生徒の廊下での歩き方のようだ。

三世紀の中ごろ、日本は邪馬台国の卑弥呼の時代に 大陸で楷書の芽生えがあったという。
それから要すること二百年。 標準書体として完成したそうで、さすが、大陸時間は尺度が大きい。
勿論、楷書誕生の前が、これまた長い。紀元前三世紀に篆書 (てんしょ) が現れたっていうから、
ごそごそと旅券を引っ張り出す。日本国旅券と書かれた文字が篆書。 そして 挟まっている紙を引き出す。
と、なんと日銀券。 篆書さがしで儲かった!  これにあるハンコもしかり、要は実印の文字である。
この篆書は、紙はおろか、筆のない時代の文字である。堅いものを引っ掻いた文字が残存している
わけだ。


楷書 篆書 
楷書 隷書


その篆書から二百年、隷書 (れいしょ) が成立。
これはいやに扁平で、一画の中に波を打ったような形がある。
そして、また二百年、楷書が芽を出し、五世紀に完成。
漢代に、と言ったってえらく長いので、雑駁に寛大に…  良く整った隷書を楷書といったり、
後漢書では手本のことを楷則と呼んでいたというから、楷書は装飾的にしたり、省略したりしない文字
という事だったのかもしれない。 真書、正書、とも言われていたという。
漢代の標準書体だった隷書に代わって、南北朝から隋、唐にかけて標準となった楷書。
華やかな唐文化では かの太宗皇帝が王羲之の書を好んだことからますます、書体が洗練された
という。
そして 何だかんだの末に、三月案内望遠鏡の『雁塔聖教序』に登場の褚遂良が誕生してくる
ということだ。
木版印刷は唐時代に遡るというが、宋代に印刷された楷書体は洗練され、明代後半には書物の
商業的な印刷やら、刊行などが盛んになって、明朝体が発明されたというから さすがに大陸文化。
今でもお世話になる明朝体は、能率的に版が彫れて、読みやすい字体として生まれたという。
楷書を活字体つまり、明朝体だと思っているご仁があるという。
明朝体はその後の時代、清朝の康熙帝や乾隆帝の好んだ書風の影響を受けつつ今日ある
というから、なかなかややこしい。
流れを鑑みるに初唐に確立した伝統の楷書体、唐太宗が好んだ文字と明朝体とは 
ちと、異なるなぁ〜 と思いつつ、
書体の名称として楷書と呼ぶのは宋代以降らしいから、
やはり楷書は真書、正書ってことに…  と、ますますややこしい。
が、眼鏡の奥から、印刷用の書体ではない!ということだけは了解した。







投稿日 2011年05月01日 0:32:24
最終更新日 2011年05月01日 1:53:05
修正
2011年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]

 えーっ 何事についても、なにか自分の意見を言わないと気のすまない人を一言居士と申しまして、
この 『こじ』という響きがなんともお固そうで、おまけに意固地なんていう言葉が浮かんでくるから
がちがちの『文句言い』のような人を想像いたします。
お勉強なすった ご僧侶ほどに学識はお有りだが、出家はされていない。
そんな坊さまを『居士』と呼ぶようでして〜、 まぁ そんなところから、一原因ガチガチ居士、
なんていう具合に戒名でのご尊称となったらしゅうございます。


  鎌倉時代も終わりの頃、あの訳のわからない、お経の文句や意味をやさしく話してくれる人が
居りまして、世にいう 説教師。 ンまぁ、これがよく判るんでございますよ。
          今なら ナントカ彰さん でございましょうかぁ。
ありがた〜い教えも 聞いて貰わなきゃぁ仕方がない。ただ話したって、面白くもおかしくもない。
人さまの集まりそうな所で、鳴り物で集めようか、身振り、手振りで見せようか、
それとも唄おうかっ、てんで簓を摺り、舞い歌いながらのお説教。 
人呼んで ささらたろう。  簓太郎のご誕生でございます。

  この簓太郎が自然居士と謂われる人でして、《しぜんこじ》 じゃぁございません。 《じねんこじ》。
他に三人の御同業、歌舞説教のご面々が 『天狗草紙』 というものに書かれているんだそうで
ございます。みなさん、なかなかの芸達者。 まぁ、人気が出ればやっかみもあるし、足も引っ張られる。
なんと申しましょうかぁ、正当なお説教とも、ちょいと 違って居りましたんでしょうなぁ〜
なんだかんだで、えら〜い、お坊様方の会議でその四人組、京の都からオン出されちまったそうで。
まぁ そうは言っても、簓太郎さんは 御人気物。
近江の観音寺城で、佐々木頼綱さんのご依頼で額の裏書、奈良の新薬師寺では庇(ひさし)勧進のご説法。  その新薬師寺さんの庇。明治の末に取り外されたようではございますが、それを造ったのが
自然居士さんなんでございますねぇ。
あちら、こちら、とお出向きになったんでしょうなぁ、説教者の祖ってなことで 日本各地に墓があるそうで。
おまけに、子供の頃、青年、壮年と シャレコウベもご点在 …  それはさておきまして、
 この方、お能の主役にまでなったんでございますよ。
説教者の祖を、能の祖、観阿弥って方が作られたんだそうで。
えぇ、えぇ、「自然居士」ってお能でございます。祖が祖を描くってんだから、
古い、古い、お能の形ってことでございましょうかねぇ…


  本物の自然居士さんに、お目もじしたこたぁございませんが。 
観阿弥さん、御自身で「自然居士」をお演じなすったそうで。
喝食(かっしき)という、お若い御在俗の僧を示すっていう面(おもて)をかけて舞台へご登場。
それがねぇ、とっても物まねが御上手だったようで  自然居士が十二三ばかりに見えたって
ものの御本、『申楽談儀』ってのに あるんだそうでございます。
観阿弥さん、結構大柄だったとかで、いくらなんでも十二三とはねぇ。
いえいえ、女になれば細々と見えたんだそうでございますから大したもので。
  この観阿弥って方は、芸もたちますが、作者としても相当なものだったんでございましょう。
「自然居士」じゃぁ 人買いから娘を取り返す ってな、人情味たっぷりのお話を筋立てにして、
ことばの遣り取り丁々発止、ささらに鞨鼓に 舞うは謡うは 見せるわみせるわ。で、ございますよ。
その頃、流行りの曲舞 (くせまい)ってのを お能に取り入れなすったんだそうで、それがまた大当たり!
お勉強も熱心で、あっちで人気と聞けば、教わり、こっちでいけると思えばやってみる。
都も田舎も、上つ方から下々までの 評判のお人気役者。
  座頭としてもご立派だったんでしょうなぁ〜、営業活動も怠りなくなすって、
なんたって、将軍義満さまの御寵愛を一身に受けた世阿弥さんのお父上でございます。
ところが まぁ、お能をなすった旅先の駿河で52のお歳で亡くなったんだそうで、
世阿弥さんが 21か22の時だってぇことで、今から 何年前になるんでしょうねぇ〜
今年は2011年ですから、627年前ってことに…
それより前にできた 「自然居士」 のお能ってものを 今でも見られるってんだから
なにがなんだか 判りませんが、兎にも角にも、有難いことでございます。はい。


2011年6月19日  能を知る会にて 三余堂「自然居士」を勤める



投稿日 2011年06月01日 0:43:06
最終更新日 2011年06月01日 7:28:18
修正
2011年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
只今 編集中!

    お世話になります。
             只今 編集中
投稿日 2011年07月01日 0:24:09
最終更新日 2011年07月01日 0:24:09
修正
カテゴリ : [案内望遠鏡]
小説の神様 志賀直哉が書いた小僧の神様は
  『仙吉は神田のある秤屋の店に奉公している。』 で始まる。
屋台の鮨屋で一度手に持った鮨の値段を言われて、それを置いて出ていく小僧。
それを見ていた男が後日、小僧に鮨を御馳走してやる。
男と小僧の気持ちを綴った短編 「小僧の神様」 だ。

秤屋の店頭で、大番頭と若い番頭がする鮨屋の噂話に小僧仙吉は
『 「しかし旨いというと全体どういう具合に旨いのだろう」そう思いながら口の中に
たまってくる唾を音のしないように用心しいしいのみ込んだ 』 とある。
大正九年に書かれたこの小説の頃は 屋台の鮨屋が専らだった。
翌年生まれの親父殿の話にも屋台の鮨屋がよく登場するから、屋台の時代は長い。

綱紀がゆるみ、財政窮迫、賄賂横行、奢侈淫逸の文化期(1804〜1817)の始め、
深川六軒掘りに、松がすしという鮨屋が出来たそうである。
押しずしのような、上方風のすしが中心だった江戸市中のすし屋に、にぎりずし登場。
世上、にぎりずし一色に一変したとも言われたそうな。
この鮨屋本来の屋号は「砂子鮨(いさごずし)」といったそうで、それまでと違って
結構な値段で、よその鮨屋も右へ習えとばかり、という話もあるが…
ともあれ、お江戸を中心に爛熟した町人文化を生んだ文政期(1818〜1831)に
握りずしは完成をみたようで、瞬く間に拡がったという。 屋台料理として。

広重の描いた浮世絵の寿司を見ると、細工された葉蘭を敷いた皿に、こはだに海老、干瓢海苔巻、
たまごの太巻きなどがのっている。
江戸前、すなわち東京湾でとれる素材を使うので江戸前寿司とも呼ばれるが、
何れも、酢〆、醤油漬け、火を通す、などの下処理をしている。
だいたい、すしの起源は、紀元前4世紀頃の東南アジアというから古い話だ。
米の中に塩と魚を漬けて発酵させた保存食。
所謂、米飯に漬けて、自然発酵させた「なれずし」だ。
天保期の末に下魚とされていた鮪が豊漁となって、湯引きして、醤油に漬けて提供。
大いに評判となり、江戸前ずしを代表することに。
当時のファーストフード、廉価なすしを売る「屋台店」が市中に溢れたというのだから、 
冷蔵庫のない時代のすしは、保存の工夫が勝負だったろう。
固定の店をかまえる「松之鮨」なんていう鮨屋では、比較的高価な鮨で勝負したという。
そういうところではマグロなんて下種なものは出さなかったようで…
ちなみに 贅沢を禁じた天保の改革では、200軒あまりの寿司屋が手鎖の刑に
なったとか… 高級店がそんなにもあった、ということだ。

明治30年代になると、鮨屋でも氷が手に入りやすくなり、明治末あたりからは
その供給が気になるが、電気冷蔵庫を備える店も出てきたというから驚きだ。
当然、江戸前握りずしは、酢〆、醤油漬け、火を通していた素材も、良くなった環境のおかげで
生で扱うことが多くなってきたし、種類も増えた。
小ぶりの握り飯ほどもあったにぎり寿司は 次第に小さくなってきた。
大正12年 関東大震災で被災した東京の鮨職人達が故郷に戻り、日本全国に
江戸前の寿司が広がっていったという話もある。

その後、戦後は衛生上の理由から屋台店が無くなって、小僧の仙吉でなくても
気楽な感じのものではなくなった。
現在、当たり前になった回転寿司。昭和33年に大阪で始まったというから 結構な
歴史になるし、スーパーは勿論、コンビニにも江戸前にぎり鮨がパックで並ぶ。
屋台のすしがコンビニの鮨へと庶民性を取り戻していった。

はてさて、その味は。小説のタネになるものだろうか。
                         くれぐれも この季節生モノには御用心!







投稿日 2011年07月01日 8:01:40
最終更新日 2011年07月01日 8:01:40
修正
2011年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
今日から八月だが、梅雨のような陽気に障子は波を打っている。
紙の文化だなぁと その強さを確認するかのように触れてみる。子供なら指を無理やりに押し込むのだが。

中国史上まれにみる名君といわれる光武帝が開いた後漢王朝。
                                       というキャッチフレーズはいつも同じような気がするが … 
この後漢の、明帝の御代に登用された蔡倫という宦官がいた。 この人、皇帝三代ぐらいに仕えたようだが、何しろその頃のお家事情が複雑のようで、皇帝は成人するのかしないのか、君主交代劇が盛。
ざっと200年も続いたこの御代は、諸葛孔明なんぞで馴染の三国志の前の時代になる。
で、ご存知福岡県は志賀島で発見された あの「漢委奴国王」金印の漢がこの時代。
時代の要請だったのか、科学技術の進歩というか、紙というものを開発したという。

それまでは 物を書くって言ったって、木や竹を一定の大きさに切って束ねたものに書き付ける木簡や
竹簡、又は絹布を使用していた。 かさばるワ、重いワ、持ち運びには不向きだワ … で、そのうちには
朽果てるし、絹は絹で非常に高価。 とてもとても 大量に書写材として使うのは不向き。
記録が仕事の役人にとっては実に不合理だった。 孔子様の教えを書き付けて置かないと忘れてしまうし、
文化を担う坊様だって お経の一つも したためなきゃぁならない。

そこで、蔡倫という有能な官吏が御指名に与った。   『 かみぃ つくれぇ〜 !』
樹皮や、麻などの植物繊維を原料として それまでの製法技術を改良したのが「蔡侯紙」と呼ばれる紙。
切り刻んだ樹皮などを水で洗い、草木を燃した、灰でぼろを煮たりして、石臼で砕き、陶土や滑石粉などを
混ぜて水の中に入れ簀の上で漉いたそうだ。

雪のちらつく冷たい朝、水の中の入れ簀を前後にゆする名人。
繊細な紙漉き職人の工房の一角には蔡倫を祭り、精進潔斎して仕事に臨む職人の姿がある。
                                             これはあくまでも我国の和紙製作の話だか゛…  


なんたって 蔡倫は紙の神様。
紙は木と水を繋ぐ神聖なもので、中国でも仕事前に香を焚いて祈る姿が ヒストリーチャンネル
『絹の道、紙の道−文明の礎二千年− MBC+MEDIA製作  』で画面に映し出していた。
軽く小さくなる紙は文化の伝達速度を格段に上げていった。
後漢代のみならず全ての時代と、すべての地域に多大な影響を与える2000年に及ぶ紙の旅路だ。
製紙の技術は大陸から、アジア諸国へ 言葉や仏教、儒教を広める原動力になったし、
西方への文化の橋渡しを担った。 そして、電子化がいくら進もうとも、今の私たちは享受している。


有難くも、障子に指でそっと穴をあけたり出来るのは紙なればこそ。
                                       化学繊維を漉きこんだもので穴はあかねぇ…



かみの神様


古代エジプトではパピルス(カヤツリグサ科)からパピルス紙を作って文字を書いており、輸出品としても重要だった。しかし、政治的な事情からペルガモン王国への輸出を禁じたため、ペルガモンでは動物の皮から作る羊皮紙が発展、やがてパピルスの衰退を招き、ヨーロッパは羊皮紙が主流に。 ヨーロッパで紙が製造されるようになったのは12〜3世紀からで、イタリアが中心となった。

中国からイスラム圏に紙が伝来するのは8世紀になってからで、それによりパピルスの製造や使用が完全に衰退。
近年ではエジプト土産のひとつとして製造されている。このパピルスは鵞毛庵がお世話になっている日本橋の小津和紙の玄関の鉢植え。


                         かみの神様

画像は現代のパピルスに鵞毛庵がブルトン語の歌をケルト文字で書いてみた作品。その詳細はいつかどこかで....

                                
投稿日 2011年08月01日 12:09:14
最終更新日 2011年08月01日 12:11:29
修正
2011年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
さすが 夜ともなると秋の虫の大合唱で、蟋蟀、鈴虫、轡虫、と賑やかになった。
昼は昼で、蝉の声が響き渡る中、最後の産卵のためのアゲハやちょろちょろ出てきたコオロギと
季節の移り変わりを垣間見る。

玄関先の鉢にチョンチョンと動くものを見つけた。 どうも おんぶバッタらしい。
バッタというと ツンツンとしたイネ科の植物について 跳ねまわるような気がしていたが…
ちいさな 美しい黄緑の身体は鉢のバジルの葉を食料にしているようで、食卓に上がった気配のない
このハーブは 日に日に葉数を減らしている。

おんぶバッタは、シソ科もキク科も何でも食すというから、摂りつかれたら諦めて、食いっぷりを看る。
すぐ傍の柑橘類の葉が、これまた無残な姿を曝け出して、アゲハチョウの幼虫を飼育している。
今年何度目の産卵かと思いつつ、まぁ、住宅、食料ともに難儀なのであろうと、今回も提供。
これでは いつまでたっても、花も実もつくことはあるまい。 多分、来年も散々食い散らしに来て大きな
いも虫になり、どこかで 蛹から蝶になる。
バッタもバッタで “有難うござんす!お世話になりやした!” と、仁義を切ったって罰は当たらないものを。
食いつくせば さっさと移動であろう。
どうも、キチキチキチッと音をさせて飛ぶ細長いバッタは 所謂ショウジョウバッタというやつらしい。
これがイネの大敵。別名 ショウリョウバッタとも。
旧盆の時季になると姿を見せ、精霊流しの船に似ているので精霊バッタと言われるとか。
まぁ、三余堂で蝶や飛蝗に多少の宿を貸したからとて…  安穏なものである。


世の中安穏なれ 食いも食ったり 飛蝗にいも虫 世の中安穏なれ



今、「世の中安穏なれ」のテーマで鵞毛庵が小作品を発表している。
平安時代末期に頻発した災害や戦乱は終末的な想いを世の中に広げ、多くの人々が救いを求めていた。 
この「世の中 安穏なれ」は、親鸞聖人が、不安と争いの時代に、人のめざす道を示した言葉だった。
  仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こころにいれて申して、 世のなか安穏なれ、
  仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。 

仏のご恩を思って、心を込めて念仏し、世の中が安穏であるように 仏法が広まるようにと 思われよ!
と、親鸞は述べている。
宗祖の750回大遠忌を迎える 浄土真宗西本願寺派が掲げたスローガンが、この「世の中安穏なれ」。


浄土宗宗祖法然上人は800回忌、浄土真宗宗祖親鸞聖人は750回忌 とのことで、昨年あたりから
関連事業が盛んである。 それぞれの宗派は勿論、出版界、演劇界など、各所で大遠忌、大遠忌と
目にすることが多い。 世情が混迷した時代に求められた万人の救済は 法然、親鸞の教えが 
多くの人々に受入れられ、今日に至っている。   
来月は国立博物館で<法然上人800回忌・親鸞聖人750回忌特別展
「法然と親鸞 ゆかりの名宝」
が開催される。
今の社会事情を想うと より深く感じ、学ぶところも多い両上人の大遠忌だ。

地球規模の天変地異を感じ、世界中で社会情勢の不安に慄く日々。
                            世の中が安穏であって欲しいと 願わぬ者はあるまい。










投稿日 2011年09月01日 5:31:43
最終更新日 2011年09月01日 5:31:43
修正
2011年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
今夏は六月末からけっこうな暑さだった。
三余堂では例年になく、蝉の抜殻をあちこちで発見。空っぽになった揚羽蝶の蛹もすっかり色あせたが
まだしっかりと壁に固定されて、ひとつ、ふたつと 数えられる。

千草に集く虫の音 (ちぐさにすだくむしのね) 

千草に集く虫の音 (ちぐさにすだくむしのね) 
千草に集く虫の音 (ちぐさにすだくむしのね) 



飛蝗や揚羽の幼虫に、さんざん大そう贅沢な食の饗応をした夏でもあった。
このひと月は秋の虫がその御礼にと毎夜美声を披露してくれている。 
なんとも賑やかなこって…と思いつつも有り難いことだ。
今年は特に 手を入れず鬱蒼とさせた庭をすぐそばに配することとなり、あらゆる虫の声を楽しむ。
藪蚊に悩まされても、これほど色々の色音が車の騒音に負けずに耳に入ってくるのは なかなかで、
蟋蟀はもとより、鈴虫、松虫、ツヅレサセ蟋蟀にヤブキリに、日が高くなってきてからはキリギリスと
さも聞分けが出来ているようだが、スーイッチョがいないことだけが判る程度のこと。

松虫は、昔はスズムシと呼び、鈴虫のことはマツムシと呼んだバッタ目コオロギ科の虫だ。
                                                  あぁ ややこしや 。
主に生きた植物の上にいるというが、フレッシュから枯葉まで食すと云うし、虫の死骸などなんでも
ござれの食いっぷりという。 「チンチロ、チンチロ、チンチロリン」 てな具合に鳴くことになっている。
鈴虫も同じく、バッタ目コオロギ科。 触角がえらく長いので見つかれば判りそうなものだが、夜目が
利かないと無理。 「リィーン・リーーン…」と繰り返した後 「リィィィッ、リィィィィッ…」と高く、美しく、
鳴くのが鈴虫だと教えられた。 九月も半ばになり、松虫も鈴虫も、はたまた蟋蟀も一斉に鳴き叫ぶと 
「リィッリィリリッ!! リィッリィリリッ!!」「ピッピッリリッー!!」と鋭く神経を刺すような大音量となり  
  『うるせぇ〜』と叫びたくなる。  千草にすだく虫どもは必至なのだ。

神様が出雲にお集りになる頃は、虫どもは力も尽きたのか、穏やかなその音に『聞分けをしようか』
という気にもなる。 明け方、耳をそばだてるともなく聞こえてくるのは 「リィィィィッ、リィィィィッ…」と
物憂げに謳う鈴虫や、「リ゛ッ、リ゛ッ、リ゛ィッ、リ゛ィーッ…」となく ツヅレサセコオロギだ。
                                                    と、勝手に思う。
ツヅレサセが鳴き出すと寒い季節が近づくので 『そろそろ冬着の繕い物を』 と思ったことから
「綴刺せ」と呼んだとか。 「針刺せ、糸刺せ、綴刺せ」と聞こえるからだという。 聞こえるかぁ〜 。
この虫、単にコオロギと呼んでいたこともあるようだが、コオロギは昔のキリギリスで、
今のキリギリスは昔はハタオリで…、と、ごちゃごちゃとなる。
お古い時代の話の時は心積もりがご肝心でございますな。

キリギリスは、昼間、キリギーリスというか、ギスギスギー、ギィッギーとやや騒がしいので気づく。
 『 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしき独りかもねむ 』 と百人一首で馴染みだが、
キリギリスは夜は鳴かないので、これはコオロギの「コロコロ、コロコロコロッ」 というわけだ。
因みに 今のキリギリス、ハタオリは「きり、はたり、ちょう」と機織る音に聞きなされたのだろう。
機織りの音はギィッーというばかりではなく、横糸を通す音、それを打ち込む音と様々である。
虫の音の様を表すのに使われる「きり、はたり、ちょう」は 生活の音である。


「面白や 千草にすだく虫の音の機織る音は きりはたりちょう 
   きりはたりちょう 綴刺せちょう きりぎりすひぐらし いろいろの色音の中に 
別きて我が忍ぶ 松虫の声りんりんりんりんとして夜の声 冥々たり」
「草茫々たる朝の原に 虫の音ばかりや残るらん
                  虫の音ばかりや残るらん」
と 能 『松虫』で謡う。









投稿日 2011年10月01日 11:13:18
最終更新日 2011年10月01日 11:13:33
修正
2011年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
そろそろ花時も終盤の、青味がかった黄色い花。粟粒のようにぎっしり花がついている。
日当たりのいい場所に草丈を一メートル程にまで伸ばして 風になびく。
そこで まいまいしている蝶はベニシジミだろう、朱赤の小さなのが飛び交う。 
日の出時刻が午前六時を過ぎた東京の秋はだいぶ深かまった。
この時期 虫の声が最後のコンカツとばかりに 陽が高くなっても必死に声を上げてもがいている
ように思える。  もっとも、昼にしか鳴かないのもいるが… 
秋の七草の仲間、黄色い花は 「女郎花しほるゝ野辺をいづことて一夜ばかりの宿を借りけむ」 と 
源氏物語に登場する。   その花は 「をみなへし」 。 「女郎花」 と書く。

この漢字を宛てるのは平安の延喜年間以後だという。
女郎花の、『をみな』 は若い女性、女性、佳人のことで、当時の貴族の令嬢や夫人を指していた。 
『えし』は粟に例えて『飯』に通じるとか、あまりに花が美しいので、女性の美しさが減す、減し、だとか 
諸説粉粉。 それ以前の万葉では何と書いたか。首を捻ったままになりそうな 「娘子部四」「姫押」
「佳人部為」「美人部師」などの字を宛てたという。 三余堂判読不可。

女郎花より全体的に大きく、少し早い時期に白い花をつける 「をとこへし」 というのもある。
黄色いオミナエシを粟花 あわばな、白い花の オトコエシを米花 こめばな、女郎花、男郎花と書いた。
古の風を感じる。もっとも、三余堂亭主が近隣で見かけるのは 野生種ではなかろうから どこまで
それに近づけるか、どうか。
秋の七草 女郎花、尾花、撫子、桔梗、藤袴、葛、萩は 今や園芸種に頼らざる負えないようで。

能に 『女郎花』 という曲がある。これを「をみなめし」と読ませる。
九州から都に上った僧が、山城の国で、道端の女郎花を手折ろうとすると、老人が現れてそれを
止めた。老人は石清水八幡宮の近くの男塚、女塚が並ぶ山陰に僧を連れて行いくと、塚に葬られて
いるのは小野頼風でこの自分であると言い残し秋風に消える。
さて、ここからがナンダカンダと、僧の読経のうちに男女の霊が身の上を語り始める。
大した愛憎物語である。この先は能をご観覧のご仁がそれぞれに 感慨にふけって頂くこととして。


現在、京都と大阪から約30分ほどのところに京都府の八幡市があるが、其処で平安初期の叶わぬ
恋物語を今に伝えている。
男の名は、小野頼風。 京で深い契りを結んでいた女がいた。
国元の八幡へ戻った頼風を京の女は思いあまって訪ねると、男が他の女と暮らしていることを知り、
悲嘆のあまり泪川に身を投げて死んだ。
やがて、女が脱ぎ捨てた山吹重ねの衣が朽ちて、そこから女郎花が咲いた。
頼風が花に近づくと、まるで頼風を嫌うようになびく。 頼風は「こんなにも私を恨んで死んだのか」と 
自責の念にかられ、放生川に身を投げた。人々はこれを哀れんで、男塚、女塚を築いた。 
男塚の頼風の塚の周りに茂っている葦は 「片葉の葦」 と呼ばれて、女塚の女郎花塚の方向にだけ
葉がついて、その葉が、女郎花塚に向かい今も 「恋しい、恋しい」 となびいているのだという。

京都府八幡市の図書館くに「頼風塚」または「男塚」といっている 小さな五輪石塔がある。
これに対して、少し離れた松花堂庭園の西隅にある小さな五輪石塔を 
                               「女郎花塚」「女塚」といっている。

今月5日には 観世九皐会で能 『女郎花 おみなめし』 演能。







投稿日 2011年11月01日 0:31:49
最終更新日 2011年11月01日 0:31:49
修正
2011年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
  歌舞伎十八番の内に 外郎売というのがある。
「外郎売 実ハ 曾我五郎」という設定の話で、享保三年、二代目市川団十郎が勤めたのが
初めという。  外郎売の口上で “ 拙者親方と申すは〜 ” と始まり、

  “ 〜武具、馬具、武具、馬具、三武具馬具、合せて武具馬具 六武具馬具 〜 
煮ても焼いても喰われぬものは、五徳、鉄灸、金熊童子に、石熊、石持、虎熊、虎鱚。 
中にも、東寺の羅生門には茨城童子が腕栗五合掴んでおむしゃる。
かの頼光の膝元去らず、鮒、金柑、椎茸、後段な、蕎麦切り、素麺、饂飩か愚鈍な 小新発知〜 ”
  


と、訳のわかったような、判らんような 調子のいいセリフが続く。早口言葉や滑舌の稽古に
使うことで知られているから、何処かで耳にした記憶があると思う。

“かの頼光(らいこう)の膝元去らず” と、ここに登場の頼光。
平安は中頃の武将。 父は鎮守府将軍の源満仲。 その長子で、清和源氏の3代目というから、
結構な御家柄である。 成人して出仕し、藤原氏の下で官職を得たらしい。
関白兼家の葬儀でのこと。藤原道長の振る舞いに、“うぅ〜む”と 思うところあって、側近として
従うようになったとか。 それまでにしっかり受領として蓄えた財で、道長にしばしば御進物。
 “道長さまぁ〜 ファンなんですぅ〜”と、道長に一所懸命お尽くしして、道長権勢と共にご発展。
しかるに頼光。 武門の名将「朝家の守護」と呼ばれた、と!
この頼光、玄孫、即ちやしゃごに宇治平等院で自刃した源頼政がいる。

寛仁元年 (1018年)、大江山夷賊追討の勅命で 頼光は頼光四天王らと共に鬼退治を行った。
京都の成相寺に頼光が自らしたためた追討祈願文書があるという。
 “どうぞ、鬼退治が上手くいきますように”っていうことである。
酒呑童子が、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従えて、大江山から、しばしば京都に出没し、
高貴な若い姫をさらったり、生のまま喰ったりの、ぞぉっとする悪行の数々。
帝の勅命で、源頼光と頼光四天王が討伐したという、お話は夢か現か…
酒盛りの最中に、酒を酒呑童子に飲ませて寝首を掻き成敗したが、そこは酒呑童子。
首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いていたそうな。
討伐祈願の成相寺には、酒盛りの時の酒徳利と杯が所蔵されているというから、こりゃぁ現かな…。

この四天王、渡辺綱を筆頭として坂田金時、卜部季武、碓井貞光 のご面々。
渡辺 綱(わたなべのつな)は、大江山の酒呑童子退治は勿論、京都の一条戻り橋の上で鬼の腕を
源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落としたってお話でも有名。
能『羅生門』は舞台を一条戻り橋から羅生門に置き換えたもので、この綱さん、源融(みなもとのとおる)の御子孫で、かの頼光さんの御親戚なんですねぇ。 故に正式な名乗りは源綱(みなもとのつな)。 
源融は陸奥国塩釜の風景を模して六条河原院を造営したとかいう 嵯峨天皇の子。
臣下に下り 源姓を賜って… 光源氏のことだなんて、謂われたり。百人一首の河原左大臣である。
要は綱さんも、頼光さんもなかなかのご出自ということ。

坂田金時(さかたのきんとき)は、まさかり担いだ金太郎さん。
きんたろさんが「金時豆」の由来なら、息子の坂田金平は「きんぴらゴボウ」の由来とな…。
卜部 季武(うらべのすえたけ)は知る人ぞ知る、知らない人はてんで存じ寄らない
                                            酒呑童子退治の人!
碓井貞光(うすいさだみつ)は、童話の『金太郎さん』では、樵に身をやつして、旅をする最中の足柄山で金太郎を見つけて、源頼光のもとへ連れて行くということになっている、碓氷峠のおっさん。


ここまでに出てきた『融、頼政、満仲、頼光、大江山、羅生門』。
それぞれ流儀によって多少の違いはあれど皆、能の曲になっている。
所縁の曲には渡辺綱をはじめ酒呑童子等々が、ご登場。当時としては誰でも知っていたお話。
外郎売りが実は…と、歌舞伎でいう曽我兄弟のお話も 能には『小袖曽我』をはじめとする
曽我物ってものがある。これらが作られた室町期の あの時代 みんなが大好きだった物語。
能の中で今に伝えられているってことで、当時の趣味なんぞを垣間見て
                  へぇーとか、ほぉーとか 突っ込みながらのご鑑賞もこれまた 一興。





三余堂12月観世九皐会で能 『頼政』 の地頭を 勤める。



投稿日 2011年12月01日 0:05:01
最終更新日 2011年12月01日 0:05:01
修正
2012年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
恭頌新禧


壬辰の春に


2011の大晦日の東京はこの季節らしい一日であった。
おテント様が真っ青な空に輝いて、乾いた冷たい空気に街路樹のイチョウが舞っていた。
四人の童子が、“おっと うつむきゃ涙がこぼれる いつでも楽観 上向き童子 ”と、空を仰ぎ
今日のこの日を待っていた。

2012年 1月1 日。壬辰の元旦を迎えた。

正月の能の初会には 『翁』が演じられる。 
これは能の成立に先行して行われていた、猿楽の本来の役目のものであった。 
役者が翁面をつけ、天下泰平を寿ぎ、国土安穏を祈って翁の舞を舞う。
現行の形は世阿弥時代の形態を伝えていると云われ、今も、上演前は精進潔斎、別火をする。
『べっか』と読む別火は、日常用いる火による穢れを忌んで、炊事の火を別にすることだ。
翁に際しては、神職が神事などに際して行う別火を行い、開始直前に鏡の間での杯事をする。
翁は舞台上でも、正面に深々と拝礼をし、所定の場所に着座すると おもむろに 
 “とうとうたらりたらりら。たらりあがりららりとう。” と発声。
 “ちりやたらりたらりら。 たらりあがりららりとう。”と、地謡が答える。
判らんような、判らんような… が、わかったような 翁の初頭の詞章である。
これは神事なのである。
“およそ千年の鶴は。万歳楽と謳うたり。また萬代の池の亀は〜
                     天下泰平。国土安穏。今日の御祈祷なり〜 ” と 翁が謡う。

陽を仰ぐ童子も、地を舞う翁も届けとばかりに思う願いは同じ。


    薮内佐斗司 作 上向き童子 壬辰の春に 於西荻地域区民センター



投稿日 2012年01月01日 0:00:20
最終更新日 2012年01月01日 0:00:20
修正
2012年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
辺り一面 厚い雲に覆い尽くされた新宿ホテルの最上階。
窓の向こう、雲の中に点滅する塔は完成間近の スカイツリー。
こんなにも近くに見えるのかと改めてその高さに驚く。
隅田川にかかる業平橋付近に間もなく開業の東京スカイツリーが建つ。
「おしなりくん」と云う人形が地元の宣伝のために作られて活躍している。
所謂 ゆるキャラというもので、その名は地元、押上と業平橋からとったものだそうで、
平安貴族の格好に烏帽子が東京スカイツリーをかたどっている。
つまり、押し上げ近辺の在原業平がのっぽの烏帽子を被っているということだ。
伊勢物語で在原業平が都を思う歌を詠んだ事にちなんでの御縁である。

名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと”  
古今和歌集に収められたこの歌は在原業平のもので、 能 隅田川 でも耳慣れている。
父方をたどれば桓武天皇の曾孫、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたるという、業平。
皇統が嵯峨天皇の子孫へ移り、826年に臣籍降下して、兄の行平らとともに在原姓となったそうな。
業平は美男。 ということになっている。
二条后や、高貴な女性たちとの禁忌の恋が語られている『伊勢物語』の主人公である。
いわゆる「昔男」とされてきた。
古今和歌集などの歌集で知られた歌人で、兄の行平をはじめ子や孫も歌人。
多くの歌を残している一方、兄の在原行平、共々鷹狩の名手であったというから、当時の貴族の
身につけるべき事柄は何か、ということを垣間見る。
因みに “立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む” というのが
在原行平の歌で、百人一首で十八番にしている御仁も多かろう。
これは 昔からの能の人気曲、 松風の題材となっている和歌である。


    “ 世の中に たえて櫻の なかりせば 春の心は のどけからまし ” 
    “ から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ”
    “ ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くゝるとは ”


これら古今和歌集の歌は伊勢物語やら、百人一首やらで 耳になじんだ弟在原業平のものである。
業平の没後、時が経ち、世阿弥の時代。 当然のように能に数多く業平の影は登場してくる。 

世阿弥作と謂われる 能の雲林院は業平と二条后の恋物語が素材。
美しい業平の霊の遊舞が、平安の貴族の優雅さを漂わせる能である。
雲林院は世阿弥自筆の能の本が残っていて、その自筆本では現行と異なり、後段、
二条后の兄である藤原基経の霊が鬼、怨霊のような姿で登場する 妄執の能だったとか。
花の舞い散る月夜に 殿上人の装いで現れて昔を偲んで舞い、幻と消えゆく業平だった 〜  とは
行かなかったようである。

花の名所、雲林院は応仁の乱で廃絶してしまった。
淳和天皇の離宮が造られたという紫野一帯は野の広がる狩猟地で、桜の名所だったという。
そこに雲林院はあった。色々な変遷の後に官寺となった雲林院。 
在原業平が伊勢物語の筋を夢で語る処。能 雲林院 の舞台となったが、 今昔物語集や大鏡の
舞台ともなり、源氏物語にも登場する。
現在の雲林院は、1707年にかつての寺名を踏襲して、大徳寺の塔頭として建てられたものだそうで、
往時のものではない。


もっと、もっと、時代は下って、江戸の世。 落語でご存じ、花魁千早太夫と相撲取り龍田川のお話。
“千早ふる”は 隠居が “ ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くゝるとは ”
いい加減な解釈をする話だが、「千早振る神代にもない いい男」 「冬枯れに無地に流るる龍田川」
などの狂歌が基にある。 
この当時も 美男で様子のいい男業平は勿論のこと、その歌の知名度の高さを示しているわけだ。 

如月壱弐日 三余堂は初冠に緌、狩衣指貫の出立で在原業平の霊となる
はてさて 伊勢物語の往時が蘇えるか。


雲林院  在原業平

能「雲林院」 (c)La plume d'oie 2012



投稿日 2012年02月11日 19:07:50
最終更新日 2012年02月11日 19:08:28
修正
2012年02月05日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
本日の放送をご清聴頂きました皆さま、有難うございました。
 
                                三余堂
投稿日 2012年02月05日 8:24:51
最終更新日 2012年02月05日 8:24:51
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2012年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
花屋の店先に桃の花が並ぶと、今年も冬は終いだと思う。
雛祭りのしつらえは春の扉をそっと押しやって、芳しい香りをあたりに振り撒く。
道具箱に入れられた沈香の香りが、雛人形様の装束に移って、花の桃色と
ともに活けられた菜の花の黄色を一層華やいだものにしている。
今年も 雛祭りの季節になった。
能の雲林院で在原業平が身に纏った装束は単衣の狩衣、冠は武官仕様の巻纓に緌。
さて、三余堂に飾られた立ち雛の装束は如何に。

公家装束は十二世紀に大変化が起こったそうな。大河ドラマの平清盛の時代である。
それまでは曲線的な柔らかい装束であったものが、厚織や糊でピンとさせた生地を
多く使うようになり、強装束 (こわしょうぞく) と言うようになった。
昇殿する武士の時代になると、身体の線が出る、くたくたっとした柔らかな着物より、
身体を大きく威風堂々とみせるピンとした装束に人気が出たということか。
ともかく、この強装束、一人ではとても着装不能。
装束を着せる人を衣紋方 (えもんかた) という。それは、装束の着装法のお流儀を生むこととなり、
山科家、高倉家などという家が故実の装束部門を承っていた。
季節も位も、時も目的も、事細かに決りを守って、万事作法通りにするためには不可欠な衣紋方。

飾られた木目込みの雛人形は十二世紀以降の強装束の着用とみた。
で、着装順にまずは肌小袖。 
もともと防寒用として、随時着用していたというもので、現在の和服の原型である。
肌襦袢といったところだろうか、白の袷の平絹。
次が、大口。 袴である。 これは肌小袖の上にはいて、肌小袖を束ねる紐付トランクス。
これは下着なので見えない。
次は上着に単衣。これは結構幅広で、装着時に前後でたっぷりひだをとる。
これは見えるのは襟のみ。
それから指貫(さしぬき)。だぶだぶの袴で裾を均一にして、括る。
もっとも本来は、中に大口袴が隠れているので、決して、ゆったりとは…
そして、上着の袍(ほう)。 これも御身分でいろいろと決っている。
お内裏様は天皇様ということなので、縫腋袍、桐竹鳳凰文様の青色と行きたいところだが、
そうは問屋がおろさぬ木目込み装束。
おっと、大切な被り物、冠。 これは最後に載せるお飾りなんぞではない。肌小袖の次に着用をする。

この冠、被り物には大切な役割があった。
その頃、それまで伸ばしていた髪を元服時に、紐で束ねて頭上に立たせた。
要するに髻(もとどり)を作った訳で、これこそが、成人男性の象徴であったと。
そもそもは律令制導入とともに大陸から取り入れた風習だが、被り物はこの髻の保護の為のもの。
無帽の状態は露頂といって恥辱とする概念が生まれたというから、お大切なのである。
風呂も、就寝時も脱がず、笠や冑も被り物の上から被ったのだそうだ。
冠は束帯、布袴(ほうこ)、衣冠といった装束で被り、私服の時は烏帽子。 
大人の男に被り物がないのは 丸裸ということで、肌着の次に着用するというのも頷ける。

冠も、強装束以後に変化があり、漆の加工で透けなくなったり、纓が冠から取り外せるようになった
という。そこで、纓を二枚重ねてピンとなるようにする。
纓の根元を冠に作られたソケットに差し込むのだから、根元が上がる。 
という訳で、時代とともに 纓の根は上昇。
巻いている卷纓に対して、先端が垂れ下がるものを垂纓といった。
垂纓は天皇、皇太子、皇族、文官用であったが、江戸時代以降の天皇の冠は纓の先端が下がらず
立ったままで、現在に至るという。 これを御立纓 (ごりゅうえい) という。 
そもそも、被り物はかんざしで髪に止めていて、紐で結んではいなかったものが、
江戸時代以後、顎で結ぶ懸緒となったということで、御立纓のお内裏様の冠に紐が
掛っているのも道理ということか。と、納得して雛飾りを眺め入る。

やっぁ〜  御立纓、纓がっ。 
纓を挿す壺が壊れてテープで張り付けられ、それも剥がれて…
                          まぁまぁ、今年もお勤めを果たされ、ご苦労なことである。



改めて眺めると人形装束はなんともはや… お内裏様の装束   腰帯なんぞが前に下がり、 笏もあんな持ち方で〜
 この内裏雛、能での遊士の出立。さしずめ、光源氏のことと言われる 能≪融≫の大臣というところか。
                          色形ともみばえが重視のあくまで創作着装 





投稿日 2012年03月01日 0:24:54
最終更新日 2012年03月01日 0:25:09
修正
2012年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
唐の詩人李白が生まれた701年、我国では大宝律令が完成した。
630年に第一回遣唐使が派遣されて以来、大陸文化の摂取を意欲的に進めて
律令文化というものを根付かせて行ったのである。
船舶技術の進歩が進むと黄海から江蘇へ一気に行かれるようになる。
そして、隋の煬帝によって完成された大運河で洛陽へ。長安までは陸路。という南路になる。
が、そうそう簡単には運ばない。二隻から四隻の船団で、どれかが無事に到着すれば…

そんな折、都では本格的な律令国家建設のため 全国から多数の労働者がかり集められた。
   “ 青丹よし奈良の都は咲く花の 匂うがごとくいまさかりなり ”
平城京は唐の長安を模して碁盤の目のように造られ、国家の体制も倣うものとなった。
<お雛様の装束>でも触れているが、服装までも唐風に倣った。
なんたって、大陸風がもっとも文化的で、お洒落とばかりに憧れだったのだろう。
玄宗皇帝時代、唐代絶頂の時に、遣唐使として唐へ渡った人の中には、李白や王維などの詩人とも
交遊があり、そのまま唐朝に仕えた阿倍仲麻呂のような有能な人もいた。
おおいに我が国の位置を高めたという訳である。

命を懸けて渡海した人々は、再び命を張って智慧と文化を運んでくる。
遣唐使の持ち帰ったあらゆる物の中に 王羲之(おうぎし)の搨模本(とうもほん)があった。
この搨模本、東晋時代の書家であった書聖、王羲之の文字を学ぶ為の必需品。
王羲之やその流れの書を学ぶには、何といっても手本が欲しい。で、複製が出来る。
搨模本とは書の複製で、その作成技術の一つに双鉤填墨(そうこうてんぼく)というのがある。
要は、文字の上に紙を置き、極細の筆で文字の輪郭を写しとって中を塗りつぶすのだが、
唐時代後半には石や木に書蹟を模写し彫りつけ、拓本を採るという模刻の手法も出た。
どの道、専門の職人によって築きあげられた技術である。何たって、筆と見紛うほどの中国の技。
当時の公的文書の文字は王羲之書法で、書き手の文字はその人品骨柄を表すとばかりに
役人は良い字が書けないと話にならなかったようだ。
唐玄宗はたいそう、王羲之の書がお気に入りで、欧陽詢、虞世南、褚遂良などの書法はすべて
王羲之の書法を深く学んだものという。


喪乱帖 唐代書法 東晋時代 王羲之
      精密な双鉤填墨の聖作品で 墨の濃淡、かすれなども真筆さながらである (御物)


この時に艱難辛苦の末、我国にもたらされた王羲之の搨模本は聖武天皇、光明皇后の関心を
強く引いたし、平安の世になってからは貴族に広く流布。皆がこぞって学んだ訳である。
王羲之の書は当時の我国ではまだまだ理解が不充分で、他の人の手になる書も混ざっていた
ようだが、兎にも角にも搨模本は全六十巻の巻物にまとめられたという。
律令制による中央集権国家が確立すると、文字、漢字が機能を始める。
戸籍、計帳などの作成や記録をするようになり、文字を書く能力、つまり王羲之書法を身につける
ことが官吏への道となったってことだ。

李白が玄宗皇帝に仕えて、「清平調詞」を作った頃、我国ではせっせと東大寺の大仏鋳造中。
751年東大寺大仏開眼となり、仏教による鎮護国家の体が成ると、経典の書写も盛んになる。
その時代が日本の書の歴史を通じてもっとも楷書が充実した時期なのだそうだ。
唐代の書法が浸透して、大陸に追いつけ、追いつけと学んだ時代から1300年。
漢字の歴史はそれをまたどれだけ遡ることか。





褚遂良 http://nogakusanpo.maya-g.com/displog/221.html


投稿日 2012年04月01日 10:08:37
最終更新日 2012年04月01日 10:08:47
修正
2012年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
洋の東西の写本の話が続いた。
そもそも、字が読めなくては写本もへったくれもないのだが、読むとは…
文字になった言葉を正しく発音して、理解出来る事を云う。
だから、いくら大声で読めても文字を正しく記さなくちゃぁ駄目である。

読んで、書いて、意味が判ることを識字という。 
この識字能力は、現代社会では最も基本的な教養だが、全世界の識字率は、およそ75%だそうな。
識字率というのは一般に15歳以上の人口に対して定義されるそうである。
江戸時代の日本は、庶民の就学率、識字率はともに世界一だったというからすごい。
1850年頃、嘉永年間の江戸の就学率は、70〜80%もあり、いわゆる寺子屋で読書き算盤を学んだ。
これは、武家や豪商の子弟ばかりでなく、裏長屋の子たちも学んだということで、安定した社会に
育った文化の力であり、文字を介して物を識り、伝達することの意義を理解していればこその
親の涙ぐましい教育熱の賜物だ。
 
伝達手段の文字。いくら識字の力があっても、読める体裁になって初めて役に立つってもんで、
正しく、美しく書くことを求められる。
求められた文字は多くの人が読みやすく、書きやすい形を生む。そしてその形が指標となって
定着していくことになる。文字が何に書かれるか、どんな道具で書くか、目的は何かによって
威厳も、風格も生まれるし、装飾的にもなっていく。
一方、実用的な文字は速く書くことも要求される。
時間をかけて石に刻したり、大きく板に書いたりする文字でなく、手書きで速く書き留めなければ
ならない役人や商人の事務用の文字。
速さを求めれば、字の形は崩れ、省略が生まれ、省略化されれば新しい形へと変化していく。

遣唐使が大陸に渡って文化を掴み取ろうしていた頃、唐は楷書の時代だった。
その頃文字は結構乱れていたそうな。それだけ 実用化していたということでもある。
近年の我国だって、丸文字がどうの、こうのと云っている間に、若者の書体の変化はどんどん進む。 
どの字が正しいのか、訳が判らない状態は多分、古今東西同じだろう。
唐の太宗皇帝は、氾濫する文字の正誤を 顔師古(581年 - 645年)と云う学者に命じて整えさせた。 
唐代初期の欧陽詢、虞世南といった人の書は、すっきりと簡潔な字体で読み易い文字である。
その文字の正しさ、根拠を追求していくと はてさて、切りなくどんどんと時代を遡り象形文字の
ように魚のヒレまで書くことになっては…
まっ、少々、複雑な形が復活しながらも そこそこに整理整頓。
10世紀以降、宋の時代になると、木版印刷が生まれる。当時の印刷文字が誕生。
それは木を彫るとはいえ、見栄えのよい木版文字を求めて、却って画数が増えたという。
この印刷の文字が字典に使われて、字典体と云われるようになった。
18世紀になって清の康熙帝が作らせた康煕字典の書体のことである。
漢代以降の歴代の字書の集大成として編纂したという大事業。
全42巻に収録文字数49,030の字典は、部首別漢字辞典の規範となっている。
現代はコンピュータの標準漢字コードの配列順にも使われているという。
よく分からんがあの、ユニコードってやつである。

書体も常に、往き過ぎれば戻り、また先へ進みと状況に応じて動き続ける。そんな流れができている。








投稿日 2012年05月11日 13:20:52
最終更新日 2012年05月11日 13:24:46
修正
2012年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
平安時代の宮中行事から始まった衣替えの習慣。
一応今日から夏の設えということだが、昨今の陽気ではとっくに夏服、夏仕様。
 唐衣着つつ馴れにしつましあれば〜  と杜若を詠みこんだ季節から 
色づいた紫陽花が梅雨入りを待つばかりの有様となっている。
この、唐衣〜 で有名なのは五月の三余堂月次に登場の ご存知 在原業平。


この在原氏という姓。そもそも、業平時代までは見当たらず。
お父上は平城天皇の皇子 阿保親王、お母上は桓武天皇の皇女伊都内親王。
血筋からすると天皇家の嫡流だった、業平。
が、世に云う薬子の変だの、平成天皇の弟君 嵯峨天皇の方へ皇統が移ったこと
だのが要因で、お兄上の仲平、行平、守平らと共に臣籍に降下している。
時に、天長3年 西暦826年、在原氏を名乗った。

この業平についての史料は『日本三代実録』にあることが ほとんどだそうで
「体貌閑麗、放縦不拘、略無才学、善作倭歌」 と記されているという。
「略無〜 」は 漢学の才はなかったけれど、和歌には秀でていたということだが、
前半の「体貌閑麗、放縦不拘、」によれば、美貌で放蕩。
                                気ままなイケ面というところか…  
故に、恋愛に憂き身をやつす貴公子、そんな姿が描かれることとなった訳だろう。
美男の代名詞のようにいわれて、『伊勢物語』の主人公の、昔男ということになり、
実像の業平と、つくられた業平は時代とともに次第に重なっていく。

室町時代になっても その業平は如何に好ましく、愛おしい男子とされていた。
「能 井筒」で世阿弥は、そのイケ面を前面に押し出す。
在原寺に立ち寄る僧が里の女との問答、後段で女は 実は井筒の霊だと名乗って
業平を偲んで舞う。その時、女は業平の形見の冠と直衣をまとう。
男装の麗人となる。  さながら見みえし昔男の冠直衣は女とも見えず男なりけり
なんとも妖しい香を放ちながら 業平を題材に描く。
そう、「能 杜若」でも精霊になって女の唐衣、男の冠姿で登場。 
交錯と具有の世界が広がる。  業平の 昔男の舞姿  これぞ即ち歌舞の菩薩
菩薩は本来 男でもなく女でもない。が、昔男の姿が重なって えも言われぬ気配を
辺りに伝える。


後世、江戸期 好き勝手に業平を作り上げたにせよ、ふたなりという俗語を掛けて
「ふたなりひらのこれぞ面影」などと云ったそうな…  
まっ、業平を和合神、男女を融和させる色道の神とみる風潮もあったとか。
いろいろに いろに登場の在原業平、享年56歳。
最終官位は蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守。
降下の経緯もあってか、家系にしては 華やかとは云い難い官位歴であったと思う。

在原業平
能「井筒」 (c)La plume d'oie 2010




投稿日 2012年06月01日 1:21:01
最終更新日 2012年06月01日 1:21:28
修正
2012年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
唐へ行くつもりだったのに引き留められた明恵上人がいるかと思えば、
ドラマ“平清盛”では、大陸宋へ渡る算段に、にんまりとほくそ笑む信西入道がいた。
又、後白河が公家と手に手をとり今様に興じる場面もあった。
そこに当時の政治、経済、文化を垣間見た気がする。

たまにドラマを覗き見する程度では、寝ぼけた画面の中、薄汚れた武士が無精髭で昇殿し、
お公家さんたちもむらな白塗りで、誰がだれだか判別がつき難い。
後白河らしき風格の役者は見当たらないが、どうも、コロコロとした愛嬌のある顔立ちの人が
藤原信頼と判断。 後白河というともっとおじさん、と思い込んでいたのがそもそもの間違いで、
後白河は清盛より9年若く、信頼はさらに6年若い。

閑話休題 院の独裁だ、親政だと、白河上皇の時代から始まったごちゃごちゃは
遡ること、天武天皇の御代に。
天皇や皇族だけに権力を集中させた政治をしていた当時、法を整える中、実権が太政官へと移行。
つまり、藤原さんちやその摂関家に移った為に始まったのが
実権を取られたものと、取り返すものの攻防戦!
かの藤原道長は外戚の地位を、道長の嫡流だけにしようとがんばった。
妻は何人かいるし、それぞれに子はあるし、実子でなくても、猶子だ、養子だと世の中、藤原さん
ばかりになりそうな勢いだった。が、直系となるとその血は先細りするし、藤原腹の皇子も…  
「欠けることのない望月」と云ってたのになぁ〜

時代は下って、白河上皇の母君。
この君 藤原摂関家の出ではなかった。で、反撃開始!!
白河院政によって、摂関家は没落へ… となるが。 オッとどっこい、摂関家が巻き返しに出て
院と、藤原摂関家のせめぎ合い。
これは誰が天皇の皇子を生むかの重大事。
皇子の母になる人を御所に上げるべく、藤原さんちの御父さんの大仕事が… 
そんな中をすり抜けて 思いもよらず御はちの廻ってきたのが後白河天皇。

その後白河と仲良くしていた藤原信頼くん…
一族を国司派遣して武蔵国に布石を打つ。又、馬や武器を調達する為の陸奥国を押さえる。
当然、坂東支配を進めていた源義朝への影響も強まる。
それから、平清盛の娘と自分の嫡男との婚姻も成立させている。公卿の家柄とはいえ、
26歳で国政を担う最高幹部の公卿に列せられているし、姉妹は、関白藤原忠通の嫡子の
妻になっている。 しっかり後白河の恋人の座も得ていた。
「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし、ただ朝恩のみにほこりて」
と評されるとは… ちとお気の毒。 だったとしても、昇進は人事権を有していた信西の
了承があってこそだろうから なかなかの人物とみた。

平治元年1160年、時に27歳の信頼君。
清盛が熊野詣に出かけた留守に信頼は義朝らと京で挙兵なんぞする。
宋にいく行けると銭勘定をしていたあの、邪魔な信西を斬首して、朝廷の最大の実力者へ。

が、平清盛が帰京すれば あっという間に信頼は反乱者。
清盛の婿となっていた信頼の子は戻されて婚姻解消。
義朝ちゃぁん一緒に行こう!と東国へ落ちようとするも、拒絶に会い、
後白河院にすがるも、許されず、最後に天皇親政派と組みした清盛に敗北。

後白河の寵臣、平治の乱の首謀者は六条河原で斬首された。
                                     
ドラマはどう描くのか、名も判然としないままにコロコロした公家はどう消えるのだろうか…



コロコロした愛嬌ある人 藤原信頼 平治の乱でともに挙兵した「頼政」
能「頼政」より (c)La plume d'oie 2007

投稿日 2012年07月01日 10:37:56
最終更新日 2012年07月01日 10:38:12
修正
2012年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
暑さによる体調不良とオリンピックでの寝不足、なかなか厄介な八月朔日。
わが国では、今日は『水の日』とか…  
真夏のこの日、国土庁が水の有限性、水の貴重さを理解し、併せてダム等の水資源開発の
必要性を啓蒙するために制定したという。  ほぅ〜 1977年に制定した 『今日は何の日』 
ということになる。この年、キャンディーズが、暑中お見舞い申し上げますと歌い、
沢田研二が勝手にしやがれと歌った。
世紀の大事業、黒四ダムが完成してから十数年たった頃になる。
日本のダム技術が 開発途上の国々に貢献していた頃だろうか。 
一寸やそっと、朝夕に水打ちしたって、焼石に水の昨今、豪雨や水害で被害の地も少なくない。
水の利用が多くなる時節、改めて『水の日』 を考える。

遡るが1834年には イギリスで奴隷廃止法が発効し、1840年の今日、奴隷が解放されたという。
アヘン戦争が勃発し、わが国では大塩平八郎が乱を起こし、天保の改革へと向かう頃になる。
2012年の今夏、そのイギリスの首都 ロンドンがオリンピック開催国として多くの情報を発信。
この案内望遠鏡もすっかり気分はオリンピックで、 暑さに筆は棚上げ。
遅蒔きながら、三余堂に涼を呼ぶべく植えられたゴーヤが、大きく実るころには普段に戻るだろうか…

案内望遠鏡も夏休み 案内望遠鏡も夏休み
案内望遠鏡も夏休み













投稿日 2012年08月01日 0:38:00
最終更新日 2012年08月01日 0:49:13
修正
2012年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
伊豆の流人源頼朝 謀反! 
治承4年の9月5日、源頼朝ら源氏の挙兵に際しての征討軍総大将は平維盛(これもり)だった。
父は前年に亡くなった、小松内大臣 平重盛。 祖父は平清盛である。
この時維盛 23歳。 副将は清盛の末弟 薩摩守忠度。と、清盛の子 三河守知度。 
出発しようとする維盛と、侍大将の伊藤忠清で、今日は日が悪いとかなんとか、一悶着があった由。
結局出発は月末まで遅れたという。
出陣する23歳の武者姿は、絵にも描けぬ美しさで、光の君の再来かと…

この4年前、西暦でいうと1176年。
後白河法皇の五十の賀で、桜と梅の枝を烏帽子に挿して舞を披露した際、
 「おももち、けしき、あたり匂いみち、みる人ただならず、心にくくなつかしきさまは、
                                           かざしの桜にぞことならぬ」
と、藤原隆房がその日記 『安元御賀日記』に書いているという。
但し この隆房は叔母さんの夫ではあるが。
もっとも 九条兼実も「容顔美麗、尤も歎美するに足る」と云っているので、さぞ美しかったろう。

清盛の嫡孫で美貌の貴公子が颯爽と大将軍としてのご出陣。
が、富士川の戦いでも、倶利伽羅峠でも敗北して、平家は壊滅的なことになる。
なんたって 平家一門、すでに武門の風なぞあったものではなく、公卿の雅なさまにひたひたと
近づき、有り余る財が、それを凌駕する華美を身につけさせていたのだから。
平家の公家化は大成功、というわけであった。
この一門 笛の重衡(しげひら・清盛の五男)、琵琶の経正(つねまさ・清盛の弟経盛の子)
舞の維盛、歌の教盛(のりもり・清盛の弟)、忠度(ただのり・清盛の弟)等、雅な才能の持ち主
が多く排出している。

副大将の三河守知度は富士川の戦いの後、頑張って尾張、三河で挙兵して敵を打ち破る。
そして木曽義仲を迎撃すべく出陣、劇的なる討死。平家一門で初めての戦死だった。
そもそもそは兵の家である平氏。 
「いずれ、近隣の者共がうちこぼつであろう」 などと、のんびりと高を括っていなければ 
それなりの働きをする闘将もいたわけで…、

大将維盛は平氏一門が都を落ちた後に戦線を離脱、那智の沖で入水した。享年27。
この維盛の弟に、笛の名手として聞こえた清経がいた。
平重盛の三男清経は、1183年に平家一門が都落ちした後、豊前国柳浦にて入水。弱冠21歳。
清経が入水したのは現在の大分県宇佐市柳ヶ浦地区・駅館川沖合といわれており、
父、重盛が小松殿と通称されたので、小松塚と呼ばれる五輪塔および慰霊碑が建てられている。 
四十の賀、五十の賀と長寿を祝う時代、武人としては決して二十代が若いということはなかろう。
が、重盛の子らはすでに武人ではなかった。

世阿弥は維盛の弟、清経の入水の様を能に書き上げた。
三余堂 長月朔 秋田唐松能舞台で能『清経』を勤める。



(c)La plume d'oie 鵞毛庵 2009 能「清経」 平維盛



投稿日 2012年09月01日 9:27:39
最終更新日 2012年09月01日 9:28:27
修正
2012年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
宋代の詩人に欧陽 脩という人がいた。
日本では、藤原道長全盛の時代から奥州辺りが不穏な状況になってきた 前九年の役のころに
生きたことになる。
焼物で有名な景徳鎮の置かれた 景徳の末年に生まれ、六十数年の生涯だった。
科挙に合格後、高官への道が開け、詔書の起草に当る翰林学士等要職を歴任。
科挙試験を監督していたので、詩人、書家として有名な蘇軾などを見出だした。
学者、詩人でもある。

その欧陽 脩の作品に 『日本刀歌 』 というのがある。
日本はすでに遣唐使が廃止されて、宋とは正式な国交もなく、一般人の渡航は
禁止されていたという。が、僧侶の入宋はもとより 両国の商船は行き来があった。
宋の商人は主に博多や越前敦賀へ来航していたという。
越前守であった清盛の父、平忠盛は日宋の私貿易で、舶来品を朝廷に献上して
お覚えめでたしとなった訳だ。
日本へは宋銭、陶磁器、絹織物、香料や薬品、書籍や文具、絵画、経典と
あらゆるものが輸入され、日本の貨幣文化は大いに影響を受けたという事である。
日本からは硫黄などの鉱物や、日本の刀などが輸出された。
硫黄の輸出が始まったのは 宋で火器が発展した為のようだが、
宋には火器に使用する火薬の原料、つまり、硫黄を産出する思わしい火山がなく
硫黄の国内自給ができないので、有力な輸入先として日本に目を付けた。
喜界島に流され、一人ぼっちになった俊寛は 九州からやってきた商人に
硫黄と食物を交換して貰い、飢えを凌いでいたようである。

さて、日本刀。
最初にこの呼称を用いたのは、欧陽 脩の詩という。
日本では 刀、太刀、剣であった。 蛇足ながら 日本で、日本刀と呼ぶようになったのは 幕末以降、
西洋の刀剣との区別のためだったとか…

宋の文人にとって 日本が如何に魅力的なところかを 『日本刀歌 』が示している。
先ず、当時すでに宝刀と呼ぶにふさわしい刀が日本にあることを知っており、
買い付けにいく様子や、刀の外装や容貌などの美術的価値の高さを歌い、
日本の国は豊かで気風が良いと言っている。
且つ、始皇帝の命で不老不死の薬を求めて日本に来たことになっている叙福が、
焚書前の書物を沢山日本にもたらしているはずで、日本はそれらを大切に保存し
外部流出を禁じていたと…
宋の知識人たちは当時、日本というと、『中国の古書のある国 』と連想したようで、
先王の大典に比べれば、どんなに素晴らしい宝刀も錆びた短刀のようなもので
云うに足りない、と。そんな風に うたっている。


 『日本刀歌 』 

昆夷(伝説の名刀の産地) 道遠くして 復た通ぜず,
世に玉を切ると傳ふるも 誰か能く 窮めん。
宝刀は近ごろ日本国より出で,
越賈(越の国の商人) 之を滄海の東に得たり
魚皮にて 裝貼す 香木の鞘
黄と白の閑雑する  鍮と銅
百金もて伝えて 好事の手に入る
佩服すれば以って  妖凶を禳う可し
伝聞するに其の国は 大島に居り
土壤 沃饒にして風俗 好しと
其の先(先祖)の徐福は 秦民を詐り
藥を採り淹留して  丱童 老ゆ (叙福は童男童女を数千伴ったと史記にある)
百工の五種 之とともに 居り
今に至るも 器玩は皆な 精巧
前朝()に 貢を献じてしばしば往来し
士人は 往々にして 詞藻に工なり
徐福行く時は書未だ焚かれず
逸書百篇 今 尚 存す
令(法律) 厳しく 中国に伝うるを許さず
世を挙げて 人の古文を識る無し
先王の大典は  夷貊に藏れ,
蒼波浩蕩として 津(渡し場)を通ずる無し
人をして 感激して 坐に流涕せしむ
渋たる 短刀 何ぞ云ふに足らん



思い込みとは云いながらも  宋の文化人にとって、あこがれの地 日本であった。
大海原の向こうに夢を見たのは 日本ばかりではない。







投稿日 2012年10月01日 3:18:52
最終更新日 2012年10月01日 3:19:04
修正
2012年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
わが国では平安時代後期、大陸では宋代の話が続いた。 ついでに留めの話。
『日本刀歌 』の作者欧陽 脩が科挙の監督をして、蘇軾を見出だしたと記したが、
この蘇軾(1036〜1101 )は北宋代の政治家で、詩人、書家として高名である。
東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれ、その名に親しみを覚えるご仁もあろう。
黄庭堅(こうていけん)、米芾(べいふつ)と並ぶ 書に於ける宋の三大家だそうである。

地方官を歴任後、中央の官吏となるが、時の新法に反対して左遷されて、地方官へ逆戻り。
ついで、詩文で政治を誹謗したと、投獄され、黄州へ左遷。
左遷先の土地を東坡と名づけて、東坡居士と名乗ったそうな。
蘇軾は かの『赤壁賦』の作者で、この黄州時代に詠んだという。
が、この赤壁は自身も承知の上だったらしいが、三国時代の実際の古戦場ではなかった。
現在は、蘇軾が『赤壁賦』を詠んだ所は文赤壁、本物の戦場の方を武赤壁と呼んでいるそうだ。
蘇軾が、この黄州に流されている時に 悲運を嘆いたのが『黄州寒食詩巻』(こうしゅうかんしょくしかん)
という作品で、その書は多くの文字の頭が右に倒れている。文字が歪んでいるのだ。 
これが大家の字かぁ〜 と、ながめる。

蘇軾・蘇東坡


47歳のとき、自詠の詩2首を書いた快心の作だという。
唐代よりの伝統書法の上に独自の書風を表現したということなのだろう。
字形の変形、文字の大小、強弱、均衡があるのやらないのやら…   
何ともゆったりとしたものを伝える書は それまでの時代にはないものなのだという。

その後、旧法派が復権し、蘇軾も中央に復帰する。
師である欧陽 脩と同じく詔書の起草に当る翰林学士等要職を歴任した。
だが、またまた、再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷。
現在の広東省に流され、さらに海南島にまで追いやられたのは62歳の時だった。
66歳の時、新法、旧法両派の融和が図られると、ようやく許されるが、都に向かう帰路で病死。
流され続ける蘇軾は、豪快な詩風で宋代最高の詩人とされるという。

宋代は、それまでに長らく権力を掌握してきた貴族が 唐の王朝から勢力を失い始め崩壊する。
新興地主が力を得て 政治や社会構造の変化が起きた。
貴族中心の優雅な文化へ新しい社会層の革新の風が吹き込み、書法も変えたのだろうか。
自由で動的な清新の気は わが国も貴族から兵の時代への過渡期であった。






投稿日 2012年11月01日 0:13:49
最終更新日 2012年11月01日 0:14:08
修正
2012年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
最古級ひらがな


先月末、最古級ひらがな!と 新聞紙上が飾られた。
平安の御代に右大臣を務めた 藤原良相(ふじわらよしみ 813〜867年)の邸宅跡から 一年ほど前に
出土した土器片に仮名文字があったというのである。

現場は京都の中京区で、出土した9世紀後半の土器片の中に“かつらきへ” 
葛城へということだろう、和歌とみられる平仮名が書かれていた。
平安京でのまとまった土器の出土で、10世紀と言われていた平仮名の確立が 
半世紀も遡ることになった、というから 大変なことなのだ。
なんといっても 我らが意思伝達の重要手段、平仮名の誕生の話である。
漢字の一字一字を、その漢字本来の意味に拘わらず、日本語の音の表記に
用いたのが、万葉仮名で、万葉集がこの手法で著されているのだ。
仮名は、1音に1字を当てる万葉仮名、万葉仮名の草書体を用いた草仮名、そして
平仮名の順に移行したと謂われるが…
かの空海が平仮名を創作したという話もあるという程だから 平仮名の誕生秘話は
興味津々というところである。


最澄や空海が帰朝して、仏教が新たな息吹をわが国にもたらした時代に
弁舌は才気に溢れていた新進気鋭の 藤原良相君、承和元年(834年)仁明天皇に
召し出されて順調にご昇進。長兄をも越えて権中納言になり、権大納言 右近衛大将と ぐんぐん
御出世。 857年には右大臣 左近衛大将に就任。周囲からの人望も厚く、貞観6年(864年)清和天皇に娘を入内させたりと、なかなかのご人物だった様子。
当然 文学への造詣は深く、仏教への信仰には篤く、陰陽道にも通じていた。
と、まるで見たかのような人物説明だが、1200年以上も前のことである。 

この藤原良相邸宅跡で出土した土器に 墨で文字が記されていた。
その文字が 万葉仮名でもなく、草仮名でもない平仮名だというのである。 
9世紀後半の平安貴族が 宴の席で器に歌を書きつけて交わし合ったのだろうか。
その器に酒を満たしたのか。 邸宅跡の池から皿などの土器破片90点もの中の、
20点に墨の文字が記されていたという。文字が判別できた“かつらきへ”は 当時の 御所での神楽歌一節に出てくるそうだ。 邸で神楽が行われたのだろうか。
 
周辺が桜の名所という 藤原良相邸は「百花亭」と呼ばれ、天皇の行幸をはじめとし、
公家方が歌会を催したというから 季節の花の下で、紅葉する木々を愛でながら…
当時の一流文化人が集い交流した場と想定される良相邸。その邸跡での墨書土器。
9世紀後半、京洛の貴族階級での平仮名の広まりを示しているということか。

一方、9世紀前半の井戸跡で、檜扇(ひおうぎ)と木簡をも発見。
万葉仮名が記されていたそうだ。同じ遺跡で万葉仮名から平仮名までが見つかった。
仮名の誕生変遷を報せている訳である。


最古級ひらがな
  
出土品は京都市考古資料館で12月16日まで展示されるという。


 



投稿日 2012年12月01日 14:14:56
最終更新日 2012年12月01日 14:17:51
修正