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11月になると七五三祈願を受け付ける神社。
近年は11月15日が七五三の日ではなく、11月が七五三の月なのだ。
参道を散歩する保育園児は元気に落葉を拾っている。
この中にも 七五三を祝う子供がいる。
平安時代中期公家の間で子供の成長を祝う儀式が行われていた。
髪置(かみおき)。短くしていた髪を、男女三歳にして伸ばしはじめる儀式が行われた。
その他にも 帯解(おびとき)、髪立(かみたて)、紐落(ひもおとし)などの行事もあったという。
時代が下るとこれらの儀式は武家社会でも行われる。
江戸時代。江戸を中心にした関東地方で今日のような七五三詣がはじまった。
関西ではあまり行われていなかったようだ。
六代将軍徳川綱吉の子徳松がお祝いをしたことから、それにあやかって
一般庶民に広まったという。
呉服問屋でも七五三詣用の売り出しが盛んに行われるようになったそうだ。
いつの世も同じである。 もっとも、「七五三」とは呼んでいない。
「七五三」の語が使われたのは明治時代から。
大正期からが、今のような七歳、五歳、三歳でお宮参りの形になっていったという。
陰暦の11月15日は十五夜にあたり、霜月の祭の日だった。
これは現在、11月23日に宮中、神社で行われる収穫に感謝する祭祀、新嘗祭にあたる。
前記の徳松の祝儀が天和元年(1681)11月15日であったことが、起源らしく、
この日の七五三参りが絶対ではないらしい。
幼児から児童になることを祝う行事の七五三。まぁ、人生の通過儀礼の一つということだ。
七つ前は神のうち、と、七才までの子供は、この世に命が定着していない状態と考えていた。
七歳未満は人別帳に載せなかったという。七歳でようやく人間の仲間入り。
氏神さまへのお参りで、氏子となり、すこやかな成長を祈願したという訳である。
いかに、貴賎男女ともそこまで生きることが難しかったか。
神武天皇の御代に「たがね」と呼ばれる飴があったそうだ。
平安時代には京都では売られていたようで、江戸元禄期頃に浅草で七兵衛という飴売りが、
長袋にいれて「千歳飴」または「寿命飴」として売り歩いていたという。
七五三の千歳飴は千歳という名前が入った飴に
よく育ってくれた、これからも長生きしてほしいと託したものなのである。
美味いか、美味くないかはお好みだ。
ペコちゃんのミルキー千歳飴も 千歳飴にはかわりない…
2010年08月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
平安時代の伝説上の盗賊に熊坂長範(くまさかちょうはん)という人がいる。
源義経が牛若と言っていた頃、金売吉次にともなわれて奥州へ下る途中に、一行を襲ったが、
逆に牛若丸に討たれたという話を能や歌舞伎でみることができる。
熊坂長範の伝説は、本州各地にある。
福井、石川、滋賀、岐阜、新潟、長野、秋田、山形、等々…
長範は、強盗や弱者いじめでなく義賊として、時代を越えて庶民の心の中に生きているというが、
頼朝による源氏再興時以前にはすでに死亡していたと伝えられている、ふる〜い人物だ。
越後の国 熊坂出身の長範さん、ということだ。
戦前、熊坂出身の衆議院議員熊谷五右衛門氏が 当時の帝国大学に依頼して、歴史的事実を
いろいろと調査研究したということだが、結局、確たる史実は乏しく…
長範さんのご出身、まつわるお話、諸々は特定出来なかったようである。
義経の巧みな秘術に操られ、遂に討たれたということになっている長範さんは
長刀を操るおじいさん。 享年63才。 まっ、その当時はおじいさんでしょうな。
この長刀は 堅い木で作られた長い柄の先に反りのある刀身を装着した武具。
武蔵坊弁慶などの僧兵が構えていた、あれですヨ。
この武具は刀の柄を長くしただけ、というものではない工夫もあり、使い方にも技術が要った。
その頃、短刀だの長巻だのと武具も多種にわたり、他との区別もあって表記が薙刀となっていく。
能では一般に長刀で表記している。
長刀を使用して大立ち回りをする場面を描く能には 義賊の長範さんの「熊坂」
巴御前が張り切って闘う「巴」、平の知盛が霊となって出てくる「船弁慶」で、
武蔵法弁慶と牛若丸の五条の橋の上の様を見せる「橋弁慶」などがある。
長刀の起源と発達過程については諸説存在するという。
その使用が最も盛んであったのは源平時代の頃で、その後南北朝時代は槍が登場。
応仁の乱の頃から足軽による集団戦になると、やがて槍に取って代わられた。
その後鉄砲の伝来で長柄武器そのものが衰退していく。
江戸時代には武家の婦女子の武芸として稽古。武士の家では嫁入り道具だったらしい。
ちなみに 戦争中に国防婦人会や女学生が訓練したのは 竹槍。念のため。
その名を聞くだけで泣く子も黙ったと云われ、人々に恐れられた長範さんは
晩年に前非を悔い、出家して往生の本懐を遂げたという話もある。
まっ それぞれのご都合で お話も沢山できるわけだが。
史実らしい話としては、西暦1120年頃、熊阪という地が奈良の興福寺の荘園に組み込まれ、
役人として熊坂に館を構えたという通称「熊坂太郎」と呼ばれた人物がいた。
その後、ン百年たって、その館跡で物見櫓として道行く旅人を窺がったという。
これ、盗賊のお仕事。
そこに、樹令ン百年を経た松の大木があり、熊坂太郎の松と呼ばれていたそうな。
いつのまにやらその松、「熊坂長範物見の松」になり、江戸末期で樹令はおよそ一千年あまり。
が、とうとう 朽ちた。
義賊ゆかりの松なれば、ということかどうか、その大松は立木のまま 一本彫りの大仏や
千体もの阿弥陀仏になった。
その後は火災にあったり、再建したりして今日に至っているという。
酷暑の今夏 九皐会定例会では舞台であらさーがあらかんとなり 長刀で奮闘した。
能「熊坂」 (c) La plume d'oie 2009 鵞毛庵
源義経が牛若と言っていた頃、金売吉次にともなわれて奥州へ下る途中に、一行を襲ったが、
逆に牛若丸に討たれたという話を能や歌舞伎でみることができる。
熊坂長範の伝説は、本州各地にある。
福井、石川、滋賀、岐阜、新潟、長野、秋田、山形、等々…
長範は、強盗や弱者いじめでなく義賊として、時代を越えて庶民の心の中に生きているというが、
頼朝による源氏再興時以前にはすでに死亡していたと伝えられている、ふる〜い人物だ。
越後の国 熊坂出身の長範さん、ということだ。
戦前、熊坂出身の衆議院議員熊谷五右衛門氏が 当時の帝国大学に依頼して、歴史的事実を
いろいろと調査研究したということだが、結局、確たる史実は乏しく…
長範さんのご出身、まつわるお話、諸々は特定出来なかったようである。
義経の巧みな秘術に操られ、遂に討たれたということになっている長範さんは
長刀を操るおじいさん。 享年63才。 まっ、その当時はおじいさんでしょうな。
この長刀は 堅い木で作られた長い柄の先に反りのある刀身を装着した武具。
武蔵坊弁慶などの僧兵が構えていた、あれですヨ。
この武具は刀の柄を長くしただけ、というものではない工夫もあり、使い方にも技術が要った。
その頃、短刀だの長巻だのと武具も多種にわたり、他との区別もあって表記が薙刀となっていく。
能では一般に長刀で表記している。
長刀を使用して大立ち回りをする場面を描く能には 義賊の長範さんの「熊坂」
巴御前が張り切って闘う「巴」、平の知盛が霊となって出てくる「船弁慶」で、
武蔵法弁慶と牛若丸の五条の橋の上の様を見せる「橋弁慶」などがある。
長刀の起源と発達過程については諸説存在するという。
その使用が最も盛んであったのは源平時代の頃で、その後南北朝時代は槍が登場。
応仁の乱の頃から足軽による集団戦になると、やがて槍に取って代わられた。
その後鉄砲の伝来で長柄武器そのものが衰退していく。
江戸時代には武家の婦女子の武芸として稽古。武士の家では嫁入り道具だったらしい。
ちなみに 戦争中に国防婦人会や女学生が訓練したのは 竹槍。念のため。
その名を聞くだけで泣く子も黙ったと云われ、人々に恐れられた長範さんは
晩年に前非を悔い、出家して往生の本懐を遂げたという話もある。
まっ それぞれのご都合で お話も沢山できるわけだが。
史実らしい話としては、西暦1120年頃、熊阪という地が奈良の興福寺の荘園に組み込まれ、
役人として熊坂に館を構えたという通称「熊坂太郎」と呼ばれた人物がいた。
その後、ン百年たって、その館跡で物見櫓として道行く旅人を窺がったという。
これ、盗賊のお仕事。
そこに、樹令ン百年を経た松の大木があり、熊坂太郎の松と呼ばれていたそうな。
いつのまにやらその松、「熊坂長範物見の松」になり、江戸末期で樹令はおよそ一千年あまり。
が、とうとう 朽ちた。
義賊ゆかりの松なれば、ということかどうか、その大松は立木のまま 一本彫りの大仏や
千体もの阿弥陀仏になった。
その後は火災にあったり、再建したりして今日に至っているという。
酷暑の今夏 九皐会定例会では舞台であらさーがあらかんとなり 長刀で奮闘した。
能「熊坂」 (c) La plume d'oie 2009 鵞毛庵

投稿日 2010年08月12日 10:31:52
最終更新日 2010年08月12日 10:32:43
【修正】
2010年07月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
チャイコフスキーのバレエ組曲 くるみ割り人形の中に
『葦笛(あしぶえ)の踊り(Danse des Mirlitons)』というのがある。
この葦笛の踊りは、フランスの踊り、女羊飼いの踊りとも呼ばれる。
葦は、温帯から熱帯にかけての湿地に分布する背の高いイネ科の多年草。
水辺に自生して、世界で最も分布の広い植物だそうだ。
「アシ」が「悪し」に通じるのを忌んで、「ヨシ」とも呼ばれ、漢字表記も「葦」「蘆」「芦」とある。
茎の中は竹のように空胴で、笛として加工するのに都合が良い。
西洋のパンフルートは、長さの異なる芦笛を並べたものである。
古代中国の楽器で、雅楽演奏で見ることができる、簫(しょう)も同じ系統だ。
又、雅楽器の篳篥(ひちりき)、西洋楽器のクラリネットやオーボエ、などに用いられるリードは
この葦の英語でReedを指している。
西洋ではフランスのヴァール地方で採れたリードが 上物とされているとか。
音の明瞭さ、音量の具合等を決めるリードの選定は演奏者の重要な仕事。
ラテン語でcanna、ギリシア語でkannaと云う葦は、南フランスに広く分布している。
南仏は葦が一面に生い茂る沼地が多く、Cannesと呼ばれる地名がつけられたというのだ。
中世から19世紀頭までは、農業や水産業を中心とする村落であったというCannes(カンヌ)は
現在、「カンヌ国際映画祭」で知られる南仏のリゾート地だ。

鵞毛庵愛用の南仏産の葦(正確にはcanne de Provence 暖竹)のペン
このようなペンは古代ローマやペルシャなどで多く使われていた。
イネ科の草、芦。日本では稲刈りの後に、芦刈(あしかり)が行われ、各地の風物詩だったという。
軽くて丈夫な棒である茎は用途も広い。
夏にお世話になる葦簀(よしず)は 芦の茎で作ったすだれ。
屋根材としても茅葺民家の葺き替えに現在でも使われているという。
日本神話ではヒルコが葦舟で流される。
パリのギメ美術館所蔵に 鈴木春信が描いた鷺と葦があるが、
芦は 河川の下流域や干潟広大な茂み、芦原を作り、多くの水生動、植物のよりどころとなる。
ちなみに 日本の古名は豊葦原瑞穂の国という。
能には 世阿弥の改作とされる《蘆刈》という曲がある。
津の国難波の浦で芦を売る男と、離れ離れになった妻との再会を描く。
漁師達の網を引く様や 乙女達の花笠の舞などを真似て見せたりなど
難波の春の様子と芦売りの風情を添えている能で、この部分を笠の段と云っている。
浄瑠璃や地歌箏曲でも《能 蘆刈》の笠の段の部分をとりあげている。
最後に芦売りは 男舞と称する舞を颯爽と舞い、妻と共に都へ帰って行くという話だ。
今、芦笛も芦売りも、夏の設えとしての葦簀さえも、東京はとんとご縁が遠い。
が、三余堂 昨日の九皐会では《能 蘆刈》の地頭を勤めた。
『葦笛(あしぶえ)の踊り(Danse des Mirlitons)』というのがある。
この葦笛の踊りは、フランスの踊り、女羊飼いの踊りとも呼ばれる。
葦は、温帯から熱帯にかけての湿地に分布する背の高いイネ科の多年草。
水辺に自生して、世界で最も分布の広い植物だそうだ。
「アシ」が「悪し」に通じるのを忌んで、「ヨシ」とも呼ばれ、漢字表記も「葦」「蘆」「芦」とある。
茎の中は竹のように空胴で、笛として加工するのに都合が良い。
西洋のパンフルートは、長さの異なる芦笛を並べたものである。
古代中国の楽器で、雅楽演奏で見ることができる、簫(しょう)も同じ系統だ。
又、雅楽器の篳篥(ひちりき)、西洋楽器のクラリネットやオーボエ、などに用いられるリードは
この葦の英語でReedを指している。
西洋ではフランスのヴァール地方で採れたリードが 上物とされているとか。
音の明瞭さ、音量の具合等を決めるリードの選定は演奏者の重要な仕事。
ラテン語でcanna、ギリシア語でkannaと云う葦は、南フランスに広く分布している。
南仏は葦が一面に生い茂る沼地が多く、Cannesと呼ばれる地名がつけられたというのだ。
中世から19世紀頭までは、農業や水産業を中心とする村落であったというCannes(カンヌ)は
現在、「カンヌ国際映画祭」で知られる南仏のリゾート地だ。

鵞毛庵愛用の南仏産の葦(正確にはcanne de Provence 暖竹)のペン
このようなペンは古代ローマやペルシャなどで多く使われていた。
イネ科の草、芦。日本では稲刈りの後に、芦刈(あしかり)が行われ、各地の風物詩だったという。
軽くて丈夫な棒である茎は用途も広い。
夏にお世話になる葦簀(よしず)は 芦の茎で作ったすだれ。
屋根材としても茅葺民家の葺き替えに現在でも使われているという。
日本神話ではヒルコが葦舟で流される。
パリのギメ美術館所蔵に 鈴木春信が描いた鷺と葦があるが、
芦は 河川の下流域や干潟広大な茂み、芦原を作り、多くの水生動、植物のよりどころとなる。
ちなみに 日本の古名は豊葦原瑞穂の国という。
能には 世阿弥の改作とされる《蘆刈》という曲がある。
津の国難波の浦で芦を売る男と、離れ離れになった妻との再会を描く。
漁師達の網を引く様や 乙女達の花笠の舞などを真似て見せたりなど
難波の春の様子と芦売りの風情を添えている能で、この部分を笠の段と云っている。
浄瑠璃や地歌箏曲でも《能 蘆刈》の笠の段の部分をとりあげている。
最後に芦売りは 男舞と称する舞を颯爽と舞い、妻と共に都へ帰って行くという話だ。
今、芦笛も芦売りも、夏の設えとしての葦簀さえも、東京はとんとご縁が遠い。
が、三余堂 昨日の九皐会では《能 蘆刈》の地頭を勤めた。
投稿日 2010年07月12日 0:25:30
最終更新日 2010年07月12日 0:25:30
【修正】
2010年06月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
梅雨入り前の晴れ間に心地よい日陰をつくるのは さくらの青葉。
四月の初め、みごとに花を翳してみせたのは ソメイヨシノで 今は昔、江戸末期に
駒込の染井村で誕生した種である。 植木屋さんの労作であった。
万葉集にも桜の歌はあるが、奈良時代は花といえば梅。
遣唐使の廃止などで唐風文化が廃れ、日本文化の国風化が育つと
平安時代には桜の人気が高まっていった。
その当時の桜は 大雑把に一くくりで言うところの山桜。
山桜は花つき、色の濃淡、樹の形、などが様々である。
開花時期にずれがあるので、同じところで時間をかけてじっくりと花を愛でることが出来た。
一斉に咲き、一斉に散るという桜ではなかった。
故に、大家のお声掛かりで慌てて 番茶や沢庵持参で長屋中が花見に繰り出すこたぁないし
ユックリト、幾度も、何遍も 非毛氈に見立てたむしろで歌を詠むなり、句を捻るなり…
花は白色、淡紅色、先端の色濃いものなどさまざまで
若葉も赤紫やら、褐色やら、黄緑色やら、豊かな緑色を見せる山桜類。
いわゆる 吉野の桜だ。樹齢500年を越えるものもあるという。
花も濃淡で美しいが 若葉青葉と新緑の葉はさらに魅せるものがある。
そんな 花を愛でた歌人として名高い西行法師は、
平安時代末期から鎌倉時代初期という時代の移り替わりに生きた。
元永元年(1118年)〜文治6年(1190年)のことである。
俗名を佐藤義清 さとう のりきよ。北面の武士として仕え、和歌や故実に通じていたという。
『千載集』や『新古今集』、『山家集』に多くの花を詠んでいる。花の歌人だ。
世阿弥が室町期に「西行桜」という能を作った。
花見んと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎にはありける
西行法師の詠んだこの和歌を主題とした「西行桜」は、老桜の精をシテが描きだす。
能 西行桜 La plume d'oie (c) 鵞毛庵 2010
画像をクリックすると拡大します。
武士として鳥羽上皇に仕えていた西行は、京都の天台宗 勝持寺で出家したとの説があり、
鐘楼堂のそばへ一株のしだれ桜を植えたという。
現在はそれを「西行桜」、勝持寺を「花の寺」と呼ぶ。
今頃、その桜は若い緑が豊かに重なり合って 卯の花くたし到来にそなえているだろう。
この20日 能を知る会で三余堂は西行桜を勤める。
能 景清 La plume d'oie (c)鵞毛庵 2010
西行と同じ頃に生きた、藤原景清を五月の月次で取り上げた。
その景清を題材にした能も同日上演され、鵞毛庵の作品が絵葉書として会場で求められる。
四月の初め、みごとに花を翳してみせたのは ソメイヨシノで 今は昔、江戸末期に
駒込の染井村で誕生した種である。 植木屋さんの労作であった。
万葉集にも桜の歌はあるが、奈良時代は花といえば梅。
遣唐使の廃止などで唐風文化が廃れ、日本文化の国風化が育つと
平安時代には桜の人気が高まっていった。
その当時の桜は 大雑把に一くくりで言うところの山桜。
山桜は花つき、色の濃淡、樹の形、などが様々である。
開花時期にずれがあるので、同じところで時間をかけてじっくりと花を愛でることが出来た。
一斉に咲き、一斉に散るという桜ではなかった。
故に、大家のお声掛かりで慌てて 番茶や沢庵持参で長屋中が花見に繰り出すこたぁないし
ユックリト、幾度も、何遍も 非毛氈に見立てたむしろで歌を詠むなり、句を捻るなり…
花は白色、淡紅色、先端の色濃いものなどさまざまで
若葉も赤紫やら、褐色やら、黄緑色やら、豊かな緑色を見せる山桜類。
いわゆる 吉野の桜だ。樹齢500年を越えるものもあるという。
花も濃淡で美しいが 若葉青葉と新緑の葉はさらに魅せるものがある。
そんな 花を愛でた歌人として名高い西行法師は、
平安時代末期から鎌倉時代初期という時代の移り替わりに生きた。
元永元年(1118年)〜文治6年(1190年)のことである。
俗名を佐藤義清 さとう のりきよ。北面の武士として仕え、和歌や故実に通じていたという。
『千載集』や『新古今集』、『山家集』に多くの花を詠んでいる。花の歌人だ。
世阿弥が室町期に「西行桜」という能を作った。
花見んと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎にはありける
西行法師の詠んだこの和歌を主題とした「西行桜」は、老桜の精をシテが描きだす。
能 西行桜 La plume d'oie (c) 鵞毛庵 2010画像をクリックすると拡大します。
武士として鳥羽上皇に仕えていた西行は、京都の天台宗 勝持寺で出家したとの説があり、
鐘楼堂のそばへ一株のしだれ桜を植えたという。
現在はそれを「西行桜」、勝持寺を「花の寺」と呼ぶ。
今頃、その桜は若い緑が豊かに重なり合って 卯の花くたし到来にそなえているだろう。
この20日 能を知る会で三余堂は西行桜を勤める。
能 景清 La plume d'oie (c)鵞毛庵 2010
西行と同じ頃に生きた、藤原景清を五月の月次で取り上げた。
その景清を題材にした能も同日上演され、鵞毛庵の作品が絵葉書として会場で求められる。
投稿日 2010年06月12日 0:05:50
最終更新日 2010年06月12日 0:05:50
【修正】
2010年05月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
日向の国へ 供をつれて相模の国から父を捜しに来た娘がいた。
父の名は悪七兵衛景清。 藤原景清である。
勇猛さを示す「悪」を冠に呼ばれるこの武将は平家の侍大将で、
源義仲との戦い、一ノ谷、屋島、壇ノ浦と転戦。
1195年頃、源頼朝に降伏の後、絶食し果てたといわれるが…
実在したとはいえ生年不詳で、没年も、定かではない。
生涯に謎の多い人物は各所に伝説が残されて、物語りの恰好の主人公なのだ。
何某誰々実ハ景清ということで、浄瑠璃、歌舞伎と景清物の作品も多い。
藤原上総介忠清の七男であるため、通称、上総七郎。
1180年に信濃守、兵衛尉となって悪七兵衛景清と呼ばれた。
平家物語の巻11、「弓流」で源氏方の美尾屋十郎の錣を 素手で引きちぎったという
「錣引き(しころひき)」、の話が特に有名だったようで、能の景清では盲目となった悪七兵衛景清が
錣引きを語り聞かせている。
壇ノ浦の後に匿ってくれた叔父の禅宗僧侶、大日房能忍を疑心暗鬼にかられて殺害した
という話もあるが、これも真偽のほどは判らない。
遷都1300年で話題の奈良の大仏様にも景清は関わる。
大仏様の東大寺は治承4年(1180)に平重衝が率いた軍勢に攻められて、伽藍の大半を焼失。
その後 東大寺再建の寄付を集める勧進が行われていた。
安宅の関で 武蔵坊弁慶が読み上げたのは そのための勧進帳。
勿論、真っ赤な白紙の偽物。 これも、能は安宅、歌舞伎ならば勧進帳で馴染のご仁も多かろう。
義経一行は 安宅の関を逃れていき、東大寺は再建なって、大仏の再建供養がおこなわれる。
建久6年(1195)、将軍の源頼朝が妻、北条政子を伴い参列。
そこに悪七兵衛景清、母への別れを終えて、宮人に変装。
頼朝命を狙って斬り込んだっ! お命頂戴!!
が、見やぶられ、若武者一人を切り伏せ、姿を消した… というのが 能 大仏供養。
とにもかくにも 悪七兵衛景清は話の種として人気があった。
あれも、これも 定かでないことが定かのようである。
千葉の木更津に景清陣屋なるものや、景清寺、景清社、景清道と新潟、愛知、広島等々に伝わる
ところがあり、山口の秋吉台には潜んでいたと伝えられる洞窟、景清洞もある。
能の景清は盲目となって日向の国に流され、乞食同然の身となっていたところへ
鎌倉から娘が父を探しにやってきた。
父と娘の情愛、合戦の武勇談、生きながら地獄の苦しみを送る有様を劇的に作っている。
着流し姿で座して、零落した景清を鬚のない面を使ってしっとりと見せる舞台や
過去の威風を 鬚のある面、武将の袴で床几に掛ける様で表した演出と、景清の見せ方も
いろいろある。 六月の能を知る会では 勇壮無骨な景清に出会えそうだ。
日向の国は今、口蹄疫問題で大変な宮崎のことである。
父の名は悪七兵衛景清。 藤原景清である。
勇猛さを示す「悪」を冠に呼ばれるこの武将は平家の侍大将で、
源義仲との戦い、一ノ谷、屋島、壇ノ浦と転戦。
1195年頃、源頼朝に降伏の後、絶食し果てたといわれるが…
実在したとはいえ生年不詳で、没年も、定かではない。
生涯に謎の多い人物は各所に伝説が残されて、物語りの恰好の主人公なのだ。
何某誰々実ハ景清ということで、浄瑠璃、歌舞伎と景清物の作品も多い。
藤原上総介忠清の七男であるため、通称、上総七郎。
1180年に信濃守、兵衛尉となって悪七兵衛景清と呼ばれた。
平家物語の巻11、「弓流」で源氏方の美尾屋十郎の錣を 素手で引きちぎったという
「錣引き(しころひき)」、の話が特に有名だったようで、能の景清では盲目となった悪七兵衛景清が
錣引きを語り聞かせている。
壇ノ浦の後に匿ってくれた叔父の禅宗僧侶、大日房能忍を疑心暗鬼にかられて殺害した
という話もあるが、これも真偽のほどは判らない。
遷都1300年で話題の奈良の大仏様にも景清は関わる。
大仏様の東大寺は治承4年(1180)に平重衝が率いた軍勢に攻められて、伽藍の大半を焼失。
その後 東大寺再建の寄付を集める勧進が行われていた。
安宅の関で 武蔵坊弁慶が読み上げたのは そのための勧進帳。
勿論、真っ赤な白紙の偽物。 これも、能は安宅、歌舞伎ならば勧進帳で馴染のご仁も多かろう。
義経一行は 安宅の関を逃れていき、東大寺は再建なって、大仏の再建供養がおこなわれる。
建久6年(1195)、将軍の源頼朝が妻、北条政子を伴い参列。
そこに悪七兵衛景清、母への別れを終えて、宮人に変装。
頼朝命を狙って斬り込んだっ! お命頂戴!!
が、見やぶられ、若武者一人を切り伏せ、姿を消した… というのが 能 大仏供養。
とにもかくにも 悪七兵衛景清は話の種として人気があった。
あれも、これも 定かでないことが定かのようである。
千葉の木更津に景清陣屋なるものや、景清寺、景清社、景清道と新潟、愛知、広島等々に伝わる
ところがあり、山口の秋吉台には潜んでいたと伝えられる洞窟、景清洞もある。
能の景清は盲目となって日向の国に流され、乞食同然の身となっていたところへ
鎌倉から娘が父を探しにやってきた。
父と娘の情愛、合戦の武勇談、生きながら地獄の苦しみを送る有様を劇的に作っている。
着流し姿で座して、零落した景清を鬚のない面を使ってしっとりと見せる舞台や
過去の威風を 鬚のある面、武将の袴で床几に掛ける様で表した演出と、景清の見せ方も
いろいろある。 六月の能を知る会では 勇壮無骨な景清に出会えそうだ。
日向の国は今、口蹄疫問題で大変な宮崎のことである。
投稿日 2010年05月12日 0:40:22
最終更新日 2010年05月12日 0:40:22
【修正】
2010年04月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
落語の落ちに地口落ちというのがある。
「三方一両損」という大岡政談の話で 「多かあ(大岡)食わねえ、たったいちぜん(越前)」 と…
ことわざや俗語などをもじって作った語呂合わせの文句を地口(じぐち)という。
舌切雀が着たきり雀、と云うような言葉遊びの洒落のことだ。
江戸の享保年間にえらく流行ったそうで、行灯に地口の文句と戯画を描きご祭礼のときに
軒先や参道にかけ並べたというから たいしたものである。
「恐れ入谷の鬼子母神」「びっくり下谷の広徳寺」「なんだ神田の大明神」「情け有馬の水天宮」と
耳慣れて、口からも飛び出すこの言葉がいわゆる 地口という代物である。
「恐れ入谷の鬼子母神」は下谷の真源寺で、鬼子母神を祀っていることで、入谷鬼子母神。
朝顔市が開かれることでも有名だ。
「びっくり下谷の広徳寺」は今の台東区役所近くにあった寺が 関東大震災で転出。
「なんだ神田の大明神」は銭形平次の神田明神、
「情けありまの… 」は日本橋蛎殻町の水天宮。
この 水天宮さんが日本橋蛎殻町に来たのは明治になってからで、
江戸時代は芝赤羽橋の久留米藩、有馬家上屋敷の敷地内にあったという。
この有馬藩上屋敷内の水天宮は、文政の年(1818年)、九代目藩主がお国許の総本山水天宮
から分祀したというのだ。
本来は有馬家の屋敷神で町民はお参りできない。
が、たいそうな御利益と江戸中に評判になり、塀の外からお賽銭が投げ込まれるほどの人気。
有馬家では毎月5の日のお縁日に一般参詣を許すことにしたそうである。
その日はお参りの人と縁日の露店とで、赤羽根橋周辺はごったがえしたという。
町人がお参りできないところを温情をもってお許し下された、というので、情け有馬の…となる。
ここは、天地創発の時にあらわれた天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、
平家滅亡の折、神爾と宝剣を身につけた祖母二位尼に抱かれて 壇ノ浦に入水した安徳天皇と、
その母になる、清盛の娘の建礼門院、そして二位の尼を祀る。
水と子供の守護で知られる水天宮は、神仏習合時代に
「天之水分神・国之水分神」(あめのみくまりのかみ・くにのみくまりのかみ)と習合していたという。
「水」の字つながりで、水にゆかりの深い神様は水難よけの神社として信仰されていた。 また、
水分神のみくまりのかみの発音が、《みこもり、御子守り》に通じるとして、子の守り神として信仰。
犬のお産が軽いことにちなんで、戌の日は安産祈願の人で賑わう。
子授かりの願掛け、お礼参りなどと人並みが途絶えることがないのは 江戸も今も同じである。
桜に埋もれた都会の神社
参詣のカップル
その有馬家の屋敷内にあった水天宮は、明治4年(1871年)に有馬家の移転にともない
赤坂へ移り、翌年、現在地へ又、移転。今に至る。
東京都中央区、水天宮通りと新大橋通りの交点。
満開の桜の向こうに朱塗りの社殿は遠くからでも 情けありまの水天宮 とわかる。
情けありまの水天宮 提灯に灯が入る
「三方一両損」という大岡政談の話で 「多かあ(大岡)食わねえ、たったいちぜん(越前)」 と…
ことわざや俗語などをもじって作った語呂合わせの文句を地口(じぐち)という。
舌切雀が着たきり雀、と云うような言葉遊びの洒落のことだ。
江戸の享保年間にえらく流行ったそうで、行灯に地口の文句と戯画を描きご祭礼のときに
軒先や参道にかけ並べたというから たいしたものである。
「恐れ入谷の鬼子母神」「びっくり下谷の広徳寺」「なんだ神田の大明神」「情け有馬の水天宮」と
耳慣れて、口からも飛び出すこの言葉がいわゆる 地口という代物である。
「恐れ入谷の鬼子母神」は下谷の真源寺で、鬼子母神を祀っていることで、入谷鬼子母神。
朝顔市が開かれることでも有名だ。
「びっくり下谷の広徳寺」は今の台東区役所近くにあった寺が 関東大震災で転出。
「なんだ神田の大明神」は銭形平次の神田明神、
「情けありまの… 」は日本橋蛎殻町の水天宮。
この 水天宮さんが日本橋蛎殻町に来たのは明治になってからで、
江戸時代は芝赤羽橋の久留米藩、有馬家上屋敷の敷地内にあったという。
この有馬藩上屋敷内の水天宮は、文政の年(1818年)、九代目藩主がお国許の総本山水天宮
から分祀したというのだ。
本来は有馬家の屋敷神で町民はお参りできない。
が、たいそうな御利益と江戸中に評判になり、塀の外からお賽銭が投げ込まれるほどの人気。
有馬家では毎月5の日のお縁日に一般参詣を許すことにしたそうである。
その日はお参りの人と縁日の露店とで、赤羽根橋周辺はごったがえしたという。
町人がお参りできないところを温情をもってお許し下された、というので、情け有馬の…となる。
ここは、天地創発の時にあらわれた天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、
平家滅亡の折、神爾と宝剣を身につけた祖母二位尼に抱かれて 壇ノ浦に入水した安徳天皇と、
その母になる、清盛の娘の建礼門院、そして二位の尼を祀る。
水と子供の守護で知られる水天宮は、神仏習合時代に
「天之水分神・国之水分神」(あめのみくまりのかみ・くにのみくまりのかみ)と習合していたという。
「水」の字つながりで、水にゆかりの深い神様は水難よけの神社として信仰されていた。 また、
水分神のみくまりのかみの発音が、《みこもり、御子守り》に通じるとして、子の守り神として信仰。
犬のお産が軽いことにちなんで、戌の日は安産祈願の人で賑わう。
子授かりの願掛け、お礼参りなどと人並みが途絶えることがないのは 江戸も今も同じである。
桜に埋もれた都会の神社
参詣のカップルその有馬家の屋敷内にあった水天宮は、明治4年(1871年)に有馬家の移転にともない
赤坂へ移り、翌年、現在地へ又、移転。今に至る。
東京都中央区、水天宮通りと新大橋通りの交点。
満開の桜の向こうに朱塗りの社殿は遠くからでも 情けありまの水天宮 とわかる。
情けありまの水天宮 提灯に灯が入る

投稿日 2010年04月12日 0:33:28
最終更新日 2010年04月12日 0:33:28
【修正】
2010年03月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
明治期に歌舞伎を近代社会にふさわしい内容のものに改めようという 演劇改良運動
なるものがあった。
その熱心な唱導者福地源一郎等によって 日本一の大劇場を目指して歌舞伎座は造られた。
明治22年11月の開場という。
洋風の外観で、内部は日本風の3階建て檜造り、客席定員1800人あまり。
明治44年には老朽化と帝国劇場の出現で純日本式の建物に大改築される。
その後 大正10年10月、漏電により焼失。
大正2年に松竹創業者の大谷竹次郎が、当時の歌舞伎座の経営に携わるようになっており、
ただちに再建が始まったものの 関東大震災で工事は中断。
大正13年の12月に完成となった。
鉄筋コンクリートを使用した耐震耐火の日本式大建築ということである。
歌舞伎座の100年史をみると これが現在の建物の原型で、外郭を残して昭和20年5月、
空襲で焼失した。
昭和24年11月歌舞伎座再建のため株式会社歌舞伎座が設立され、戦禍を受けた建物の
基礎や側壁の一部を利用して、昭和25年12月に現在の歌舞伎座が竣工した。
吉田五十八の設計である。
客席数約2000席、直径約18mの廻り舞台、大小合わせて4ヵ所のセリを備えた劇場は
平成14年2月14日「登録有形文化財」に登録されたそうだ。
現在の建物はとっくの昔から 設備の老朽化などが問題になっていた。
浮かんでは消え、消えては浮かぶ立替えの話がやっと本格化して、
昨年から劇場前には立替までのカウントダウン電光板が設置されている。
銀座から、晴海通りを築地へ向かう。
やがて 昭和通りとの大きな交差点を渡ると、左手に大屋根の歌舞伎座が姿を見せる。
地下鉄日比谷線の東銀座駅の真上という表現が ぴったりの場所に劇場正面玄関がある。
中央区銀座四丁目という地番で、現在歌舞伎座は銀座だということであるが、
そもそも、東京都京橋区木挽町三丁目に創建されたものだ。
木挽町というのは名の通り、江戸城造営関係の鋸匠を住まわせた処というわけである。
あそこは 木挽町で 銀座じゃぁない、と宣う御仁も多い。
だよなぁ 歌舞伎座なんぞよりずっーと前からの江戸のご住人にすれば なぁ…
その歌舞伎座前は常に内外の観光客が カメラや携帯を向けているし、
舞台のない時には 雑誌のグラビア撮影で、そそとした女優がポーズを取っていたりする。
ぐるりと裏へ廻る。
と、舞台を支えていた飲食店も移転を始めて 歯抜けのような更地が出来た。
解体工事や建築計画の告知看板も掛けられている。
薄暮の中、汚れた白壁面一杯に室外機が何代も何代張り付いていた。
圧倒するほど大きな壁。
劇場2階3階廊下の赤い提灯に火が灯って 夜の部の上演がはじまった。

歌舞伎座東側には興行成功安全祈願のために 初日と千穐楽に 関係者一同
御祓いをするというお稲荷さんが勧請されている。
そして また、建築の告知。
そこに あと幾日もない劇場の姿を垣間見た。
なるものがあった。
その熱心な唱導者福地源一郎等によって 日本一の大劇場を目指して歌舞伎座は造られた。
明治22年11月の開場という。
洋風の外観で、内部は日本風の3階建て檜造り、客席定員1800人あまり。
明治44年には老朽化と帝国劇場の出現で純日本式の建物に大改築される。
その後 大正10年10月、漏電により焼失。
大正2年に松竹創業者の大谷竹次郎が、当時の歌舞伎座の経営に携わるようになっており、
ただちに再建が始まったものの 関東大震災で工事は中断。
大正13年の12月に完成となった。
鉄筋コンクリートを使用した耐震耐火の日本式大建築ということである。
歌舞伎座の100年史をみると これが現在の建物の原型で、外郭を残して昭和20年5月、
空襲で焼失した。
昭和24年11月歌舞伎座再建のため株式会社歌舞伎座が設立され、戦禍を受けた建物の
基礎や側壁の一部を利用して、昭和25年12月に現在の歌舞伎座が竣工した。
吉田五十八の設計である。
客席数約2000席、直径約18mの廻り舞台、大小合わせて4ヵ所のセリを備えた劇場は
平成14年2月14日「登録有形文化財」に登録されたそうだ。
現在の建物はとっくの昔から 設備の老朽化などが問題になっていた。
浮かんでは消え、消えては浮かぶ立替えの話がやっと本格化して、
昨年から劇場前には立替までのカウントダウン電光板が設置されている。
銀座から、晴海通りを築地へ向かう。
やがて 昭和通りとの大きな交差点を渡ると、左手に大屋根の歌舞伎座が姿を見せる。
地下鉄日比谷線の東銀座駅の真上という表現が ぴったりの場所に劇場正面玄関がある。
中央区銀座四丁目という地番で、現在歌舞伎座は銀座だということであるが、
そもそも、東京都京橋区木挽町三丁目に創建されたものだ。
木挽町というのは名の通り、江戸城造営関係の鋸匠を住まわせた処というわけである。
あそこは 木挽町で 銀座じゃぁない、と宣う御仁も多い。
だよなぁ 歌舞伎座なんぞよりずっーと前からの江戸のご住人にすれば なぁ…
その歌舞伎座前は常に内外の観光客が カメラや携帯を向けているし、
舞台のない時には 雑誌のグラビア撮影で、そそとした女優がポーズを取っていたりする。
ぐるりと裏へ廻る。
と、舞台を支えていた飲食店も移転を始めて 歯抜けのような更地が出来た。
解体工事や建築計画の告知看板も掛けられている。
薄暮の中、汚れた白壁面一杯に室外機が何代も何代張り付いていた。
圧倒するほど大きな壁。
劇場2階3階廊下の赤い提灯に火が灯って 夜の部の上演がはじまった。

歌舞伎座東側には興行成功安全祈願のために 初日と千穐楽に 関係者一同
御祓いをするというお稲荷さんが勧請されている。
そして また、建築の告知。
そこに あと幾日もない劇場の姿を垣間見た。
投稿日 2010年03月12日 0:07:32
最終更新日 2010年03月12日 0:07:32
【修正】
2010年02月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
なにげなく 能楽さんぽを遡ってみた。
2008年2月の案内望遠鏡、三余堂月次は続けて足袋の話をしている。
装束を付ける時、初めに着け、最後に脱ぐのが足袋である。
舞台で使用する足袋は 神田駿河台の店で誂る。足にしっくりと沿った足袋の提供あってこその舞台。
どちらも違わず高齢化が物作りに押し寄せて 老舗の足袋店も呑込もうとしている。
と、記した足袋屋は 一年後の2009年3月に店を閉じた。
そして、また一年。 2010年2月。
多くの玄人は 手持ちの物を大事に使い廻し、取って代わる店を探し回りと、情報交換をしながら
長い先々に対応しようと奮戦している。
閉めた店は 狂言方の使用する狂言足袋を一手引き受けで調達していたので
玄人はもとより、同好の士にとっても苦労の種となった。
今後足に沿い、舞台を支える足袋を提供する気に入った店が出てくるだろうか。
三余堂の葛籠(2006/12 三余堂月次)は 子供のころから使い慣れた
伊勢屋足袋店の足袋のアーカイブズでもある。
今、足袋屋のおばさんの笑顔も 新品の足袋と共に仕舞われている。
アーカイブズとは、公記録保管所。
三余堂月次も遡ると結構記録の保管所になってきた。
2008年2月の案内望遠鏡、三余堂月次は続けて足袋の話をしている。
装束を付ける時、初めに着け、最後に脱ぐのが足袋である。
舞台で使用する足袋は 神田駿河台の店で誂る。足にしっくりと沿った足袋の提供あってこその舞台。
どちらも違わず高齢化が物作りに押し寄せて 老舗の足袋店も呑込もうとしている。
と、記した足袋屋は 一年後の2009年3月に店を閉じた。
そして、また一年。 2010年2月。
多くの玄人は 手持ちの物を大事に使い廻し、取って代わる店を探し回りと、情報交換をしながら
長い先々に対応しようと奮戦している。
閉めた店は 狂言方の使用する狂言足袋を一手引き受けで調達していたので
玄人はもとより、同好の士にとっても苦労の種となった。
今後足に沿い、舞台を支える足袋を提供する気に入った店が出てくるだろうか。
三余堂の葛籠(2006/12 三余堂月次)は 子供のころから使い慣れた
伊勢屋足袋店の足袋のアーカイブズでもある。
今、足袋屋のおばさんの笑顔も 新品の足袋と共に仕舞われている。
アーカイブズとは、公記録保管所。
三余堂月次も遡ると結構記録の保管所になってきた。
投稿日 2010年02月12日 0:36:01
最終更新日 2010年02月12日 0:36:15
【修正】
2010年01月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
昨年の10月案内望遠鏡で触れた世阿弥の能楽論集は、発見から100年!という内容であった。
年明けの読売新聞紙上に 『世阿弥の能楽論 写本一部を発見』 と記事。
「却来華 (きゃくらいか)」 の写本の一部が 観世流宗家の倉庫にて発見されたという。
一部ではあるが 現存の唯一の写本ということだ。
完全な写本は関東大震災で焼失した、と既述の案内望遠鏡 《時雨月の御案内を》で書いた。
世阿弥の著作は洒落た標題で、風姿花伝、花鏡、拾玉得花、夢跡一紙、等々。
「却来華」 は世阿弥晩年の著作であるが、これもしかり。
能 歌占(うたうら)に 「また蘇命路に却来して」とある。
蘇命路は、甦る命の路だと主役であるシテの渡会の某が ツレの里人に説明するが、
梵語でいう須弥山(しゅみせん)の蘇迷盧(そめいろ) と掛けている。
却来とは或る境地に達した後に又、元の境地に立ち返ることをいう。
却来の華と表された能楽論の写本は 1509年から1583年に生きた観世宗節が作った書類集の
中に見つかった。 世阿息男元雅云々〜と書かれているのが読み取れる。
2010.01.05. 読売新聞夕刊
世阿弥は子の元雅を若くして亡くしたことが著述の動機と記している。
「観世宗節は戦国時代の不安定な状況下で、自らの道しるべとして世阿弥の写本を
自筆で残したのだろう」と、発見者の松岡心平東大教授は話しているという。
観世宗家は伝わる文書、資料などをデジタル画像化してインターネット上に公開すべく作業を
している。昨秋、東大教養学部60周年記念 −観世家のアーカイブ展−として
世阿弥の直筆本なども公開した。
却来華の記事が出た週末に 一遍上人の作ったとされる「踊念仏和讃」が記された写本が
見つかったと やはり読売新聞に出た。
観世宗節の写本と同じ時代の写本になろう。
やはり、大阪の真言宗御室派大本山金剛寺の総合調査で発見されたらしい。
踊念仏は江戸初期に、出雲の阿国が京へ出て大いに流行らせた。阿国歌舞伎である。
2010.01.09. 読売新聞夕刊
それぞれの 一連の研究作業はまだまだ数百年の時を解明し続けていく。
年明けの読売新聞紙上に 『世阿弥の能楽論 写本一部を発見』 と記事。
「却来華 (きゃくらいか)」 の写本の一部が 観世流宗家の倉庫にて発見されたという。
一部ではあるが 現存の唯一の写本ということだ。
完全な写本は関東大震災で焼失した、と既述の案内望遠鏡 《時雨月の御案内を》で書いた。
世阿弥の著作は洒落た標題で、風姿花伝、花鏡、拾玉得花、夢跡一紙、等々。
「却来華」 は世阿弥晩年の著作であるが、これもしかり。
能 歌占(うたうら)に 「また蘇命路に却来して」とある。
蘇命路は、甦る命の路だと主役であるシテの渡会の某が ツレの里人に説明するが、
梵語でいう須弥山(しゅみせん)の蘇迷盧(そめいろ) と掛けている。
却来とは或る境地に達した後に又、元の境地に立ち返ることをいう。
却来の華と表された能楽論の写本は 1509年から1583年に生きた観世宗節が作った書類集の
中に見つかった。 世阿息男元雅云々〜と書かれているのが読み取れる。
2010.01.05. 読売新聞夕刊世阿弥は子の元雅を若くして亡くしたことが著述の動機と記している。
「観世宗節は戦国時代の不安定な状況下で、自らの道しるべとして世阿弥の写本を
自筆で残したのだろう」と、発見者の松岡心平東大教授は話しているという。
観世宗家は伝わる文書、資料などをデジタル画像化してインターネット上に公開すべく作業を
している。昨秋、東大教養学部60周年記念 −観世家のアーカイブ展−として
世阿弥の直筆本なども公開した。
却来華の記事が出た週末に 一遍上人の作ったとされる「踊念仏和讃」が記された写本が
見つかったと やはり読売新聞に出た。
観世宗節の写本と同じ時代の写本になろう。
やはり、大阪の真言宗御室派大本山金剛寺の総合調査で発見されたらしい。
踊念仏は江戸初期に、出雲の阿国が京へ出て大いに流行らせた。阿国歌舞伎である。
2010.01.09. 読売新聞夕刊

それぞれの 一連の研究作業はまだまだ数百年の時を解明し続けていく。
投稿日 2010年01月12日 1:29:59
最終更新日 2010年01月12日 9:34:04
【修正】
2009年12月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
金木犀の香りが、あたりに充ち溢れていた十月の初め。
香りの主は何処かと 上方に目をやる。
あちらにも、こちらにも、金木犀の枝を縫って立派な巣が掛かっていた。巨大な蜘蛛の巣。
三余堂の庭木も見上げると あった、あった。
今年の十月は 結構激しい天候で、風が強く吹き、暴風雨のような日もあった。
にもかかわらず 立派な網を張ったのは女郎蜘蛛。
クモ綱クモ目アシナガグモ科に属するクモだという。
4、5センチもあるだろうか、美しい網の中央に手足の長い主はじっぃとしていた。
こちらも 時に任せてじぃっと見る。
天空に手足をいっぱいに広げる まだむじょろう

このメスに福岡伸一著(光文社新書) 「できそこないの男たち」でのアリマキを思う。 御一読!
主は派手な黄色と緑青色の横しま模様の大きなメス。
網を張り始めて十日も経った頃、2センチ程だろうか、色も褐色がかった黄色のオスがやってきた。
命を繋ぐ使命を全うする
餌食となった虫を挟んで 左が雄、右が雌の女郎蜘蛛 只今お食事中
この時期は、交尾が行われる成熟期ということで、ことさら大きな巣が目に付いたのだろう。
晴天、雨風の日をかいくぐりながら 建築、改築、増築と繰り返し
枝と枝の少しづつ安定のいい場所へ移動して網を張る。
直径1m近くもの網は日の光に金色に輝いて見えた。
その網は、縦糸が外に行くにつれて二又に枝分かれするように張られ、
横糸の長さが中心近くでも、外側でも、それほど変わらない。
どうも、横糸を張るときにぐるぐる回らず、往復運動で糸を張っているらしい。
円形に近く作られた網の前後には、立体的な補助の網もつくられ、
この半月の厳しい天候から館を支えていた。
雨風の翌日 倒壊の危機かと覗くが、びくともしていない。
立体的に増改築された女郎蜘蛛の館
金木犀の香りも、絨毯のように敷き詰められた花殻もすっかり遠のき、
街路樹の銀杏の金色に目が奪われるようになった頃、 あの巣は如何に。
今年も極月になった。
寒暖の変化が激しかった霜月からの日々、雄蜘蛛はもちろん、雌の女郎蜘蛛もいなくなっていた。
あの頑強につくられた館もない。
ただ 一筋の糸が山茶花の枝先から、向かいの軒先へ光っているだけである。
香りの主は何処かと 上方に目をやる。
あちらにも、こちらにも、金木犀の枝を縫って立派な巣が掛かっていた。巨大な蜘蛛の巣。
三余堂の庭木も見上げると あった、あった。
今年の十月は 結構激しい天候で、風が強く吹き、暴風雨のような日もあった。
にもかかわらず 立派な網を張ったのは女郎蜘蛛。
クモ綱クモ目アシナガグモ科に属するクモだという。
4、5センチもあるだろうか、美しい網の中央に手足の長い主はじっぃとしていた。
こちらも 時に任せてじぃっと見る。
天空に手足をいっぱいに広げる まだむじょろう

このメスに福岡伸一著(光文社新書) 「できそこないの男たち」でのアリマキを思う。 御一読!
主は派手な黄色と緑青色の横しま模様の大きなメス。
網を張り始めて十日も経った頃、2センチ程だろうか、色も褐色がかった黄色のオスがやってきた。
命を繋ぐ使命を全うする

餌食となった虫を挟んで 左が雄、右が雌の女郎蜘蛛 只今お食事中
この時期は、交尾が行われる成熟期ということで、ことさら大きな巣が目に付いたのだろう。
晴天、雨風の日をかいくぐりながら 建築、改築、増築と繰り返し
枝と枝の少しづつ安定のいい場所へ移動して網を張る。
直径1m近くもの網は日の光に金色に輝いて見えた。
その網は、縦糸が外に行くにつれて二又に枝分かれするように張られ、
横糸の長さが中心近くでも、外側でも、それほど変わらない。
どうも、横糸を張るときにぐるぐる回らず、往復運動で糸を張っているらしい。
円形に近く作られた網の前後には、立体的な補助の網もつくられ、
この半月の厳しい天候から館を支えていた。
雨風の翌日 倒壊の危機かと覗くが、びくともしていない。
立体的に増改築された女郎蜘蛛の館金木犀の香りも、絨毯のように敷き詰められた花殻もすっかり遠のき、
街路樹の銀杏の金色に目が奪われるようになった頃、 あの巣は如何に。
今年も極月になった。
寒暖の変化が激しかった霜月からの日々、雄蜘蛛はもちろん、雌の女郎蜘蛛もいなくなっていた。
あの頑強につくられた館もない。
ただ 一筋の糸が山茶花の枝先から、向かいの軒先へ光っているだけである。
投稿日 2009年12月12日 0:08:10
最終更新日 2009年12月12日 0:08:10
【修正】
2009年11月12日
カテゴリ : [三余堂月次]

11月になると七五三祈願を受け付ける神社。
近年は11月15日が七五三の日ではなく、11月が七五三の月なのだ。
参道を散歩する保育園児は元気に落葉を拾っている。
この中にも 七五三を祝う子供がいる。
平安時代中期公家の間で子供の成長を祝う儀式が行われていた。
髪置(かみおき)。短くしていた髪を、男女三歳にして伸ばしはじめる儀式が行われた。
その他にも 帯解(おびとき)、髪立(かみたて)、紐落(ひもおとし)などの行事もあったという。
時代が下るとこれらの儀式は武家社会でも行われる。
江戸時代。江戸を中心にした関東地方で今日のような七五三詣がはじまった。
関西ではあまり行われていなかったようだ。
六代将軍徳川綱吉の子徳松がお祝いをしたことから、それにあやかって
一般庶民に広まったという。
呉服問屋でも七五三詣用の売り出しが盛んに行われるようになったそうだ。
いつの世も同じである。 もっとも、「七五三」とは呼んでいない。
「七五三」の語が使われたのは明治時代から。
大正期からが、今のような七歳、五歳、三歳でお宮参りの形になっていったという。
陰暦の11月15日は十五夜にあたり、霜月の祭の日だった。
これは現在、11月23日に宮中、神社で行われる収穫に感謝する祭祀、新嘗祭にあたる。
前記の徳松の祝儀が天和元年(1681)11月15日であったことが、起源らしく、
この日の七五三参りが絶対ではないらしい。
幼児から児童になることを祝う行事の七五三。まぁ、人生の通過儀礼の一つということだ。
七つ前は神のうち、と、七才までの子供は、この世に命が定着していない状態と考えていた。
七歳未満は人別帳に載せなかったという。七歳でようやく人間の仲間入り。
氏神さまへのお参りで、氏子となり、すこやかな成長を祈願したという訳である。
いかに、貴賎男女ともそこまで生きることが難しかったか。
神武天皇の御代に「たがね」と呼ばれる飴があったそうだ。
平安時代には京都では売られていたようで、江戸元禄期頃に浅草で七兵衛という飴売りが、
長袋にいれて「千歳飴」または「寿命飴」として売り歩いていたという。
七五三の千歳飴は千歳という名前が入った飴に
よく育ってくれた、これからも長生きしてほしいと託したものなのである。
美味いか、美味くないかはお好みだ。
ペコちゃんのミルキー千歳飴も 千歳飴にはかわりない…
投稿日 2009年11月13日 12:33:32
最終更新日 2009年12月10日 20:51:57
【修正】
2009年10月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
現在の隅田川は、東京都北区の 新荒川大橋のすぐ下流にある「岩淵水門」で荒川から分岐。
石神井川だの、神田川だのと支流河川を合わせ、東京湾に注ぐ全長23ほどの一級河川である。
足立区・荒川区・台東区・墨田区・江東区・中央区と 7つの区を通って東京湾に注いでいる。
両側はコンクリートで固められ、河原 という語感と無縁な都市の川だ。
隅田川は 住田河として835年の文献に出てくるという。
江戸時代以前は、利根川の下流の名前だった。
利根川は現在、関東平野を西から東に流れて、 銚子で直接太平洋に流れ出ている。
徳川家康の頃の利根川は途中から南に流れ、今の隅田川を通り 東京湾に注いでいたそうだ。
家康江戸入府より、利根川東遷の大工事を行ったという。
四代将軍家綱の時代に現在のような利根川、荒川、隅田川の形が完成。
大規模な河川工事は、水害対策、関東南部の新田開発、交通、輸送体系の整備であった。
古隅田川(ふるすみだがわ) と呼ばれている埼玉県さいたま市岩槻区からの川も併せると、
「隅田川」とは、現在よりも長い区間の荒川を合わせた後の利根川や、その分流を
総称していたらしい。
明治末期から昭和初期にかけて、洪水を防ぐ為に岩淵水門から河口まで
荒川放水路が建設された。これが現在 荒川 とよばれている。
1965年に荒川放水路が荒川の本流、分岐点である岩淵水門より下流は
俗称であった 隅田川 に改称された。
ややこしい!要は 時代と共に 隅田川には変遷があった。
江戸時代には、吾妻橋周辺より下流は大川(おおかわ)と呼んだ。
新大橋周辺までが、あの、ちょっと小粋な響きをもつ大川端(おおかわばた)である。
また、宮戸川ともよばれていた。 そうだ、落語の宮戸川は隅田川!
ということは 在原業平が、
名にしおわば いざこととはむ 都鳥 わがおもう人は ありやなしやと
と詠んだ隅田川は、利根川の下流になる。
そんな 隅田川、江戸時代には二十ヶ所近く渡し舟の渡場があったという。
最後の渡し船は佃の渡しで、昭和39年に廃止。
勝鬨橋のたもとに 勝鬨の渡しという石碑を見たことがある。
隅田川沿いに散歩をすると、渡し跡の石碑を他所にも見つけられるという。
この渡しのうちに、橋場の渡しというのがある。 能 「隅田川」の舞台。
橋場の渡しは、石浜の渡し、須田の渡し、梅若の渡し、真崎の渡し、と別名を持つ。
その昔、源頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房の国に逃れ、下総を経て、鎌倉へ向かう時、
隅田川に浮橋を架けて渡った所とも言われる。
もっとも 渡しの位置は時代により多少移動しているようだが、
現在の白鬚橋の南側にあたるらしい。
それも 大正初年に地元の人が木橋を架け、橋場の渡しは消滅した。
やや北に離れたところに 梅若丸の塚がある、墨田区堤通の木母寺(もくぼじ)だ。
我子を人買いにさらわれ 都北白河から武蔵の国隅田川のほとりまで尋ね歩く女。
業平の 名にし負わば〜 の古歌と我が子を尋ねる我身を重ねて嘆き悲しむ様子に
渡しの船頭が、川向うでの大念仏は、子供が死んだのを人々が回向しているのだと語る。
それが尋ねる我が子の梅若丸と判り、女も念仏を唱える。 と、 南無阿弥陀仏と 子供の声が聞こえる。
あっ! あたしの梅若丸だわ〜。可愛いあたしのぼうやだわっ。
おかあちゃまぁ! おかぁちゃまですよねっ!!
その姿が幻のように現れ、夜明けと共に消え失せ、あとには草の生い茂った塚があるのみだった。
世阿弥の子、十郎元雅の作品。
世阿弥と元雅の間で この梅若丸を舞台上に登場させるか否かのやりとりがあった。
子方として子の幻を舞台に出すか、子方を出さずに幻を見る気持を強く意識させるかと。
元雅は我子を亡くしていたという説もある。世阿弥も後年元雅を亡くし、逆縁となった。
隅田川と言うと
銀杏がえしに 黒繻子かけて 泣いて別れた すみだ川 … を思う御仁もあろう。
永井荷風の小説「すみだ川」に題材を採った 御存知 東海林太郎のすみだ川。
あぁ そうだったわねぇ あなたが二十歳、わたしが十七の時よ。
いつも清元のお稽古から帰って来ると、 あなたは竹谷の渡し場で … と田中絹代が台詞を言う。
あまりピンとこないなら 島倉千代子の芸者姿のすみだ川もある。
文庫本70頁程の作品、「すみだ川」は明治35、6年の光景で、荷風の香りをたっぷり。
世阿弥父子の頃の隅田川の香りは、今月26日鎌倉能舞台で。 三余堂が子を思う狂女となる。
石神井川だの、神田川だのと支流河川を合わせ、東京湾に注ぐ全長23ほどの一級河川である。
足立区・荒川区・台東区・墨田区・江東区・中央区と 7つの区を通って東京湾に注いでいる。
両側はコンクリートで固められ、河原 という語感と無縁な都市の川だ。
隅田川は 住田河として835年の文献に出てくるという。
江戸時代以前は、利根川の下流の名前だった。
利根川は現在、関東平野を西から東に流れて、 銚子で直接太平洋に流れ出ている。
徳川家康の頃の利根川は途中から南に流れ、今の隅田川を通り 東京湾に注いでいたそうだ。
家康江戸入府より、利根川東遷の大工事を行ったという。
四代将軍家綱の時代に現在のような利根川、荒川、隅田川の形が完成。
大規模な河川工事は、水害対策、関東南部の新田開発、交通、輸送体系の整備であった。
古隅田川(ふるすみだがわ) と呼ばれている埼玉県さいたま市岩槻区からの川も併せると、
「隅田川」とは、現在よりも長い区間の荒川を合わせた後の利根川や、その分流を
総称していたらしい。
明治末期から昭和初期にかけて、洪水を防ぐ為に岩淵水門から河口まで
荒川放水路が建設された。これが現在 荒川 とよばれている。
1965年に荒川放水路が荒川の本流、分岐点である岩淵水門より下流は
俗称であった 隅田川 に改称された。
ややこしい!要は 時代と共に 隅田川には変遷があった。
江戸時代には、吾妻橋周辺より下流は大川(おおかわ)と呼んだ。
新大橋周辺までが、あの、ちょっと小粋な響きをもつ大川端(おおかわばた)である。
また、宮戸川ともよばれていた。 そうだ、落語の宮戸川は隅田川!
ということは 在原業平が、
名にしおわば いざこととはむ 都鳥 わがおもう人は ありやなしやと
と詠んだ隅田川は、利根川の下流になる。
そんな 隅田川、江戸時代には二十ヶ所近く渡し舟の渡場があったという。
最後の渡し船は佃の渡しで、昭和39年に廃止。
勝鬨橋のたもとに 勝鬨の渡しという石碑を見たことがある。
隅田川沿いに散歩をすると、渡し跡の石碑を他所にも見つけられるという。
この渡しのうちに、橋場の渡しというのがある。 能 「隅田川」の舞台。
橋場の渡しは、石浜の渡し、須田の渡し、梅若の渡し、真崎の渡し、と別名を持つ。
その昔、源頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房の国に逃れ、下総を経て、鎌倉へ向かう時、
隅田川に浮橋を架けて渡った所とも言われる。
もっとも 渡しの位置は時代により多少移動しているようだが、
現在の白鬚橋の南側にあたるらしい。
それも 大正初年に地元の人が木橋を架け、橋場の渡しは消滅した。
やや北に離れたところに 梅若丸の塚がある、墨田区堤通の木母寺(もくぼじ)だ。
我子を人買いにさらわれ 都北白河から武蔵の国隅田川のほとりまで尋ね歩く女。
業平の 名にし負わば〜 の古歌と我が子を尋ねる我身を重ねて嘆き悲しむ様子に
渡しの船頭が、川向うでの大念仏は、子供が死んだのを人々が回向しているのだと語る。
それが尋ねる我が子の梅若丸と判り、女も念仏を唱える。 と、 南無阿弥陀仏と 子供の声が聞こえる。
あっ! あたしの梅若丸だわ〜。可愛いあたしのぼうやだわっ。
おかあちゃまぁ! おかぁちゃまですよねっ!!
その姿が幻のように現れ、夜明けと共に消え失せ、あとには草の生い茂った塚があるのみだった。
世阿弥の子、十郎元雅の作品。
世阿弥と元雅の間で この梅若丸を舞台上に登場させるか否かのやりとりがあった。
子方として子の幻を舞台に出すか、子方を出さずに幻を見る気持を強く意識させるかと。
元雅は我子を亡くしていたという説もある。世阿弥も後年元雅を亡くし、逆縁となった。
隅田川と言うと
銀杏がえしに 黒繻子かけて 泣いて別れた すみだ川 … を思う御仁もあろう。
永井荷風の小説「すみだ川」に題材を採った 御存知 東海林太郎のすみだ川。
あぁ そうだったわねぇ あなたが二十歳、わたしが十七の時よ。
いつも清元のお稽古から帰って来ると、 あなたは竹谷の渡し場で … と田中絹代が台詞を言う。
あまりピンとこないなら 島倉千代子の芸者姿のすみだ川もある。
文庫本70頁程の作品、「すみだ川」は明治35、6年の光景で、荷風の香りをたっぷり。
世阿弥父子の頃の隅田川の香りは、今月26日鎌倉能舞台で。 三余堂が子を思う狂女となる。
投稿日 2009年10月12日 0:11:07
最終更新日 2009年10月12日 0:11:07
【修正】
2009年09月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
《 内閣総理大臣が国の機関などから移管を受けた重要な公文書を、歴史資料として独立行政法人国立公文書館が
保存管理しています。》 と、ホームページにある国立公文書館。
資料の保存、データベース化、一般公開、インターネットの駆使と広く事業を行う。
重要な公文書の適切な保存と利用を図ることを目的とした施設。
公文書館は図書館、博物館と共に 文化施設として三本の柱の一つなのだそうだ。
ふぅ〜む
ヨーロッパでは、18世紀以来、近代的な公文書館制度が発達したという。
が、我国では 戦後、その必要性の高い声に 準備の末
『公文書等の保存、閲覧・展示などへの利用、公文書の調査研究を行う機関』 を
目的として、昭和46年に国立公文書館が設置。 結構 近年のことだ。
この設置に際して 重要な一部門となった内閣文庫。
明治6年太政官に置かれた図書掛に始まり、明治18年内閣制度創始と同時に内閣文庫となる。
和漢の古典籍・古文書を所蔵する専門図書館となった。
その蔵書には、江戸幕府の記録等の公文書に類する資料も多いという。
平成10年にはつくば研究学園都市内に、つくば分館設置。
平成13年独立行政法人国立公文書館となる。
独立行政法人への移行後も 内閣文庫の所蔵資料は引き続き国立公文書館で保存されていて…
ふむ、 ふぅ〜む
この 国立公文書館のホームページ。時折 覗くと興味深いものを見つける。
今月のアーカイブを手繰っていくと 老人必要養草 ろうじんひつようやしないぐさ!に当たった。
ご存知、養生訓の著者貝原益軒、その弟子の 香月牛山 かつきぎゅうざん(1656-1740)の著。
対象は高齢者限定ときた。もっとも この時代 いくつが高齢者だろうか。
正徳6年(1716)に 出版された書で 高齢者がいる家庭のための家庭医学事典と…
三余堂 必携の書のような気がしてくる。
養老の総論、飲食やら何やらと続き、鬱屈した心を癒す工夫や高齢者特有の心理を具体的に
解説しているのが、本書の特徴。と、ある。
老人性のうつ病ということか。現代ならではの状況ではなさそうだ。
形体保養の説という項には 手足の屈伸やマッサージが血流を促し卒中風の患いなしと ある。
ふむ、ふむ、 ふぅ〜む
今月の展示を確認すべく覗いたところが とんだ 敬老の日を前にして心の準備となった。
東京、北の丸公園、近代美術館へ御用の向きは ちょっと 一足!
展示会は入場無料、
地下鉄東西線竹橋駅下車[1b出口]徒歩5分。
矢来能楽堂の地下鉄東西線神楽坂駅から 三つめの駅。 ついでにも便利なところである。
そこには文化の必要養草を実践する国立公文書館がある。
保存管理しています。》 と、ホームページにある国立公文書館。
資料の保存、データベース化、一般公開、インターネットの駆使と広く事業を行う。
重要な公文書の適切な保存と利用を図ることを目的とした施設。
公文書館は図書館、博物館と共に 文化施設として三本の柱の一つなのだそうだ。
ふぅ〜む
ヨーロッパでは、18世紀以来、近代的な公文書館制度が発達したという。
が、我国では 戦後、その必要性の高い声に 準備の末
『公文書等の保存、閲覧・展示などへの利用、公文書の調査研究を行う機関』 を
目的として、昭和46年に国立公文書館が設置。 結構 近年のことだ。
この設置に際して 重要な一部門となった内閣文庫。
明治6年太政官に置かれた図書掛に始まり、明治18年内閣制度創始と同時に内閣文庫となる。
和漢の古典籍・古文書を所蔵する専門図書館となった。
その蔵書には、江戸幕府の記録等の公文書に類する資料も多いという。
平成10年にはつくば研究学園都市内に、つくば分館設置。
平成13年独立行政法人国立公文書館となる。
独立行政法人への移行後も 内閣文庫の所蔵資料は引き続き国立公文書館で保存されていて…
ふむ、 ふぅ〜む
この 国立公文書館のホームページ。時折 覗くと興味深いものを見つける。
今月のアーカイブを手繰っていくと 老人必要養草 ろうじんひつようやしないぐさ!に当たった。
ご存知、養生訓の著者貝原益軒、その弟子の 香月牛山 かつきぎゅうざん(1656-1740)の著。
対象は高齢者限定ときた。もっとも この時代 いくつが高齢者だろうか。
正徳6年(1716)に 出版された書で 高齢者がいる家庭のための家庭医学事典と…
三余堂 必携の書のような気がしてくる。
養老の総論、飲食やら何やらと続き、鬱屈した心を癒す工夫や高齢者特有の心理を具体的に
解説しているのが、本書の特徴。と、ある。
老人性のうつ病ということか。現代ならではの状況ではなさそうだ。
形体保養の説という項には 手足の屈伸やマッサージが血流を促し卒中風の患いなしと ある。
ふむ、ふむ、 ふぅ〜む
今月の展示を確認すべく覗いたところが とんだ 敬老の日を前にして心の準備となった。
東京、北の丸公園、近代美術館へ御用の向きは ちょっと 一足!
展示会は入場無料、
地下鉄東西線竹橋駅下車[1b出口]徒歩5分。
矢来能楽堂の地下鉄東西線神楽坂駅から 三つめの駅。 ついでにも便利なところである。
そこには文化の必要養草を実践する国立公文書館がある。
投稿日 2009年09月12日 0:15:53
最終更新日 2009年09月25日 12:59:57
【修正】
2009年08月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
ボルサリーノのパナマの帽子に ローンのハンカチ。
颯爽とした白いスーツ姿の紳士は、 むっとする 重苦しい空気を追いやるために 胸のポケット
から扇子を出してパタパタと首筋に風を運ぶ。
百貨店の一階で 花が閉じ込められた氷柱を 子供たちが取り囲む。
氷に手を当てて騒ぐ子らを見守るように、薄物に身を包む和装の婦人が 白檀の扇子を
ハンドバックから取り出して そっと胸元へ風をおくる。
映画や、小説でなくとも 昭和30年代までは そんな姿を見かけた。
今、この様相を銀座のデパートでみたら 何とも風変りな姿に映るだろう。
洋装の男性も 和服の女性も その手にする扇子。
開閉自在で場所を取らず 涼を呼ぶばかりでなく、孫の手代わりも務め、護身用も果たす
すぐれものは 日本で生まれた。
白檀の夏扇子、茶扇に 鉄扇?
摺畳扇、しょうじょうせんと云われる 開閉式の団扇。 これが扇、扇子である。
平安の初期 京の都で生まれた。 木札に文字を記した 木簡から派生したとされている。
檜の薄皮を重ねて束ねた 檜扇、ひおうぎは、女雛が手にしている。 檜片の枚数は身分で
決められていたという。 当初は 公家、僧侶などの儀式用の持ち物だった。
平安中期になると 紙製も登場。 いわゆる 蝙蝠扇、かわほり。
「ほほほっ ほっ ……でおじゃりまする。」 と、口元をそっと隠す、あの扇。
片面のみ紙が貼られている。その後 両面貼りとなる。
扇の先が閉じずに開いている 中啓、ちゅうけい。これは 能で使う扇の形。
で、僧侶の手にする扇の形でもある。 歌舞伎の河内山では 宗俊がほくろに中啓を持っていく。
そして 鎮折、しずめおりという 現在の一般的な形状へと変化を遂げた。
武士が登場すると 骨が竹でなく鉄で出来た鉄扇は、指揮ばかりでなく 護身用として活躍。
礼法が確立していく室町の時代には 庶民の間でも折節目に使われ、
祝儀、贈答として取り交わされていく。
室町の文化は扇をも育てた。
能の舞台では あらゆる表現に必携な扇、寸法、骨の装飾から絵柄も流儀によって
細かい決まりを持つ。
扇を末広というのは 扇の骨の先がひらいた 能扇の中啓を指しているという。
能の一部分を舞う上演形式の仕舞、地謡、後見などは いわゆる先の閉じた鎮扇を使う。
仕舞での紅入鬘扇 美人揃い
茶席で扇子は結界を示し、相手に対する礼を表す。
末広がりの形状が吉祥を現わし、扇面という画布が 名筆も名画も生み出した。
俵屋宗達は扇絵の絵師であった。
室町時代に摺畳扇は 盛んに輸出されたという。
それが 大陸へ、さらに西欧へ伝わる。絹や鳥の羽で作られ、貴婦人の間で大流行した
エバンタイユや、フラメンコのスペイン扇などは日本生まれだ。
作り上げるには 数十に及ぶ工程を 幾人もの職人の手が支える扇。
肝心かなめの要を中心に 末広がりに開く扇。
それは、扇面の下に 隠れる骨の確かな重なりの美しさに他ならない。
今日 幅広い種類をもつ扇子は 儀礼用、涼をとる夏扇から、飾り扇、
どれもが 作り手と使い手の生活の中に生きている。
颯爽とした白いスーツ姿の紳士は、 むっとする 重苦しい空気を追いやるために 胸のポケット
から扇子を出してパタパタと首筋に風を運ぶ。
百貨店の一階で 花が閉じ込められた氷柱を 子供たちが取り囲む。
氷に手を当てて騒ぐ子らを見守るように、薄物に身を包む和装の婦人が 白檀の扇子を
ハンドバックから取り出して そっと胸元へ風をおくる。
映画や、小説でなくとも 昭和30年代までは そんな姿を見かけた。
今、この様相を銀座のデパートでみたら 何とも風変りな姿に映るだろう。
洋装の男性も 和服の女性も その手にする扇子。
開閉自在で場所を取らず 涼を呼ぶばかりでなく、孫の手代わりも務め、護身用も果たす
すぐれものは 日本で生まれた。
白檀の夏扇子、茶扇に 鉄扇?

摺畳扇、しょうじょうせんと云われる 開閉式の団扇。 これが扇、扇子である。
平安の初期 京の都で生まれた。 木札に文字を記した 木簡から派生したとされている。
檜の薄皮を重ねて束ねた 檜扇、ひおうぎは、女雛が手にしている。 檜片の枚数は身分で
決められていたという。 当初は 公家、僧侶などの儀式用の持ち物だった。
平安中期になると 紙製も登場。 いわゆる 蝙蝠扇、かわほり。
「ほほほっ ほっ ……でおじゃりまする。」 と、口元をそっと隠す、あの扇。
片面のみ紙が貼られている。その後 両面貼りとなる。
扇の先が閉じずに開いている 中啓、ちゅうけい。これは 能で使う扇の形。
で、僧侶の手にする扇の形でもある。 歌舞伎の河内山では 宗俊がほくろに中啓を持っていく。
そして 鎮折、しずめおりという 現在の一般的な形状へと変化を遂げた。
武士が登場すると 骨が竹でなく鉄で出来た鉄扇は、指揮ばかりでなく 護身用として活躍。
礼法が確立していく室町の時代には 庶民の間でも折節目に使われ、
祝儀、贈答として取り交わされていく。
室町の文化は扇をも育てた。
能の舞台では あらゆる表現に必携な扇、寸法、骨の装飾から絵柄も流儀によって
細かい決まりを持つ。
扇を末広というのは 扇の骨の先がひらいた 能扇の中啓を指しているという。
能の一部分を舞う上演形式の仕舞、地謡、後見などは いわゆる先の閉じた鎮扇を使う。
仕舞での紅入鬘扇 美人揃い茶席で扇子は結界を示し、相手に対する礼を表す。
末広がりの形状が吉祥を現わし、扇面という画布が 名筆も名画も生み出した。
俵屋宗達は扇絵の絵師であった。
室町時代に摺畳扇は 盛んに輸出されたという。
それが 大陸へ、さらに西欧へ伝わる。絹や鳥の羽で作られ、貴婦人の間で大流行した
エバンタイユや、フラメンコのスペイン扇などは日本生まれだ。
作り上げるには 数十に及ぶ工程を 幾人もの職人の手が支える扇。
肝心かなめの要を中心に 末広がりに開く扇。
それは、扇面の下に 隠れる骨の確かな重なりの美しさに他ならない。
今日 幅広い種類をもつ扇子は 儀礼用、涼をとる夏扇から、飾り扇、
どれもが 作り手と使い手の生活の中に生きている。
投稿日 2009年08月12日 1:02:11
最終更新日 2009年08月12日 1:02:36
【修正】
2009年07月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
雨空の重苦しさを助長するように、今月のカレンダーが夏はまだだと言う。
ルノアールの 舟遊びの人々の昼食 という絵が7月を飾る。
舟遊びをする人々の昼食
ルノアール
いわゆる街の電気屋さんが、毎年末に親会社制作の名画のカレンダーを持ってきてくれる。
世界各地、その時代の季節感を絵画の中に 毎月識る。
1881年完成のこの大作は パリ郊外の湿度の無さを伝える。
後にルノワール夫人となる女性が 帽子を被り、長袖で犬を抱いており、
シルクハットの紳士は談笑している。 この絵 今はただ 暑苦しい!
現在日本は太陽暦を採用している。
が、昨今の温暖化問題もあいまって、どうも生活習慣、文化に合わない。
無理矢理 おてんとうさまと折り合いをつけても どこかに無理が生じるのだ。
かといって、お月様となら 閏月登場で厄介だ。
このご時世 暦見比べ早見表を片手に仕事では 話にならない。
世界には いまでも宗教、農業を中心にした暦を使用している国もある。
当然 それらの暦ではカレンダーの形式もかわる。
右の列から曜日がふられているもの、週の始まりが、月曜始まりや土曜始まりのものもある。
決して 日本で年末に配られる太陽暦のカレンダーが当たり前と思うなかれ!
今月の1枚なら七夕に朝顔、 いやいや 生ビールか、かき氷。まっ 現実的では風情がなくなる。
玄関先の鉢には 季節の命がせっせと羽化のために働く。
アゲハ蝶の幼虫だ。
柑橘類の敵、葉を食い荒らす害虫ともされる。全国に分布するナミアゲハだろう。
3月から10月くらいまでに数回発生する。 先月も 鉢植えの夏ミカンの葉に若齢の幼虫を見た。
いつのまにか 見かけなくなったのは ハチやクモにやられたナッ。
ナミアゲハ若齢幼虫
手前の幼虫は 翌朝自らの抜殻を食い五齢幼虫となった 撮影 09.07.11.
孵化した若齢の幼虫は黒褐色で体表がごつごつに見える。
三余堂亭主、鳥の糞が…と見間違っていたが 糞に似せた保護色だ。
その後 脱皮。
4回の脱皮をすると体長5cmほどの五齢幼虫となる。 これが終齢幼虫で、緑色のイモムシになる。
ヘビのような風貌となる。美しく爽やかなみどりを身にまとって。
終齢幼虫が葉を大いに食う
撮影 09.07.11.朝
こうなると 一気に成長し大きくなる。食欲も旺盛だ。早朝、辺りに糞が散るのを見る。
そして 充分太った幼虫は蛹になるための場所探しで歩き回る。
あんなに御提供申した 大切な夏ミカンの葉を振り棄てて どちらへか。
良き場を得て 蛹になるのだろう。 無事羽化すれば蝶の舞となるのだが…
ナミアゲハを図案とした揚羽紋は この蝶が古くから日本で親しまれたことが窺われる。
本日も舞台にこの紋が舞う。
蛹が羽化する頃 カレンダーがめくられる。
ルノアールの 舟遊びの人々の昼食 という絵が7月を飾る。
舟遊びをする人々の昼食
ルノアールいわゆる街の電気屋さんが、毎年末に親会社制作の名画のカレンダーを持ってきてくれる。
世界各地、その時代の季節感を絵画の中に 毎月識る。
1881年完成のこの大作は パリ郊外の湿度の無さを伝える。
後にルノワール夫人となる女性が 帽子を被り、長袖で犬を抱いており、
シルクハットの紳士は談笑している。 この絵 今はただ 暑苦しい!
現在日本は太陽暦を採用している。
が、昨今の温暖化問題もあいまって、どうも生活習慣、文化に合わない。
無理矢理 おてんとうさまと折り合いをつけても どこかに無理が生じるのだ。
かといって、お月様となら 閏月登場で厄介だ。
このご時世 暦見比べ早見表を片手に仕事では 話にならない。
世界には いまでも宗教、農業を中心にした暦を使用している国もある。
当然 それらの暦ではカレンダーの形式もかわる。
右の列から曜日がふられているもの、週の始まりが、月曜始まりや土曜始まりのものもある。
決して 日本で年末に配られる太陽暦のカレンダーが当たり前と思うなかれ!
今月の1枚なら七夕に朝顔、 いやいや 生ビールか、かき氷。まっ 現実的では風情がなくなる。
玄関先の鉢には 季節の命がせっせと羽化のために働く。
アゲハ蝶の幼虫だ。
柑橘類の敵、葉を食い荒らす害虫ともされる。全国に分布するナミアゲハだろう。
3月から10月くらいまでに数回発生する。 先月も 鉢植えの夏ミカンの葉に若齢の幼虫を見た。
いつのまにか 見かけなくなったのは ハチやクモにやられたナッ。
ナミアゲハ若齢幼虫
手前の幼虫は 翌朝自らの抜殻を食い五齢幼虫となった 撮影 09.07.11.
孵化した若齢の幼虫は黒褐色で体表がごつごつに見える。
三余堂亭主、鳥の糞が…と見間違っていたが 糞に似せた保護色だ。
その後 脱皮。
4回の脱皮をすると体長5cmほどの五齢幼虫となる。 これが終齢幼虫で、緑色のイモムシになる。
ヘビのような風貌となる。美しく爽やかなみどりを身にまとって。
終齢幼虫が葉を大いに食う撮影 09.07.11.朝
こうなると 一気に成長し大きくなる。食欲も旺盛だ。早朝、辺りに糞が散るのを見る。
そして 充分太った幼虫は蛹になるための場所探しで歩き回る。
あんなに御提供申した 大切な夏ミカンの葉を振り棄てて どちらへか。
良き場を得て 蛹になるのだろう。 無事羽化すれば蝶の舞となるのだが…
ナミアゲハを図案とした揚羽紋は この蝶が古くから日本で親しまれたことが窺われる。
本日も舞台にこの紋が舞う。
蛹が羽化する頃 カレンダーがめくられる。
投稿日 2009年07月12日 15:07:21
最終更新日 2009年07月12日 15:28:21
【修正】
2009年06月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
2009.06.11.
読売新聞夕刊
以前 月に願いを! セレーネに託して と題して 稿を興した。
それに鵞毛庵は 月はひとつと 応えた。
2007年2月の空を眺めて、短歌だ俳句だと 〈かぐや〉 が月に運ぶメッセージで空騒ぎ。
その〈かぐや〉が月に着いた。というより、任務終了にともなって 月の表側に落下させられた。
今年の2月には すでにこの かぐやの子衛星の 〈おきな〉 が月の裏側に落とされている。
爺さんは 先にご用済みで もう一基の子衛星 〈おうな〉 婆さんはまだ軌道を回っている。
普段は気にも留めないが、新聞紙上にその文字を見て、 打上から1年半の命か… と思う。
月周回衛星〈かぐや〉は、宇宙航空研究開発機構が2007年9月に打ち上げた月探査機。
目的は 月の起源と進化の解明の科学データを取得することなど。
アポロ計画以来最大規模の本格的な月の探査を行ってきたということだが、
今はもうひとつ 実感がなく、 あっ そぅ! というのが正直なところである。
ただ 41万人のメッセージが月の表面に届き その中に三余堂も雑ぜて頂いたと思うと
改めて空を見上げ、なんて送ったんだっけ??? そんなもンだ。
そしてもうひとつ 勝手によそ様の地へ大きな、おおきな 塊を落としてきてご迷惑さま、さま、 なこった とも。
〈かぐや〉が月面に衝突した閃光の撮影結果の提供を、国内外に呼び掛けているところとか。
日本時間6月11日(木)3:25、東経80.4度、南緯65.5度へ制御落下。
すさまじい光が 夜明け前の梅雨空を突き抜けたのだろうか。 東京では 雨がしきりだった。
YouTube JAXAchannel で動画配信を見ることができる。
文字であれ、絵画であれ、歌舞音曲であれ、最先端技術であれ 時を越えて
月よりの使者のお届けものは 美しく、神秘である。
宇宙航空研究開発機構
読売新聞夕刊以前 月に願いを! セレーネに託して と題して 稿を興した。
それに鵞毛庵は 月はひとつと 応えた。
2007年2月の空を眺めて、短歌だ俳句だと 〈かぐや〉 が月に運ぶメッセージで空騒ぎ。
その〈かぐや〉が月に着いた。というより、任務終了にともなって 月の表側に落下させられた。
今年の2月には すでにこの かぐやの子衛星の 〈おきな〉 が月の裏側に落とされている。
爺さんは 先にご用済みで もう一基の子衛星 〈おうな〉 婆さんはまだ軌道を回っている。
普段は気にも留めないが、新聞紙上にその文字を見て、 打上から1年半の命か… と思う。
月周回衛星〈かぐや〉は、宇宙航空研究開発機構が2007年9月に打ち上げた月探査機。
目的は 月の起源と進化の解明の科学データを取得することなど。
アポロ計画以来最大規模の本格的な月の探査を行ってきたということだが、
今はもうひとつ 実感がなく、 あっ そぅ! というのが正直なところである。
ただ 41万人のメッセージが月の表面に届き その中に三余堂も雑ぜて頂いたと思うと
改めて空を見上げ、なんて送ったんだっけ??? そんなもンだ。
そしてもうひとつ 勝手によそ様の地へ大きな、おおきな 塊を落としてきてご迷惑さま、さま、 なこった とも。
〈かぐや〉が月面に衝突した閃光の撮影結果の提供を、国内外に呼び掛けているところとか。
日本時間6月11日(木)3:25、東経80.4度、南緯65.5度へ制御落下。
すさまじい光が 夜明け前の梅雨空を突き抜けたのだろうか。 東京では 雨がしきりだった。
YouTube JAXAchannel で動画配信を見ることができる。
文字であれ、絵画であれ、歌舞音曲であれ、最先端技術であれ 時を越えて
月よりの使者のお届けものは 美しく、神秘である。
宇宙航空研究開発機構
投稿日 2009年06月12日 23:10:03
最終更新日 2009年06月12日 23:10:18
【修正】
2009年05月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
JR荻窪快速ホームの階段を駆け上がると ピッーピー ピッーと鳥の声がしていた。
発着のアナウンスに被って耳に残る。
電車のドアは閉まりムットする人いきれが車内に充ちている。
あの拡声器から流れていたのは何だったのか。
息が整うと間もなく、次のホームで電車のドアは開いた。 アサガヤ〜 アサガヤァ〜
野鳥の声は ない。
荻窪のホームで耳にした拡声器からの鳥の声は…
5月10日から野鳥週間、バードウィークである。
東京都の広報
三余堂の庭は 隣家との狭間で都会のサンクチュアリ、自然の保護地帯となっている。
昨今の獰猛なカラスや 我物顔に徘徊する猫から身を守り、安心して餌を得、水浴の出来る
場所を提供しているということで、決して燦々と陽のあたる広大な空間を意味してはいない。
つくばいの周りが水浸しになっているのは ヒヨドリやハトの水浴びのあとで シジュウカラや
メジロなどの小型のものは 餌台の深皿にはられた水で充分にバスタイムを満喫する。
巣立ちの頃 シジュウカラの親は、枝から枝への渉り方や 餌の取り方、水浴びを教えに
まだ色も淡く柔らかな子供たちを連れてくる。 ツツッーピッ、ツッーピッと地鳴きの声が賑やかだ。
スズメが減った都会も 気を付ければ季節、季節で鶯からつぐみ、ひたきの類に至るまで
小さなサンクチュアリにやってくる。
愛鳥週間を機に東京都の広報で 野鳥とのかかわりを啓蒙している。
捕獲や飼育が禁止されていることから餌やりの注意、雛が地面に落ちていたら、等々…
2007.06.近隣の電線でセキセイインコ
辺りに馴染まない鮮やかな色の 野生化した飼鳥の群れをみれば 此処は何処かと足が止まるし、
夜明け前のカラスの群れの鳴き声に目を覚ますと あたりの様を思って再びの眠りは難しい。
それもこれも人の為した業だ。愛鳥週間の広報を手にして何とも言い難い。
図鑑で日本の野鳥を確認
発着のアナウンスに被って耳に残る。
電車のドアは閉まりムットする人いきれが車内に充ちている。
あの拡声器から流れていたのは何だったのか。
息が整うと間もなく、次のホームで電車のドアは開いた。 アサガヤ〜 アサガヤァ〜
野鳥の声は ない。
荻窪のホームで耳にした拡声器からの鳥の声は…
5月10日から野鳥週間、バードウィークである。
東京都の広報

三余堂の庭は 隣家との狭間で都会のサンクチュアリ、自然の保護地帯となっている。
昨今の獰猛なカラスや 我物顔に徘徊する猫から身を守り、安心して餌を得、水浴の出来る
場所を提供しているということで、決して燦々と陽のあたる広大な空間を意味してはいない。
つくばいの周りが水浸しになっているのは ヒヨドリやハトの水浴びのあとで シジュウカラや
メジロなどの小型のものは 餌台の深皿にはられた水で充分にバスタイムを満喫する。
巣立ちの頃 シジュウカラの親は、枝から枝への渉り方や 餌の取り方、水浴びを教えに
まだ色も淡く柔らかな子供たちを連れてくる。 ツツッーピッ、ツッーピッと地鳴きの声が賑やかだ。
スズメが減った都会も 気を付ければ季節、季節で鶯からつぐみ、ひたきの類に至るまで
小さなサンクチュアリにやってくる。
愛鳥週間を機に東京都の広報で 野鳥とのかかわりを啓蒙している。
捕獲や飼育が禁止されていることから餌やりの注意、雛が地面に落ちていたら、等々…
2007.06.近隣の電線でセキセイインコ辺りに馴染まない鮮やかな色の 野生化した飼鳥の群れをみれば 此処は何処かと足が止まるし、
夜明け前のカラスの群れの鳴き声に目を覚ますと あたりの様を思って再びの眠りは難しい。
それもこれも人の為した業だ。愛鳥週間の広報を手にして何とも言い難い。
図鑑で日本の野鳥を確認

投稿日 2009年05月13日 8:40:21
最終更新日 2009年05月13日 8:40:30
【修正】
2009年04月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
2月28日 京都清水寺で法要が営まれた。
境内の重要文化財 開山堂、通称田村堂でのことだった。
坂上田村麻呂の坐像が99年ぶりに公開されるのに先立っての御開帳法要である。
厨子の中に安置。衣冠束帯姿に彩色が施された坐像が、田村麻呂。
清水の舞台で御存知音羽山清水寺は、奈良時代の末、宝亀9年(778)の開創という。
1200年余りも前のことだ。
その翌々年 田村麻呂は仏殿を寄進し、本尊に十一面千手観音を安置した。
坂上田村麻呂は平安時代以降 武人として多くの伝説を生んだ。
今昔物語などにもその名がみられ、妻の病気の薬になるという鹿の血を求め音羽山に入った折、
修行中の僧延鎮に出会い、殺生を戒められる。
それを機に仏に帰依して寺を創建したという。 これが清水寺。
能「田村」は、前段で清水寺創建の縁起物語、童子の姿となった田村麻呂の幽霊が登場。
後段では蝦夷征伐を若々しい武将姿の田村麻呂が舞う。
観音の霊力と加護による戦ぶり、武将の勇猛さが描かれ、祝言の能とされてきた。
さぞな名にし負う 花の都の春の空 …という詞章のごとく 花の季節に相応しい曲である。
ユネスコの世界遺産に登録されている清水寺で 坂上田村麻呂の坐像は5月31日まで公開。
九皐会では本日12日 田村が演じられる。
天も花に酔えりや 面白の春べや あら面白の春べや … と
満開となる 八重のさくら
枝垂桜も風に散り始める
ついでにかりんも満開
境内の重要文化財 開山堂、通称田村堂でのことだった。
坂上田村麻呂の坐像が99年ぶりに公開されるのに先立っての御開帳法要である。
厨子の中に安置。衣冠束帯姿に彩色が施された坐像が、田村麻呂。
清水の舞台で御存知音羽山清水寺は、奈良時代の末、宝亀9年(778)の開創という。
1200年余りも前のことだ。
その翌々年 田村麻呂は仏殿を寄進し、本尊に十一面千手観音を安置した。
坂上田村麻呂は平安時代以降 武人として多くの伝説を生んだ。
今昔物語などにもその名がみられ、妻の病気の薬になるという鹿の血を求め音羽山に入った折、
修行中の僧延鎮に出会い、殺生を戒められる。
それを機に仏に帰依して寺を創建したという。 これが清水寺。
能「田村」は、前段で清水寺創建の縁起物語、童子の姿となった田村麻呂の幽霊が登場。
後段では蝦夷征伐を若々しい武将姿の田村麻呂が舞う。
観音の霊力と加護による戦ぶり、武将の勇猛さが描かれ、祝言の能とされてきた。
さぞな名にし負う 花の都の春の空 …という詞章のごとく 花の季節に相応しい曲である。
ユネスコの世界遺産に登録されている清水寺で 坂上田村麻呂の坐像は5月31日まで公開。
九皐会では本日12日 田村が演じられる。
天も花に酔えりや 面白の春べや あら面白の春べや … と
満開となる 八重のさくら

枝垂桜も風に散り始める
ついでにかりんも満開
投稿日 2009年04月12日 2:55:37
最終更新日 2009年04月12日 2:55:55
【修正】
2009年03月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
鼓に掛けられた袱紗 
袱紗はその昔、まぁ ちょんまげを結っていた時代…
進物を贈る時に三宝〈さんぼう〉や広蓋〈ひろぶた〉、にのせた品物の上に掛けたり、
貴重品などを収めた箱の上に 掛けていた布のことである。
掛布というか、敷布というか、風呂敷状のものだ。
大風呂敷は散らかし部屋の雑物を覆い、楽屋では三余堂の身ぐるみ纏めてひとくくり、
と重宝なお風呂敷。
エコだとかなんだとか見直されているのが袱紗の親分 おぉ風呂敷である。
ちなみに検事諸氏、紋入りの風呂敷で書類を包んで法廷を移動する。
おおきな掛け布、包み布は、実用としての歩みと共に 日本人の美意識の表現一つにもなっていく。
昔は ネコもペリカンもこぐまも贈答品を運ばなかった。
もちろん 佐川さんも軽トラなんぞで運んではくれない。
そこで、贈答品の日除け、塵埃除けとして、ふくさで包んだり、掛けたりして
道中をテクテクと行ったわけだ。
羽二重や綸子などの柔らかい布で作ったところから、ふっくらと柔らかいという意味で
「ふくさ」と言うとか。
江戸時代中期には、掛袱紗が習慣になっていたようだ。
ご存知 東映時代劇!
忠臣蔵じゃぁ、吉良さんちに 定紋入りの掛ふくさの品々が 並んでいました。
浅野さんも 鷹の羽のぶっ違いで気張ったことでしょうが
今一つ、二つ お三宝が不足だったのでしょうか。
元々ふくさは一枚の布地で、其の後に 裏地付きの絹布で四隅に亀房と呼ばれる房付きのものに。
慶弔行事の儀式用品として、広蓋と言われる黒塗りの盆、と併せて用いられるようになっていく。
黒塗り盆に掛ける房付きの掛けふくさ
金封を包む小さい風呂敷を手ふくさなどというが、小さいものを 「帛紗」と書き、
掛けぶくさなどの場合には「袱紗」と書くということらしい。
茶道で茶器を拭いたりするふくさや 茶たくの代用とする出しぶくさも帛紗。
先月 鵞毛庵能の花シリーズで 「帛紗」を御覧に入れた。
大は風呂敷、小は金封用の帛紗と三余堂普段使いの愛用品である。
帛紗は四季折々の絵柄や布素材を楽しむ。
用途により、先様に応じた柄を選ぶこともなかなか面白いものである。
目的地に着くと帛紗は外され、懐にしまわれる。 ことさら先様の目に触れることはない。
枝垂桜を待つ頃に

袱紗はその昔、まぁ ちょんまげを結っていた時代…
進物を贈る時に三宝〈さんぼう〉や広蓋〈ひろぶた〉、にのせた品物の上に掛けたり、
貴重品などを収めた箱の上に 掛けていた布のことである。
掛布というか、敷布というか、風呂敷状のものだ。
大風呂敷は散らかし部屋の雑物を覆い、楽屋では三余堂の身ぐるみ纏めてひとくくり、
と重宝なお風呂敷。
エコだとかなんだとか見直されているのが袱紗の親分 おぉ風呂敷である。
ちなみに検事諸氏、紋入りの風呂敷で書類を包んで法廷を移動する。
おおきな掛け布、包み布は、実用としての歩みと共に 日本人の美意識の表現一つにもなっていく。
昔は ネコもペリカンもこぐまも贈答品を運ばなかった。
もちろん 佐川さんも軽トラなんぞで運んではくれない。
そこで、贈答品の日除け、塵埃除けとして、ふくさで包んだり、掛けたりして
道中をテクテクと行ったわけだ。
羽二重や綸子などの柔らかい布で作ったところから、ふっくらと柔らかいという意味で
「ふくさ」と言うとか。
江戸時代中期には、掛袱紗が習慣になっていたようだ。
ご存知 東映時代劇!
忠臣蔵じゃぁ、吉良さんちに 定紋入りの掛ふくさの品々が 並んでいました。
浅野さんも 鷹の羽のぶっ違いで気張ったことでしょうが
今一つ、二つ お三宝が不足だったのでしょうか。
元々ふくさは一枚の布地で、其の後に 裏地付きの絹布で四隅に亀房と呼ばれる房付きのものに。
慶弔行事の儀式用品として、広蓋と言われる黒塗りの盆、と併せて用いられるようになっていく。
黒塗り盆に掛ける房付きの掛けふくさ
金封を包む小さい風呂敷を手ふくさなどというが、小さいものを 「帛紗」と書き、
掛けぶくさなどの場合には「袱紗」と書くということらしい。
茶道で茶器を拭いたりするふくさや 茶たくの代用とする出しぶくさも帛紗。
先月 鵞毛庵能の花シリーズで 「帛紗」を御覧に入れた。
大は風呂敷、小は金封用の帛紗と三余堂普段使いの愛用品である。
帛紗は四季折々の絵柄や布素材を楽しむ。
用途により、先様に応じた柄を選ぶこともなかなか面白いものである。
目的地に着くと帛紗は外され、懐にしまわれる。 ことさら先様の目に触れることはない。
枝垂桜を待つ頃に
投稿日 2009年03月12日 2:38:42
最終更新日 2009年03月12日 2:38:45
【修正】
2009年02月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
立春をすぎて尚さぶぅっ。鉢木伝説の情景を感じる寒さだ。
駒とめて袖打ち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ 定家
二十年以上前のことになるか、親父殿が 能 鉢木(はちのき)を勤めた時のこと。
見所 《ケンショと読む 能を見るところ、つまり客席ですな 》に 白髪長身の紳士をはじめとした、
おじさんのグループが陣取っていた。
親父殿のころの中学の教科書に鉢木は載っていた。そこで、当時の中学の国学担任と
同級生が集ったということらしい。月次同級会をしていた仲間の鉢木鑑賞であった。
もはや、懐かしの時代となりつつある昭和の初めには 誰でも知る鉢木伝説である。
太平記では出家後の北条時頼が、旅の僧として諸国を行脚、家領を奪われた者の嘆きに
接したと伝える。旅から鎌倉に戻った前執権の北条時頼は、奪われた土地を取り返してやる。
こんな話は 北は津軽から西は肥前国まで、全国的に分布しているらしい。
時の政治向きのことが、おおいに絡んでいるのだろう。
建長寺を建立した、鎌倉幕府第五代執権北条時頼は 名君 とされている。
雪の降る夕べ、旅の僧が宿を乞うた。
家の内の貧しさに、一度は断ったが、雪中を去る僧を追いかけ、家の中に招き入れた。
佐野庄を一族の者に奪われ 雨露凌ぐばかりの家に、妻と共にわび住まいの身となっていた
主の佐野源左衛門常世。
辛うじて粟の飯を、旅の僧に勧めたが、焚き木の備えがない。夜更けと共に寒さが募る。
主は、零落後も手放さなかった梅、桜、松、三つの鉢を取り出し、次々に切り、火にくべた。
異木よりまづ 先立てば梅を切りやそむべき
家桜きりくべて緋桜になすぞ悲しき
松はもとよりけむりにて薪となるも理や
火はあかあかと燃え上がり、僧の問いに応じて主は身の上を語る。
謡で薪の段と称している。 まさに たきぎの暖。
翌朝、僧は「もし鎌倉に、となれば、お訪ねあれ。」と立ち去る。
さぁて時は経ち、関東八カ国の御家人に対し、急ぎ物の具をつけて駆けつけよ、と、
鎌倉から命が下されたのでございます。
いざっぁ 鎌倉へ!
佐野源左衛門常世は、錆びた薙刀をもち、痩せ馬を駆って馳せつけますぅ。 ぱっ ぱっぱっ ぱっぁ…
おぉ〜ぅ お〜ぉう やってまいったか !!
大雪降って寒かりしに。秘蔵せし鉢の木を切り。火に焚きあてし志をば。いつの世にかは忘るべき。
むっ! あの時の 御僧は北条時頼さまぁっ !!!
常世は、本領佐野庄とともに、梅田、桜井、松井田の三荘を与えられたのでございますぅっ。
パンパ パンパッパンッ !
これぞまさしく 梅、桜、松、三つの植木の鉢、盆栽が土地になったっというわけでございまして …
写真もなけらゃぁ、絵もなくて 佐野源左衛門常世、時頼感動の場、
ながぁいお話のうち、 パッパンパンッ
そのほんのサワリを パンッパッ パンッ ! これにてご無礼。
2月 観世九皐会別会 鉢木
駒とめて袖打ち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ 定家
二十年以上前のことになるか、親父殿が 能 鉢木(はちのき)を勤めた時のこと。
見所 《ケンショと読む 能を見るところ、つまり客席ですな 》に 白髪長身の紳士をはじめとした、
おじさんのグループが陣取っていた。
親父殿のころの中学の教科書に鉢木は載っていた。そこで、当時の中学の国学担任と
同級生が集ったということらしい。月次同級会をしていた仲間の鉢木鑑賞であった。
もはや、懐かしの時代となりつつある昭和の初めには 誰でも知る鉢木伝説である。
太平記では出家後の北条時頼が、旅の僧として諸国を行脚、家領を奪われた者の嘆きに
接したと伝える。旅から鎌倉に戻った前執権の北条時頼は、奪われた土地を取り返してやる。
こんな話は 北は津軽から西は肥前国まで、全国的に分布しているらしい。
時の政治向きのことが、おおいに絡んでいるのだろう。
建長寺を建立した、鎌倉幕府第五代執権北条時頼は 名君 とされている。
雪の降る夕べ、旅の僧が宿を乞うた。
家の内の貧しさに、一度は断ったが、雪中を去る僧を追いかけ、家の中に招き入れた。
佐野庄を一族の者に奪われ 雨露凌ぐばかりの家に、妻と共にわび住まいの身となっていた
主の佐野源左衛門常世。
辛うじて粟の飯を、旅の僧に勧めたが、焚き木の備えがない。夜更けと共に寒さが募る。
主は、零落後も手放さなかった梅、桜、松、三つの鉢を取り出し、次々に切り、火にくべた。
異木よりまづ 先立てば梅を切りやそむべき
家桜きりくべて緋桜になすぞ悲しき
松はもとよりけむりにて薪となるも理や
火はあかあかと燃え上がり、僧の問いに応じて主は身の上を語る。
謡で薪の段と称している。 まさに たきぎの暖。
翌朝、僧は「もし鎌倉に、となれば、お訪ねあれ。」と立ち去る。
さぁて時は経ち、関東八カ国の御家人に対し、急ぎ物の具をつけて駆けつけよ、と、
鎌倉から命が下されたのでございます。
いざっぁ 鎌倉へ!
佐野源左衛門常世は、錆びた薙刀をもち、痩せ馬を駆って馳せつけますぅ。 ぱっ ぱっぱっ ぱっぁ…
おぉ〜ぅ お〜ぉう やってまいったか !!
大雪降って寒かりしに。秘蔵せし鉢の木を切り。火に焚きあてし志をば。いつの世にかは忘るべき。
むっ! あの時の 御僧は北条時頼さまぁっ !!!
常世は、本領佐野庄とともに、梅田、桜井、松井田の三荘を与えられたのでございますぅっ。
パンパ パンパッパンッ !
これぞまさしく 梅、桜、松、三つの植木の鉢、盆栽が土地になったっというわけでございまして …
写真もなけらゃぁ、絵もなくて 佐野源左衛門常世、時頼感動の場、
ながぁいお話のうち、 パッパンパンッ
そのほんのサワリを パンッパッ パンッ ! これにてご無礼。
2月 観世九皐会別会 鉢木
投稿日 2009年02月12日 0:27:52
最終更新日 2009年02月12日 0:27:52
【修正】
2009年01月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
毎年暮れに晩白柚を賜る。
正月飾りとして玄関に設えられ、柑橘の香りを放つ。
直径は25cm、重量は2キロ以上。重いものになると3キロを優に越えるという晩白柚、ばんぺいゆは
柑橘類では最大級の大きな、おおきな果実。
晩白柚
リンゴとレモンを隣にして
晩生で果肉が白っぽく、中国語で丸い柑橘という意味の柚に由来して、晩白柚。
原産はマレー半島。日本にはベトナムから大正期に伝わったが、普及には至らず、その後
台湾から鹿児島県果樹試験場に株が導入され、適産地の熊本県八代に根付いたという。
もともと 八代はざぼんの産地であった。晩白柚は、その一品種だそうだ。
これは、これは 人の頭ほどに育ったざぼんでござる と思っていた三余堂である。
今は八代の特産品であるのみならず、熊本の代表的な産品として 年末年始の需要が大。
2、3年前、テレビ、新聞などでもてはやされ、話題となったことを御記憶のご仁も居られよう。
風土、文化に合うように長い時間をかけてきた晩白柚。
剪定、灌水、摘蕾、人工授粉、摘果、摘果、袋付け、除草、袋はずし、収穫…
研究者、生産者の丹精が見事な物を産出した。
香り、大きさ、保存性の良さから 三余堂では正月の一役を担い、食べごろになると下げられる。
包丁での解体作業後、見事な一房が現れるのだが、さぁて 御味のほどは如何に。
これがまた なかなかの代物であとを引く。
その厚い皮は甘煮にもなるが、専ら湯船に浮かび 晩ぺい湯 となる。
厚い皮に包まれて
湯に浮かぶ前の一仕事 ハイ ポーズ!
隠れた手間暇は大きな実りとなって 香りを聞かせ、目を楽しませ、味わう喜びを与え、
最後に疲れを癒す晩ぺい湯となる。
あぁ〜 今夜の風呂は言っていた。 隠れた手間暇を惜しまず事にあたれよ、と。
正月飾りとして玄関に設えられ、柑橘の香りを放つ。
直径は25cm、重量は2キロ以上。重いものになると3キロを優に越えるという晩白柚、ばんぺいゆは
柑橘類では最大級の大きな、おおきな果実。
晩白柚
リンゴとレモンを隣にして晩生で果肉が白っぽく、中国語で丸い柑橘という意味の柚に由来して、晩白柚。
原産はマレー半島。日本にはベトナムから大正期に伝わったが、普及には至らず、その後
台湾から鹿児島県果樹試験場に株が導入され、適産地の熊本県八代に根付いたという。
もともと 八代はざぼんの産地であった。晩白柚は、その一品種だそうだ。
これは、これは 人の頭ほどに育ったざぼんでござる と思っていた三余堂である。
今は八代の特産品であるのみならず、熊本の代表的な産品として 年末年始の需要が大。
2、3年前、テレビ、新聞などでもてはやされ、話題となったことを御記憶のご仁も居られよう。
風土、文化に合うように長い時間をかけてきた晩白柚。
剪定、灌水、摘蕾、人工授粉、摘果、摘果、袋付け、除草、袋はずし、収穫…
研究者、生産者の丹精が見事な物を産出した。
香り、大きさ、保存性の良さから 三余堂では正月の一役を担い、食べごろになると下げられる。
包丁での解体作業後、見事な一房が現れるのだが、さぁて 御味のほどは如何に。
これがまた なかなかの代物であとを引く。
その厚い皮は甘煮にもなるが、専ら湯船に浮かび 晩ぺい湯 となる。
厚い皮に包まれて

湯に浮かぶ前の一仕事 ハイ ポーズ!隠れた手間暇は大きな実りとなって 香りを聞かせ、目を楽しませ、味わう喜びを与え、
最後に疲れを癒す晩ぺい湯となる。
あぁ〜 今夜の風呂は言っていた。 隠れた手間暇を惜しまず事にあたれよ、と。
投稿日 2009年01月12日 23:25:49
最終更新日 2009年01月12日 23:26:08
【修正】
2008年12月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
昨年あたりから いやに百年を祝うことに出会う。
それは 人であったり、学校であったり、開業であったりと さまざまである。
ブラジル日系移民も、赤毛のアンが出版されてからも 百年だそうだ。
今から百年前の1908年は 明治41年。
日露戦争勝利後で 清の西太后が死去、ラストエンペラー宣統帝溥儀が即位している。
ちなみに あの 佐久間惣次郎商店、サクマ式ドロップ が発売人気を得たらしい。
朝日新聞に夏目漱石の三四郎が連載されたのもこの年だ。
小説を思い浮かべると当時の雰囲気は想像出来ようというものだ。
天下の二枚目 長谷川一夫も、アジャパーのばんじゅんこと 伴淳三郎も存命なら 百歳。
存知よりの婦人は 今日、ご健勝にて百歳。 さまざまである。
明治時代に観世銕之丞家から分家した、観世九皐会も百年と相成った。
神田西小川町に能舞台を建築。 後に内閣総理大臣となった清浦奎吾の命名により、
『九皐会』の名前が誕生する。ってなことは九皐会HPに書かれている。
『九皐』の由来についてもしかり。
孔子の編といわれている詩経のなかに、鶴 九皐に鳴き…… とある。
要するに 鶴が深い沢で鳴いても、その声は天にも聞こえるように 身に誠あれば、
目には見えなくてもおのずから形にあらわれる。 というわけで、百年ほど時を経たのだ。
が、残された文献に『九皐会』の名称が確認できるのは 明治39年が最古ということである。
明治39年は後藤新平総裁による南満州鉄道会社が発足し、たばこのゴールデンバットが
10本4銭で庶民に多いに喜ばれたそうだ。この年、島崎藤村の小説、破壊が話題になっている。
ふぅ〜む。
まぁ、ざっとそんな頃に始まったものが 百歳の祝いをする時期となった、ということだ。
折しも三余堂 観世九皐会百周年記念翁付五番能で 百萬 を勤める。
我子と生き別れ、悲嘆のあまり狂乱の状態になった里女、百萬の話である。
百萬は嵯峨の大念仏で、身の上を嘆き、子との再会を仏前に祈りつつ、舞を奉げる。
乱れた心が我子の姿を群集の雑踏の中に捜し出す。里人が連れていた子を我子と知り、仏力に謝して こころの安穏を得て奈良の都へと帰って行く。
この百萬、
デカンショデカンショで 半年ゃ暮らす ヨイヨイ、 後の半年ゃ 寝て暮らす ヨーイヨーイデッカンショ と流行った頃、第一回九皐会で初代観世喜之が勤めた曲であった。
それは 人であったり、学校であったり、開業であったりと さまざまである。
ブラジル日系移民も、赤毛のアンが出版されてからも 百年だそうだ。
今から百年前の1908年は 明治41年。
日露戦争勝利後で 清の西太后が死去、ラストエンペラー宣統帝溥儀が即位している。
ちなみに あの 佐久間惣次郎商店、サクマ式ドロップ が発売人気を得たらしい。
朝日新聞に夏目漱石の三四郎が連載されたのもこの年だ。
小説を思い浮かべると当時の雰囲気は想像出来ようというものだ。
天下の二枚目 長谷川一夫も、アジャパーのばんじゅんこと 伴淳三郎も存命なら 百歳。
存知よりの婦人は 今日、ご健勝にて百歳。 さまざまである。
明治時代に観世銕之丞家から分家した、観世九皐会も百年と相成った。
神田西小川町に能舞台を建築。 後に内閣総理大臣となった清浦奎吾の命名により、
『九皐会』の名前が誕生する。ってなことは九皐会HPに書かれている。
『九皐』の由来についてもしかり。
孔子の編といわれている詩経のなかに、鶴 九皐に鳴き…… とある。
要するに 鶴が深い沢で鳴いても、その声は天にも聞こえるように 身に誠あれば、
目には見えなくてもおのずから形にあらわれる。 というわけで、百年ほど時を経たのだ。
が、残された文献に『九皐会』の名称が確認できるのは 明治39年が最古ということである。
明治39年は後藤新平総裁による南満州鉄道会社が発足し、たばこのゴールデンバットが
10本4銭で庶民に多いに喜ばれたそうだ。この年、島崎藤村の小説、破壊が話題になっている。
ふぅ〜む。
まぁ、ざっとそんな頃に始まったものが 百歳の祝いをする時期となった、ということだ。
折しも三余堂 観世九皐会百周年記念翁付五番能で 百萬 を勤める。
我子と生き別れ、悲嘆のあまり狂乱の状態になった里女、百萬の話である。
百萬は嵯峨の大念仏で、身の上を嘆き、子との再会を仏前に祈りつつ、舞を奉げる。
乱れた心が我子の姿を群集の雑踏の中に捜し出す。里人が連れていた子を我子と知り、仏力に謝して こころの安穏を得て奈良の都へと帰って行く。
この百萬、
デカンショデカンショで 半年ゃ暮らす ヨイヨイ、 後の半年ゃ 寝て暮らす ヨーイヨーイデッカンショ と流行った頃、第一回九皐会で初代観世喜之が勤めた曲であった。
投稿日 2008年12月13日 3:04:35
最終更新日 2008年12月13日 3:04:38
【修正】
2008年11月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
随喜の涙という言葉がある。
「随喜」は仏教語で 人の善事を見て、これに随順し歓喜すること。
つまり 人さまの行う善を見て、それに従って喜びを感じることを謂うわけだ。
随喜の涙は そんな喜びに涙が出るのだから、一般的には心から有りがたぁ〜く思う時に使う。
そして うれし涙を流す。
このずいき、辞書には「芋茎」、「芋苗」もある。
さと芋の茎だ。
芋の中心から出た茎、ということで髄茎(ずいき)だという説やら、南北朝時代の臨済宗の僧、
夢窓国師漱石の 《いもの葉に置く 白露のたまらぬは これや随喜の涙なるらん》 からだ
という説があるそうな…
近隣の都立農芸高校で見事に育った里芋の畑
芋のずいきの方の由来は諸説粉々ながら お好きな方は随喜の涙となる、食品らしい。
乾燥させたものはいもがらとしてスーパーで売られているのを見るが、三余堂御用達スーパーで
生鮮の物を見たことはない。
だいたい、一般に食材として販売するものとは思わなかった。
ずいきは平成14年に加賀野菜として認定されたそうだが、石川県では力を入れているのだろうか。
ふだんの食卓で、酢の物や煮物でお目にかかっているのだろうか。それさえも定かでない。
成分を調べてみると鉄分、カルシウム、食物繊維、カリウムなどが豊富なようで、
古くから、ずいきは古血を洗うと云われたそうだ。
出産後に食べると体力が早く回復するとされ、食することを産後の儀式としてきた地域もあるという。
常にこのようなものを食してゃぁ メタボなんぞなるもんか。
サトイモはインド東部からインドシナ半島が原産地で縄文時代中期に渡来したという。
歴史ある食材ということだ。
乾燥したものを 加藤清正は熊本城を作った際に 干したずいきを畳の床材としたり、
着物に縫い込んだりと、飢饉や戦の際の非常食として活用もしたらしい。
そんな芋茎が 玄関 にあった。
収穫された 里芋の茎
芋茎
知人のご丹精の成果。御裾分けに預かり、鍋にて登場のようである。
ズイキの涙にむせび ありがたく頂戴仕らんと存ずる!
「随喜」は仏教語で 人の善事を見て、これに随順し歓喜すること。
つまり 人さまの行う善を見て、それに従って喜びを感じることを謂うわけだ。
随喜の涙は そんな喜びに涙が出るのだから、一般的には心から有りがたぁ〜く思う時に使う。
そして うれし涙を流す。
このずいき、辞書には「芋茎」、「芋苗」もある。
さと芋の茎だ。
芋の中心から出た茎、ということで髄茎(ずいき)だという説やら、南北朝時代の臨済宗の僧、
夢窓国師漱石の 《いもの葉に置く 白露のたまらぬは これや随喜の涙なるらん》 からだ
という説があるそうな…
近隣の都立農芸高校で見事に育った里芋の畑

芋のずいきの方の由来は諸説粉々ながら お好きな方は随喜の涙となる、食品らしい。
乾燥させたものはいもがらとしてスーパーで売られているのを見るが、三余堂御用達スーパーで
生鮮の物を見たことはない。
だいたい、一般に食材として販売するものとは思わなかった。
ずいきは平成14年に加賀野菜として認定されたそうだが、石川県では力を入れているのだろうか。
ふだんの食卓で、酢の物や煮物でお目にかかっているのだろうか。それさえも定かでない。
成分を調べてみると鉄分、カルシウム、食物繊維、カリウムなどが豊富なようで、
古くから、ずいきは古血を洗うと云われたそうだ。
出産後に食べると体力が早く回復するとされ、食することを産後の儀式としてきた地域もあるという。
常にこのようなものを食してゃぁ メタボなんぞなるもんか。
サトイモはインド東部からインドシナ半島が原産地で縄文時代中期に渡来したという。
歴史ある食材ということだ。
乾燥したものを 加藤清正は熊本城を作った際に 干したずいきを畳の床材としたり、
着物に縫い込んだりと、飢饉や戦の際の非常食として活用もしたらしい。
そんな芋茎が 玄関 にあった。
収穫された 里芋の茎
芋茎知人のご丹精の成果。御裾分けに預かり、鍋にて登場のようである。
ズイキの涙にむせび ありがたく頂戴仕らんと存ずる!
投稿日 2008年11月12日 21:57:44
最終更新日 2008年11月12日 21:58:24
【修正】
2008年10月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
三輪という能がある。秋の曲。
女が毎夜通ってくる男の正体を知ろうとして、衣の裾に糸を付けて後を追ってみると
男は三輪明神だったという説話に 天岩戸の神話と玄賓<げんぴん>僧都に関する伝説を
からませて、神道と仏教がないまぜに、男と女が逆になったりと脚色構成されている。
曲名の三輪は 山全体が御神体の円錐形の秀麗な山をさす。 大物主神を祀る、三輪山。
大神神社<おおみわじんじゃ>は、国のまほろばと称えられる大和の東南、奈良県桜井市にある。
桜井 の海柘榴市<つばいち>から奈良までの26kmほどを我が国最古の道として
山辺の道を歩いた経験もあろう。 日本書紀にも記されている。
もっとも 記憶は三輪素麺ばかり、ということもある。
大神神社 のホームページは親切にご神体を報せているので ご一読を。
むかし、昔、そのむかし、
三輪山の麓に庵室をかまえている僧都のもとへ、毎日、樒<しきみ>と閼伽<あか>の水を
持ってくる女がいた。今日こそは アンタノお名前ナンテェノ! 御住いドチラデゴザイマス?
と訊こうと思う 玄賓<げんぴん>僧都。
なんたって 秋も深まってここは人も来ないような寂しいところだもン、聞かなきゃ、キカナキャ。
そんなこんなと思ううち やってきた里の女。 アタシッテ、罪深い女なのと言ったか どうだか。
ちょっとおしゃべりなんかして。
秋って夜になると急に冷えますワ。 あぁ、チョット羽織るものがあるとォ…
どうぞ、どうぞこの衣をお持ちなされ!
あらぁ 有難うございますぅ、では サ ヨ オ ナ ラ !
ちょっと 待った。 御住いドチラデゴザイマス?
「わが庵は三輪の山もと 恋しくば とぶらひ来ませ杉立てる門<かど>」 の歌の杉立てる門を
目印にいらっしゃってぇ。
行かなきゃ、いかなきゃ 三輪の里、杉立てる門はドコジャイナ 玄賓僧都は まっしぐら!!!
三輪明神に日参をしている男が、御神木の杉の枝に玄賓僧都の衣をみつけた。
衣の裾には、金色の文字で 「三つの輪は、清く浄きぞ唐衣、くると思ふな、取ると思はじ」 と、
和歌が記されて・・・・・・
ややっ! 杉の木陰から、女姿の三輪明神が。 玄賓僧都は見つけたりィ〜!
神も衆生を救うため、迷い深い人間の、心を持つことあるのです、その罪助けてほしいのょ。
ねぇ 御願い致します。と、玄賓僧都は女姿の三輪明神さまにお頼まれしちゃって。
このあたりは 杓子定規に考えず、神様がお坊様にお願いしたって訳で。
神様が仏教の僧侶に救いを求めるというのは不可解であるが、神仏習合、本地垂迹説など、
中世神道思想からすればそれほど理解をこえた不自然な発想ではなかったらしい。
もっとも 現代は神様も仏様もはては 西洋の神様もごちゃごちゃで なぁんとも思わぬかもしれぬ。
女姿の三輪明神、烏帽子、狩衣裳裾の上に掛け、御影あらたに見えたもう給う!
玄賓僧都感激ィってなるってわけで。
現れ出でたる三輪明神、三輪の妻訪い神話や天照大神の岩戸隠れをたっぷり語り、舞い、
その上神楽舞を奏して、夜明けと共に消えてゆく。
覚むるや 名残なるらん、覚むるや 名残なるらん と。
このページがアップされる頃、三余堂《三輪》を勤める。 於 観世九皐会定例会。
女が毎夜通ってくる男の正体を知ろうとして、衣の裾に糸を付けて後を追ってみると
男は三輪明神だったという説話に 天岩戸の神話と玄賓<げんぴん>僧都に関する伝説を
からませて、神道と仏教がないまぜに、男と女が逆になったりと脚色構成されている。
曲名の三輪は 山全体が御神体の円錐形の秀麗な山をさす。 大物主神を祀る、三輪山。
大神神社<おおみわじんじゃ>は、国のまほろばと称えられる大和の東南、奈良県桜井市にある。
桜井 の海柘榴市<つばいち>から奈良までの26kmほどを我が国最古の道として
山辺の道を歩いた経験もあろう。 日本書紀にも記されている。
もっとも 記憶は三輪素麺ばかり、ということもある。
大神神社 のホームページは親切にご神体を報せているので ご一読を。
むかし、昔、そのむかし、
三輪山の麓に庵室をかまえている僧都のもとへ、毎日、樒<しきみ>と閼伽<あか>の水を
持ってくる女がいた。今日こそは アンタノお名前ナンテェノ! 御住いドチラデゴザイマス?
と訊こうと思う 玄賓<げんぴん>僧都。
なんたって 秋も深まってここは人も来ないような寂しいところだもン、聞かなきゃ、キカナキャ。
そんなこんなと思ううち やってきた里の女。 アタシッテ、罪深い女なのと言ったか どうだか。
ちょっとおしゃべりなんかして。
秋って夜になると急に冷えますワ。 あぁ、チョット羽織るものがあるとォ…
どうぞ、どうぞこの衣をお持ちなされ!
あらぁ 有難うございますぅ、では サ ヨ オ ナ ラ !
ちょっと 待った。 御住いドチラデゴザイマス?
「わが庵は三輪の山もと 恋しくば とぶらひ来ませ杉立てる門<かど>」 の歌の杉立てる門を
目印にいらっしゃってぇ。
行かなきゃ、いかなきゃ 三輪の里、杉立てる門はドコジャイナ 玄賓僧都は まっしぐら!!!
三輪明神に日参をしている男が、御神木の杉の枝に玄賓僧都の衣をみつけた。
衣の裾には、金色の文字で 「三つの輪は、清く浄きぞ唐衣、くると思ふな、取ると思はじ」 と、
和歌が記されて・・・・・・
ややっ! 杉の木陰から、女姿の三輪明神が。 玄賓僧都は見つけたりィ〜!
神も衆生を救うため、迷い深い人間の、心を持つことあるのです、その罪助けてほしいのょ。
ねぇ 御願い致します。と、玄賓僧都は女姿の三輪明神さまにお頼まれしちゃって。
このあたりは 杓子定規に考えず、神様がお坊様にお願いしたって訳で。
神様が仏教の僧侶に救いを求めるというのは不可解であるが、神仏習合、本地垂迹説など、
中世神道思想からすればそれほど理解をこえた不自然な発想ではなかったらしい。
もっとも 現代は神様も仏様もはては 西洋の神様もごちゃごちゃで なぁんとも思わぬかもしれぬ。
女姿の三輪明神、烏帽子、狩衣裳裾の上に掛け、御影あらたに見えたもう給う!
玄賓僧都感激ィってなるってわけで。
現れ出でたる三輪明神、三輪の妻訪い神話や天照大神の岩戸隠れをたっぷり語り、舞い、
その上神楽舞を奏して、夜明けと共に消えてゆく。
覚むるや 名残なるらん、覚むるや 名残なるらん と。
このページがアップされる頃、三余堂《三輪》を勤める。 於 観世九皐会定例会。
投稿日 2008年10月12日 0:42:51
最終更新日 2008年10月12日 0:42:51
【修正】
2008年09月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
せっせと最後の仕事に精出す秋の蝶
やっと秋になった。 空が高くなった。
秋のはじめを感じる朝夕の空気、最後の頑張りの蝉の声。秋茜が空を舞う。
そこに止まる蜻蛉、秋なのに どうもシオカラトンボのようで

秋の初めは陰暦の7月で、 孟秋 もうしゅうという。
陰暦の8月は 仲秋という。秋の中頃ということだ。
中秋は陰暦8月15日。名月が見られる、ということになっている。団子も食わねばならぬ。
尾花<おばな>、つまり 薄<すすき>、を添える。
今年も間もなく月見の宴を張らねばなるまい。
萩<はぎ>、葛<くず>、撫子<なでしこ>、女郎花<おみなえし>、藤袴<ふじばかま>、桔梗<ききょう>
そして 尾花と秋の七草。
七草の庭は、まだまだ縞のズボンが 我がもの顔に横行していて とてもじゃぁないが
渦巻の蚊やりの一つや二つでは 対抗できまい。 因って窓越しの月見の宴。
果たして窓から見えるのか 名月は。
陰暦の9月は 涼秋。もはや、行く秋をしみじみと味わう時期である。
立秋から立冬までを秋として、陰暦では7、8、9月に当たる。
この実りの時期は 感謝の祭りの秋でもある。
都内もあちこちで祭囃子に出会う時期になった。
大地の秋の恵み

やっと秋になった。 空が高くなった。
秋のはじめを感じる朝夕の空気、最後の頑張りの蝉の声。秋茜が空を舞う。
そこに止まる蜻蛉、秋なのに どうもシオカラトンボのようで

秋の初めは陰暦の7月で、 孟秋 もうしゅうという。
陰暦の8月は 仲秋という。秋の中頃ということだ。
中秋は陰暦8月15日。名月が見られる、ということになっている。団子も食わねばならぬ。
尾花<おばな>、つまり 薄<すすき>、を添える。
今年も間もなく月見の宴を張らねばなるまい。
萩<はぎ>、葛<くず>、撫子<なでしこ>、女郎花<おみなえし>、藤袴<ふじばかま>、桔梗<ききょう>
そして 尾花と秋の七草。
七草の庭は、まだまだ縞のズボンが 我がもの顔に横行していて とてもじゃぁないが
渦巻の蚊やりの一つや二つでは 対抗できまい。 因って窓越しの月見の宴。
果たして窓から見えるのか 名月は。
陰暦の9月は 涼秋。もはや、行く秋をしみじみと味わう時期である。
立秋から立冬までを秋として、陰暦では7、8、9月に当たる。
この実りの時期は 感謝の祭りの秋でもある。
都内もあちこちで祭囃子に出会う時期になった。
大地の秋の恵み
投稿日 2008年09月12日 1:34:35
最終更新日 2008年09月12日 1:34:48
【修正】
2008年08月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
2006年12月 案内望遠鏡の≪食後の一服は世界さんぽ≫で書いたグーグルアースは
時と供に進化した。
というほど 時も経っていないが日進月歩のサービスを見せるこの媒体は
ストリートビューなるものを始めた。
道路からの写真をネットで見ることができる。
Googleが今月5日から開始した新サービスは 国内主要都市の道路を網羅しているとのこと。
勿論 はっきりと一般民家も街頭の人の顔も映っている。
まさに 個人の私生活上の自由に触れる問題だ!
Googleでは「公道から撮影したものであれば、法律的には問題がないと考えている」との見解。
ぼかし処理も施しているが……
処理に不満な場合は 問題の詳細とメールアドレスを記入して送信すれば良い。
問題のある写真の削除依頼を受け付けるシステムも出来ていると云う訳だ。
開始早々数十件の削除依頼があったとか、サモアリナン。
現在は 次々対応に追われているであろうか。
出来てしまったシステムは後戻りさせるより 有効活用へ眼を向けていこうという考えもある。
賛否両論、喧々諤々
誰しも 我が屋敷の辺り、子供の頃の懐かしい横町、そんなところから
ついつい時間を過ごすようであるが まちがっちゃぁいけねぇ。
実況生放送ではない、ということだ。
ジィーッジィ、ミーンミンミンミンと生演奏を聴きながら 見える画像は
桜の花見になったり、落葉の木々をぬったり。
こんな工事 何時していたかと工事用幕の下がった壁面をみたり。
地図の補足として良さそうだが、角の煙草屋は平地になり、あったはずの駐車場は コンビニに
なって、目印の青かった家は白に塗り替えられているかも知れない。
大きな街並もしかり。
銀座なぞ 私に断りなくまた、工事で。前に何があったか…… と、御怒りのご婦人には かえって
以前の建物が判るかもしれないが。
もの置けばそこに生れぬ秋の蔭 と 高浜 虚子の句にある。
いくら猛暑でも 暦の立秋はお天道様の高さで確実に秋を知らせている。
良くも、悪くも 置いた物の影まで映す ストリートビュー、一度覗いて確認の必要あり。
こんな町も あんな街も写してしまう。
陽を受ける 東京神楽坂 毘沙門さん前のおせんべや
犬矢来のある裏路地 東京築地明石町
ストリートビュー
http://www.google.co.jp/help/maps/streetview/
時と供に進化した。
というほど 時も経っていないが日進月歩のサービスを見せるこの媒体は
ストリートビューなるものを始めた。
道路からの写真をネットで見ることができる。
Googleが今月5日から開始した新サービスは 国内主要都市の道路を網羅しているとのこと。
勿論 はっきりと一般民家も街頭の人の顔も映っている。
まさに 個人の私生活上の自由に触れる問題だ!
Googleでは「公道から撮影したものであれば、法律的には問題がないと考えている」との見解。
ぼかし処理も施しているが……
処理に不満な場合は 問題の詳細とメールアドレスを記入して送信すれば良い。
問題のある写真の削除依頼を受け付けるシステムも出来ていると云う訳だ。
開始早々数十件の削除依頼があったとか、サモアリナン。
現在は 次々対応に追われているであろうか。
出来てしまったシステムは後戻りさせるより 有効活用へ眼を向けていこうという考えもある。
賛否両論、喧々諤々
誰しも 我が屋敷の辺り、子供の頃の懐かしい横町、そんなところから
ついつい時間を過ごすようであるが まちがっちゃぁいけねぇ。
実況生放送ではない、ということだ。
ジィーッジィ、ミーンミンミンミンと生演奏を聴きながら 見える画像は
桜の花見になったり、落葉の木々をぬったり。
こんな工事 何時していたかと工事用幕の下がった壁面をみたり。
地図の補足として良さそうだが、角の煙草屋は平地になり、あったはずの駐車場は コンビニに
なって、目印の青かった家は白に塗り替えられているかも知れない。
大きな街並もしかり。
銀座なぞ 私に断りなくまた、工事で。前に何があったか…… と、御怒りのご婦人には かえって
以前の建物が判るかもしれないが。
もの置けばそこに生れぬ秋の蔭 と 高浜 虚子の句にある。
いくら猛暑でも 暦の立秋はお天道様の高さで確実に秋を知らせている。
良くも、悪くも 置いた物の影まで映す ストリートビュー、一度覗いて確認の必要あり。
こんな町も あんな街も写してしまう。
陽を受ける 東京神楽坂 毘沙門さん前のおせんべや犬矢来のある裏路地 東京築地明石町

ストリートビュー
http://www.google.co.jp/help/maps/streetview/
投稿日 2008年08月12日 13:40:39
最終更新日 2008年08月12日 13:41:06
【修正】
2008年07月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
真紅の紅葉と割れ出る赤い実が 秋という印象を持つ錦木である。秋の季語になっている。
錦木に寄りそひ立てば我ゆかし 高浜 虚子
山野にも自生しているが 秋にならないと気付かずに見過す。
三余堂でも いつの間にか花が咲き、実がはじけ、いつの間にやら 朽ち果てた。
錦木塚にて
錦木伝説の 錦木はどうも燃えるような赤に変身する あのニシキギ とは限らないようである。
大辞林には 錦木とは「五色に彩った三十センチメートルほどの長さの木で、男が恋する女の家の戸口に夜ごとに一本ずつ立ててゆき、女は同意するときこれを中にしまう。染め木。」
てな、具合である。
もともと鹿角辺りでは、紫根染が欠かせないもので、それが年貢とされていたらしい。
それが狭布 せばぬの。 幅の狭い布だった。南部織りともいう、百姓の野良着である。
錦木も、狭布も鹿角の地名。
毛布 けふ も鹿角一帯の地名で、毛布の狭布は白鳥の羽を織り込んだものが上物とされた。
ニシキギ科の錦木は 真っ赤に染まるが 白鳥の羽を織り込んだ狭布を染められない。
たぶん 別物なのだろう。
で、この反物は幅が狭く 野良着として襟を合わせない仕立であった。
お互いの心がしっくりあわない意を けふの細布胸あはじ と、言い習わしたそうな。
能の錦木は 狭布(けふ・せばぬの)の里を訪れた僧の前に、
細布を持った女と錦木を持った男が現れてこの辺りの風習を話し
三年の間 錦木を立て続けた男の塚に僧を案内し消えていく。
錦木塚の碑の裏側
せばぬののさと とある
そして 亡霊の姿で現れた男は機を織る女の家に錦木を持って行き、舞を舞い、姿を消す。
錦木伝説のかなわぬ恋の悲しさに絡めて、人の様を描く世阿弥作品となったのである。

今年8月 地元愛好者によって 謡が手向けられる
錦木に寄りそひ立てば我ゆかし 高浜 虚子
山野にも自生しているが 秋にならないと気付かずに見過す。
三余堂でも いつの間にか花が咲き、実がはじけ、いつの間にやら 朽ち果てた。
錦木塚にて

錦木伝説の 錦木はどうも燃えるような赤に変身する あのニシキギ とは限らないようである。
大辞林には 錦木とは「五色に彩った三十センチメートルほどの長さの木で、男が恋する女の家の戸口に夜ごとに一本ずつ立ててゆき、女は同意するときこれを中にしまう。染め木。」
てな、具合である。
もともと鹿角辺りでは、紫根染が欠かせないもので、それが年貢とされていたらしい。
それが狭布 せばぬの。 幅の狭い布だった。南部織りともいう、百姓の野良着である。
錦木も、狭布も鹿角の地名。
毛布 けふ も鹿角一帯の地名で、毛布の狭布は白鳥の羽を織り込んだものが上物とされた。
ニシキギ科の錦木は 真っ赤に染まるが 白鳥の羽を織り込んだ狭布を染められない。
たぶん 別物なのだろう。
で、この反物は幅が狭く 野良着として襟を合わせない仕立であった。
お互いの心がしっくりあわない意を けふの細布胸あはじ と、言い習わしたそうな。
能の錦木は 狭布(けふ・せばぬの)の里を訪れた僧の前に、
細布を持った女と錦木を持った男が現れてこの辺りの風習を話し
三年の間 錦木を立て続けた男の塚に僧を案内し消えていく。
錦木塚の碑の裏側
せばぬののさと とあるそして 亡霊の姿で現れた男は機を織る女の家に錦木を持って行き、舞を舞い、姿を消す。
錦木伝説のかなわぬ恋の悲しさに絡めて、人の様を描く世阿弥作品となったのである。

今年8月 地元愛好者によって 謡が手向けられる
投稿日 2008年07月12日 2:19:26
最終更新日 2008年07月12日 2:19:36
【修正】
2008年06月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
秋田から 羽後境につく 
JR東日本奥羽本線羽後境
秋田県大仙市協和町 唐松能舞台へ
秋田県中央部に位置していた協和町は2005年3月に周辺の
大曲市、太田町、神岡町、中仙町、仙北町、西仙北町、南外村と合併し、
大仙市 だいせんしとなった。
まほろばの里と称し唐松岳の麓に整備された史跡公園に能舞台がある。
現存最古の京都西本願寺の北能舞台をモデルにしたという。
1990年にふるさと創生資金を活用して造られた。
この羽後境駅から向かう。
駅舎を見る

JR東日本奥羽本線羽後境
秋田県大仙市協和町 唐松能舞台へ秋田県中央部に位置していた協和町は2005年3月に周辺の
大曲市、太田町、神岡町、中仙町、仙北町、西仙北町、南外村と合併し、
大仙市 だいせんしとなった。
まほろばの里と称し唐松岳の麓に整備された史跡公園に能舞台がある。
現存最古の京都西本願寺の北能舞台をモデルにしたという。
1990年にふるさと創生資金を活用して造られた。
この羽後境駅から向かう。
駅舎を見る
投稿日 2008年06月12日 1:06:50
最終更新日 2008年06月12日 1:07:27
【修正】
2008年05月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
桜の花に別れを告げると あっという間に 景色の色が変わる。
若葉 青葉の季節になった。
若葉して 御目〈おんめ〉の雫〈しづく〉ぬぐはばや
と 奈良の唐招堤寺の鑑真和上の像を拝した芭蕉がよんだ。
境内を覆うみずみずしい若葉で 布教の為の渡来に苦労して失明した和上の御目を
ぬぐって差し上げたいということであろう。
その年の新しい緑には力がある。
街路樹も日、一日と色濃くなって 一年中で最も緑を感じる季節となった。
街路樹は新しい緑となる。
銀座の柳も、練馬の欅も、小さな芽吹きが 柔らかな新緑、そして 胸を張るような若い緑を湛える。
篠懸 すずかけも、花水木も、花が終わって その葉が車の騒音を吸い取っていく。
そのなかに青梅街道の 銀杏もある。 杉並区の木に指定されている。
またたく間に繁り始めた銀杏
青梅街道は起点を東京都新宿区の新宿大ガード西交差点、青梅市を経由し、
東京23区の新宿区、中野区、杉並区、練馬区を突き抜けて 山梨県甲府市に至る。
慶長年間の1603年、青梅で採れる石灰を運搬する路として整備されたという。
江戸城築城のためだ。当時の名称は成木街道であった。
江戸時代の中頃には すでに青梅街道と呼ばれていたらしい。
明治2年、新宿と田無間に乗合馬車が開通。
大正10年に、新宿・荻窪間に路面電車開通。
昭和37年、青梅街道の地下に現在の 東京メトロ丸ノ内線が 荻窪駅まで開通。
これにともない 路面電車は昭和38年に廃止された。
青梅街道善福寺交差点 銀杏並木
杉並区を南北に分けていくこの青梅街道。
晩秋は金色に輝き、冬は太陽の恵みを大地にもたらすべく 葉を落とす銀杏の街路樹。
今 灼熱の夏に涼風を送るために 若葉を湛えはじめた。
常緑の木々には新緑の季節は落ち葉の季節でもある
若葉 青葉の季節になった。
若葉して 御目〈おんめ〉の雫〈しづく〉ぬぐはばや
と 奈良の唐招堤寺の鑑真和上の像を拝した芭蕉がよんだ。
境内を覆うみずみずしい若葉で 布教の為の渡来に苦労して失明した和上の御目を
ぬぐって差し上げたいということであろう。
その年の新しい緑には力がある。
街路樹も日、一日と色濃くなって 一年中で最も緑を感じる季節となった。
街路樹は新しい緑となる。
銀座の柳も、練馬の欅も、小さな芽吹きが 柔らかな新緑、そして 胸を張るような若い緑を湛える。
篠懸 すずかけも、花水木も、花が終わって その葉が車の騒音を吸い取っていく。
そのなかに青梅街道の 銀杏もある。 杉並区の木に指定されている。
またたく間に繁り始めた銀杏

青梅街道は起点を東京都新宿区の新宿大ガード西交差点、青梅市を経由し、
東京23区の新宿区、中野区、杉並区、練馬区を突き抜けて 山梨県甲府市に至る。
慶長年間の1603年、青梅で採れる石灰を運搬する路として整備されたという。
江戸城築城のためだ。当時の名称は成木街道であった。
江戸時代の中頃には すでに青梅街道と呼ばれていたらしい。
明治2年、新宿と田無間に乗合馬車が開通。
大正10年に、新宿・荻窪間に路面電車開通。
昭和37年、青梅街道の地下に現在の 東京メトロ丸ノ内線が 荻窪駅まで開通。
これにともない 路面電車は昭和38年に廃止された。
青梅街道善福寺交差点 銀杏並木

杉並区を南北に分けていくこの青梅街道。
晩秋は金色に輝き、冬は太陽の恵みを大地にもたらすべく 葉を落とす銀杏の街路樹。
今 灼熱の夏に涼風を送るために 若葉を湛えはじめた。
常緑の木々には新緑の季節は落ち葉の季節でもある

投稿日 2008年05月13日 21:22:27
最終更新日 2008年05月13日 21:22:55
【修正】
2008年04月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
秋田の久保田城址ではまだ堅い蕾をつけていた桜は 東京で桜挿頭の様相を呈していた。
その 一週間後 三余堂は中山道の中津川にかかる花を愛でた。
中津川の支流 四つ目川の桜
中津川は中山道にある。
江戸時代に五街道が整備されて中山道は お江戸の日本橋から京三条大橋までの
六十九の宿場を持つ。
日本橋から数えて四十五番目の宿場が中津川である。
現在は 中央自動車道や中央本線の整備で名古屋への足もよくなった。
長野の松本までも 一時間半あまりである。
その昔 東海道膝栗毛の弥次さん喜多さんは江戸への帰り道、中山道六十九次を行ったようだ。
そこに書かれた中津川宿は、旅芸人などのいる賑やかな町であったらしい。
木曽山中の商業の中心地で、穀物、塩、酒、呉服、木綿、紙などが扱われ、市も立ち賑わいを
見せていたのが 中津川宿である。
広重は『木曾海道六拾九次之内』を描いている。
中山道広重美術館 http://museum.city.ena.gifu.jp/top.html
広重は一宿に一枚を描いた。だが、中津川宿は「晴れ」と「雨」の二枚がある。
篠つくような雨の中を、合羽を羽織った3人の武士が急ぐさまを描く雨があるのだ。
中津川から望む山々
中津川の駅に降り立って、遠く北に目をやると丘のように広がる山を見る。恵那山だ。
日本の百名山に挙げられる 二千メートルほどの標高を持つ恵那山(えなさん)は
伊邪那岐命 イザナギノミコト、伊邪美岐命 イザナミノミコト、が天照大神の胞衣(えな)を
納めたと伝えられている。
その恵那の山々を前田青邨画伯は描いている。
中津川は画伯の故郷である。
袱紗に染められた中津川からの山々は ご縁があって三余堂の手元にもある。
もっぱら これからの時期に利用する。中津川で恵那の山に残る雪と桜の花を愛でる頃だ。
恵那山を見遣る 卯月中津川能楽さんぽの日
青邨記念館 http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/museum/seison/
その 一週間後 三余堂は中山道の中津川にかかる花を愛でた。
中津川の支流 四つ目川の桜

中津川は中山道にある。
江戸時代に五街道が整備されて中山道は お江戸の日本橋から京三条大橋までの
六十九の宿場を持つ。
日本橋から数えて四十五番目の宿場が中津川である。
現在は 中央自動車道や中央本線の整備で名古屋への足もよくなった。
長野の松本までも 一時間半あまりである。
その昔 東海道膝栗毛の弥次さん喜多さんは江戸への帰り道、中山道六十九次を行ったようだ。
そこに書かれた中津川宿は、旅芸人などのいる賑やかな町であったらしい。
木曽山中の商業の中心地で、穀物、塩、酒、呉服、木綿、紙などが扱われ、市も立ち賑わいを
見せていたのが 中津川宿である。
広重は『木曾海道六拾九次之内』を描いている。
中山道広重美術館 http://museum.city.ena.gifu.jp/top.html
広重は一宿に一枚を描いた。だが、中津川宿は「晴れ」と「雨」の二枚がある。
篠つくような雨の中を、合羽を羽織った3人の武士が急ぐさまを描く雨があるのだ。
中津川から望む山々

中津川の駅に降り立って、遠く北に目をやると丘のように広がる山を見る。恵那山だ。
日本の百名山に挙げられる 二千メートルほどの標高を持つ恵那山(えなさん)は
伊邪那岐命 イザナギノミコト、伊邪美岐命 イザナミノミコト、が天照大神の胞衣(えな)を
納めたと伝えられている。
その恵那の山々を前田青邨画伯は描いている。
中津川は画伯の故郷である。
袱紗に染められた中津川からの山々は ご縁があって三余堂の手元にもある。
もっぱら これからの時期に利用する。中津川で恵那の山に残る雪と桜の花を愛でる頃だ。
恵那山を見遣る 卯月中津川能楽さんぽの日青邨記念館 http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/museum/seison/
投稿日 2008年04月13日 12:35:03
最終更新日 2008年04月13日 12:35:39
【修正】
2008年03月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
観世九皐会三月定例能、月並に野守が出た。
山伏が大和の春日野の池にたどり着く。
出会った野守の老人に尋ねると、野守たちが 鏡の代りにしているので
野守の鏡 という名だと教える。
昔 昼は野守、夜は鬼神の姿となる鬼がいた。その鬼が持っていた鏡を野守だという。
山伏は、箸鷹の野守の鏡得てしがな … という古歌を思い出す。
老人は、それもこの池を詠んだものであることを云う。
ある時、帝が鷹狩りの折 野守が水中に白斑の鷹の姿があることを教えた。
それは木の上にいた鷹の影が水に写っていたものだった。
そこで、 箸鷹の野守の鏡得てしがな 思い思わず外ながら見ん となる。
はしたかの のもりのかがみ えてしがな おもいおもわず よそながらみん
雄略天皇鷹狩りの時という。
塚の中に姿を消した老人の野守は 夜になると鬼神となって現れた。
天上界から地獄の底までを映し出す大きな鏡を持って。
そして、大地を踏み破って去って行く。 という 話である。
野守というと 額田王の歌を思い起こされよう。
万葉集の中に 天皇の蒲生野に遊猟したまひし時に額田王の作りし歌 として
あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
とある。 後の天武天皇、大海人皇子の歌に額田王が 返した歌である。
井上靖の小説 額田王 等々で そこのいきさつは お読み頂きたいが …
標野は 立入禁止の標を立てた野のことで、天皇の直轄地。
故に野を守る野守が 番人としている訳だ。
古今和歌集の
春日野の飛火の野守 出でて見よ 今いく日ありて若菜摘みてむ を能 野守 では シテの老野守が
春日野の飛ぶ火の野守いでで見れば 今幾程ぞ 若菜摘む と謡う
野のことは 何でも 野守のおじぃさんに聞けば ご存じ!
野は 奈良東方、春日野の飛火野。
春日野は興福寺、東大寺、春日大社などの広大な範囲になる。
その中でも春日大社参道の南側を特に 飛火野 とぶひの という。
そこの野守は 夜になると天上地獄の赤裸々な姿をご存じ!
天上、地獄、つまり宇宙の真実を映し出す鏡を持ってる おじぃさん?
いやいや、眼光鋭き鬼神なり。が、この鬼神の私がこわけりゃ引っ込みますよ とも言う。
地獄案内をたっぷりしてくれる。 いろいろなものを見せ、解き明かしてくれる。
昨日 スペースシャトル エンデバー号が、日本時間午後3時28分に打上げ成功。
土井隆雄宇宙飛行士の手によって スペースシャトルのロボットアームの起動・点検など実施。
地上約400キロメートル上空に建設が進められている巨大な有人施設。
国際宇宙ステーションの一部となる「きぼう」日本実験棟 を据付けるという訳だ。
「きぼう」は、宇宙飛行士が長期間活動することができる、日本では初めての有人施設となる。
3回に分けて、アメリカフロリダ州からスペースシャトルで打上げられるとのこと。
その第1回が昨日だった。
野守の鬼神は 大きな鏡でセンコクゴショウチ だったろう。
奈良市観光センターhttp://www.narashikanko.jp/
宇宙航空研究開発機構http://kibo.jaxa.jp/index.html
山伏が大和の春日野の池にたどり着く。
出会った野守の老人に尋ねると、野守たちが 鏡の代りにしているので
野守の鏡 という名だと教える。
昔 昼は野守、夜は鬼神の姿となる鬼がいた。その鬼が持っていた鏡を野守だという。
山伏は、箸鷹の野守の鏡得てしがな … という古歌を思い出す。
老人は、それもこの池を詠んだものであることを云う。
ある時、帝が鷹狩りの折 野守が水中に白斑の鷹の姿があることを教えた。
それは木の上にいた鷹の影が水に写っていたものだった。
そこで、 箸鷹の野守の鏡得てしがな 思い思わず外ながら見ん となる。
はしたかの のもりのかがみ えてしがな おもいおもわず よそながらみん
雄略天皇鷹狩りの時という。
塚の中に姿を消した老人の野守は 夜になると鬼神となって現れた。
天上界から地獄の底までを映し出す大きな鏡を持って。
そして、大地を踏み破って去って行く。 という 話である。
野守というと 額田王の歌を思い起こされよう。
万葉集の中に 天皇の蒲生野に遊猟したまひし時に額田王の作りし歌 として
あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
とある。 後の天武天皇、大海人皇子の歌に額田王が 返した歌である。
井上靖の小説 額田王 等々で そこのいきさつは お読み頂きたいが …
標野は 立入禁止の標を立てた野のことで、天皇の直轄地。
故に野を守る野守が 番人としている訳だ。
古今和歌集の
春日野の飛火の野守 出でて見よ 今いく日ありて若菜摘みてむ を能 野守 では シテの老野守が
春日野の飛ぶ火の野守いでで見れば 今幾程ぞ 若菜摘む と謡う
野のことは 何でも 野守のおじぃさんに聞けば ご存じ!
野は 奈良東方、春日野の飛火野。
春日野は興福寺、東大寺、春日大社などの広大な範囲になる。
その中でも春日大社参道の南側を特に 飛火野 とぶひの という。
そこの野守は 夜になると天上地獄の赤裸々な姿をご存じ!
天上、地獄、つまり宇宙の真実を映し出す鏡を持ってる おじぃさん?
いやいや、眼光鋭き鬼神なり。が、この鬼神の私がこわけりゃ引っ込みますよ とも言う。
地獄案内をたっぷりしてくれる。 いろいろなものを見せ、解き明かしてくれる。
昨日 スペースシャトル エンデバー号が、日本時間午後3時28分に打上げ成功。
土井隆雄宇宙飛行士の手によって スペースシャトルのロボットアームの起動・点検など実施。
地上約400キロメートル上空に建設が進められている巨大な有人施設。
国際宇宙ステーションの一部となる「きぼう」日本実験棟 を据付けるという訳だ。
「きぼう」は、宇宙飛行士が長期間活動することができる、日本では初めての有人施設となる。
3回に分けて、アメリカフロリダ州からスペースシャトルで打上げられるとのこと。
その第1回が昨日だった。
野守の鬼神は 大きな鏡でセンコクゴショウチ だったろう。
奈良市観光センターhttp://www.narashikanko.jp/
宇宙航空研究開発機構http://kibo.jaxa.jp/index.html
投稿日 2008年03月14日 23:39:37
最終更新日 2008年03月14日 23:40:00
【修正】
2008年02月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
案内望遠鏡でふれた 足袋のもとと云われる、襪 しとうずは 一体どんなものか。
あれじゃぁ わかんねぇ ということで 画をご参照願いたし!
まあ こんな感じで…
まさに足の袋で、底や、鞐(こはぜ)は 無く紐で結ぶ。
大陸の唐から原型が伝わり、これを下沓 シタクツと呼び、シタグツの音便でシタウズ。
そしてシトウズになったということだ。 襪は錦、綾、麻などを表地に,白麻などを裏地に用いた。
まぁ、一般人には関係のない 朝廷の装束 である。
だいだい 履物は実用の為だけではなく、別世界へ行く為の手段と考えられていたようである。
魂の宿るものとされ、神仏に履物を奉納したり,正月や季節ごとに村境に履物を吊るして
魔除けとする風習が各地にあるという。
又、この世とあの世の境で神様をお迎えするためのものだとも。
履物は婚礼において縁結びの役割をしており、平安の貴族は、婿の履いて来た沓を
花嫁の両親が抱いて寝る〈沓取りの儀〉という風習があったそうだ。
民間は、履物を結婚祝いや結納品として贈ることがあったようだし 逆に 縁切寺では
女が駆けこむ代りに、寺の境内にその履物を投げこめば、夫と別れられたとか…
こちらの世と別の世とは履物とはだしの関係か。
聖と俗、非日常と日常が、履物とはだしの対立で示されるのは
どうも我が国ばかりではなさそうで、神の言葉として ≪足からくつを脱ぎなさい。あなたが
立っている場所は聖なる地だからである。≫と旧約聖書にあるそうな。
ギリシア、ローマでも神殿などへの参内は、はだしでなければならなかったと伝えられ、
エジプトやインドでも神官は はだしで神殿に入ったということだ。
イスラム教徒は,モスクに入るときは履物を脱ぐ。
一般に、はだしが神前での礼を表すと考えられたのであろう。
昔、といっても大昔。
旅に出る時に素足でわらじを履くと足を痛めるので特別に、鹿皮の袋で足を包んで出掛けた。
わらじが履けるように、指が分かれた袋になる。鼻緒を親指と第二趾ではさんで歩く。
これが基で その名もずばり、旅、タビ、足袋との説もある。
日本独特の、履物足袋は大事な旅道具。
親指と四本の指は 地面をつかみ、踏ん張りがきき 誠に結構な履物。
能の舞台では どんな大旅行をしても足袋以外の履物を排している。
舞台をぐるっと廻って都へ参ろうと、かの地へいこうと、神も鬼も
妙齢の夫人も婆さんも、山谷を駆け巡ろうが、合戦であろうが みな足袋である。
親指と四本の指は 舞台という地面をつかみ、踏ん張りを効かせ身体を運んで行く。
誠に結構な履物、足袋。
ハコビの技、舞の技の足元は足袋が全てを表した。
能の特色のひとつである。
一枚一枚手で焼かれた
五寸程の香ばしさ
あれじゃぁ わかんねぇ ということで 画をご参照願いたし!
まあ こんな感じで…

まさに足の袋で、底や、鞐(こはぜ)は 無く紐で結ぶ。
大陸の唐から原型が伝わり、これを下沓 シタクツと呼び、シタグツの音便でシタウズ。
そしてシトウズになったということだ。 襪は錦、綾、麻などを表地に,白麻などを裏地に用いた。
まぁ、一般人には関係のない 朝廷の装束 である。
だいだい 履物は実用の為だけではなく、別世界へ行く為の手段と考えられていたようである。
魂の宿るものとされ、神仏に履物を奉納したり,正月や季節ごとに村境に履物を吊るして
魔除けとする風習が各地にあるという。
又、この世とあの世の境で神様をお迎えするためのものだとも。
履物は婚礼において縁結びの役割をしており、平安の貴族は、婿の履いて来た沓を
花嫁の両親が抱いて寝る〈沓取りの儀〉という風習があったそうだ。
民間は、履物を結婚祝いや結納品として贈ることがあったようだし 逆に 縁切寺では
女が駆けこむ代りに、寺の境内にその履物を投げこめば、夫と別れられたとか…
こちらの世と別の世とは履物とはだしの関係か。
聖と俗、非日常と日常が、履物とはだしの対立で示されるのは
どうも我が国ばかりではなさそうで、神の言葉として ≪足からくつを脱ぎなさい。あなたが
立っている場所は聖なる地だからである。≫と旧約聖書にあるそうな。
ギリシア、ローマでも神殿などへの参内は、はだしでなければならなかったと伝えられ、
エジプトやインドでも神官は はだしで神殿に入ったということだ。
イスラム教徒は,モスクに入るときは履物を脱ぐ。
一般に、はだしが神前での礼を表すと考えられたのであろう。
昔、といっても大昔。
旅に出る時に素足でわらじを履くと足を痛めるので特別に、鹿皮の袋で足を包んで出掛けた。
わらじが履けるように、指が分かれた袋になる。鼻緒を親指と第二趾ではさんで歩く。
これが基で その名もずばり、旅、タビ、足袋との説もある。
日本独特の、履物足袋は大事な旅道具。
親指と四本の指は 地面をつかみ、踏ん張りがきき 誠に結構な履物。
能の舞台では どんな大旅行をしても足袋以外の履物を排している。
舞台をぐるっと廻って都へ参ろうと、かの地へいこうと、神も鬼も
妙齢の夫人も婆さんも、山谷を駆け巡ろうが、合戦であろうが みな足袋である。
親指と四本の指は 舞台という地面をつかみ、踏ん張りを効かせ身体を運んで行く。
誠に結構な履物、足袋。
ハコビの技、舞の技の足元は足袋が全てを表した。
能の特色のひとつである。
一枚一枚手で焼かれた
五寸程の香ばしさ
投稿日 2008年02月13日 9:43:04
最終更新日 2008年02月13日 9:44:22
【修正】
2008年01月13日
カテゴリ : [三余堂月次]
便利は不便のインターネット再開につき おまけの いや、お年玉の 月次記事ご披露 !
御慶
関東で 松の明ける正月7日は お飾りの一斉撤去。
近年 門松が立つ家を近隣で見ることは とんとなくなった。
元旦の旗日に日の丸を出す家は皆無で、獅子舞も来ないし、羽根つきの音なんぞ
聞こえるわけもない。凧揚げの声も響かず 静かなものである。
元日から コンビニは勿論 スーパーも平常営業。
故に 松が明けようと、どうしようとそんなこと関係ない …… というのが 街の様子である。
お飾りも スーパーで山積にして売っているのを 買うようじゃぁ致し方あるまい。
三余堂も 昔ながらの注連飾りではなくなっている。
そんな玄関の飾りを取外すべく上方に 目を向けた。 その時、
外すは松飾か蜂の巣か
雨樋と塀の間に 蜂の巣を見る。 蜂の巣? すっかり枯れた蜂の巣発見。
小さくうつくしい六角の部屋、へや、ヘヤが建設されている。
コアシナガバチだろうか、まさか 蜜蜂でもあるまい。勿論 スズメバチの巣ではない。
ブンブンと蜂が舞っていた記憶もなし、何故、今発見か。

巣の中に蜂のかぶとの動き見ゆ 高浜虚子
蜂の巣は春の季語。動くかぶとのない時期に出くわした。
こいつぁァ はるから…… となれば 有難しありがたし。
三余堂 蜂の巣を外すの場、 チョッン!
御慶

関東で 松の明ける正月7日は お飾りの一斉撤去。
近年 門松が立つ家を近隣で見ることは とんとなくなった。
元旦の旗日に日の丸を出す家は皆無で、獅子舞も来ないし、羽根つきの音なんぞ
聞こえるわけもない。凧揚げの声も響かず 静かなものである。
元日から コンビニは勿論 スーパーも平常営業。
故に 松が明けようと、どうしようとそんなこと関係ない …… というのが 街の様子である。
お飾りも スーパーで山積にして売っているのを 買うようじゃぁ致し方あるまい。
三余堂も 昔ながらの注連飾りではなくなっている。
そんな玄関の飾りを取外すべく上方に 目を向けた。 その時、
外すは松飾か蜂の巣か

雨樋と塀の間に 蜂の巣を見る。 蜂の巣? すっかり枯れた蜂の巣発見。
小さくうつくしい六角の部屋、へや、ヘヤが建設されている。
コアシナガバチだろうか、まさか 蜜蜂でもあるまい。勿論 スズメバチの巣ではない。
ブンブンと蜂が舞っていた記憶もなし、何故、今発見か。

巣の中に蜂のかぶとの動き見ゆ 高浜虚子
蜂の巣は春の季語。動くかぶとのない時期に出くわした。
こいつぁァ はるから…… となれば 有難しありがたし。
三余堂 蜂の巣を外すの場、 チョッン!
投稿日 2008年04月01日 12:30:29
最終更新日 2008年04月01日 12:30:50
【修正】
2008年01月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
困ったもんだ!
というのは、三余堂のPCがお釈迦を装い始めたらく、立ち上がったりネットに繋がったりをぐずっているとか。
そこで本日は三余堂の代わりに鵞毛庵が助っ人として登場と相成りました。
改めて、
皆様、新年、明けましておめでとうございます。

とはいっても、日本もここフランスも正月気分は段々と薄れてまいりました。日本では松も取れ、七草、鏡開きも済み、フランスでは1月6日のキリスト公現祭(エピファニー)を過ぎてクリスマス・年始の飾りも少しづつ外されています。
鵞毛庵は巴里にいながらにして、七草粥もどきを食べ、当庵の鏡餅は画像のような具合ですので鏡開きならぬ普通のお餅で、でもきちんと小豆から煮てお汁粉をいただきました。そして、毎年、この時期になると欠かせないのがガレット・デ・ロワというパイ菓子。
そういえば、昨年の今頃、PCではなくてこのサイト自身に問題が生じて、鵞毛庵はガレットをぱくつきながら悪戦苦闘しておりました。
さて、そのガレット、なんぞや?エピファニーとはなんぞや?
エピファニー(ご公現)とは、キリスト誕生に際して東方より三博士がお祝いに駆けつけた日。馬小屋に傅いている三人の図を目にしたことがあるかと思います。この三博士が、お祝いの品を届けたというのがクリスマスプレゼントの起源。現在でもイタリアやスペインでは子供にはこの日にプレゼントをします。
ガレット・デ・ロワとエピファニーの図
フランスでは、1月の声を聞くとエピファニーを記念したガレット・デ・ロワというアーモンドペーストの入ったパイ菓子と王冠がパン屋さんやお菓子屋さんの店頭に並びます。なぜ王冠かというと、日本語での三博士はフランス語ではロワ(王様の意)・デ・マージュと呼んで王冠を被っているからです。
このパイの中にフェーヴという陶器の人形などがひとつ入っており、それに当たった人が王様になれるというお遊び付き。
鵞毛庵フェーヴコレクション一部
お財布に入れると金運を招くという節も。
フェーヴというのは本来は蚕豆のことで、古代から食され、貧困な土地でも育つために豊作のシンボルとされていました。また、冬至の行事として冬との決別に豊穣には欠かせない太陽をあがめるための王様を一日選んだという古い習慣があり、このパイ菓子を食べる習慣はキリスト教の三博士来訪と合わさって、今でもしっかりとフランス人の生活に根付いているおめでたい伝統行事です。
能ももともとの起源は五穀豊穣を願った民俗芸能の田楽などから来ていると言われています。フランスのこんな古い風習もやはり五穀豊穣を願ってのこと。
などとブツブツ言いつつ、またしても高カロリーのガレットを口にして自分の体が豊穣状態!
こいつは はるから...
鵞毛庵が今年ゲットしたフェーヴとガレット←1月8日と11日の日記
というのは、三余堂のPCがお釈迦を装い始めたらく、立ち上がったりネットに繋がったりをぐずっているとか。
そこで本日は三余堂の代わりに鵞毛庵が助っ人として登場と相成りました。
改めて、
皆様、新年、明けましておめでとうございます。

とはいっても、日本もここフランスも正月気分は段々と薄れてまいりました。日本では松も取れ、七草、鏡開きも済み、フランスでは1月6日のキリスト公現祭(エピファニー)を過ぎてクリスマス・年始の飾りも少しづつ外されています。
鵞毛庵は巴里にいながらにして、七草粥もどきを食べ、当庵の鏡餅は画像のような具合ですので鏡開きならぬ普通のお餅で、でもきちんと小豆から煮てお汁粉をいただきました。そして、毎年、この時期になると欠かせないのがガレット・デ・ロワというパイ菓子。
そういえば、昨年の今頃、PCではなくてこのサイト自身に問題が生じて、鵞毛庵はガレットをぱくつきながら悪戦苦闘しておりました。
さて、そのガレット、なんぞや?エピファニーとはなんぞや?
エピファニー(ご公現)とは、キリスト誕生に際して東方より三博士がお祝いに駆けつけた日。馬小屋に傅いている三人の図を目にしたことがあるかと思います。この三博士が、お祝いの品を届けたというのがクリスマスプレゼントの起源。現在でもイタリアやスペインでは子供にはこの日にプレゼントをします。
ガレット・デ・ロワとエピファニーの図フランスでは、1月の声を聞くとエピファニーを記念したガレット・デ・ロワというアーモンドペーストの入ったパイ菓子と王冠がパン屋さんやお菓子屋さんの店頭に並びます。なぜ王冠かというと、日本語での三博士はフランス語ではロワ(王様の意)・デ・マージュと呼んで王冠を被っているからです。
このパイの中にフェーヴという陶器の人形などがひとつ入っており、それに当たった人が王様になれるというお遊び付き。
鵞毛庵フェーヴコレクション一部
お財布に入れると金運を招くという節も。
フェーヴというのは本来は蚕豆のことで、古代から食され、貧困な土地でも育つために豊作のシンボルとされていました。また、冬至の行事として冬との決別に豊穣には欠かせない太陽をあがめるための王様を一日選んだという古い習慣があり、このパイ菓子を食べる習慣はキリスト教の三博士来訪と合わさって、今でもしっかりとフランス人の生活に根付いているおめでたい伝統行事です。
能ももともとの起源は五穀豊穣を願った民俗芸能の田楽などから来ていると言われています。フランスのこんな古い風習もやはり五穀豊穣を願ってのこと。
などとブツブツ言いつつ、またしても高カロリーのガレットを口にして自分の体が豊穣状態!
こいつは はるから...
鵞毛庵が今年ゲットしたフェーヴとガレット←1月8日と11日の日記
投稿日 2008年01月14日 4:58:23
最終更新日 2008年01月14日 4:58:43
【修正】
2007年12月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
軍師、軍司、軍士、すべてぐんしである。
主将に属して 軍機をつかさどり謀略をめぐらす人と ある。
能 《張良 チョウリョウ》 という曲の張良が、漢の高祖劉邦に仕えた軍師として知られているが、
後漢の頃になって正式な職名として軍師の名が表れたらしい。
ご存知三国志の諸葛孔明は劉備に出仕すると「軍師中郎将」の官名を与えられ、
後に「軍師将軍」となった。
実際 軍師は軍事にのみ助言するというより 政治・軍事の枠を超えて
参謀として仕えたということのようである。
海洋堂フィギア 諸葛孔明 全長約55ミリ
日本では、中世に軍師と呼ばれる人々が現れたとされるが、中世の軍師は
合戦における縁起担ぎを計らうなど、陰陽道の影響を受けたものらしい。
江戸時代には、太平の時代風潮が戦国大名の戦法を研究する学問として軍学が生まれ、
どうもその結果 軍学者らによって 武田信玄に仕えた山本勘助、上杉謙信の宇佐美駿河守定行、
今川義元に仕えた太原雪斎、等々… の武将が 軍学の始祖としてもてはやされて
戦国時代に活躍した軍師と信じられるようになったらしい。
山本勘助は独眼で諏訪の美しい姫に慕われ、真田幸村は猿飛佐助などの忍者の棟梁で、と。
講談本が夢を膨らませ、映画が現実感を誘う。 今やゲームもその気で戦略を練らせる。
広沢虎造 清水次郎長伝
森の石松三十石船道中
出世大将太閤秀吉公に 竹中半兵衛という人あり。
徳川家康公に南光坊天海あり。
ぐっと下がるが 紀州のシと。 蜜柑で売り出すあの 紀伊国屋文左衛門も
仙台の浪人で林長五郎という人が 番頭さんになったから 文左衛門が出世をォォォしたァァ〜
次郎長とても その通り 話し相手がえらいのよォ 〜
と、晩年に藤田嗣治画伯も 巴里の空の下で 制作時に聞いていたという 虎造 がいっている。
日本で軍師として思うは数々あれど まぁ 虎造の言うところの 番頭さんもこなせるのが
条件ということか。話し相手が悪いと大将は出世せず。
歴史街道 2007 5月号に見る竹中半兵衛家所蔵の甲冑
黒田官兵衛とともに、出世大将太閤秀吉の二兵衛といわれた竹中半兵衛。
天正7年6月 享年36、三木城攻めの平井山の陣で胸の病に冒され没した。
もともと 秀でた眉、切れ長の涼やかな双眸(ソウボウ)、白皙の貌(はくせきのかお)、華奢な骨格で
女人に見紛うばかりであったそうな。
その半兵衛所用の甲冑の胸には 大きな軍配団扇が描かれている。
三余堂裃にも軍配団扇が構えているが ……。
主将に属して 軍機をつかさどり謀略をめぐらす人と ある。
能 《張良 チョウリョウ》 という曲の張良が、漢の高祖劉邦に仕えた軍師として知られているが、
後漢の頃になって正式な職名として軍師の名が表れたらしい。
ご存知三国志の諸葛孔明は劉備に出仕すると「軍師中郎将」の官名を与えられ、
後に「軍師将軍」となった。
実際 軍師は軍事にのみ助言するというより 政治・軍事の枠を超えて
参謀として仕えたということのようである。
海洋堂フィギア 諸葛孔明 全長約55ミリ日本では、中世に軍師と呼ばれる人々が現れたとされるが、中世の軍師は
合戦における縁起担ぎを計らうなど、陰陽道の影響を受けたものらしい。
江戸時代には、太平の時代風潮が戦国大名の戦法を研究する学問として軍学が生まれ、
どうもその結果 軍学者らによって 武田信玄に仕えた山本勘助、上杉謙信の宇佐美駿河守定行、
今川義元に仕えた太原雪斎、等々… の武将が 軍学の始祖としてもてはやされて
戦国時代に活躍した軍師と信じられるようになったらしい。
山本勘助は独眼で諏訪の美しい姫に慕われ、真田幸村は猿飛佐助などの忍者の棟梁で、と。
講談本が夢を膨らませ、映画が現実感を誘う。 今やゲームもその気で戦略を練らせる。
広沢虎造 清水次郎長伝
森の石松三十石船道中出世大将太閤秀吉公に 竹中半兵衛という人あり。
徳川家康公に南光坊天海あり。
ぐっと下がるが 紀州のシと。 蜜柑で売り出すあの 紀伊国屋文左衛門も
仙台の浪人で林長五郎という人が 番頭さんになったから 文左衛門が出世をォォォしたァァ〜
次郎長とても その通り 話し相手がえらいのよォ 〜
と、晩年に藤田嗣治画伯も 巴里の空の下で 制作時に聞いていたという 虎造 がいっている。
日本で軍師として思うは数々あれど まぁ 虎造の言うところの 番頭さんもこなせるのが
条件ということか。話し相手が悪いと大将は出世せず。
歴史街道 2007 5月号に見る竹中半兵衛家所蔵の甲冑

黒田官兵衛とともに、出世大将太閤秀吉の二兵衛といわれた竹中半兵衛。
天正7年6月 享年36、三木城攻めの平井山の陣で胸の病に冒され没した。
もともと 秀でた眉、切れ長の涼やかな双眸(ソウボウ)、白皙の貌(はくせきのかお)、華奢な骨格で
女人に見紛うばかりであったそうな。
その半兵衛所用の甲冑の胸には 大きな軍配団扇が描かれている。
三余堂裃にも軍配団扇が構えているが ……。
投稿日 2008年03月28日 9:15:40
最終更新日 2008年03月28日 9:16:03
【修正】
2007年11月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
パソコンの使い方を知るについてはどのようにしたか。
電源の入れ方、切り方から マウスの使い方、キーボードの打ち方。
誰かに 教わったかどうか ……
gooリサーチと日経パソコンの共同企画調査によると 30代、40代の男性に尋ねたところ、
パソコンを使い始めた当初どのようにして勉強したか という問いに、
使っているうちに身に付いた 38.5% 周囲の人 (家族、同僚など) に教わった 34.0%
パソコン雑誌から 20.0% パソコン学習書、テキストなどの利用 21.0% という結果で
その中で 最も役立ったと思う学習法は、周囲の人に訊く という結果だったらしい。
兎にも角にも 他人から教わっているということだ。
取扱い説明書も読まずに始める がむしゃらな人はともかく
ただ 忘れているだけで、はじめの一歩 は何かに導かれているものだ。
子供の頃に身につけたものと違い、大人になって取り組むと 面倒や辛さばかりが記憶に残る。
自動販売機での買い物はするが、 駅や銀行は争って券売機、ATMなどの新機種を
導入するので 正直面倒である。コードレスの電話も機種によっては 訳が判らない。
最新の携帯電話はすこぶるややこしい。ラジオはともかく 地デジだ、ケーブルだのと
テレビのリモコンのボタンが多すぎる。 でも なんとか克服、というより 共生している。
師伝によらず自分で勝手に定めた流儀、つまり 無手勝流では テレビも映るし、電話も通じるが
ATMなどは 頓珍漢なところへ硬貨を入れて散々な目に遭ったりする。
無駄なく王道を行くには 先達というものが不可欠である。
利用については 教えて貰うだけでは駄目である。
繰り返して修め行い、稽古し、身に付けるところまでこないと 小銭投入の達人にならない。
まっ、そんなことの達人になる必要もないし、そんな機械を使わなきゃぁいいってことだ。
とも云っていられないのが 昨今の状況である。
病院の支払いもスーパーのレジもセルフコーナーへと 誘導される時代だ。
大概 近くに妙齢と思われる婦人が 機械の説明係りで陣取っている。
こんな時こそ よき先達を得て 習う ということを怠るべからず!
習うということは 繰り返して修め行い、稽古し、身に付ける ということで …
さてさて 伝授を受けなければ知り難いことに 挑戦するわけである。
習うことを許された という印の免許状を掲げて、はじめの一歩を踏出す。
これを省くと痛い目に遭うということか。
電源の入れ方、切り方から マウスの使い方、キーボードの打ち方。
誰かに 教わったかどうか ……
gooリサーチと日経パソコンの共同企画調査によると 30代、40代の男性に尋ねたところ、
パソコンを使い始めた当初どのようにして勉強したか という問いに、
使っているうちに身に付いた 38.5% 周囲の人 (家族、同僚など) に教わった 34.0%
パソコン雑誌から 20.0% パソコン学習書、テキストなどの利用 21.0% という結果で
その中で 最も役立ったと思う学習法は、周囲の人に訊く という結果だったらしい。
兎にも角にも 他人から教わっているということだ。
取扱い説明書も読まずに始める がむしゃらな人はともかく
ただ 忘れているだけで、はじめの一歩 は何かに導かれているものだ。
子供の頃に身につけたものと違い、大人になって取り組むと 面倒や辛さばかりが記憶に残る。
自動販売機での買い物はするが、 駅や銀行は争って券売機、ATMなどの新機種を
導入するので 正直面倒である。コードレスの電話も機種によっては 訳が判らない。
最新の携帯電話はすこぶるややこしい。ラジオはともかく 地デジだ、ケーブルだのと
テレビのリモコンのボタンが多すぎる。 でも なんとか克服、というより 共生している。
師伝によらず自分で勝手に定めた流儀、つまり 無手勝流では テレビも映るし、電話も通じるが
ATMなどは 頓珍漢なところへ硬貨を入れて散々な目に遭ったりする。
無駄なく王道を行くには 先達というものが不可欠である。
利用については 教えて貰うだけでは駄目である。
繰り返して修め行い、稽古し、身に付けるところまでこないと 小銭投入の達人にならない。
まっ、そんなことの達人になる必要もないし、そんな機械を使わなきゃぁいいってことだ。
とも云っていられないのが 昨今の状況である。
病院の支払いもスーパーのレジもセルフコーナーへと 誘導される時代だ。
大概 近くに妙齢と思われる婦人が 機械の説明係りで陣取っている。
こんな時こそ よき先達を得て 習う ということを怠るべからず!
習うということは 繰り返して修め行い、稽古し、身に付ける ということで …
さてさて 伝授を受けなければ知り難いことに 挑戦するわけである。
習うことを許された という印の免許状を掲げて、はじめの一歩を踏出す。
これを省くと痛い目に遭うということか。
投稿日 2007年11月12日 0:24:59
最終更新日 2007年11月12日 0:24:59
【修正】
2007年10月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
御存知世阿弥の 秘すれば花 この言葉は 鵞毛庵の作品でよく取り上げている。
カリグラフィー展作品紹介の最終回にもあったので 記憶に新しいことだろう。
この出典になる世阿弥の風姿花伝は 芸術論であり、哲学論であるから 少々面倒でとっつきが悪い。
おまけに 秘すれば花 … やら 初心忘る … やら 結構気の利いた文句とばかりに使われる。
そのためか、すっかり世阿弥の書を読んだ気でいる御仁もあるので厄介だ。
もっとも 適切な現代語訳もなく、読んじゃあ注釈、読んじゃあ注釈 の繰り返しでは
訳がわかる前に 積読になるのも致し方なし。
風姿花伝は 今風にいう ちょっといいかんじのだいめいだしぃィ ( 読み方のイントネーションに注意!)
十代の頃に サルトルだ ヴォーヴォアールだ 実存主義だと気触れたついでに
手にした向きもあると思う。
昨今のメディアは 簡単に裏側みせます企画で興味を集める。
確かに面白く、こちら側も 何でも見ましょう、 ふぅーんっ、へぇーとなる。
中には○○文化啓蒙のため、××芸術振興のためとばかりに がんばる企画も登場。
取材を受けて ついつい それに丁寧に対応してしまうところが
秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず つまり ナンデモミセリャァイイッテモンジァネェ…。
と対峙するわけで、どの分野も職業上の秘密を弁えて ほどほどに。
とは 謂うものの 見てはならないものは観たいし、聞いてはならないものは聴きたいものだ。
良いか悪いか見せます企画 : 楽屋裏で 作り物の素材はひっそりと役割を待っている

公開した処で どうということもないと思われても 何故、どうして秘すれば…となるのかと
常に心するのが肝要である。
カリグラフィー展作品紹介の最終回にもあったので 記憶に新しいことだろう。
この出典になる世阿弥の風姿花伝は 芸術論であり、哲学論であるから 少々面倒でとっつきが悪い。
おまけに 秘すれば花 … やら 初心忘る … やら 結構気の利いた文句とばかりに使われる。
そのためか、すっかり世阿弥の書を読んだ気でいる御仁もあるので厄介だ。
もっとも 適切な現代語訳もなく、読んじゃあ注釈、読んじゃあ注釈 の繰り返しでは
訳がわかる前に 積読になるのも致し方なし。
風姿花伝は 今風にいう ちょっといいかんじのだいめいだしぃィ ( 読み方のイントネーションに注意!)
十代の頃に サルトルだ ヴォーヴォアールだ 実存主義だと気触れたついでに
手にした向きもあると思う。
昨今のメディアは 簡単に裏側みせます企画で興味を集める。
確かに面白く、こちら側も 何でも見ましょう、 ふぅーんっ、へぇーとなる。
中には○○文化啓蒙のため、××芸術振興のためとばかりに がんばる企画も登場。
取材を受けて ついつい それに丁寧に対応してしまうところが
秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず つまり ナンデモミセリャァイイッテモンジァネェ…。
と対峙するわけで、どの分野も職業上の秘密を弁えて ほどほどに。
とは 謂うものの 見てはならないものは観たいし、聞いてはならないものは聴きたいものだ。
良いか悪いか見せます企画 : 楽屋裏で 作り物の素材はひっそりと役割を待っている

公開した処で どうということもないと思われても 何故、どうして秘すれば…となるのかと
常に心するのが肝要である。
投稿日 2007年10月14日 12:01:12
最終更新日 2007年10月14日 12:01:58
【修正】
2007年09月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
明日12日は 能楽さんぽ2月月次に登場した月探査機セレーネの打上げ予定日であった。
8月の予定が 明日に、そして天候悪化の為 14日へ延期になった。
その月周回衛星は 公募で「かぐや」と名づけられた。
10,470件、2,256点の応募があったそうで、当選者は 種子島宇宙センター招待である。
種子島宇宙センター
写真提供 JAXA
ひょんなことで 三余堂は 「月光」 と応募した。
もし、種子島宇宙センターに招待をされても どのようにして行くか。
鹿児島から 高速船や飛行機が出ているらしい。では 鹿児島まではどうするか。
三余堂は 飛行機に乗らないことにしている。 移動は 車か列車か船である。
一体 どれ程の時間がかかるのか …。
そんな 戯言も すっかり忘れていた。
が、月周回衛星のことを ほとんど見えない月を見て思い出した。
写真提供 JAXA
月の周りを回る「かぐや」をイメージして
かぐや/H-IIAロケット13号機打上げの模様は 種子島のスタジオから、生中継するという。
種子島宇宙センターは、 ロケットの組み立てから打ち上げ
衛星の最終チェックからロケットへの搭載までを行う施設だ。
種子島東南端の海岸線に面した 大変に美しい処だそうである。
ロケット発射失敗がニュースになる時ばかりが 印象に残る種子島。
今回の「かぐや」も いま一つ話題にならない。
かぐや打上げ特設サイトなるものをご覧ぜよ。何処にいても 種子島って もんだ!http://www.jaxa.jp/countdown/f13/index_j.html
種子島ライブカメラは 刻々と様子を伝えてくる。
受取る側のアンテナが その話題を捕まえるかどうか。感度の悪い受信機は 取り逃がす。
今の空、 見えない月を観るには ……
望遠鏡で覗いても、衛星で探査しても、しょぼついた我目を凝らしても
受信機が曇っていると何も見えない。
9月12日 月齢0 の月
写真提供 JAXA
今年は 中秋の名月が 9月25日 ということだ。
8月の予定が 明日に、そして天候悪化の為 14日へ延期になった。
その月周回衛星は 公募で「かぐや」と名づけられた。
10,470件、2,256点の応募があったそうで、当選者は 種子島宇宙センター招待である。
種子島宇宙センター
写真提供 JAXAひょんなことで 三余堂は 「月光」 と応募した。
もし、種子島宇宙センターに招待をされても どのようにして行くか。
鹿児島から 高速船や飛行機が出ているらしい。では 鹿児島まではどうするか。
三余堂は 飛行機に乗らないことにしている。 移動は 車か列車か船である。
一体 どれ程の時間がかかるのか …。
そんな 戯言も すっかり忘れていた。
が、月周回衛星のことを ほとんど見えない月を見て思い出した。
写真提供 JAXA

月の周りを回る「かぐや」をイメージして
かぐや/H-IIAロケット13号機打上げの模様は 種子島のスタジオから、生中継するという。
種子島宇宙センターは、 ロケットの組み立てから打ち上げ
衛星の最終チェックからロケットへの搭載までを行う施設だ。
種子島東南端の海岸線に面した 大変に美しい処だそうである。
ロケット発射失敗がニュースになる時ばかりが 印象に残る種子島。
今回の「かぐや」も いま一つ話題にならない。
かぐや打上げ特設サイトなるものをご覧ぜよ。何処にいても 種子島って もんだ!http://www.jaxa.jp/countdown/f13/index_j.html
種子島ライブカメラは 刻々と様子を伝えてくる。
受取る側のアンテナが その話題を捕まえるかどうか。感度の悪い受信機は 取り逃がす。
今の空、 見えない月を観るには ……
望遠鏡で覗いても、衛星で探査しても、しょぼついた我目を凝らしても
受信機が曇っていると何も見えない。
9月12日 月齢0 の月
写真提供 JAXA今年は 中秋の名月が 9月25日 ということだ。
投稿日 2007年09月12日 4:09:28
最終更新日 2007年09月13日 14:27:48
【修正】
2007年08月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
暦の上では 立秋を迎えた。 今の暑さは 残暑ということになる。
今年から 摂氏35度以上の気温になると 猛暑日と呼ぶことになったそうである が、
これが よろしくない。
せっかく 見目麗しく 涼やかな 女性気象予報士を配しての 天気予報。
立秋を過ぎたとたんに 毎日猛暑日、猛暑日で 暑苦しい響きがテレビから聞こえる。
当然 生物の活動は緩慢になる。 番犬代わりの近所の犬は 昼間はだらっーと横たわり
虫たちも 暑い最中は木陰に潜んでいる。 メダカも水草の下に避難している。
今日の用事は 早朝にさっさとすませて ……
それが高じて 最近のセミときたら 専ら 夜中に鳴きやがる うるせぇ!うるせぇ!
早朝 蜜柑の葉をせっせと食い
音もなく静かに早く揚羽の蝶にならん!
蝶類とは異なり 地下で長く、地上に出ては 短期間で死ぬ蝉。
それは その抜け殻を残すことも相俟って 日本では感動と無常観を表してきた。 ただし 日本では。
現人と書いて うつせみと読むが このウツシオミの当て字に空蝉となったりして
蝉は古来より 情緒たっぷりのことばを生む。
蝉の衣 《せみのきぬ》 蝉の羽 《せみのは》 等、等。
透けて薄く すずしさを呼ぶ言い表しだし、儚さである。
しかし乍 哀れを感じるには 適度な温度と湿度が重要で、この陽気では如何ばかり ってんだ!
源氏供養に 空蝉の空しきこの世を厭ひては という文句がある。
少し丁寧にいうと
能 源氏供養のクセという謡の部分に 空蝉の空しきこの世厭ひてはという詩章がある。
空蝉の 空しき この世を 厭ひては
万葉仮名で何がなにやら と。 2007.阿香作品集より 禁転載
この源氏供養については 8月の案内望遠鏡で触れたが、 母上殿の作品に空蝉の人形がある。
一枚の着物を残し去った女人を 光の君が蝉の抜け殻に託して歌を詠んだことから
この名が付いた。 源氏物語第3帖 空蝉 。
空しさを感じるような セミの聲は三余堂から もう聞けないのだろうか。
うるせェみの あつきこのよを いといては ……
貝遊びする空蝉
2007.阿香作品から

ご案内
8月21日〜25日
五木田摩耶カリグラフィー展 能の花vol.3
〒103−0023
東京都中央区日本橋本町3-6-2
小津本館ビル1階
電話 03-3662-1184
http://www.ozuwashi.net/
今年から 摂氏35度以上の気温になると 猛暑日と呼ぶことになったそうである が、
これが よろしくない。
せっかく 見目麗しく 涼やかな 女性気象予報士を配しての 天気予報。
立秋を過ぎたとたんに 毎日猛暑日、猛暑日で 暑苦しい響きがテレビから聞こえる。
当然 生物の活動は緩慢になる。 番犬代わりの近所の犬は 昼間はだらっーと横たわり
虫たちも 暑い最中は木陰に潜んでいる。 メダカも水草の下に避難している。
今日の用事は 早朝にさっさとすませて ……
それが高じて 最近のセミときたら 専ら 夜中に鳴きやがる うるせぇ!うるせぇ!
早朝 蜜柑の葉をせっせと食い
音もなく静かに早く揚羽の蝶にならん!
蝶類とは異なり 地下で長く、地上に出ては 短期間で死ぬ蝉。
それは その抜け殻を残すことも相俟って 日本では感動と無常観を表してきた。 ただし 日本では。
現人と書いて うつせみと読むが このウツシオミの当て字に空蝉となったりして
蝉は古来より 情緒たっぷりのことばを生む。
蝉の衣 《せみのきぬ》 蝉の羽 《せみのは》 等、等。
透けて薄く すずしさを呼ぶ言い表しだし、儚さである。
しかし乍 哀れを感じるには 適度な温度と湿度が重要で、この陽気では如何ばかり ってんだ!
源氏供養に 空蝉の空しきこの世を厭ひては という文句がある。
少し丁寧にいうと
能 源氏供養のクセという謡の部分に 空蝉の空しきこの世厭ひてはという詩章がある。
空蝉の 空しき この世を 厭ひては万葉仮名で何がなにやら と。 2007.阿香作品集より 禁転載
この源氏供養については 8月の案内望遠鏡で触れたが、 母上殿の作品に空蝉の人形がある。
一枚の着物を残し去った女人を 光の君が蝉の抜け殻に託して歌を詠んだことから
この名が付いた。 源氏物語第3帖 空蝉 。
空しさを感じるような セミの聲は三余堂から もう聞けないのだろうか。
うるせェみの あつきこのよを いといては ……
貝遊びする空蝉
2007.阿香作品から

ご案内
8月21日〜25日
五木田摩耶カリグラフィー展 能の花vol.3
〒103−0023
東京都中央区日本橋本町3-6-2
小津本館ビル1階
電話 03-3662-1184
http://www.ozuwashi.net/
投稿日 2007年08月13日 23:25:02
最終更新日 2007年08月13日 23:25:57
【修正】


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