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2016年04月12日
その頃倭の国は…
カテゴリ : [三余堂月次]
鮮卑族北魏の時代 紀元522年に仏教隆盛の中、儒教に関わる碑が建てられた。
処は 孔子様の生まれた魯の国。そこの長官を務めた、張猛龍さんの碑である。
碑は、ほとんどが遺徳を称えるものだが、孔子の教えを守り貫いた魯国太守の徳は
誠に偉大で、張猛龍さん本人の生前に建てられた。
1500年もの時を超え、現存する原碑は山東省曲阜の孔子廟堂に保管されている。
高さ 約二メートル、幅一メートル弱、厚さ二十センチほどの石の板に 千文字以上が
刻まれ、裏側一面にはこの建碑に功労のあった人々の官位と氏名が刻まれている。
この国の正史には名前が見当たらないという 張猛龍さん。
だが、北方の騎馬民族 鮮卑族の血をひく北魏の文字が、国の統一と共に漢族の文化に
染まりながらもしっかり、がっちりとした力強さで、張猛龍さんを今に伝えている。
その頃わが国はどんなであったのだろうか。
張猛龍建碑、紀元522年の我が国は 日本書紀や古事記で知ることになる。
ちょうど継体天皇のころ。
第26代天皇である継体帝は、507年ころから531年ころまでの在位らしい。
即位19年後の526年、大倭、後の大和国に都を定めたという。
その直後、百済から請われてあちらのもめごとに援軍を送ろうとしていたようなので、
当時、大和はしっかりと半島との外交があったということだ。そして、大陸とも通じていた。
が、大和に都をおくまで約20年もかかったということは、地域の豪族やら係累やらの間で
天皇の位、当時は大王というのだろうが、その位をめぐる大混乱があったのだろう。
『古事記』では継体天皇の没年は527年で、都を立てた翌年に死去したことになり、
没年齢は約40歳だが、『日本書紀』だと80歳余りの長寿だったそうな。
兎も角余りに古い話なので 諸説紛々、資料僅少。
当時は大陸や、半島のように、現存での同時進行の明快な記録文書類はない。
そこはあちら様の文書から、適宜よろしく判断するとして、倭の国はまだまだ混沌。
文書といっても 紙ではなく 木簡類であったので念のため。
後の継体帝が治めていた越前は、湿原が広がり農耕や居住に適さなかった。
そこで先ず、足羽山に社殿を建て大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀り、この地の
守護神とした。 次に地形調査。
大規模な治水工事、湿原の干拓。越前平野に人々が定住できるようにして、港を開き、
水運を発展させて産業を発達させたという。
有能な継体帝は武烈帝の後継者に選ばれた。 天皇即位のため越前を離れることになり、
寵愛した照日ちゃんに手紙と花篭を形見として贈って出発。
照日ちゃんは継体帝を慕い、侍女とともに狂女の姿となって後を追う。
紅葉見物の行幸の列の前に現われた照日ちゃんは、継体帝の従者に篭を打ち落されて狂い、
漢の武帝と李夫人の物語を舞った。 天皇は以前、照日ちゃんに渡した花篭であると気づき、
再び照日ちゃんを召された。 そして、後に二人の間の子が安閑天皇となった… とさ。
と、能《花筐》が描いている。
その後、紀元540年頃に、あの蘇我の入鹿のひいおじいさん 稲目が
大臣に就任したのではないか、と謂われる。 欽明天皇元年のことだ。
稲目爺さん、朝な、夕なに仏像礼拝していたというが、公式に仏教が伝来したのは552年。
もっとも その頃は稲目、まだ爺さんではなかったし、張り切って倭国を何とかしようと国造りを
始めたところだろう。 その後やっと入鹿の祖父さん《馬子》の登場だ。
海外の新しい文化の仏教だ、やれ違うだろう、我が国伝統文化だろう…と
蘇我氏、物部氏がやりあう時代へと進む。
欽明帝の頃は北魏も東と西に分かれ、それも北斉、北周となり、江南の地も梁から陳へ。
まもなく 隋が大陸全土を統一しようとしていた。
処は 孔子様の生まれた魯の国。そこの長官を務めた、張猛龍さんの碑である。
碑は、ほとんどが遺徳を称えるものだが、孔子の教えを守り貫いた魯国太守の徳は
誠に偉大で、張猛龍さん本人の生前に建てられた。
1500年もの時を超え、現存する原碑は山東省曲阜の孔子廟堂に保管されている。
高さ 約二メートル、幅一メートル弱、厚さ二十センチほどの石の板に 千文字以上が
刻まれ、裏側一面にはこの建碑に功労のあった人々の官位と氏名が刻まれている。
この国の正史には名前が見当たらないという 張猛龍さん。
だが、北方の騎馬民族 鮮卑族の血をひく北魏の文字が、国の統一と共に漢族の文化に
染まりながらもしっかり、がっちりとした力強さで、張猛龍さんを今に伝えている。
その頃わが国はどんなであったのだろうか。
張猛龍建碑、紀元522年の我が国は 日本書紀や古事記で知ることになる。
ちょうど継体天皇のころ。
第26代天皇である継体帝は、507年ころから531年ころまでの在位らしい。
即位19年後の526年、大倭、後の大和国に都を定めたという。
その直後、百済から請われてあちらのもめごとに援軍を送ろうとしていたようなので、
当時、大和はしっかりと半島との外交があったということだ。そして、大陸とも通じていた。
が、大和に都をおくまで約20年もかかったということは、地域の豪族やら係累やらの間で
天皇の位、当時は大王というのだろうが、その位をめぐる大混乱があったのだろう。
『古事記』では継体天皇の没年は527年で、都を立てた翌年に死去したことになり、
没年齢は約40歳だが、『日本書紀』だと80歳余りの長寿だったそうな。
兎も角余りに古い話なので 諸説紛々、資料僅少。
当時は大陸や、半島のように、現存での同時進行の明快な記録文書類はない。
そこはあちら様の文書から、適宜よろしく判断するとして、倭の国はまだまだ混沌。
文書といっても 紙ではなく 木簡類であったので念のため。
後の継体帝が治めていた越前は、湿原が広がり農耕や居住に適さなかった。
そこで先ず、足羽山に社殿を建て大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀り、この地の
守護神とした。 次に地形調査。
大規模な治水工事、湿原の干拓。越前平野に人々が定住できるようにして、港を開き、
水運を発展させて産業を発達させたという。
有能な継体帝は武烈帝の後継者に選ばれた。 天皇即位のため越前を離れることになり、
寵愛した照日ちゃんに手紙と花篭を形見として贈って出発。
照日ちゃんは継体帝を慕い、侍女とともに狂女の姿となって後を追う。
紅葉見物の行幸の列の前に現われた照日ちゃんは、継体帝の従者に篭を打ち落されて狂い、
漢の武帝と李夫人の物語を舞った。 天皇は以前、照日ちゃんに渡した花篭であると気づき、
再び照日ちゃんを召された。 そして、後に二人の間の子が安閑天皇となった… とさ。
と、能《花筐》が描いている。
その後、紀元540年頃に、あの蘇我の入鹿のひいおじいさん 稲目が
大臣に就任したのではないか、と謂われる。 欽明天皇元年のことだ。
稲目爺さん、朝な、夕なに仏像礼拝していたというが、公式に仏教が伝来したのは552年。
もっとも その頃は稲目、まだ爺さんではなかったし、張り切って倭国を何とかしようと国造りを
始めたところだろう。 その後やっと入鹿の祖父さん《馬子》の登場だ。
海外の新しい文化の仏教だ、やれ違うだろう、我が国伝統文化だろう…と
蘇我氏、物部氏がやりあう時代へと進む。
欽明帝の頃は北魏も東と西に分かれ、それも北斉、北周となり、江南の地も梁から陳へ。
まもなく 隋が大陸全土を統一しようとしていた。
投稿日 2016年04月12日 14:48:38
最終更新日 2016年04月12日 14:49:08
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