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2012年04月01日
唐代書法
カテゴリ : [案内望遠鏡]
唐の詩人李白が生まれた701年、我国では大宝律令が完成した。
630年に第一回遣唐使が派遣されて以来、大陸文化の摂取を意欲的に進めて
律令文化というものを根付かせて行ったのである。
船舶技術の進歩が進むと黄海から江蘇へ一気に行かれるようになる。
そして、隋の煬帝によって完成された大運河で洛陽へ。長安までは陸路。という南路になる。
が、そうそう簡単には運ばない。二隻から四隻の船団で、どれかが無事に到着すれば…

そんな折、都では本格的な律令国家建設のため 全国から多数の労働者がかり集められた。
   “ 青丹よし奈良の都は咲く花の 匂うがごとくいまさかりなり ”
平城京は唐の長安を模して碁盤の目のように造られ、国家の体制も倣うものとなった。
<お雛様の装束>でも触れているが、服装までも唐風に倣った。
なんたって、大陸風がもっとも文化的で、お洒落とばかりに憧れだったのだろう。
玄宗皇帝時代、唐代絶頂の時に、遣唐使として唐へ渡った人の中には、李白や王維などの詩人とも
交遊があり、そのまま唐朝に仕えた阿倍仲麻呂のような有能な人もいた。
おおいに我が国の位置を高めたという訳である。

命を懸けて渡海した人々は、再び命を張って智慧と文化を運んでくる。
遣唐使の持ち帰ったあらゆる物の中に 王羲之(おうぎし)の搨模本(とうもほん)があった。
この搨模本、東晋時代の書家であった書聖、王羲之の文字を学ぶ為の必需品。
王羲之やその流れの書を学ぶには、何といっても手本が欲しい。で、複製が出来る。
搨模本とは書の複製で、その作成技術の一つに双鉤填墨(そうこうてんぼく)というのがある。
要は、文字の上に紙を置き、極細の筆で文字の輪郭を写しとって中を塗りつぶすのだが、
唐時代後半には石や木に書蹟を模写し彫りつけ、拓本を採るという模刻の手法も出た。
どの道、専門の職人によって築きあげられた技術である。何たって、筆と見紛うほどの中国の技。
当時の公的文書の文字は王羲之書法で、書き手の文字はその人品骨柄を表すとばかりに
役人は良い字が書けないと話にならなかったようだ。
唐玄宗はたいそう、王羲之の書がお気に入りで、欧陽詢、虞世南、褚遂良などの書法はすべて
王羲之の書法を深く学んだものという。


喪乱帖 唐代書法 東晋時代 王羲之
      精密な双鉤填墨の聖作品で 墨の濃淡、かすれなども真筆さながらである (御物)


この時に艱難辛苦の末、我国にもたらされた王羲之の搨模本は聖武天皇、光明皇后の関心を
強く引いたし、平安の世になってからは貴族に広く流布。皆がこぞって学んだ訳である。
王羲之の書は当時の我国ではまだまだ理解が不充分で、他の人の手になる書も混ざっていた
ようだが、兎にも角にも搨模本は全六十巻の巻物にまとめられたという。
律令制による中央集権国家が確立すると、文字、漢字が機能を始める。
戸籍、計帳などの作成や記録をするようになり、文字を書く能力、つまり王羲之書法を身につける
ことが官吏への道となったってことだ。

李白が玄宗皇帝に仕えて、「清平調詞」を作った頃、我国ではせっせと東大寺の大仏鋳造中。
751年東大寺大仏開眼となり、仏教による鎮護国家の体が成ると、経典の書写も盛んになる。
その時代が日本の書の歴史を通じてもっとも楷書が充実した時期なのだそうだ。
唐代の書法が浸透して、大陸に追いつけ、追いつけと学んだ時代から1300年。
漢字の歴史はそれをまたどれだけ遡ることか。





褚遂良 http://nogakusanpo.maya-g.com/displog/221.html


投稿日 2012年04月01日 10:08:37
最終更新日 2012年04月01日 10:08:47
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