記事移動
2012年09月01日
平維盛
カテゴリ : [案内望遠鏡]
伊豆の流人源頼朝 謀反!
治承4年の9月5日、源頼朝ら源氏の挙兵に際しての征討軍総大将は平維盛(これもり)だった。
父は前年に亡くなった、小松内大臣 平重盛。 祖父は平清盛である。
この時維盛 23歳。 副将は清盛の末弟 薩摩守忠度。と、清盛の子 三河守知度。
出発しようとする維盛と、侍大将の伊藤忠清で、今日は日が悪いとかなんとか、一悶着があった由。
結局出発は月末まで遅れたという。
出陣する23歳の武者姿は、絵にも描けぬ美しさで、光の君の再来かと…
この4年前、西暦でいうと1176年。
後白河法皇の五十の賀で、桜と梅の枝を烏帽子に挿して舞を披露した際、
「おももち、けしき、あたり匂いみち、みる人ただならず、心にくくなつかしきさまは、
かざしの桜にぞことならぬ」
と、藤原隆房がその日記 『安元御賀日記』に書いているという。
但し この隆房は叔母さんの夫ではあるが。
もっとも 九条兼実も「容顔美麗、尤も歎美するに足る」と云っているので、さぞ美しかったろう。
清盛の嫡孫で美貌の貴公子が颯爽と大将軍としてのご出陣。
が、富士川の戦いでも、倶利伽羅峠でも敗北して、平家は壊滅的なことになる。
なんたって 平家一門、すでに武門の風なぞあったものではなく、公卿の雅なさまにひたひたと
近づき、有り余る財が、それを凌駕する華美を身につけさせていたのだから。
平家の公家化は大成功、というわけであった。
この一門 笛の重衡(しげひら・清盛の五男)、琵琶の経正(つねまさ・清盛の弟経盛の子)
舞の維盛、歌の教盛(のりもり・清盛の弟)、忠度(ただのり・清盛の弟)等、雅な才能の持ち主
が多く排出している。
副大将の三河守知度は富士川の戦いの後、頑張って尾張、三河で挙兵して敵を打ち破る。
そして木曽義仲を迎撃すべく出陣、劇的なる討死。平家一門で初めての戦死だった。
そもそもそは兵の家である平氏。
「いずれ、近隣の者共がうちこぼつであろう」 などと、のんびりと高を括っていなければ
それなりの働きをする闘将もいたわけで…、
大将維盛は平氏一門が都を落ちた後に戦線を離脱、那智の沖で入水した。享年27。
この維盛の弟に、笛の名手として聞こえた清経がいた。
平重盛の三男清経は、1183年に平家一門が都落ちした後、豊前国柳浦にて入水。弱冠21歳。
清経が入水したのは現在の大分県宇佐市柳ヶ浦地区・駅館川沖合といわれており、
父、重盛が小松殿と通称されたので、小松塚と呼ばれる五輪塔および慰霊碑が建てられている。
四十の賀、五十の賀と長寿を祝う時代、武人としては決して二十代が若いということはなかろう。
が、重盛の子らはすでに武人ではなかった。
世阿弥は維盛の弟、清経の入水の様を能に書き上げた。
三余堂 長月朔 秋田唐松能舞台で能『清経』を勤める。
(c)La plume d'oie 鵞毛庵 2009 能「清経」
治承4年の9月5日、源頼朝ら源氏の挙兵に際しての征討軍総大将は平維盛(これもり)だった。
父は前年に亡くなった、小松内大臣 平重盛。 祖父は平清盛である。
この時維盛 23歳。 副将は清盛の末弟 薩摩守忠度。と、清盛の子 三河守知度。
出発しようとする維盛と、侍大将の伊藤忠清で、今日は日が悪いとかなんとか、一悶着があった由。
結局出発は月末まで遅れたという。
出陣する23歳の武者姿は、絵にも描けぬ美しさで、光の君の再来かと…
この4年前、西暦でいうと1176年。
後白河法皇の五十の賀で、桜と梅の枝を烏帽子に挿して舞を披露した際、
「おももち、けしき、あたり匂いみち、みる人ただならず、心にくくなつかしきさまは、
かざしの桜にぞことならぬ」
と、藤原隆房がその日記 『安元御賀日記』に書いているという。
但し この隆房は叔母さんの夫ではあるが。
もっとも 九条兼実も「容顔美麗、尤も歎美するに足る」と云っているので、さぞ美しかったろう。
清盛の嫡孫で美貌の貴公子が颯爽と大将軍としてのご出陣。
が、富士川の戦いでも、倶利伽羅峠でも敗北して、平家は壊滅的なことになる。
なんたって 平家一門、すでに武門の風なぞあったものではなく、公卿の雅なさまにひたひたと
近づき、有り余る財が、それを凌駕する華美を身につけさせていたのだから。
平家の公家化は大成功、というわけであった。
この一門 笛の重衡(しげひら・清盛の五男)、琵琶の経正(つねまさ・清盛の弟経盛の子)
舞の維盛、歌の教盛(のりもり・清盛の弟)、忠度(ただのり・清盛の弟)等、雅な才能の持ち主
が多く排出している。
副大将の三河守知度は富士川の戦いの後、頑張って尾張、三河で挙兵して敵を打ち破る。
そして木曽義仲を迎撃すべく出陣、劇的なる討死。平家一門で初めての戦死だった。
そもそもそは兵の家である平氏。
「いずれ、近隣の者共がうちこぼつであろう」 などと、のんびりと高を括っていなければ
それなりの働きをする闘将もいたわけで…、
大将維盛は平氏一門が都を落ちた後に戦線を離脱、那智の沖で入水した。享年27。
この維盛の弟に、笛の名手として聞こえた清経がいた。
平重盛の三男清経は、1183年に平家一門が都落ちした後、豊前国柳浦にて入水。弱冠21歳。
清経が入水したのは現在の大分県宇佐市柳ヶ浦地区・駅館川沖合といわれており、
父、重盛が小松殿と通称されたので、小松塚と呼ばれる五輪塔および慰霊碑が建てられている。
四十の賀、五十の賀と長寿を祝う時代、武人としては決して二十代が若いということはなかろう。
が、重盛の子らはすでに武人ではなかった。
世阿弥は維盛の弟、清経の入水の様を能に書き上げた。
三余堂 長月朔 秋田唐松能舞台で能『清経』を勤める。
(c)La plume d'oie 鵞毛庵 2009 能「清経」
投稿日 2012年09月01日 9:27:39
最終更新日 2012年09月01日 9:28:27
【修正】