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2010年04月01日
床下の極意
カテゴリ : [案内望遠鏡]
名代の面々による賑やかな出し物で 取り壊し直前の舞台を飾る歌舞伎座。
二月案内望遠鏡でふれた 三人吉三、 「厄払い」の名セリフが 四月の歌舞伎座に掛かる。
菊五郎丈の 「こいつぁはるからッ…」 「音羽屋ァッ !」 と。
そんな舞台は仕掛けの宝庫だ。
歌舞伎の舞台は中央の床を大きく丸く切り取り、その部分を回転させることができる。
廻る部分の前半分で芝居をしている間に、背中合せの後ろ半分で次の場面の設えをする。
180度回転させれば、別の場面だ。
二つの場を交互に見せたり、装置の転換を観客の目前で見て、場面転換の効果をさらに挙げる。
明治以降は、国内外の劇場でも見られるようになった。
歌舞伎独特の舞台機構は 舞台下の奈落で人力によって動かした。
たいした 発明だったのである。 それを 廻り舞台という。
廻り舞台とセリ
1758年 並木正三(なみきしょうざ)が独楽の回転から考案したという。
近松門左衛門や鶴屋南北、河竹黙阿弥などと比べて、耳慣れない狂言作者だった並木正三。
舞台装置の考案者として、歌舞伎史上 欠くことのできない名前なのだ。
東海道四谷怪談、いわゆるお岩さんの芝居や、平家女護島(へいけにょごのしま)、これは能にある
《俊寛》の芝居だが、幕切に舞台が廻って一面が大海原になり、岩の上にたたずむ俊寛の姿を強調する。
廻り舞台の真骨頂。
初期の歌舞伎の舞台は菱川師宣の屏風絵で 能舞台を模しているのが判る。
客席の中に張り出している本舞台、下手に伸びている橋掛り(はしがかり)。
舞台の両袖に桟敷席、周辺の土間で好きな場所に敷物を敷いて芝居を観る。
屋根は舞台と桟敷のみ。雨天中止だったという。 この頃の舞台は廻っていない。
差し詰め どっかの野球場だなぁ…
1858年に出たという錦絵を見ると 花道が客席の中を通り、客席全体に屋根がある。
享保9年、1724年に幕府から屋根の許可が出たそうで、瓦葺屋根の芝居小屋になった由。
そして、客席は土間から板張りの床になり、席も枡に仕切られる。
この頃は 舞台も廻るし、セリも上がり、一大スペクタクルを舞台で見せるようになっていく。
原型だった能舞台は。 もともとが寺社の境内などでの仮設の野外舞台。
橋掛リは舞台の真後ろに付いていたようで、今の配置は秀吉の時代になったようだ。
現在の能舞台とほぼ同じ形になったのは、江戸期元禄時代頃。
舞台と見所 (けんしょ) と呼ぶ客席とが1つの建物の中に収まる劇場形式になったのは、
明治14年に東京の芝公園内に建てられた能楽堂が最初。
能舞台 向かって左方が橋掛かり
能は、擦リ足の運びを見せるため、床材の吟味が厳しく、極上檜材。
根太の上に敷き並べ、小さな鎹 (かすがい) で裏からとめている。
水平に見える本舞台は、正面先に向かってわずかに低く傾斜し、橋掛リも
幕口へ向かって低い。
能舞台の床下は、その地面に穴を掘り、そこに一抱えほどの焼物の大瓶を置いた。
穴の数は本舞台に七つ、横板に二つ、橋掛リに三つまたは四つと。 瓶は音響のためと聞かされていた。
近年の科学的測定によると 残響を適度に保つためというより、瓶が余分な周波数成分を吸収するという。
ほどよい残響は 床下の地表を目の細かい土で覆い固める鏝叩キの技法によるものらしい。
廻り舞台が電動になるがごとく、近年築の能楽堂は コンクリート打ちの床下、音響は構造計算で考慮。
床下には舞台を廻す人もなく、音響の為の大瓶もなくなるということか…
二月案内望遠鏡でふれた 三人吉三、 「厄払い」の名セリフが 四月の歌舞伎座に掛かる。
菊五郎丈の 「こいつぁはるからッ…」 「音羽屋ァッ !」 と。
そんな舞台は仕掛けの宝庫だ。
歌舞伎の舞台は中央の床を大きく丸く切り取り、その部分を回転させることができる。
廻る部分の前半分で芝居をしている間に、背中合せの後ろ半分で次の場面の設えをする。
180度回転させれば、別の場面だ。
二つの場を交互に見せたり、装置の転換を観客の目前で見て、場面転換の効果をさらに挙げる。
明治以降は、国内外の劇場でも見られるようになった。
歌舞伎独特の舞台機構は 舞台下の奈落で人力によって動かした。
たいした 発明だったのである。 それを 廻り舞台という。
廻り舞台とセリ
1758年 並木正三(なみきしょうざ)が独楽の回転から考案したという。
近松門左衛門や鶴屋南北、河竹黙阿弥などと比べて、耳慣れない狂言作者だった並木正三。
舞台装置の考案者として、歌舞伎史上 欠くことのできない名前なのだ。
東海道四谷怪談、いわゆるお岩さんの芝居や、平家女護島(へいけにょごのしま)、これは能にある
《俊寛》の芝居だが、幕切に舞台が廻って一面が大海原になり、岩の上にたたずむ俊寛の姿を強調する。
廻り舞台の真骨頂。
初期の歌舞伎の舞台は菱川師宣の屏風絵で 能舞台を模しているのが判る。
客席の中に張り出している本舞台、下手に伸びている橋掛り(はしがかり)。
舞台の両袖に桟敷席、周辺の土間で好きな場所に敷物を敷いて芝居を観る。
屋根は舞台と桟敷のみ。雨天中止だったという。 この頃の舞台は廻っていない。
差し詰め どっかの野球場だなぁ…
1858年に出たという錦絵を見ると 花道が客席の中を通り、客席全体に屋根がある。
享保9年、1724年に幕府から屋根の許可が出たそうで、瓦葺屋根の芝居小屋になった由。
そして、客席は土間から板張りの床になり、席も枡に仕切られる。
この頃は 舞台も廻るし、セリも上がり、一大スペクタクルを舞台で見せるようになっていく。
原型だった能舞台は。 もともとが寺社の境内などでの仮設の野外舞台。
橋掛リは舞台の真後ろに付いていたようで、今の配置は秀吉の時代になったようだ。
現在の能舞台とほぼ同じ形になったのは、江戸期元禄時代頃。
舞台と見所 (けんしょ) と呼ぶ客席とが1つの建物の中に収まる劇場形式になったのは、
明治14年に東京の芝公園内に建てられた能楽堂が最初。
能舞台 向かって左方が橋掛かり
能は、擦リ足の運びを見せるため、床材の吟味が厳しく、極上檜材。
根太の上に敷き並べ、小さな鎹 (かすがい) で裏からとめている。
水平に見える本舞台は、正面先に向かってわずかに低く傾斜し、橋掛リも
幕口へ向かって低い。
能舞台の床下は、その地面に穴を掘り、そこに一抱えほどの焼物の大瓶を置いた。
穴の数は本舞台に七つ、横板に二つ、橋掛リに三つまたは四つと。 瓶は音響のためと聞かされていた。
近年の科学的測定によると 残響を適度に保つためというより、瓶が余分な周波数成分を吸収するという。
ほどよい残響は 床下の地表を目の細かい土で覆い固める鏝叩キの技法によるものらしい。
廻り舞台が電動になるがごとく、近年築の能楽堂は コンクリート打ちの床下、音響は構造計算で考慮。
床下には舞台を廻す人もなく、音響の為の大瓶もなくなるということか…
投稿日 2010年05月24日 16:55:36
最終更新日 2010年05月24日 16:55:49
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