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2016年03月01日
上巳の節句
カテゴリ : [案内望遠鏡]
節句の一つに桃の節句 雛祭りがある。
本来三月の最初の巳の日という意味の上巳、元巳ともいう三月三日の行事。
上巳はじょうしとか、じょうみと読むようだが、旧暦の3月3日は桃の花が
咲く季節でもあり、「桃の節句」ともいう次第。

三月最初の巳の日に水辺に出て飲酒し、不浄を拭い、招魂するという行事が大陸にあった。
我国でも、早くからこれに似たことは行われていたようである。大宝元年(701年)に
公式に行事として採用され、内裏において曲水の宴が行われたという。
その後、桓武天皇の国忌に時期が近いということで廃止されたらしいが、嵯峨天皇が
公的な色を薄めた儀式として再興したそうだ。曲水の宴は公家の娯楽としても行われたが、
民間でも古来から、人形で自分の身体を撫で穢を移して水に流すという風習があった。
これらが結びついて流し雛となったと言われる。

所謂「桃の節句」「雛祭り」はいつ頃から始まったのか判然としない。
平安時代、貴族子女の遊びとして、小さな御所風の御殿「屋形」を造り、飾って遊んだ
という記録があるそうで、初めは儀式的なものではなく「遊びごと」だったようだ。
「上巳の節句(穢れ払い)」として人形を「災厄よけ」の「守り雛」として祀る様にもなり、
人形を流す風習も影響していったのだろう。

元来、5月5日の端午の節句とともに男女の別なく行われていたという。
が、江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、
人形が飾られるようになったそうで、「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わった。
一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合で、武家子女などの嫁入り道具の
ひとつに数えられるようにもなったという。
そうなれば 当然、豪華で贅を尽くしたものへと変遷していく。
江戸時代初期は男女一対の内裏雛を飾るだけの物であったものが、十二単の装束を着せたり、
大型のものなどが作られたりもした。享保年間の贅沢禁止で逆に「芥子雛」と呼ばれる
精巧な数センチ大の小さい人形が流行することになったそうだ。
江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが、
その後、幕府の式楽であった能の五人囃子の人形が現れ、幕末までに官女、随身、仕丁などの
添え人形が考案されたそうな。
地方、地方で違いはあれど、壇飾り、道具類がこまごま並ぶのは江戸も後期のことである。
こうなれば もうすっかり“お雛様”は女の子の領域で、
               明かりをつけましょ 雪洞に〜 ということになる訳だ。。

端午の節句、菖蒲の節句は「尚武」ということで、男子の節句とされるようになったという。


今年の雛人形は 水にも溶けます!ということだが。   どうも 紙粘土製らしい〜
       
 上巳の節句これから 目が入るのかなぁ… 

     なかなかお目に掛らない後姿を 上巳の節句



           上巳の節句 おまけに横からも
まだ 制作過程なのかもしれない。なんとなく 乾燥不十分…

                                 
 














 
投稿日 2016年03月01日 12:03:22
最終更新日 2016年03月01日 12:03:37
修正