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2017年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
いよいよ師走 

侘助咲く 今年もいよいよ師走
投稿日 2017年11月30日 12:25:48
最終更新日 2017年12月01日 9:45:37
修正
2017年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]


         こんな風に盛り付けられても…
戸惑うように整然としたおでんの具
こんな風に盛り付けられても…
木枯らしの晩はそんな事はどうでもよくなる
投稿日 2017年11月21日 11:10:41
最終更新日 2017年11月21日 11:11:08
修正
2017年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
終活という言葉にも慣れてきた昨今、デジタル遺品とは… 
スマホや携帯、パソコン、タブレットといった端末情報やその中身、
所謂データというもので、写真もあれば手紙もある。なんといっても仕事の書類がある。
他に インターネットを利用するときに結ぶ契約。アカウントという代物。
能楽さんぽの記事の如き、ネット上に書き込んだ投稿、
あぁ、ネット口座をお持ちの御仁もあろう。
IDにパスワードと現状でも管理が煩わしいのだが、これらの個人情報が遺品になると
さぁ どうなる…
もっともこの“デジタル遺品” という言葉。
最近生まれた俗語とやらで、明確な定義はないというが、故人が残していった持ち物で
デジタルの環境を通してしか実態が掴めないものなんだそうな。



古田雄介著 ここが知りたい!デジタル遺品デジタル遺品って(株)技術評論社発行2017 08 19 初版


ふぅーむ。兎も角きちんと始末しておかないと、ネットの漂流物で済めばいいのだが。






投稿日 2017年10月01日 0:00:00
最終更新日 2017年10月01日 0:00:00
修正
2017年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
休筆致します



早くもこんな季節     休筆広告

観世九皐会9月定例会 9月10日(日)13時
  於 矢来能楽堂
 能『菊慈童』 三余堂勤める

投稿日 2017年09月01日 0:02:56
最終更新日 2017年09月01日 0:02:56
修正
2017年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
休筆広告


   今日は八朔 間もなく立秋を迎え
   残暑見舞いとなる
これからが いよいよの暑さ














投稿日 2017年08月12日 9:34:02
最終更新日 2017年08月12日 9:34:02
修正
2017年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
休筆致します

休筆広告
投稿日 2017年06月30日 20:45:11
最終更新日 2017年06月30日 20:45:11
修正
2017年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
暫くの間休筆致します!

放送ご案内

今月18日(日) NHK FM午前6:00〜午前6:55 FM能楽堂
三余堂シテによる《頼政》の放送ご案内まで


放送御案内


2007年5月鵞毛庵記事 頼政
投稿日 2017年06月01日 15:51:35
最終更新日 2017年06月01日 15:51:50
修正
2017年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
休筆致します




端午の節句のお飾りは包装紙の大将兜 休筆広告
投稿日 2017年05月01日 0:19:46
最終更新日 2017年05月01日 0:19:46
修正
2017年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
相変わらずの休筆広告

 聞早鶯         白楽天詩      
  ソウオウヲキク
  
日出眠未起  ヒイズルモネムリテイマダオキズ
屋頭聞早鶯  オクトウソウオウヲキク ……


   休筆致します

岩波文庫の白楽天詩選を手に居眠りをする
投稿日 2017年04月01日 11:44:19
最終更新日 2017年04月01日 11:44:22
修正
2017年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
メンテナンスの為休筆致します

 これもお雛様か…  休筆広告
投稿日 2017年03月01日 0:20:44
最終更新日 2017年03月01日 0:20:44
修正
カテゴリ : [案内望遠鏡]
メンテナンスの為休筆致します



今年の雛人形  休筆広告

昨年の雛人形は上巳の節句
投稿日 2017年03月01日 0:20:44
最終更新日 2017年03月01日 0:20:44
修正
2017年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
メンテナンスの為
     休筆致します



休筆広告
 昨秋、吉川弘文館から興味深い本が発行。
 当世の教科書事情、大きく変わる歴史への認識を知る。
 室町時代もしかり。
 学校教育での室町文化の取り上げ方は、
 昨今、小中学校での“能についてのレクチャー”が
 求められている事を示している。
 機会があったらご一読を。


         
投稿日 2017年02月01日 0:22:29
最終更新日 2017年02月01日 0:22:29
修正
2017年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
恭頌新禧

      春の訪れをお慶び申し上げます。
      メンテナンスの為しばらく 休筆致します。

     
      新年のご挨拶


管理担当の修正が効きませんので この項にて取敢えず修正致します。
本年より五木田三郎儀、諸活動にて、戸籍名小玉三郎と致しました。
今後ともご厚誼賜ります様よろしく願い上げ ます。



投稿日 2017年01月01日 8:48:43
最終更新日 2017年01月01日 21:41:49
修正
2016年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
広告

管理担当等 メンテナンスの為休筆致します休筆広告
投稿日 2016年12月01日 0:11:30
最終更新日 2016年12月01日 0:11:30
修正
2016年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
公告

   管理担当等、メンテナンスの為休筆致します。


          休筆広告
投稿日 2016年11月01日 0:00:32
最終更新日 2016年11月01日 0:00:32
修正
2016年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
どうも暑いばかりが原因でな、くこのサイトもメンテナンスをしっかりと考えないとバテ気味である。
2006年10月から10年、チョコチョコ問題を解決しながらの“あちこちさんぽ”で、面白いことに
出会ったものである。

張猛龍の話もその一つだが、このところ、どうもすんなり記事掲載にならない。
慌てるから余計に上手くいかない。
ここいらで この連鎖を切って整理整頓してみようと思った。

今更驚くべからず!
現在の機器に初心者として立ち向かおう。スマホもタブレットもあるのだから。
まっ、結局元のPCに立ち戻りそうな気がするのだが。
MacもWindowsXPもVISTAも7も8も、8.1も使って、今や10の時代。
もう一度取扱説明書、トリセツを読み直して〜と。
尤も、最近は分厚いトリセツなど作るところは何処もないが。
まっ、ともかく、何とかメンテナンスを!記事はしばしの棚積みである。

       その間は月一度、10年前を辿ってみるか…  しばし 棚積みの弁。   三余堂



  

平成28年9月4日(日) 午前6:00〜
NHK−FMにて 素謡『草子洗小町』 シテ観世喜正のワキを三余堂勤める











投稿日 2016年09月04日 8:34:55
最終更新日 2016年09月04日 8:35:05
修正
2016年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
 
卵からならぬ 本から生まれる! 恐竜の赤ちゃん


恐竜の赤ちゃん あぁ〜 育ったぁ!









投稿日 2016年08月01日 18:02:52
最終更新日 2016年08月01日 18:03:01
修正
2016年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]


夏の風物詩
 〜今年もまもなく朝顔市〜

   今年の文月の趣

陰暦七月の異称は文月で、ふづき、ふみつき、などと読む。
秋の季節を運んでくるという事になっているが、実際の七月初めは梅雨明け前である。
昨今はその上、いやに暑い。摂氏三十度を軽く超え、極端な夕立が雷と共に襲ってくる。
日傘の影が薄物の着物を包むのを拝むなんぞは、とても無理だ。
暑さも然り乍ら、バケツをひっくり返したような突然の雨にあったらたまらぬだろう。
軒下の吊忍にガラスの江戸風鈴も、そんな雨には取り込まなければ悲惨な状況になる。
ただただ、暑いばかりの趣のない夏になってしまったなぁ。と、蚊やりに火をつける。
どっこい、この渦巻の蚊取り線香は古めかしいようだが、人気者だという。
入谷の朝顔、浅草のほうずき市以外にも、各地でそれらの市がたって夏を知らせる。
あぁ なつだねぇ〜 なんて言いながら、団扇で蚊を追いながら冷えたビールでも
スイカでも口にしてみたい。
熱帯雨林はこんな雨が毎日降るのかねぇ〜 なんて言いながら窓をぴしゃりと閉めて
涼しい空調の下、熱い茶をすすっているんじゃぁ…  夏の趣は何処へやら



どうも最近ネット回線の不都合に振り回されるのでいささか辟易。
まっ ルーターも幾分ロートルになり、ここいらでテコ入れを考慮中。
そんな訳で記事も不規則掲載になりがち。 とは言え、ポチポチと、
間延びしつつの、これまた間をうねりながらの、と、参ろうと存ずる!
やるまいぞ やるまいぞ。 やるまいぞ やるまいぞ。













投稿日 2016年07月06日 0:39:02
最終更新日 2016年07月06日 0:39:57
修正
2016年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
陽気の具合だろうか。頭は重く目も霞み、やれやれと思いながらも図書館へ。
玄関で出迎えるのは図書館員の渾身の作品、今月のお勧めコーナーである。
手招きをしているのはA5版サイズのオレンジ枠に男女の横顔。 
“近くばよって目にも見よ!”  “富山の置き薬ケロリンなり。”
そうだ ケロリンがそのままに表紙となっている本が呼んでいる。
茶色の粉の中に、きらきらと透明に光るものが混ざった鎮痛剤のケロリン。
如何にも苦く、薬効あらたかそうな粉薬が、ハトロンの薬包紙に包まれていたっけ。
蜜柑色の枠に男女の横顔、黒でケロリンと書かれたタバコ大程の袋に入っていた。
それが大きく化けて 図書館の正面でこちらを待構えているのだ。
調べ物を済ませたら、一寸手にしてみよう。


この大きな頭痛薬はあのニッキの味を彷彿とさせる。
ミステリーの早川書房が出した 《昭和レトロ商店街》という本だ。
ケロリン、正露丸、グリコのキャラメル、赤チンに都こんぶなど、懐かしさを覚え
時代を超えて愛されてきた品々を巡るコラム集だった。
著者は庶民文化や昭和レトロについて造詣が深い、町田忍氏である。

目次には “ケロリンとは何か、” “黄色いケロリンおけ” と続く。
ケロリンを販売する内外薬品は1902年創業の富山の製薬会社。
会社は紆余曲折があったものの、1925年に液体しかなかった鎮痛剤を携帯や保存を考えて
粉末の開発に挑戦。 試行錯誤の末に 舶来のアスピリンに生薬のニッキを混ぜ、
全く新しい鎮痛剤が開発されたという。 
ケロッと痛みが取れる!それで “ケロリン”。
すぐに評判となるほどの人気だったようで、ケロリ、ヒロリン、ケロゲン、ケロール等々
あやかり商品名が出るわ、出るわ。 似て非なるパッケージのあやかりケロリン大氾濫。
それらを押さえ抜き、商標問題で戦い、今も変わらぬ姿で販売されているのだから信奉者、いや
後援者といったらいいのか、いやいや、ただただ 効くのだ。
 

オレンジ枠の中に頭痛の婦人と笑顔の紳士を見るだけで 充分鎮痛効果を発揮。
重い頭が少しは楽になったので、この本も借りて帰ろう。
挟まれたままの貸出シートが出てきた。 日付は2010年5月30日。
奇しくも六年前の同日。 
梅雨入り前は誰しもこの本に引き寄せられるのだろう。


黄色いケロリンおけはネットでも売られている人気者だ ケロリンの季節










投稿日 2016年06月01日 23:23:25
最終更新日 2016年06月01日 23:23:25
修正
2016年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
薫風の候…と挨拶する季節が巡ってきた。 まもなく立夏となる。
フランスでは五月の初めの日は鈴蘭の日。過去には何度か記事にしているので
今年の五月は同じ蘭でも日本原産の海老根蘭をご披露。
三余堂の庭でひっそりと花を咲かせて孟夏を知らせている。

エビネ蘭には春咲きだの夏咲きだのがあり、春咲きエビネの代表がいわゆる、ジエビネ。
ジエビネは、かつては、北海道から沖縄にかけての広い地域にたくさん自生していた原種。
最も一般的な種類で、雑木林や、松林、竹林などに下草として自生していたそうである。
昭和四十年代は里山でも沢山見られたというが、採取と開発により現在ではとても無理のようだ。

日本原産の海老根蘭、ジエビネは落葉広葉樹の落ち葉が厚く積もった場所に群生して、
春になると株の中心から花茎が立ちあがる。 その地下では球根のような根茎が曲がって連なり、
エビの背のように見えて、毎年増えていく。 エビネは同じ場所に生えるほかのエビネ類と自然に
交雑しやすいそうで、さまざまな雑種が登場するという。
丈夫でがっしり黄色の花をつけるキエビネというのがある。
一方、ジエビネはと云うと、品は良いが緑の下草に埋れそうな地味な風である。
それらが長い時の末に交雑したのか、三余堂では一寸違った顔の花を見せるようになった。
何時の頃からか… 兎も角 気づくと似て非なる花が咲くようになったわけだ。
そもそもが、日本の広い範囲に分布するため、同一種でも自生地の気候や環境の違いで外観に
もかなりの変化が見られるというのが海老根蘭だそうである。


海老根蘭
黄色のキエビネ キエビネとジエビネの交雑かと思われるタカネエビネ  白く見えるのがジエビネ 


今や野生の蘭エビネは自生を許されず、庭で地植えというより、鉢植えで育てられる愛好家たちの
鑑賞の花になったと云うことなのだろうか。
エビネを扱う専門店では、交配種どうしを掛け合わせた、眩いばかりの華麗な園芸種が売られている。








投稿日 2016年05月01日 0:24:57
最終更新日 2016年05月01日 0:24:57
修正
2016年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
皇居乾門は桜をめでる為に人が多く集まった。
どうも今年は華やかに咲き誇る感じではなく、今一つ不満足に思いつつも 
花が目に映ればなんのその。この季節の喜びを見知らぬ人々と分かち合うことになる。
実は開花具合の都合で皇居の乾通り開放が延長になったとか。

御所乾門の近く 国立公文書館では平成28年春の特別展が二日からはじまる。
《徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―》 と銘打ち、家康さんの書物好きの生涯を
所蔵資料から辿ろうというのだ。 今年は徳川家康が元和2年に駿府城で死去してから四百年。
大変な読書家であり、しかも収集家であったという。戦国一の蔵書家は儒学に関する書物などの
漢籍、要するに海外書を大陸から大量に集めていたそうだ。

幕府の役職には書物奉行なるものもあったという。
その奉行所では江戸城の紅葉山文庫の管理、図書の収集、分類、整理、保存、調査
といった 《図書館のお仕事》 をしていた。
この図書館、紅葉山文庫は江戸に幕府が開かれる前年、慶長7年(1602)に、家康さんが
貴重書を収蔵する文庫を創設した。家康さんちの本棚である、将軍の図書館誕生。
書物奉行の職は3代将軍徳川家光が設けた。寛永16年(1639)、江戸城紅葉山の麓に書庫を
新設し、以後、将軍の図書館が、紅葉山の御文庫と呼ばれるようになるという次第。
歴代の将軍や幕府の高官、学者等は、資料を文庫から取り寄せ研究、とりわけ積極的に
紅葉山文庫の資料を利用したのは徳川吉宗で、「享保の改革」の随所に活用したという。

書物奉行は、ご存知お芋の儒学者 青木昆陽、天文暦学の天文方 渋川敬直。
千島列島、択捉島を探検して「大日本恵土呂府」の木柱を立てたという 近藤重蔵などが
務めた。 この近藤重蔵は、和漢の書物を精力的に研究して紅葉山御文庫の蔵書来歴を
明らかにし、豊富な知識をもとに貴重書を鑑別、その保存の仕方や取扱いを改善したそうだ。
紅葉山御文庫の貴重書が、今日良好な状態で保存されているのは、近藤重蔵の功績に
負うところが大きいとのことである。蛇足ながら近藤重蔵は火付盗賊改方として 幕府に
勤務したことがあり、文化のルツボのような図書館の親分、お奉行様にはなかなか面白い
人材が起用されていたのだ。  書物奉行の配下には勿論、同心がいたのだそうで…
名実ともに 徳川家康さんの幕府経営にとって重要な柱だったろう、文庫は慶応2年(1866年)に
廃止されたというが、明治維新後、紅葉山文庫の蔵書は新政府に引き継がれ、今日その多くを
国立公文書館が所蔵している由。

今回「徳川実紀」の展示がある。 正式には御実紀(ごじっき)と云うのだそうだ。
これは 林述斎(はやしじゅっさい)らにより編纂された徳川幕府の正史である。
家康から十代家治に至る歴代将軍の治績を記してあるものなのだが、どちらかというと、
付録の逸話が面白い。きちんと付録としてまとめられ、全485冊で、天保14年(1843)に
完成ということだ。 江戸期の式楽としての能の様子はこの徳川実記によって色々と知る
ことができる有り難い資料である。 もとより幕府の正史なのだから 当然、お抱えの能役者の
身分、扶持の管理をはじめ、式楽としての催事の記録があるのは当然で、将軍には指南役と
称して能の稽古教授がついたことや、その稽古の様子などが窺える。
他に外蕃書翰(がいばんしょかん)。 これは 前述の近藤重蔵が編纂した幕府の外交関係資料を
編纂して作成した「外蕃通書」の参考図録として作成されたもの。 安南・オランダ・ルソン等への
渡海朱印状などの外交文書が模写されているという。 実記とともに紅葉山文庫旧蔵のもの。

家康さんは何かと献本をさせたようで、一万冊あまりの蔵書があったというから大した本棚で、
そのお文庫の棚に並ぶ献本の中には能の大夫からの伝書も含まれている。
                  分散、散逸から守り貫かれた事は 誠に有り難いことだ。







投稿日 2016年04月04日 0:55:55
最終更新日 2016年04月04日 0:56:05
修正
2016年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
節句の一つに桃の節句 雛祭りがある。
本来三月の最初の巳の日という意味の上巳、元巳ともいう三月三日の行事。
上巳はじょうしとか、じょうみと読むようだが、旧暦の3月3日は桃の花が
咲く季節でもあり、「桃の節句」ともいう次第。

三月最初の巳の日に水辺に出て飲酒し、不浄を拭い、招魂するという行事が大陸にあった。
我国でも、早くからこれに似たことは行われていたようである。大宝元年(701年)に
公式に行事として採用され、内裏において曲水の宴が行われたという。
その後、桓武天皇の国忌に時期が近いということで廃止されたらしいが、嵯峨天皇が
公的な色を薄めた儀式として再興したそうだ。曲水の宴は公家の娯楽としても行われたが、
民間でも古来から、人形で自分の身体を撫で穢を移して水に流すという風習があった。
これらが結びついて流し雛となったと言われる。

所謂「桃の節句」「雛祭り」はいつ頃から始まったのか判然としない。
平安時代、貴族子女の遊びとして、小さな御所風の御殿「屋形」を造り、飾って遊んだ
という記録があるそうで、初めは儀式的なものではなく「遊びごと」だったようだ。
「上巳の節句(穢れ払い)」として人形を「災厄よけ」の「守り雛」として祀る様にもなり、
人形を流す風習も影響していったのだろう。

元来、5月5日の端午の節句とともに男女の別なく行われていたという。
が、江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、
人形が飾られるようになったそうで、「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わった。
一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合で、武家子女などの嫁入り道具の
ひとつに数えられるようにもなったという。
そうなれば 当然、豪華で贅を尽くしたものへと変遷していく。
江戸時代初期は男女一対の内裏雛を飾るだけの物であったものが、十二単の装束を着せたり、
大型のものなどが作られたりもした。享保年間の贅沢禁止で逆に「芥子雛」と呼ばれる
精巧な数センチ大の小さい人形が流行することになったそうだ。
江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが、
その後、幕府の式楽であった能の五人囃子の人形が現れ、幕末までに官女、随身、仕丁などの
添え人形が考案されたそうな。
地方、地方で違いはあれど、壇飾り、道具類がこまごま並ぶのは江戸も後期のことである。
こうなれば もうすっかり“お雛様”は女の子の領域で、
               明かりをつけましょ 雪洞に〜 ということになる訳だ。。

端午の節句、菖蒲の節句は「尚武」ということで、男子の節句とされるようになったという。


今年の雛人形は 水にも溶けます!ということだが。   どうも 紙粘土製らしい〜
       
 上巳の節句これから 目が入るのかなぁ… 

     なかなかお目に掛らない後姿を 上巳の節句



           上巳の節句 おまけに横からも
まだ 制作過程なのかもしれない。なんとなく 乾燥不十分…

                                 
 














 
投稿日 2016年03月01日 12:03:22
最終更新日 2016年03月01日 12:03:37
修正
2016年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
本来は季節の変わり目を節分という。
立春、立夏、立秋、立冬の前日のことである。
節分といえば“立春の前日”を指すことが多くなったのは江戸時代以降とのことだが、
特に冬から春になる“立春”は一年の始まりと考えられ、古来より行事が行われてきた。
“福は内、鬼は外”と声を出して炒り大豆を撒き、年の数だけ豆を食べる。
これは厄除けの為である。 柊、鰯などを飾って邪除けをする処もある。 
古くから寺社では追儺の行事がある。
これは、季節の変わり目には邪気が生じると考えられ、それを追い払うための儀式。
そもそもは平安時代の初め、唐から取り入れたとされる行事で、本来は旧暦大晦日の
宮中行事であったという。
室町時代には炒った大豆を打ち撒いて、鬼、つまり邪気を払うようになったのだそうだ。


この時代の様子は、狂言の『節分』という曲目が教えてくれる。
節分の夜に夫が出雲大社へ大晦日の行事、お年取りに出かけたので妻が一人でいた。
そこへ蓬萊の島から来た鬼が訪れる。美しい人妻に小歌を謡い、言い寄る。
しかし、女はさっぱり靡かない。で、ついに鬼は泣き出してしまう。
女は靡くと見せかけ、鬼の持つ隠れ笠、隠れ蓑、打出の小槌などを取り上げた。そして、
しまいには、豆をまく節分になったと“福は内 鬼は外”と豆をぶつけて鬼を追い出す。
鬼に豆をぶつけ、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うということだ。


今年の節分は2月3日。
神社では節分祭 せつぶんさい として豆撒式が執り行われる。
寺院でも豆撒きを行事にしているところは多い。
が、お寺では節分会 せちぶんえ の呼称が一般的なのだそうである。
三余堂は、“祭り”でも“会”でも結構。 
             一足早く、節分用の準備の豆をつまみに…

  鬼を折ったり 豆を食ったり  節分
            目を描いたり、口を入れたり   ざっと 節分の心地して…












投稿日 2016年02月01日 0:31:15
最終更新日 2016年02月01日 0:31:34
修正
2016年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
恭頌新禧

本年も宜しく願い上げます。


            丙申

丙申
投稿日 2016年01月01日 0:10:13
最終更新日 2016年01月01日 0:10:13
修正
2015年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
三十年前の別冊 “太陽” 三十年前の別冊太陽

何気なく本棚に並ぶ、別冊太陽49号を手にして ほう〜とか、へぇ〜とか見入った。
三十年前の発行、春号『子供遊び集』である。
先ず、裏表紙の花園万頭の広告。
あづきと栗の餡を白いかるかんで挟んだ羊羹型の菓子である。
砂糖のべたっとした感触が泡のように軽くなって、口の中にひろがる
“あぁ〜 あのかるかんの甘味が…” と、思いながら扉を開く。

三十年前の別冊太陽

そこには、ワイルド・ターキーの宣伝。バーボンウィスキーである。 750ml .00也。
さて、第一頁。 と云っても 最終頁の編集室からのコメントだが、前号の別冊太陽
48号『女優』に寄せた読者の便りがあった。
その時の表紙は、過日死去報道があった女優の原節子。
左斜め下から上半身を写している。
目鼻立ちがはっきりとして、その様子から大柄で、しかも、しっかりした婦人に見える
女性ではなく、“ご・ふ・じ・ん” といった感じだ。

              三十年前の別冊太陽

その左隣の欄には『子供遊び集』の編集者達の一言。
―明治、大正、昭和― と、副題があるので、それぞれの思いが重なる編集後記
であるが、なんせ今から三十年前のことである。
リリアンが好きだったという編集者はもう退職しているだろうか…
などと 本編とは別のところに興味深い記事や広告を見る楽しみに浸った。




この『子供遊び集』に見世物研究家として、古河三樹氏が執筆している一文に
よると、明治維新の後武芸家が興した見世物に撃剣大会というものがあって、
大正時代まで残っていたそうだ。 武芸大会ということであったが、かつての
真剣味を帯びた撃剣ではなくて、型を見せるだけのショーになってしまっていた由。
勇ましい看板に胸躍らせて木戸をくぐった少年は、期待した真剣の閃きはなく
がっかりしたとのこと。
やはり、看板に踊らされて木戸をくぐったものに女相撲があったという。
少年が木戸銭を払って入れてもらえたのかなぁ、とも思うが。
〜髪は相撲銀杏、シャツを着て、猿股で曲線を包み馬簾の下げのある締め込みを
付けていた〜 と書かれている。これも少年には少々がっかりの姿であったろう。
しかも、女力士が取り組むわけでなく、俵を持ち上げるなどの力自慢を見せられ
たとのこと。
〜江戸時代は勿論、明治中葉までは、女相撲はエロスの香り豊かな独特の
見世物で、本場の東北や北海道では昭和になっても随分人気を集めていたが、
さすが、帝都東京はこの手の興行には極めてやかましかったのである。〜
とも書かれている。

筆者の古河三樹氏は、1901年(明治34年)生5年(平成7年)没の長命で、
『見世物の歴史』(雄山閣出版、1970)の著者。   ご存命なら 115歳。
戦前平凡社に勤め、その後、四谷駅上の古河書店主であったという。30年前には
思い出として書いた、大正の頃の少年の遊び。『見世物小屋を覗く』は 
すっかり歴史になった。 
 













投稿日 2015年12月01日 0:53:44
最終更新日 2015年12月01日 0:54:32
修正
2015年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
目の覚めてしまった夜をやり過ごすには、手に触れた紙で何となく折り紙をしながら
霜月の虫の声を聴く。 子供の頃には誰しも折り紙の経験があろう。
特別なこととは思わずに当たり前に鶴を折っていたものである。
日本人の指先の器用さは折り紙の経験からなのか、もともと器用だから折り紙を
するのか。兎も角、物の形を考えるのには大いに刺激があったし、色彩感覚も
育てられたと思う。 折り紙が幼児教育に取り上げられたのは明治のことだという。
もとより日本の生活は物を折ったり、畳んだりの繰り返し。 朝は四角い布団を
畳むことに始まり、夜には直線で縫い継がれた着物を畳み付けて一日が終了。  
尤も、それらを誰がするのかはそれぞれであったろうが。

以前、紙の伝来のことを記事にしたことがあるが、大陸から日本への製紙技術は
610年、高句麗を経由してもたらされる。
渡来人によって7世紀初めに、紙の製法が日本に伝えられたお蔭で薄くて丈夫な
紙、「和紙」が生まれた。 本格的な紙の国産化が始まるには100年ほどかかった
が、『正倉院文書』に、737年(天平9)には、美作、出雲、播磨、美濃、などで
紙漉が始まったことが記されているという。
公文書の記録に大切な紙の生産が始まっていたということだ。 国は紙の製造と
調達を管掌していた。紙の重さを図り知る。 紙は文字を書きつけるばかりでなく、
『包む』という仕事も請け負った。 神への供物を包む。信仰と結びついた神聖な
仕事も担ったのだ。 そして紙は折り目が工夫され、儀式や祭礼に活躍する。
朝廷での儀式、神祇に使われたものが、次第に公家から武家へと移っていく。
鎌倉時代には、朝廷と新たに台頭した武家との意思疎通の為の手段「礼法」として、
贈答や儀礼用の“折りかた”が発展したという訳だ。
「伊勢」「小笠原」「今川」「嵯峨」など各流派の秘伝として伝えられ、様式化した。
進物の贈り物に付ける、赤白の紙を折った熨斗などがその名残である。

折り方そのものを楽しむようになったのが「折り紙」で、江戸時代に入ると紙の生産が
増え、庶民にも親しめる折り紙になったという。なんせ、1797年(寛政9)には世界で
最も古い折り紙の本「秘傅千羽鶴折形」が出版されている。
その後200年も経つと、トイレットペーパーでの折り紙が本となり、売られる。これは 
東京大学の学生諸子による考案だ。現代折紙の普及、発展、そして何より折紙を楽しむ
ことを目的として活動を始めたそうだ。
今や折り紙は教育や趣味を超えて、幾何学やコンピューターグラフィック、航空工学、
老化防止、リハビリの分野でも研究の対象となっている。
学者の間では、折紙の数学というテーマで研究がなされるらしく、如何に、作品を
傷めることなく、紙を平らに折り畳むことができるかどうかなどを数学的な研究対象
として取り組むようである。角の三等分などが可能である「折り紙幾何学」という
分野の発見、コンピュータの応用、などなど、広く研究されているそうだ。

銘 曙 折り紙 手元の菓子包みで
      

        鶴の嘆息 折り紙 いや、短足の鶴…

 
        

世界各地に広まった「折り紙」は、愛好家の団体が沢山あって盛んに活動を
しているという。近隣のゆうゆう館も 毎月折り紙の日なるものがあり、老若男女が
相集って頭の体操に勤しんでいる。






投稿日 2015年10月31日 23:41:41
最終更新日 2015年11月01日 13:06:11
修正
2015年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
少子高齢化で産科医院が激減し、小児科医院も減った。
そこで、数年前から近隣の診療所は小児科診療を始める。
ママの健康も大事だからと、婦人科診療も始まった。
待合室は杖をつく老人と就学前の子供のおしゃべりや、隣に座る年寄りに
子供の方が、得意げに絵本を読み聞かせる姿が見られるようになった。 
甲高い子供の声は 体調不良の身には少々厳しい。が、待合室は明るくなった。 
仏頂面の中高年ばかりでは体調だけでなく、心も不調になるというものである。

そもそも、日本列島で先史時代から今に至るまで、ヒトの数はずっと増えてきたのだろうか。
近年は科学技術の進歩で遺跡発掘調査の結果、どんどんと歴史が塗り替えられる。
すべて未解明と云えば無難だろうが、日本列島のヒトの遺伝形質が多様な処をみると、
何度にも亘って移住を繰返したらしい。人骨から判明出来れば容易なのだろうが、
この列島の土地は、ほとんどが酸性土壌で、人骨が保存されにくいという。が、その他の
発掘などから3万8千年くらい前には、どうも、ヒトが生活していたらしい。

旧石器時代が終わり、1万6千年程前からは縄文時代。
縄模様の土器を持つこの文化は、九州では3千年くらい前まで、東北や関東では2千3百年
くらい前まで続いたという。 縄文人は早くから定住した狩猟採集民で、一万年以上前に遡る
定住集落が鹿児島の上野原遺跡や、静岡の大塵窪遺跡で発見されている。
古代メソポタミアでの≪農業に先立つ定住≫と同じ頃なのだそうだ。
縄文人の遺跡からは東北をはじめとする東日本のほうが、近畿以西より人口密度が高く、
食物になる植物や、河川などで生息する魚貝は勿論、シカやイノシシなども豊富だったの
であろう。 そのうちに 農耕らしきものが始まる。

日本列島に古くから居住していたのが “縄文人”。弥生時代に朝鮮半島から渡来したのが、
“弥生人” という事だが、最近のゲノム分析によると両者の混血が多くなされた可能性もある
というから、事は複雑。 日本人起源については、これからも飽くなき研究が続くのだ。
ところで、生産性の高い水田稲作は弥生時代、紀元前10世紀まで遡る。
が、これは専ら西日本でのこと。紀元前4世紀頃は東北地方、紀元前3世紀頃に関東地方に
伝播したらしい。こうなると、人口は西日本の方が多くなる。 
列島の人口は1万3千年前の縄文時代早期には、ほぼ2万人。 その後は増加を続け、
6千年前には26万人。 この時の1平方キロ当たりの人口密度が0.76人。
狩猟採集の民としては高い数値なのだそうだ。 そんな頃から日本は混んでいた。 
が、4千年前縄文後期なると10万人を切っていたという。 気候の変化、人口増加による
食物資源の不足、移住者による感染症の影響などがあっかもしれない。
しかし、弥生時代にはなんと、百万に達していたらしい。


奈良時代なると古文書から人口推定が可能になる。450万の人口はあったようで、その後
900年代になると640万強となっていた。 1300年には人口密度が1平方キロ当たり
25人となり、当時としては世界最高のレベルだったという。
ただ、必ずしも増加率は右肩上がりではなかった。自然条件の変化は勿論、そこには大きく
社会機構の変化が関わったようである。 荘園制の時代から武士の誕生、戦国時代へ。
そして江戸、ご維新、戦争、戦争。  昭和から平成へと人口変化は文化を映している。
当然、地球の上どちらも、こちらも同様に大きな問題を抱えて…

長くなってきた夜に 大塚柳太郎博士の
 『ヒトはこうして増えてきた』  ―20万年の人口変遷史−(新潮選書)を読む













投稿日 2015年10月06日 16:29:24
最終更新日 2015年10月06日 16:31:01
修正
2015年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
1923年9月1日 関東大震災発生。
折しも フランク・ロイド・ライトの設計による帝国ホテル新館の開館式だったという。
勿論、建物は無傷。
この関東大震災を忘れることなく災害に備えようと1960年に閣議決定で制定されたのが、
防災の日である。9月1日に「防災の日」が制定されるまでは、関東大震災犠牲者の
慰霊祭が中心であったというが、この日が決まってからは、防災訓練が行われる日となった。
今、震災というと、東日本大震災であったり、阪神淡路の大震災のことで、関東大震災は
すっかり歴史となった感が否めない。
『おふくろにおぶわれて逃げた…』という、震災の義父殿の話は、古びた写真のように
セピアに変色しながらもしぶとく心に残る。 今年は、五年保存の飲料水ペットボトルが
期限切れとなった。有難い気分で、新規のものを発注することになる。遅ればせの夏休み。


                                     
投稿日 2015年09月01日 0:03:52
最終更新日 2015年09月01日 0:03:52
修正
2015年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
酷暑お見舞い申し上げます。


子供の頃の夏休み どのチャンネルに回しても エセル中田が大きな花を髪に着けて
ウクレレやスチールギターを背中に歌っていた気がする。
ハワイアンが多流行りした時期があった。今は、フラが大人気なのだそうだ。
そう言えば、新聞の折込みで、カルチャーセンターの講座広告には必ずフラクラス
の宣伝がある。レイを首から掛けて、腰がぐっと入る独特のスタイルで、両手を広げて
白い歯が如何にも 元気、元気 と手招いているようだ。

Akahai   やさしさと思いやり
Lokahi   調和と融合
Olu’oiu   喜びをもって柔軟に
Ha’a a Ha’a  謙虚に
Ahonui  我慢と忍耐

それぞれの頭文字を取って ALOHA ということで、Let’s Hula 〜 という訳か。

九月になると本場ハワイから 最高峰のフラと音楽を東京で楽しめるそうだ。
総勢160人もの出演で、男性、女性、古典から現代に至るまで、なかなかの
プログラムが組まれている由。公演は大盛況なのだそうだが、全国で300以上もの
フラスクールがあるというから、集客も見込めるというものだ。
日本でも毎年全国大会やら 競技会があるというから、歌に合わせてふらふら、
というような ゆるぅい ゆらゆらとした物ではないようである。 

     ALOHA!





日本に大々的に 踊りであるフラが紹介されたのが、常磐ハワイセンターの開園時らしい。
常磐炭鉱の斜陽化を観光業に転換するという、町おこし事業に伴って、ハワイセンター
なるものが出来た。その経緯を描いたのが、 映画“フラガール”なのだが、映画で
蒼井優が、頑張って踊るのはタヒチアンというもので、フラとどうも、ごちゃ混ぜになって
理解している気がする。 
まっ、他所から見ると、能も歌舞伎も 仕舞も日舞もイッショクタ …
フラは、神様への宗教的行為がその始まりという。芸能の根本の姿である。
それを、そのまま今に伝える“カヒコ”と呼ばれる古典もあるし、歌に合わせて
踊るものもある。19世紀以降に西洋の音楽を取り入れて、新しく作ったのが、
フラ・アウアナというもので、映画でフラガールたちが“大地に光を〜”と踊っていたので、
新作も、日本作も“有り”なのだろう。

蛇足ながら フラもダンスも 踊りということなので、今は専らフラというのだそうな。
終日、ハワイミュージックのアロハジョーラジオで、砂浜の波でも思いながら、
爽やかな曲をBGMに 酷暑の8月を過ごそうと存ず。ALOHA 



投稿日 2015年08月02日 18:06:45
最終更新日 2015年08月02日 18:07:00
修正
2015年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
先ごろ話題になった 『昔話は何故、おじいさんとおばあさんが主役なのか』 (草思社) 
という本がある。 その前作が、『本当はひどかった昔の日本』 (新潮社) という訳で、
両方とも ニヤニヤとしながらも 何故か納得し、ふむふむと頁を繰っていく。

昔話や古典文学に描かれた老人を探って、その時代の老人生態を知る!ということだ。
全国の六万話もの昔話から、古典文学まで徹底的に分析して、老人という “人” を
生活の中に見た。三面記事そのままに テレビのワイドショー顔負けの捨て子に
育児放棄、マタハラに介護地獄。まぁ 次から次へとあるワあるワ。

子供の頃に出会う、『むかしむかし〜』とはじまる話は、『それでぇ〜、次はぁ〜、
え゛っ〜』 などとせがむうちに 大抵、眠ってしまう。 
そして、又翌日に『むかしむかし〜 』と始まる。だから、そう深く内容を考えていない。
が、大人になって思い返すと、結構きつい話である。
『むかしむかし〜』 の昔話は何時だか判らない、昔々の物語であった。 
ところが、自らが老境に差掛り、世の中が高齢社会となると 『昔話は何故、
おじいさんとおばあさんが主役なのか』 はいやに興味が湧く題材であるし、
この社会事情では 本当はどうだったのか昔の日本 となるわけだ。
昔話に登場する、したたかに頑張る老人は、返して見れば、したたかに
頑張らなきゃぁならなかったということでもある。
      七十過ぎても“婚活"!   姥捨て山に捨てられても、みごと生還!
極楽往生したくて、井戸にダイブ!   ……昔の老人はやばかった!! 
昔話は何故、おじいさんとおばあさんが主役なのか』 という本の内容紹介は、少々
袈裟を広げすぎるとは思えど、ついつい本の著者 大塚ひかり氏による老人論に
引込まれる。実在したイカす老人として、かの世阿弥の名前も挙がっていた。
まぁ、長く生きりゃぁ それなりにいろいろあらぁな… 

一般にどうも人は 昔は良かった と思いたいようだが、さして昔も今も変りなしと、
本当はひどかった昔の日本』 に突き付けられる。
まっ、この日常茶飯事、事の善し悪しは兎も角、昔から誰かが、何処かで経験済み
ときている。
昔はよかった」なんて大嘘です!?
我らがご先祖様は、こんなにも残酷で、だけど強かった!
みんな古典に書いてある!
と著者は言う。が、この古典の中には勿論 能 もある。 
そう、イカシタ老人の世阿弥の作った能である。



投稿日 2015年07月03日 17:26:17
最終更新日 2015年07月03日 17:26:37
修正
2015年06月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
視力が弱く、普通の活字では本が読みづらい場合、ただ文字が大きければ解決する
というものではない。その日の天気が体調に影響するというが、読みづらい活字を追うことは
余計に体調を悪化させ気づかぬうちに 肩も凝るし、頭痛も引起す。
文字の大きさばかりでなく、行間、字間、文字の色、背景の色、印刷物の大きさ等々。                      
加齢による視力の衰えも、単に老眼鏡を使えばいいというものではない。
読みづらさは煩わしさを招き、どんどん活字から離れていく。
大事な用件も文字が小さいと感じただけで、読む気力が無くなるというものだ。
こうして老化が加速するのだが、それをしみじみと感じた頃は手遅れというものである。
空調の効いた快適な湿度を保つ図書館は 適当な日差しと座り心地の良いソファーが
億劫で読みづらい本でも、手にしてみようかという気にさせる。
が、たいして頁を繰らないうちに舟を漕ぎ出す。そんな手遅れ組の輩が多くなった為か、
最近図書館の入り口に張り紙が出た。 “図書館での居眠りはご遠慮ください”


一般的な文庫版の文字は1文字約3〜3.5ミリメートル角程度の大きさ。
これが4.2ミリメートル角にまで拡大し、文字を太く濃くしたり、黒の背景に白抜き文字の
白黒反転本や、リングで綴じてめくりやすく工夫した、小説やエッセイ、辞典、地図など
多種多様な本が “一度お手にいかが〜” と図書館にある。これが所謂 『大活字本』だ。
書架の親分といった感じの近隣の図書館は 手に取りやすい棚に、池波正太郎の鬼平や
山崎豊子の沈まぬ太陽、近年の本屋大賞本などがずらっからと並んでいる。 
ものの見事に書棚の端から端まで、同じタイトルの本が埋め尽くし、こちらを圧倒してくる。
それも当然で、文字が大きい為分冊になるからだ。 一寸した小説が完結するにはどうしても
二、三冊にわたるのは致し方ない。 しかし、居眠りなんかさせません!とばかりに、
あっという間にページが進むのは内容の所為ばかりではない。 見やすい本なのである。 
速読の術を身に着けたかと勘違いしながら読破できるのもこの本ならではだ。

大活字本


現況は大手書店やネット通販で購入可能だ。但し、値段が割高で、かさばる。
その点、電子書籍は個人の好みに文字を設定できるが、普及にはまだまだ時間がかかる。
本来は障害者や高齢者向けに開発されたものだが、活用の仕方はそれぞれの工夫で
いくらでもある。何といっても、居眠りする間もなくさっと小説が読める。一度どんなものか
図書館で、書店コーナーで手にしてみるのも一興。
大活字本の普及を目ざす大活字文化普及協会
            東京都千代田区神田神保町に大活字本専門書店を開いている。 









投稿日 2015年06月01日 18:06:25
最終更新日 2015年06月01日 18:06:44
修正
2015年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]

五月の朔日、近頃ではちょっとした花屋の店先にスズランが登場するようになった。
生きのイイ葉に埋もれて申し訳なさそうに ウズクマッタ白い花は無理やり花束にされ
誠にお気の毒。 “スズランの日”なぞという おフランスの習慣に、花屋の都合で紙だの
リボンだの巻き付けられて年々暑くなる東京のこの時期、花にとっては辛いお勤めに見える。

16世紀にヨーロッパに於いて、スズランの栽培が始まってからこの風習が生まれたという。
仏国のシャルル9世が、幸福をもたらすとされるスズランの花束を贈られて歓喜したことが
一つの切っ掛けで、恋人たちの出会いや幸せの象徴ということのようだ。
スズランを摘み、小さな花束にして贈るのは5月1日が、愛の日という事とも相まって
出来た洒落た話である。

そもそもスズランはユリ科、スズラン属の総称だから、多種多様なのだろうが、我国では
君影草、谷間の姫百合などとも云うらしい。
この名は、柔で清楚な感じが伝わるが、年々、放っておいても、忘れ去られてもしっかり
芽を吹く多年草である。根から、葉から全てに毒があって吾身を守っているという
なかなかの兵だ。誤ってこのスズランを活けた水を飲んで、死亡した例もあるというから
決してあなどれない。山菜として珍重されるギョウジャニンニクと似ていて、まさかとは
思えど、誤食し中毒を起こした話を聞いたこともある。 日本の在来種は高地に自生して、
スズランと云えば北海道! 
となるのだが、現在の園芸店のものは ヨーロッパ原産のドイツスズラン。
花の香が強く、人を振り返させる。そして、美しいラッピングに 
    何とも幼気な雰囲気を包み込んでこちらをじっと見つめている。 
                    今日は スズランの日 です〜  と。

今日はスズランの日

スズランの日 
投稿日 2015年05月02日 11:47:58
最終更新日 2015年05月02日 11:47:58
修正
2015年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
建久4年(1193年)孟夏、源頼朝が開催した富士の巻狩で、仇討ちがあった。
曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討ったのである。
巻狩というのは今でも祭儀として残る地方があるというから、本来は『お山の神様のご意向伺い』
といった意味を持つ神事であったらしい。
それが、武士が誕生した中世の頃には軍事訓練を兼ねたようで、
狩場を多人数で四方から囲い込みながら、獲物を追いつめるという大規模な狩猟となっていた。

富士の巻狩主催の頼朝は、既にこの年下野那須野や、信濃三原野などでも大規模な巻狩をしていた。
征夷大将軍という、武家政権の首長としての誇示の一環で、
この富士の裾野で行われた巻狩も 御家人達を総動員して、 山の神対する感謝の儀式を捧げ、
盛大な酒宴を開いたという。  そこで仇討ち事件勃発! というのが曾我兄弟の仇討ちである。

この曾我兄弟の仇討ちと伊賀越えの仇討ち、赤穂浪士の討ち入りが、
日本三大仇討ちということになっている。
赤穂浪士の討ち入りはご存知「忠臣蔵」、伊賀越えの仇討ちはいわゆる「鍵屋の辻の決闘」
のことである。これは寛永11年(1634年)秋に渡辺数馬と荒木又右衛門が、数馬の弟の仇 
河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った話で、当然ながら多くの小説やら映画になっている。
で、三大仇討の最も古いのが曽我兄弟の一件。


そもそもの事件は、所領争いで、工藤祐経は叔父の伊東祐親に恨みを抱いていた。
祐経は刺客に祐親を待ち伏せさせたのである。
刺客が放った矢は何と、一緒にいた祐親の嫡男の祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。
この刺客は大失敗!当然すぐに討手に殺された。
何しろ 似て非なる 祐(すけ)さんという名ばかりで、角さん登場はおろか、なかなか曽我兄弟に
行きつかない。 が、今しばらく我慢を…
未亡人となった祐泰の妻は曾我祐信へ再稼。
遺児の一萬丸と箱王丸兄弟は曾我の里で成長したのであった。
では、甥の恨みを買った不運な伊東さんち。
その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ死ぬ。
刺客を差向けた甥の工藤祐経は、さっさと源頼朝に従っていた。

一方、祐親の孫である一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗る。
弟の箱王丸は、箱根権現社に稚児として預けられていたが、源頼朝が箱根権現に参拝した際
箱王丸は敵の工藤祐経を見つけて復讐を試みる。
ところがおっとどっこい! 討つどころか逆に祐経に諭されてしまう。
おまけに「赤木柄の短刀」を授けられ…  中略して…
その後 箱王丸は縁戚の北条時政を頼り元服し、曾我五郎時致となった。

またまた 略して、富士の巻狩。
これには当然、工藤祐経も参加していた。
巻狩最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入って、祐経を討ち果たす。
この時、例の「赤木柄の短刀」登場なのだが。 話は 少々すっとばして…
騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。
兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれたのである。
弟の時致はというと、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられた。
と、見てきたかのようにいうが、芝居やらなんやらになっているので、ご容赦。勿論 能にも「夜討曽我」がある。
実態は兎も角、翌日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った遠因、心持を話す。
頼朝は助命も思うが、結局、祐経の遺児に請われて時致を斬った。
というのが 曽我兄弟の物語。 

そんなこんなで、この事件の直後、鎌倉では頼朝の消息未確認となり、頼朝暗殺だの、
弟の謀反だのとややこしいことになって…
武士社会での仇討ちの意味やら重みを知らしめた話であった。




三余堂 4月12日 観世九皐会例会で 能 『小袖曽我』を勤める。






投稿日 2015年04月01日 9:41:26
最終更新日 2015年04月01日 9:43:11
修正
2015年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
待ち合わせの時間潰しに本屋を覗くと思わぬお宝を見つけることがある。
図書館でもご同様。気分転換の書架の間で、大概何かにぶつかる。
帰る時は予定外の本が両腕に抱えられ、コンビニに寄ることはできない。
夜も八時を過ぎた児童書コーナーは人の気配がなく、受付け係りの見て見ぬふりの中、
あれもこれもと、本を引っ張り出し、低くて小さな椅子で読みふけるのは
少々気恥ずかしいものがある。が、図書館でのお宝発見は俄然、ここである。
夜の九時まで児童書コーナーが開いているのは何とも嬉しい。
調べものに没頭する会社帰りの中年、ひたすら鉛筆を走らせる女学生。
その横で、消しゴムかすに顔を沈めて眠る男の子達。彼らとは別の階で静寂の中
贅沢な装丁、大きな文字、著名な作家による執筆、頁を繰るだけで気分の栄養補給になる。


そんな中 『ギルガメッシュ王物語』という本を見つけた。
岩波書店からの1993年初版発行の出版で、文/絵 ルドミラ・ゼーマン 松野正子訳。
あのギルガメシュ叙事詩が絵本になっている。
穏やかならぬ世界情勢を新書やら、紛争地写真が満載のハードカバーを
館の玄関で展示紹介するが、そもそものメソポタミアのことまでは中々さかのぼれない。
神話の時代まで辿るつもりも更々なかった。
が、ギルガメッシュの背扉の文字に手が伸びて… 結局 三部作の
 『ギルガメッシュ王物語』 『ギルガメッシュ王のたたかい』 『ギルガメッシュ王さいごの旅』
と大型絵本三冊を抱えて帰ることになった。

 

ギルガメッシュ叙事詩

あのギルガメシュ叙事詩〜 なんていうとさもさも知っているかのようであるが、
ただ、耳にその響きがあっただけで、とてもメソポタミアの神様まで手が回らない。
日本の神様だって覚束ない次第で…
世界最古の文明発祥の地といわれるメソポタミア。
今のイラクとシリアの辺りで 5000年以上前に粘土板に刻まれたのがギルガメシュ叙事詩。
実在したとする説が有力なギルガメッシュという王の話で、死後間もなく神格化され
ギルガメシュ叙事詩と呼ばれる説話に纏められ、今日まで受け継がれた。
シュメール人の王ギルガメッシュは メソポタミアに住んだ人々が語り伝えるうちに変化し、
その断片が、エジプト、ギリシャ、ペルシャの神話に流れ込み、ケルト人の神話にも影響していく。
旧約聖書にもしかり。 メソポタミアはエデンの園で、アブラハムの誕生の地ということである。
因みにアブラハムさんは ユダヤ、キリスト、イスラームの神様の大元さまである。
つまり、現在、世界人口の二人に一人が一神教の教えを奉ずるといえども、
はじめのはじめは みな かみさまいっぱい! だったのである。
もっとも、神様だか、人だか境目が判らないのは何処も同じだが。
ギルガメッシュやエンキドゥ、心優しいシャマトやら、火山のことだろうと推察される怪物フンババの
登場で、その地がいかに豊かであったかを伝え、自然大災害に見舞われながらも、勇気、思いやり、
誠実、理想への努力を失わず前に進むかを体現しているというわけだ。

           絵本見開きにルーブル美術館のギルガメシュのレリーフと楔形文字をギルガメッシュ叙事詩

    ギルガメッシュ叙事詩 
メソポタミアはチグリス、ユーフラテス川に挟まれた肥沃な地であった



このメソポタミアは、最初の法典を作り、灌漑技術や一時間かが六十分だということを発明した。
“川と川の間の地” という意味のメソポタミアは世界初の文字を編出し、今にその歴史を
伝えた。 図書館でも多くの大人はこの絵本を子供に読み、ギルガメッシュ王による古代都市の
遺跡があらぬことで破壊されないことを願ったろう。












       

                 
                   
投稿日 2015年03月01日 12:51:18
最終更新日 2015年03月01日 12:56:29
修正
2015年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
葛根湯 
         

カゼのひき始めや、肩こりなどに用いる漢方薬に葛根湯がある。
比較的体力のある人が、カゼのひき始めのゾクゾクっと寒気がした時、
頭痛や肩こり、筋肉痛、がある時に先ずは使用。
漢方薬なので空腹時に飲む。 つまりは むっ? きたっ!きたきた!!と、感じたら兎も角飲む。
漢方薬は、自然の草や木からとった「生薬」の組み合わせで、葛根湯は、葛根(カッコン)
麻黄(マオウ) 、桂皮(ケイヒ) 、芍薬(シャクヤク) 、甘草(カンゾウ) 、大棗(タイソウ)と
生姜(ショウキョウ)の7種類の生薬から出来ている。
“麻黄”には、気管支拡張の作用があり、咳や喘鳴をおさえる。“桂皮”には発汗、発散作用。
痛みをやわらげる“芍薬”、炎症やアレルギー症状を緩和する“甘草”などが配合されている。
勿論 今は飲みやすい粉末状態で、白湯で服用が簡単にできるようになっている。
何といったって、漢時代の「傷寒論」という古典書で紹介されている処方が 延々と今に至り…
まぁ、きちんと指示通りに用法を守れば大きな問題はないのだが。
比較的すぐに反応するこの葛根湯も やはり漢方薬。
じわじわと効いてくるので より良く効かせる為に 湿度と温度、栄養に休養を保持して〜
そう思いつつ ついつい時が経つ 先ずは一服 葛根湯。
立春前の極寒の日には必携の葛根湯である。


投稿日 2015年02月02日 23:24:40
最終更新日 2015年02月02日 23:24:40
修正
2015年01月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
恭頌新禧


乙未の新しい歳となり、明るい空の元旦になりそうな気配。
本年もよろしく願い上げます。


ことしも 恭頌新禧

初詣の人々を迎える準備万端整いそろそろ 警備の警官配置となる井草八幡宮。
風にはためく大きな文字が浮かび上がり 新たな一年、一日、への気持ちを引き締める。
あと何秒… 乙未の歳へ








投稿日 2015年01月01日 9:14:13
最終更新日 2015年01月01日 9:14:13
修正
2014年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
何時も師走になると街は忙しそうに装う。
装わないといけないような気分も押し寄せてくる。
近隣スーパーでは、おせちの予約は当然ながら 11月下旬からは鏡餅を販売始めた。
それがまた売れているのだ。 秋をしみじみ感じる間もなく 新年へと突進させられる。
今時、正月の支度だといって障子の張替えや、畳を上げる家など見かけないし、
野菜不足に備えた白菜漬けだといって、大きな株を幾つも干す家庭などあるだろうか。
今年は総選挙を控えているから尚更、拍車が掛るのか。
忙しいこんな時に… と言いながらも ホントに忙しいのか…


今 国立公文書館では “江戸時代の罪と罰” という平成26年の特別展が行われている。
8代将軍徳川吉宗の時に編纂された「公事方御定書」 (くじかたおさだめがき 1742年成立 )から
明治刑法(1882年施行)まで、わが国の刑罰と牢獄の歴史を振り返るという趣向。

公事方御定書は老中を主にして、勘定奉行、寺社奉行、江戸町奉行の三奉行が中心となって編纂、
元文3年(1738年)に完成。その後、追加作業で寺社奉行時代の大岡越前守忠相も関わったそうな。
特に犯罪と裁判についての御定めで、原則は三奉行と京都所司代、大坂城代のみが閲覧を
許されるということであったらしい。 が、そこはどういうことやら、天保12年(1841年)に『棠蔭秘鑑』
という写本が作られ、利用されていたり、諸藩でこっそり写本が流布して、藩の法令制定の参考に。
本来は幕府領内での法だったつもりが、結局、日本国内統一法のようになってしまったとやら。
実質上廃止された田畑永代売買禁止令のように、御定書に載せられていたものが明治4年(1871年)
まで有効な法律とされて存続したものもあった由。
そんな 公事方御定書【棠蔭秘鑑】、当時の小伝馬町牢獄内のお作法の様子やら、
明治初年の牢獄獄内の図などの興味深い展示が特別展である。


ホントは忙しくない、そんな御仁は、歴史の中の生活を見てから投票所に向かうと宜しいかもしれない。
開催最終日は14日で 総選挙投票日当日である。 










投稿日 2014年12月01日 0:53:00
最終更新日 2014年12月01日 0:53:00
修正
2014年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
棕櫚
            … 棕櫚のきりぎりすが …

早朝の虫の音もさすがに弱くなり、庭一面に咲きほこっていたホトトギスも、結んだ実の
ふくらみばかりとなった。 今年もいよいよ霜月である。
玄関の香炉に鈴虫か、きりぎりすか、いや 蟋蟀か… キリハタリチョウか…
まっ、くつわむしでも がちゃがちゃでも 松虫でもいいが 兎も角 虫一匹鎮座。
棕櫚の葉で作ったもので、知人からの到来物とのこと。
その尊顔を拝せんと目を近づけて じぃっ〜と覗き込む。


シュロは乾湿、陰陽の土地条件を選ばない為か、結構古くからの庭には植わっている。
子供の頃は、大きくなると椰子の木になると思っていたが、一向に丈が伸びない。
東京は寒いので、南方の植物は大きく育たないのだと勝手に考えていた。
まぁ、当たらずとも遠からず、椰子の仲間には違いない。
そんな棕櫚は棕梠とも書くが 専らシュロ縄やシュロ箒のほうで馴染みだったような気がする。
パイナップルの皮に、ながーい髭がモサモサと生えたような樹皮。それは縄やら箒は勿論、
椅子やベッドのクッション材で、古い家具の端から顔を覗かせていた。
何とも古めかしい香りがする話である。

シュロ縄は植木職には必携だったが、昨今は合成の棕梠縄も巾を効かせる。
確かに朽ち果てず丈夫だろうし、価格面も違うのだろう。庭の手入れに来た親方が、 
こんなものが最近あると見せてくれた時は、互いに苦笑いしたものであった。

箒にしても イイものは結構な贅沢品である。所謂工芸品という事だろう。
手入れ方法次第で15〜20年以上使用できるという。
勿論、年に一度くらいは水で洗って 手櫛、ブラシッング、日陰干しに椿油でのお手入れと 
なかなかの心遣いが必要なようだが、それだけの価値はある。
棕櫚の皮をぐるぐる巻いてまとめて、それをいくつか束ね、水に浸して柔らかにしたところを
手で一本一本ほぐして、梳いていく。そして、毛先を揃えたり、乾燥干しをしたり。それから 
洗って干して、椿油で整えて…   そんな御大層な箒は使うところを 先づ掃除せにゃ。

秋の虫になった 深い緑の棕櫚の葉を眺めつつ 
            そういえば 棕梠の荒神箒は何処へ行ったやら…








投稿日 2014年11月01日 22:00:51
最終更新日 2014年11月01日 22:01:30
修正
2014年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
毎年10月初めは近隣の八幡宮 秋の例大祭である。
今年も 宵宮の日には昼から参道一杯に 屋台が立ち並んだ。
さて本番、抜けるような秋の高い空の下 威勢の良い神輿が…と行きたいものであるが
そうは問屋が卸さないのが この時期で、必ず雨模様の日が一日はある。
秋雨だの台風だのと文句を言ってはいけない、さて、お立合い!昔から 五穀豊穣国土安穏〜
雨が降ってこその…  という次第で、今年は冷たい雨が子供神輿を中止にした。


丁度今頃、といっても四百年昔のことであるが、
徳川幕府は京都との情報のやり取りのために一里飛脚を置き、豊臣軍は戦法を籠城とした。
我が国は戦闘状態である。豊臣氏は公然と浪人を集め始め、何とも落ち着かない。
こんな時にキリシタン大名の高山右近は国外へ出た。日本からの追放である。
利休七哲の一人としても知られた高山右近は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将である。
七哲といわれた 千利休の七高弟は 他に細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)
瀬田正忠(掃部)、牧村利貞(兵部)と、当時のそうそうたる 武将であった。
細川忠興夫人は かのガラシャ、牧村利貞は高山右近の勧めで切支丹となったというから
当時の切支丹の一端が垣間見える。

徳の人という高山右近であるが、あまりの熱心な信仰故か、領内の社寺の破壊や神官や僧侶への
迫害などで 領地付近の古い神社仏閣はほとんど残らないという事態に陥ったという。
右近はキリスト教入信の強制はしなかったが、その影響の大きさで、領民のほとんどが
キリスト教徒となったそうである。 蒲生氏郷や岡田君の演ずる黒田官兵衛なども高山右近の
影響を受けて切支丹になったらしい。
石山本願寺の件で 手痛い思いをしている為にキリスト教の拡大による、一向一揆のような
反乱を恐れたり、社寺への迫害を懸念したり、秀吉の気に染まぬことが政治外交上も
色々とあったようで、1587年に伴天連追放令が豊臣秀吉により出された。
高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てたが、小西行長に庇護されて
小豆島や肥後などに隠遁、その後1588年、加賀の前田利家に招かれ、扶持を受けて暮らしたという。
1614年、慶長19年の徳川家康によるキリシタン国外追放令により、加賀を退去した。
その数日後、家康はいよいよ駿府を出発し京へ向かう。
大坂冬の陣へ一月あまりといったところであった。

高山右近は長崎から他の切支丹と共に船でマニラに同年の12月に到着。
イエズス会などの報告で、既にマニラで知られていた高山右近は大歓迎を受けたが、
老齢の身に病を呼んだのか、翌年になると、間もなく亡くなったという。
徳川軍が大坂城の堀を完全に破壊し、徳川秀忠は江戸城に入り、
家康が駿府城に到着した頃になる。

いよいよ日本におけるキリスト教受難の時に入った。 
               それが400年前の秋の空の下ということだった。







投稿日 2014年10月01日 22:57:16
最終更新日 2014年10月01日 22:57:16
修正
2014年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
暑い夏をやり過ごすには人気の図書館。
空調の加減の良いのは新書が並ぶ棚の前であった。
ただ ぽっーと眺める背表紙の漢字。 突然にベトナムも漢字の国だったと思う。
いやっ、今の表記はちがうナァ…  
廻らない頭の中を アオザイの美女やら ハルマキやら ベトナムの僧侶が伝えたといわれる
林邑楽のことやらが駆け巡る。 この林邑楽、大陸を経由しての楽かもしれないが、奈良の東大寺
大仏開眼法要で奏されたというベトナム製。
外は灼熱でここは涼しい、何とかしばらく時を稼ごうと手が棚に伸びて
べ べ べ… ベトナムの歴史 、いや 文化、いや料理だなぁ
あぁ〜 ヴェ ヴェ ヴェトナムかぁ  とますます頭は廻らず、訳の判らないことに感心する。


『物語 ヴェトムの歴史』 よし、これで行こう!
副題に一億人国家のダイナミズム とある。 ほぉ〜 そんなに人がいるのかぁ 
やっと手にしたのは 中央公論社の中公新書 小倉貞夫著であった。
1997年発行とあるので 近年のベトナムの発展ぶりを15年前には
どんな風に予測していたのかなぁ… なんて あとがきをチラチラ。
巻末の年表でざっと 歴史は掴めるかとペラペラ。
が、 近年の統一はおろかベトナム戦争になるまではナカナカ。

歴史の中に国家として登場するのは、紀元前2880年頃で雄王(フンヴォン)の文朗国。   
ベトナムの古代史は、インドシナ半島の全体の歴史に繋がり、その後は中国支配の歴史になる、 
清朝がガタツイテくるといよいよややこしく、厚い歴史は体温上昇を招くばかりだ。

紀元前111年には、ベトナム南越国を、漢の武帝支配。
約千年間ベトナムは政治的にも文化的にも 独自の文化を保持しつつ、言葉も文字も漢化される。
唐代玄宗皇帝に気に入られた、阿倍亜仲麻呂が753年遣唐使藤原清河と共に楚州からの帰国の際
嵐で漂着したのはベトナムだった。
“天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出し月かも”
と、楚州で詠んでやっと日本へ向かったのに、そう簡単には帰れなかった。
また唐に戻るのだが、山岳地帯の部族が反乱を起こしたので 平定を命じられたという。

当時の表記はベトナム語の発音に近い音を持つ漢字を借用していたようだ。
が、知識人が中心になって独自の漢字を開発したという。阿倍亜仲麻呂も同じ漢字で
どれだけの言葉を操ったのか。19世紀までは、ベトナム語は漢字を使って表記していたという。
まっ、音は解らずとも意味が判れば漢字はイイ感じということで…

序章 ヴェトナムとインドシナ  第一章 中国支配の時代 と読み進む。
新書にしては400ページからの厚みで 第四章のフランス植民地になるまでまだまだである。 
汗も収まったので、そっーと 棚に戻して 退出。






    
    

投稿日 2014年09月02日 16:43:29
最終更新日 2014年09月02日 16:50:19
修正