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2011年03月01日
雁塔聖教序
カテゴリ : [案内望遠鏡]
西遊記でおなじみ三蔵法師。
本来は経、律、論、の三蔵に通じた僧のことを三蔵法師と言うらしいが、専ら、馴染みのあるのは
唐代の僧である玄奘(げんじょう)。
玄奘は経文の原典を求めてインドへ、そして『般若心経』を唐へ持ち帰った。
後にその業績が、『西遊記』となり、一般に三蔵法師と僧玄奘がごちゃごちゃになった。
もっとも、8世紀頃になると、三蔵法師は経を訳す僧という意味にまで幅が広がったようで、玄奘が後世、
俗称として三蔵法師となったのも頷ける。
三蔵法師こと僧玄奘は、17年に及ぶインドでの日々から 経典657部を、携えて 長安に帰ったのが 645年。
ただちに 翻訳開始。 これが我が国、くしくも 「大化の改新始まる」 とされる年である。
時の唐の皇帝、太宗は玄奘の功績に対して序文を寄せ、当時の皇太子で後の3代皇帝高宗も
文を寄せた。
これらの碑文は『雁塔聖教序』と称し「序」と「記」の一対の碑をなし、陝西省西安の大慈恩寺内に現存。
慈恩寺は太宗が建立したもので、ここにインド式建築の大雁塔を建造。
この大雁塔の上層の石室に、インドから持ち帰った経典を保管したという。
太宗皇帝の指示で『雁塔聖教序』を書いたのが 褚遂良(ちょ すいりょう)という、書家で当時の官僚である。
褚遂良、58歳の作とされる雁塔聖教序は、中国書法史上の大傑作ということだ。
ふぅ〜むと、不案内ながら 法書選の『雁塔聖教序』を繰る。
書に造詣の深いご仁なら どなたも御存知で、蘊蓄などがおありと存ずる次第ながら…
全821字、仏教伝来の経緯、玄奘の功績を讃え、永徽4年(653年)に中書令 臣 褚遂良書 とあるが、
端正な美しい文字が 躍動するように並び、思わず見入る。
細く、太く、強く、弱く、しなやかにそして華麗に…
次に これを碑に彫った石工を思った。 萬 文韶(ばん ぶんしょう) 刻字 とある。
一文字の画と画をつなぐ 見えない空間、息、力、速さを石の上に蘇らせた技。
ふぅ〜むと また改めて 眺め入った。
褚遂良(596年〜 658年)は 初唐の三大家といわれる欧陽詢、虞世南といった書家の中でもっとも若く、
太宗、高宗に仕えた気骨の名臣ということである。
と、いうのも高宗が、かの有名なる 則天武后を皇后に迎えることに反対して 左遷され、
結局 63歳で没したときは ベトナム中部まで流されていったという。
欧陽詢や、虞世南の文字も習字の本などで見知っている向きも多いことであろう。
それら親ほども年の離れた書家の後を推挙され、太宗に仕えた褚遂良は、先人の後を継ぎつつも
新境地へ向かっての模索という 大きな使命も担って碑文を書したのだろう。
楷書、行書、草書の三体を芸術的に完成させたとする、古今第一の書聖 王羲之の真書鑑定の職務を
果たしていたというが、新しきを生み出す為に古きに立ち返り、如何に学んだか。
雛祭りのあられをつまみに いま一度、褚遂良とその先人達の書を並べてみる。
本来は経、律、論、の三蔵に通じた僧のことを三蔵法師と言うらしいが、専ら、馴染みのあるのは
唐代の僧である玄奘(げんじょう)。
玄奘は経文の原典を求めてインドへ、そして『般若心経』を唐へ持ち帰った。
後にその業績が、『西遊記』となり、一般に三蔵法師と僧玄奘がごちゃごちゃになった。
もっとも、8世紀頃になると、三蔵法師は経を訳す僧という意味にまで幅が広がったようで、玄奘が後世、
俗称として三蔵法師となったのも頷ける。
三蔵法師こと僧玄奘は、17年に及ぶインドでの日々から 経典657部を、携えて 長安に帰ったのが 645年。
ただちに 翻訳開始。 これが我が国、くしくも 「大化の改新始まる」 とされる年である。
時の唐の皇帝、太宗は玄奘の功績に対して序文を寄せ、当時の皇太子で後の3代皇帝高宗も
文を寄せた。
これらの碑文は『雁塔聖教序』と称し「序」と「記」の一対の碑をなし、陝西省西安の大慈恩寺内に現存。
慈恩寺は太宗が建立したもので、ここにインド式建築の大雁塔を建造。
この大雁塔の上層の石室に、インドから持ち帰った経典を保管したという。
太宗皇帝の指示で『雁塔聖教序』を書いたのが 褚遂良(ちょ すいりょう)という、書家で当時の官僚である。
褚遂良、58歳の作とされる雁塔聖教序は、中国書法史上の大傑作ということだ。
ふぅ〜むと、不案内ながら 法書選の『雁塔聖教序』を繰る。
書に造詣の深いご仁なら どなたも御存知で、蘊蓄などがおありと存ずる次第ながら…
全821字、仏教伝来の経緯、玄奘の功績を讃え、永徽4年(653年)に中書令 臣 褚遂良書 とあるが、
端正な美しい文字が 躍動するように並び、思わず見入る。
細く、太く、強く、弱く、しなやかにそして華麗に…
次に これを碑に彫った石工を思った。 萬 文韶(ばん ぶんしょう) 刻字 とある。
一文字の画と画をつなぐ 見えない空間、息、力、速さを石の上に蘇らせた技。
ふぅ〜むと また改めて 眺め入った。
褚遂良(596年〜 658年)は 初唐の三大家といわれる欧陽詢、虞世南といった書家の中でもっとも若く、
太宗、高宗に仕えた気骨の名臣ということである。
と、いうのも高宗が、かの有名なる 則天武后を皇后に迎えることに反対して 左遷され、
結局 63歳で没したときは ベトナム中部まで流されていったという。
欧陽詢や、虞世南の文字も習字の本などで見知っている向きも多いことであろう。
それら親ほども年の離れた書家の後を推挙され、太宗に仕えた褚遂良は、先人の後を継ぎつつも
新境地へ向かっての模索という 大きな使命も担って碑文を書したのだろう。
楷書、行書、草書の三体を芸術的に完成させたとする、古今第一の書聖 王羲之の真書鑑定の職務を
果たしていたというが、新しきを生み出す為に古きに立ち返り、如何に学んだか。
雛祭りのあられをつまみに いま一度、褚遂良とその先人達の書を並べてみる。
投稿日 2011年03月01日 0:21:57
最終更新日 2011年03月01日 0:21:57
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