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2011年11月01日
をみなめし
カテゴリ : [案内望遠鏡]
そろそろ花時も終盤の、青味がかった黄色い花。粟粒のようにぎっしり花がついている。
日当たりのいい場所に草丈を一メートル程にまで伸ばして 風になびく。
そこで まいまいしている蝶はベニシジミだろう、朱赤の小さなのが飛び交う。
日の出時刻が午前六時を過ぎた東京の秋はだいぶ深かまった。
この時期 虫の声が最後のコンカツとばかりに 陽が高くなっても必死に声を上げてもがいている
ように思える。 もっとも、昼にしか鳴かないのもいるが…
秋の七草の仲間、黄色い花は 「女郎花しほるゝ野辺をいづことて一夜ばかりの宿を借りけむ」 と
源氏物語に登場する。 その花は 「をみなへし」 。 「女郎花」 と書く。
この漢字を宛てるのは平安の延喜年間以後だという。
女郎花の、『をみな』 は若い女性、女性、佳人のことで、当時の貴族の令嬢や夫人を指していた。
『えし』は粟に例えて『飯』に通じるとか、あまりに花が美しいので、女性の美しさが減す、減し、だとか
諸説粉粉。 それ以前の万葉では何と書いたか。首を捻ったままになりそうな 「娘子部四」「姫押」
「佳人部為」「美人部師」などの字を宛てたという。 三余堂判読不可。
女郎花より全体的に大きく、少し早い時期に白い花をつける 「をとこへし」 というのもある。
黄色いオミナエシを粟花 あわばな、白い花の オトコエシを米花 こめばな、女郎花、男郎花と書いた。
古の風を感じる。もっとも、三余堂亭主が近隣で見かけるのは 野生種ではなかろうから どこまで
それに近づけるか、どうか。
秋の七草 女郎花、尾花、撫子、桔梗、藤袴、葛、萩は 今や園芸種に頼らざる負えないようで。
能に 『女郎花』 という曲がある。これを「をみなめし」と読ませる。
九州から都に上った僧が、山城の国で、道端の女郎花を手折ろうとすると、老人が現れてそれを
止めた。老人は石清水八幡宮の近くの男塚、女塚が並ぶ山陰に僧を連れて行いくと、塚に葬られて
いるのは小野頼風でこの自分であると言い残し秋風に消える。
さて、ここからがナンダカンダと、僧の読経のうちに男女の霊が身の上を語り始める。
大した愛憎物語である。この先は能をご観覧のご仁がそれぞれに 感慨にふけって頂くこととして。
現在、京都と大阪から約30分ほどのところに京都府の八幡市があるが、其処で平安初期の叶わぬ
恋物語を今に伝えている。
男の名は、小野頼風。 京で深い契りを結んでいた女がいた。
国元の八幡へ戻った頼風を京の女は思いあまって訪ねると、男が他の女と暮らしていることを知り、
悲嘆のあまり泪川に身を投げて死んだ。
やがて、女が脱ぎ捨てた山吹重ねの衣が朽ちて、そこから女郎花が咲いた。
頼風が花に近づくと、まるで頼風を嫌うようになびく。 頼風は「こんなにも私を恨んで死んだのか」と
自責の念にかられ、放生川に身を投げた。人々はこれを哀れんで、男塚、女塚を築いた。
男塚の頼風の塚の周りに茂っている葦は 「片葉の葦」 と呼ばれて、女塚の女郎花塚の方向にだけ
葉がついて、その葉が、女郎花塚に向かい今も 「恋しい、恋しい」 となびいているのだという。
京都府八幡市の図書館くに「頼風塚」または「男塚」といっている 小さな五輪石塔がある。
これに対して、少し離れた松花堂庭園の西隅にある小さな五輪石塔を
「女郎花塚」「女塚」といっている。
今月5日には 観世九皐会で能 『女郎花 おみなめし』 演能。
日当たりのいい場所に草丈を一メートル程にまで伸ばして 風になびく。
そこで まいまいしている蝶はベニシジミだろう、朱赤の小さなのが飛び交う。
日の出時刻が午前六時を過ぎた東京の秋はだいぶ深かまった。
この時期 虫の声が最後のコンカツとばかりに 陽が高くなっても必死に声を上げてもがいている
ように思える。 もっとも、昼にしか鳴かないのもいるが…
秋の七草の仲間、黄色い花は 「女郎花しほるゝ野辺をいづことて一夜ばかりの宿を借りけむ」 と
源氏物語に登場する。 その花は 「をみなへし」 。 「女郎花」 と書く。
この漢字を宛てるのは平安の延喜年間以後だという。
女郎花の、『をみな』 は若い女性、女性、佳人のことで、当時の貴族の令嬢や夫人を指していた。
『えし』は粟に例えて『飯』に通じるとか、あまりに花が美しいので、女性の美しさが減す、減し、だとか
諸説粉粉。 それ以前の万葉では何と書いたか。首を捻ったままになりそうな 「娘子部四」「姫押」
「佳人部為」「美人部師」などの字を宛てたという。 三余堂判読不可。
女郎花より全体的に大きく、少し早い時期に白い花をつける 「をとこへし」 というのもある。
黄色いオミナエシを粟花 あわばな、白い花の オトコエシを米花 こめばな、女郎花、男郎花と書いた。
古の風を感じる。もっとも、三余堂亭主が近隣で見かけるのは 野生種ではなかろうから どこまで
それに近づけるか、どうか。
秋の七草 女郎花、尾花、撫子、桔梗、藤袴、葛、萩は 今や園芸種に頼らざる負えないようで。
能に 『女郎花』 という曲がある。これを「をみなめし」と読ませる。
九州から都に上った僧が、山城の国で、道端の女郎花を手折ろうとすると、老人が現れてそれを
止めた。老人は石清水八幡宮の近くの男塚、女塚が並ぶ山陰に僧を連れて行いくと、塚に葬られて
いるのは小野頼風でこの自分であると言い残し秋風に消える。
さて、ここからがナンダカンダと、僧の読経のうちに男女の霊が身の上を語り始める。
大した愛憎物語である。この先は能をご観覧のご仁がそれぞれに 感慨にふけって頂くこととして。
現在、京都と大阪から約30分ほどのところに京都府の八幡市があるが、其処で平安初期の叶わぬ
恋物語を今に伝えている。
男の名は、小野頼風。 京で深い契りを結んでいた女がいた。
国元の八幡へ戻った頼風を京の女は思いあまって訪ねると、男が他の女と暮らしていることを知り、
悲嘆のあまり泪川に身を投げて死んだ。
やがて、女が脱ぎ捨てた山吹重ねの衣が朽ちて、そこから女郎花が咲いた。
頼風が花に近づくと、まるで頼風を嫌うようになびく。 頼風は「こんなにも私を恨んで死んだのか」と
自責の念にかられ、放生川に身を投げた。人々はこれを哀れんで、男塚、女塚を築いた。
男塚の頼風の塚の周りに茂っている葦は 「片葉の葦」 と呼ばれて、女塚の女郎花塚の方向にだけ
葉がついて、その葉が、女郎花塚に向かい今も 「恋しい、恋しい」 となびいているのだという。
京都府八幡市の図書館くに「頼風塚」または「男塚」といっている 小さな五輪石塔がある。
これに対して、少し離れた松花堂庭園の西隅にある小さな五輪石塔を
「女郎花塚」「女塚」といっている。
今月5日には 観世九皐会で能 『女郎花 おみなめし』 演能。
投稿日 2011年11月01日 0:31:49
最終更新日 2011年11月01日 0:31:49
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