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2015年10月12日
国政調査
カテゴリ : [三余堂月次]
江戸時代になると農民は自律的な行動変革が進んだ。
というと 実に大げさである。まっ、サツマイモなんぞの新しい作物が
入ってきて、食物の生産性はあがるし、食生活は充実向上するし、
経済活動だって盛んになって… みんな やる気になってきた。
大分以前の三余堂月次で触れたことがあるが、木綿の普及が
衣服やら寝具の改善をもたらした。家の構造だって礎石を置き、畳を敷く
なんていう生活が一般的になると、清潔な生活というものが待っていた。
こうなると、ぐっと、生きやすくなってくる。そもそもそ、ヒトという生き物は
多産を可能にする潜在的な生産力があるそうだ。
食生活の安定や衛生面の改善は世界共通で、死亡率も下げている。


江戸幕府が全国人口調査、つまり徳川版国勢調査ということを1721年に
行ったそうだ。 その時の人口は3,128万人。これが多いか、少ないかは兎も角、
江戸幕府開設直前の1600年には人口1,227万人という数字が、はじき出されて
いるというから、結構な人間が徳川の世での生活を謳歌していた。
この百年余りの人口増加率は、僅かとは言え、産業革命後のヨーロッパの
人口増加率より多いと云う。

ところが、江戸時代も後期になると状況一変。
もう明治になろうとする、1867年には多くても3,383万人だったという。
1721年からの増え方のことを思うと、人口はそう増えていないようだ。
なんと、1792年には2,987万人までに減っていた。
1732年西日本では享保の大飢饉、1742年には隅田川、利根川の堤が決壊。
1772年に明和の大火災で、死者が14,700人も出た。1782年頃からは天明の
大飢饉、浅間山も噴火するといった次第で、江戸は大火や開幕以来の大水害に
みまわれ、京都も火事で御所まで炎上したというから、列島大災害の状態に
あったのは確かである。おまけにコレラの流行も大地震も繰返している。
この頃の人口増減には地域差が有り、西日本、北陸、中部の地方では増加し
東北、関東地方は冷害などによる飢饉で人口減少したという。
この1792年は、漂流してロシアにいた、大黒屋光大夫がロシア使節の
ラクスマンと根室に着いたという年で、通商を要求された幕府としては
“こっちこないで〜”と、外交?に頭を悩ましていた頃でもあった。
そんなこと言わないで 海外との経済活動で国内問題を乗り切るっていう
活路があったかもしれないが…  一応 鎖国政策中で。

まぁまぁ何とかなって、その後は緩やかに人口は増加をし、明治期になると
本格的に右肩上がりに増加を始める。
人口は大きな増加、そして停滞、減少。そして再び、増加に向かう。
案内望遠鏡で紹介の『ヒトはこうして増えてきた』(新潮選書)の如く、そんな
増減がこの列島でも、縄文時代と弥生時代にみられ、14世紀から15世紀に
又その波が始まり、18世紀末に一段落。 そして、又人口増加の波が始まった。
ここでも 農業から工業へと社会の変革が一人当たりの所得を増して、人口の
転換の基盤をなした。 そして、現在は少子高齢という渦に飲み込まれている。


今年はこの人口の状況を把握する年となった。国勢調査である。
国勢調査とは、総務大臣が国勢統計を作成するために、≪日本に居住している
全ての人、及び世帯≫ を対象として実施され、国内の人口、世帯、産業構造などの
調査を基本的に5年ごとに行うものである。
第1回国勢調査は1920年(大正9年)に実施され、今年は第20回目の調査だ。
そして、初めてネットでの調査が行われた。
情報漏れなどのこれといった面倒がなければ 非常に簡単便利。
はてさて、早速利用はしてみたものの結果は如何に。







投稿日 2015年10月12日 0:01:26
最終更新日 2015年10月12日 0:01:26
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