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2015年09月12日
しかるにこうせんなぁ〜 2010 アーカイヴ  
カテゴリ : [三余堂月次]
消えた記事を掘り起こしながら原稿を遡ると、ほぉ〜 そんなことがあったか…と
興味津々、読み入る。
五年もたてば配信されていたドラマなんぞある訳もないが、最近は何でもかんでも
ネットにあがり、日本語の字幕に拘らないなら、色々と見ることが可能だ。
2010年に動画サイトギャオで、『臥薪嘗胆』なる中国ドラマを配信し始めた時の
九月の『三余堂月次』は、高額製作費を掛けての充実した中国の大河ドラマが
発端であった。この話は三国志などと同様、手堅く視聴率が取れるのであろうか。
幾種ものドラマ『臥薪嘗胆』は制作されていて、2010年以降もいろいろな
『臥薪嘗胆』を見た。 ドラマとはいえ、大筋は歴史通りであるから、結局数回も
見ると終了なのだが…   


中国春秋時代。紀元前500年頃の大陸。中原では覇権争いが繰り広げられていた。
そんな中に勢力を強める呉(ご)の国、一方、弱小の越(えつ)の国。
この二国間の争いに由来する、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)という成語がある。
「嘗胆」のみならば『史記』の越王句践の話に、「臥薪嘗胆」と揃った形の語は
14世紀前半に成立した『十八史略』に登場。
臥薪嘗胆とは、復讐の為に耐え忍んで、成功の為には苦労に耐えるということだが、
紀元前5世紀の出来事による この成語は明治時代の日本で、三国干渉が発生した時に、
ロシア帝国に復讐するために耐えよう! という機運を表すために盛んに使われたらしい。

そもそも越は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国で、会稽を都とした。
当時、越の人々は断髪で、上半身は裸で入れ墨をしていたという。
銅の生成に優れていて、2500年もたって出土した銅剣は、表面が硫化銅の皮膜で覆われ、
錆の無い状態であったそうだ。

越の太子勾践(こうせん)が 紀元前496年に父の後を継いで即位した。
すると、呉王がその報せを受けて越を攻めたが敗死。
それまでにも、呉と越は何かにつけてがたがたとしていたわけで…
呉王を継いだ夫差(ふさ)は報復の準備を整える。 
すると、事を憂えた勾践は、先手を打って仕掛ける。  何とかの連鎖である。

越は大敗し、滅亡寸前にまでなった。が、勾践は謝ってしまう。 た・す・け・てぇ〜
そして勾践は呉で使用人として労働をする等の苦渋を味わう。 が…  越王勾践
呉王の夫差が中原で諸侯との会談に出かけている隙を突いて呉を攻めた!

越は呉への復讐心で着実に力を蓄えていたのである。そして紀元前473年に呉を滅ぼした。
勾践は、中原の覇者となる。勾践になにかと進言した知恵者は 范蠡(はんれい) といった。
この范蠡はなかなかの策士で、呉王を籠絡するために手塩にかけて仕込んだ
西施という美女を呉へ送り込んだりもした。
しかるに勾践は 天下を取ったのも范蠡あったればこそ。
するとこの范蠡 さっさと職を辞して陶の地で、朱と称した。 よんで陶朱公。
中国の伝説的大商人、巨万の富を得たという「陶朱公」である。
                  今でいえば起業家というところか…

紀元前465年、勾践没。
その数代後、越は楚に滅ぼされ、楚もまた秦に滅ぼされる。


伝え聞く陶朱公は勾践を伴い。会稽山に籠り居て。種々の知略を廻らし。
終に呉王を亡ぼして。勾践の本意を達すとかや。      
しかるに勾践は(ナ)。 ふたたび世を取り会稽の恥をすすぎしも。 陶朱功をなすとかや。 
されば越の臣下にて。 政事を身に任せ。 功名(こうめい)富み貴 (たっと) く。 
心のごとくなるべきを。功なり名遂げて身退くは天の道と心得て。
小船(しょおせん)に棹さして 五湖の煙涛 (えんとお)を楽しむ。           【船弁慶】


    

能 船弁慶で、義経と静御前の別れの場面での詞章にもでてくる 勾践と陶朱公。
    義経の身の処し方を例えているわけで…

陶朱公 范蠡は 蜚鳥尽きて良弓蔵せられ、狡兎死して走狗煮らる、として越を去った。  
つまり、飛んでいる鳥を射尽くせば、良い弓も蔵に仕舞われ、用はなく、
すばしっこい兎が死んでしまえば、どんなに良い猟犬でも不要になり、煮て食われる。

              要するに、引際は誤るなよ! と言っている。











投稿日 2015年09月12日 0:47:35
最終更新日 2015年09月12日 0:47:35
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