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2011年12月01日
あの時代 みんなが大好きだった物語
カテゴリ : [案内望遠鏡]
  歌舞伎十八番の内に 外郎売というのがある。
「外郎売 実ハ 曾我五郎」という設定の話で、享保三年、二代目市川団十郎が勤めたのが
初めという。  外郎売の口上で “ 拙者親方と申すは〜 ” と始まり、

  “ 〜武具、馬具、武具、馬具、三武具馬具、合せて武具馬具 六武具馬具 〜 
煮ても焼いても喰われぬものは、五徳、鉄灸、金熊童子に、石熊、石持、虎熊、虎鱚。 
中にも、東寺の羅生門には茨城童子が腕栗五合掴んでおむしゃる。
かの頼光の膝元去らず、鮒、金柑、椎茸、後段な、蕎麦切り、素麺、饂飩か愚鈍な 小新発知〜 ”
  


と、訳のわかったような、判らんような 調子のいいセリフが続く。早口言葉や滑舌の稽古に
使うことで知られているから、何処かで耳にした記憶があると思う。

“かの頼光(らいこう)の膝元去らず” と、ここに登場の頼光。
平安は中頃の武将。 父は鎮守府将軍の源満仲。 その長子で、清和源氏の3代目というから、
結構な御家柄である。 成人して出仕し、藤原氏の下で官職を得たらしい。
関白兼家の葬儀でのこと。藤原道長の振る舞いに、“うぅ〜む”と 思うところあって、側近として
従うようになったとか。 それまでにしっかり受領として蓄えた財で、道長にしばしば御進物。
 “道長さまぁ〜 ファンなんですぅ〜”と、道長に一所懸命お尽くしして、道長権勢と共にご発展。
しかるに頼光。 武門の名将「朝家の守護」と呼ばれた、と!
この頼光、玄孫、即ちやしゃごに宇治平等院で自刃した源頼政がいる。

寛仁元年 (1018年)、大江山夷賊追討の勅命で 頼光は頼光四天王らと共に鬼退治を行った。
京都の成相寺に頼光が自らしたためた追討祈願文書があるという。
 “どうぞ、鬼退治が上手くいきますように”っていうことである。
酒呑童子が、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従えて、大江山から、しばしば京都に出没し、
高貴な若い姫をさらったり、生のまま喰ったりの、ぞぉっとする悪行の数々。
帝の勅命で、源頼光と頼光四天王が討伐したという、お話は夢か現か…
酒盛りの最中に、酒を酒呑童子に飲ませて寝首を掻き成敗したが、そこは酒呑童子。
首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いていたそうな。
討伐祈願の成相寺には、酒盛りの時の酒徳利と杯が所蔵されているというから、こりゃぁ現かな…。

この四天王、渡辺綱を筆頭として坂田金時、卜部季武、碓井貞光 のご面々。
渡辺 綱(わたなべのつな)は、大江山の酒呑童子退治は勿論、京都の一条戻り橋の上で鬼の腕を
源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落としたってお話でも有名。
能『羅生門』は舞台を一条戻り橋から羅生門に置き換えたもので、この綱さん、源融(みなもとのとおる)の御子孫で、かの頼光さんの御親戚なんですねぇ。 故に正式な名乗りは源綱(みなもとのつな)。 
源融は陸奥国塩釜の風景を模して六条河原院を造営したとかいう 嵯峨天皇の子。
臣下に下り 源姓を賜って… 光源氏のことだなんて、謂われたり。百人一首の河原左大臣である。
要は綱さんも、頼光さんもなかなかのご出自ということ。

坂田金時(さかたのきんとき)は、まさかり担いだ金太郎さん。
きんたろさんが「金時豆」の由来なら、息子の坂田金平は「きんぴらゴボウ」の由来とな…。
卜部 季武(うらべのすえたけ)は知る人ぞ知る、知らない人はてんで存じ寄らない
                                            酒呑童子退治の人!
碓井貞光(うすいさだみつ)は、童話の『金太郎さん』では、樵に身をやつして、旅をする最中の足柄山で金太郎を見つけて、源頼光のもとへ連れて行くということになっている、碓氷峠のおっさん。


ここまでに出てきた『融、頼政、満仲、頼光、大江山、羅生門』。
それぞれ流儀によって多少の違いはあれど皆、能の曲になっている。
所縁の曲には渡辺綱をはじめ酒呑童子等々が、ご登場。当時としては誰でも知っていたお話。
外郎売りが実は…と、歌舞伎でいう曽我兄弟のお話も 能には『小袖曽我』をはじめとする
曽我物ってものがある。これらが作られた室町期の あの時代 みんなが大好きだった物語。
能の中で今に伝えられているってことで、当時の趣味なんぞを垣間見て
                  へぇーとか、ほぉーとか 突っ込みながらのご鑑賞もこれまた 一興。





三余堂12月観世九皐会で能 『頼政』 の地頭を 勤める。



投稿日 2011年12月01日 0:05:01
最終更新日 2011年12月01日 0:05:01
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