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2016年06月12日
もういちど読む 山川日本史
カテゴリ : [三余堂月次]
今世紀になっても古代史は大きく変化する。
至る所で遺跡、古墳が出土して今までの常識が覆されていったのである。
学者の年齢層も若くなり、研究対象としての見方も変化しているだろう。
教科書では聖徳太子が厩戸皇子となったというし、改めて日本史の教科書を手にしてみないと 
何が何やら判らなくなりそうである。

シリーズ累計100万部を売り上げたという 山川出版の“もういちど読む山川日本史”がある。
高校の日本史教科書を、一般読者のために書き改めた通史で、1冊で日本の歴史の
全体像をまとめている。学界の動向がわかるポイントが別項で書かれ、最近の日本史
に対する見方が分かる優れものだ。 所謂 社会人のための日本史教科書。
取敢えず これを繰れば何とか古めかしい日本史から今風な日本史へ。
とは謂うものの 新聞の三面記事に“あれが出てきた!これが出てきた!”と掲載され
文化欄には解説やら その後の状況が記事になるなどして忙しい限りである。
自分のご先祖様のことだから 多少は力を入れて紙面に目を通すが、原始や古代の
話となるとどうも掴みにくい。

兎も角 山川日本史は古代、大和王権の成立までの頁が盛沢山。
それまでの仮説が新発見により裏付けられ、解説されるからだ。
例えば、旧石器時代の無土器文化は 1949年、昭和24年に群馬県岩宿遺跡の
調査の結果、その存在が明らかになったのだが、1990年代以後にアジアに於いての
旧石器文化の研究が進み、この文化が世界史的に見て 「旧石器文化」であると認められる
ようになったという。 
1992年、平成4 年から本格化した青森の三内丸山遺跡の調査では、縄文時代中期の
大集落で巨大建造物があったことなどが判り、縄文時代のイメージが大きく変わったことも
活字になっている。そして、農耕社会に至って 佐賀県の吉野ケ里遺跡が弥生時代の
大きな集落を示す。この遺跡発掘は1986年、昭和61年から進められた。
今から30年以上も前の発掘、発見だが、学校の教科書には載っていなかった。
歴史はすっかり変わったと、初めの一歩から踏み出さなくてはならぬ。
その後の小国が多く存在したとされる時代にしても、1970年代になり、全国各地で様々な
墳丘墓が発見され、発掘調査が進んで分かった事が沢山ある。
我国の状況は大陸の史書からも知る。 
《漢書 地理志》では倭と呼ばれた紀元一世紀前後の様子、
《後漢書 東夷伝》には 後漢の光武帝に倭の奴国王が使者を送り、印綬を与えられた等が
書かれている。
弥生時代中期、多く存在した小国は大陸との交わり豊かと考えられ、
分かれていた100余の社会が纏まって行く中で、卑弥呼が登場し、大陸の魏と通交。 
三世紀後半から七世紀にかけて古墳文化の発展となるのだ。
新しい政治支配者の姿をその文化から測り知る。

山川日本史はここから蘇我氏が台頭して、飛鳥の宮廷が登場するまでにまだ10頁ほど必要だ。
学校での教科書には太字で書かれた 卑弥呼、邪馬台国、倭の奴国王、金印、前方後円墳、
高句麗、百済、新羅… こんな文字があったような気もするが。授業で学んだかなぁ。
誠に心もとない古代史の入り口であった。
はてさて、 “張猛龍さんの建碑は日本に置き換えるといつの頃かぁ〜” と
思いを馳せて、今さら乍ら中国四千年の大陸の時代、文化の厚みの差を思い知る。







ネット回線復調につき、遅ればせながら “もういちど読む 山川日本史” を再掲載。





投稿日 2016年06月29日 10:05:59
最終更新日 2016年06月29日 10:07:18
修正