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2012年02月01日
雲林院 在原業平
カテゴリ : [案内望遠鏡]
辺り一面 厚い雲に覆い尽くされた新宿ホテルの最上階。
窓の向こう、雲の中に点滅する塔は完成間近の スカイツリー。
こんなにも近くに見えるのかと改めてその高さに驚く。
隅田川にかかる業平橋付近に間もなく開業の東京スカイツリーが建つ。
「おしなりくん」と云う人形が地元の宣伝のために作られて活躍している。
所謂 ゆるキャラというもので、その名は地元、押上と業平橋からとったものだそうで、
平安貴族の格好に烏帽子が東京スカイツリーをかたどっている。
つまり、押し上げ近辺の在原業平がのっぽの烏帽子を被っているということだ。
伊勢物語で在原業平が都を思う歌を詠んだ事にちなんでの御縁である。
“名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと”
古今和歌集に収められたこの歌は在原業平のもので、 能 隅田川 でも耳慣れている。
父方をたどれば桓武天皇の曾孫、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたるという、業平。
皇統が嵯峨天皇の子孫へ移り、826年に臣籍降下して、兄の行平らとともに在原姓となったそうな。
業平は美男。 ということになっている。
二条后や、高貴な女性たちとの禁忌の恋が語られている『伊勢物語』の主人公である。
いわゆる「昔男」とされてきた。
古今和歌集などの歌集で知られた歌人で、兄の行平をはじめ子や孫も歌人。
多くの歌を残している一方、兄の在原行平、共々鷹狩の名手であったというから、当時の貴族の
身につけるべき事柄は何か、ということを垣間見る。
因みに “立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む” というのが
在原行平の歌で、百人一首で十八番にしている御仁も多かろう。
これは 昔からの能の人気曲、 松風の題材となっている和歌である。
“ 世の中に たえて櫻の なかりせば 春の心は のどけからまし ”
“ から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ”
“ ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くゝるとは ”
これら古今和歌集の歌は伊勢物語やら、百人一首やらで 耳になじんだ弟在原業平のものである。
業平の没後、時が経ち、世阿弥の時代。 当然のように能に数多く業平の影は登場してくる。
世阿弥作と謂われる 能の雲林院は業平と二条后の恋物語が素材。
美しい業平の霊の遊舞が、平安の貴族の優雅さを漂わせる能である。
雲林院は世阿弥自筆の能の本が残っていて、その自筆本では現行と異なり、後段、
二条后の兄である藤原基経の霊が鬼、怨霊のような姿で登場する 妄執の能だったとか。
花の舞い散る月夜に 殿上人の装いで現れて昔を偲んで舞い、幻と消えゆく業平だった 〜 とは
行かなかったようである。
花の名所、雲林院は応仁の乱で廃絶してしまった。
淳和天皇の離宮が造られたという紫野一帯は野の広がる狩猟地で、桜の名所だったという。
そこに雲林院はあった。色々な変遷の後に官寺となった雲林院。
在原業平が伊勢物語の筋を夢で語る処。能 雲林院 の舞台となったが、 今昔物語集や大鏡の
舞台ともなり、源氏物語にも登場する。
現在の雲林院は、1707年にかつての寺名を踏襲して、大徳寺の塔頭として建てられたものだそうで、
往時のものではない。
もっと、もっと、時代は下って、江戸の世。 落語でご存じ、花魁千早太夫と相撲取り龍田川のお話。
“千早ふる”は 隠居が “ ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くゝるとは ” に
いい加減な解釈をする話だが、「千早振る神代にもない いい男」 「冬枯れに無地に流るる龍田川」
などの狂歌が基にある。
この当時も 美男で様子のいい男業平は勿論のこと、その歌の知名度の高さを示しているわけだ。
如月壱弐日 三余堂は初冠に緌、狩衣指貫の出立で在原業平の霊となる。
はてさて 伊勢物語の往時が蘇えるか。
能「雲林院」 (c)La plume d'oie 2012
窓の向こう、雲の中に点滅する塔は完成間近の スカイツリー。
こんなにも近くに見えるのかと改めてその高さに驚く。
隅田川にかかる業平橋付近に間もなく開業の東京スカイツリーが建つ。
「おしなりくん」と云う人形が地元の宣伝のために作られて活躍している。
所謂 ゆるキャラというもので、その名は地元、押上と業平橋からとったものだそうで、
平安貴族の格好に烏帽子が東京スカイツリーをかたどっている。
つまり、押し上げ近辺の在原業平がのっぽの烏帽子を被っているということだ。
伊勢物語で在原業平が都を思う歌を詠んだ事にちなんでの御縁である。
“名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと”
古今和歌集に収められたこの歌は在原業平のもので、 能 隅田川 でも耳慣れている。
父方をたどれば桓武天皇の曾孫、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたるという、業平。
皇統が嵯峨天皇の子孫へ移り、826年に臣籍降下して、兄の行平らとともに在原姓となったそうな。
業平は美男。 ということになっている。
二条后や、高貴な女性たちとの禁忌の恋が語られている『伊勢物語』の主人公である。
いわゆる「昔男」とされてきた。
古今和歌集などの歌集で知られた歌人で、兄の行平をはじめ子や孫も歌人。
多くの歌を残している一方、兄の在原行平、共々鷹狩の名手であったというから、当時の貴族の
身につけるべき事柄は何か、ということを垣間見る。
因みに “立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む” というのが
在原行平の歌で、百人一首で十八番にしている御仁も多かろう。
これは 昔からの能の人気曲、 松風の題材となっている和歌である。
“ 世の中に たえて櫻の なかりせば 春の心は のどけからまし ”
“ から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ”
“ ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くゝるとは ”
これら古今和歌集の歌は伊勢物語やら、百人一首やらで 耳になじんだ弟在原業平のものである。
業平の没後、時が経ち、世阿弥の時代。 当然のように能に数多く業平の影は登場してくる。
世阿弥作と謂われる 能の雲林院は業平と二条后の恋物語が素材。
美しい業平の霊の遊舞が、平安の貴族の優雅さを漂わせる能である。
雲林院は世阿弥自筆の能の本が残っていて、その自筆本では現行と異なり、後段、
二条后の兄である藤原基経の霊が鬼、怨霊のような姿で登場する 妄執の能だったとか。
花の舞い散る月夜に 殿上人の装いで現れて昔を偲んで舞い、幻と消えゆく業平だった 〜 とは
行かなかったようである。
花の名所、雲林院は応仁の乱で廃絶してしまった。
淳和天皇の離宮が造られたという紫野一帯は野の広がる狩猟地で、桜の名所だったという。
そこに雲林院はあった。色々な変遷の後に官寺となった雲林院。
在原業平が伊勢物語の筋を夢で語る処。能 雲林院 の舞台となったが、 今昔物語集や大鏡の
舞台ともなり、源氏物語にも登場する。
現在の雲林院は、1707年にかつての寺名を踏襲して、大徳寺の塔頭として建てられたものだそうで、
往時のものではない。
もっと、もっと、時代は下って、江戸の世。 落語でご存じ、花魁千早太夫と相撲取り龍田川のお話。
“千早ふる”は 隠居が “ ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くゝるとは ” に
いい加減な解釈をする話だが、「千早振る神代にもない いい男」 「冬枯れに無地に流るる龍田川」
などの狂歌が基にある。
この当時も 美男で様子のいい男業平は勿論のこと、その歌の知名度の高さを示しているわけだ。
如月壱弐日 三余堂は初冠に緌、狩衣指貫の出立で在原業平の霊となる。
はてさて 伊勢物語の往時が蘇えるか。
能「雲林院」 (c)La plume d'oie 2012
投稿日 2012年02月11日 19:07:50
最終更新日 2012年02月11日 19:08:28
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