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2016年05月12日
安田靫彦展 ≪夢殿≫  
カテゴリ : [三余堂月次]
北魏の建碑にはなかなか話が及ばないが、急ぐ旅路でもないので寄り道しながらぽつぽつと。

北魏が建国された四世紀末は大陸の南方、江南は貴族的な文化の花咲き始める頃だった。 
まぁ、早い話が、北方の騎馬民族に追いやられた風雅な貴族たちが、難を逃れて南へ逃げた
という事なのだが…  後漢が滅亡してから、隋の統一まで、今の南京、当時の建業(建康)に
都を移した、呉、東晋、宋、斉、梁、陳の六王朝を総称して六朝と呼ぶ。 貴族的文化である。
南の方ではごちゃごちゃと王朝が出来ても、北の北魏は北魏。 なんとかしっかりとやっていた。
これを南北朝時代といっている。間違っても、後醍醐天皇は登場しないので、念のため。
東の方の半島は、高句麗、百済、新羅、任那と互いに牽制しあい乍ら、そして、ちょっかいを
出し乍ら、東の海の向こうに倭国があるなぁ〜 なんて承知しながら存立していた。

我が国、倭国は日本書紀や大陸や半島の文書、学者の推測、そして、ロマンと夢が導き出した
事によると、倭の奴国王が後漢に遣使を送ったり、卑弥呼が魏の明帝と遣り取りがあったりと、
所謂 三国志の時代には海外との交流があったようだ。
その後、四世紀になると百済からは使者が来たり、王族が人質になって来たり、こちらは
出兵したりと、忙しく交流した。
近年、日本の歴史研究の成果で、《鎖国の国》のイメージが払拭されつつあるが、どうも
学校で習った 江戸時代の鎖国の印象が強く、古代までも海の外とはご縁がないように
思い込んでいた節がある。その一方で、晴れた日に望める朝鮮半島の近さは知っていて
当時のことを考えると、そもそも国境という認識があったろうかと、思ったりもする。 
海は現実的な毎日の生活の中で、遠い向こう岸との行き交いの隔たりであったが、上手く
いけば交流の恵みでもあった。互いの中央にまでも、政治や文化が届いていたのだから
人の力は限りなくひろがる。

そんなものの一つに 仏教がある。物部さんと蘇我さんがやり合ったという外国の宗教。
朝鮮半島の百済から倭国に伝わったという事だが、朝鮮三国で一早く仏教が伝わったのが、
高句麗。 仏教は、中国へ後漢時代にインドから伝わり、南北朝時代に隆盛期を迎えた。
ここでも 北と南の気質が反映して、仏教の性格や仏教に対しての政策などが異なっていた。
北の北魏では あくまでも国家が主体で、仏教は従。その仏教も 孔子の教え、つまり儒教や
道教が入交り、混然としていたようである。張 猛龍碑も仏教盛んな北魏の時代に 内容は
孔子さまの教えを守った話が堂々と記されている。
で、まぁそんな仏教が、高句麗に伝えられ、当然道教の教えなんぞも、かなり入っていたと
考えられる訳だ。 
倭国で仏教を信奉し、政治に反映しようとしたとされる聖徳太子として馴染みの、厩戸皇子は
高句麗の僧、慧慈に師事した。これは、当然厩戸皇子の仏教思想に影響を与えているだろう。
倭国へは、西暦552年に百済から仏教伝来ということになっている。この百済へは東晋から
高僧の摩羅難陀が伝えたという。 
当時、国づくりの為に外国の先端文化、仏教を取り入れようとした政治家の蘇我さんと、
精神的に色々と考えて 国を作ろうとしていた厩戸さんとではどこかで行き違いがあったか、
又は根本でずれていたのかもしれない。

安田靫彦展の厩戸皇子描いた≪夢殿≫を見てそなんことを感じた孟夏の午後であった。








投稿日 2016年05月16日 11:23:58
最終更新日 2016年05月16日 11:24:39
修正