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2015年06月12日
明恵上人
カテゴリ : [三余堂月次]
消えた記事の掘起し  2011-05-12 三余堂月次から



面白人物伝ではないが、業平に続いては明恵上人。 
たまたま 【明恵上人 その生涯と足跡…、】というYouTubeに突き当たった。
この動画、郷土の誇りとばかりに明恵上人を町興しに担ぎ出した。
と、そんなところだろうか…  上人は、和歌山県有田川町が出生地。
有田川町は吉備町・金屋町・清水町が2006年に合併して出来た町で 
有難くも上人は金屋町の歓喜寺の生まれという。 なんたって国道480号にある道の駅は
明恵ふるさと館 と命名されている。
明恵上人 両親とも藤原氏の系図の何処かに名前がある家柄。
お父上はあの後白河法皇の子、高倉上皇さんとこでお勤めだし、お母上も土地の有力者の娘。
そりゃぁ それなりに身分はしっかりしていた。が、数えで九つの時に両親をなくす。
翌年、高雄山神護寺で叔父上の上覚さんに師事。つまり、寺に預けられたって云う訳である。
これが1180年のこと。
高倉上皇から安徳天皇へ交代した年で、平家の雲行きが妖しくなっていく。
源頼政は平氏討伐のため挙兵するも、宇治平等院で敗死。  以仁王の命で源頼朝挙兵。
富士川の戦いで平氏は敗走。 黄瀬川では世にいう 黄瀬川の対面 で義経と頼朝対面。
仏御前って平清盛の寵愛を得た白拍子が亡くなったということになっているのもこの年。
それぞれ 能の題材でも御馴染。治承4年のことであった。

16歳で出家した明恵上人はあっちで学び、こっちで学びと学僧人生まっしぐら。
20代では山にこもったり、修行したりと 難しい教学を
修められ… 紀伊国内を転々と御生活。 
そうこうしているうちに天竺へ渡って 仏跡を巡礼しよう!
そんなことを企てるも、病気のため断念。 
3年後の1205年、再度 挑戦。 
が、藤原さんの氏神様である、春日明神のご神託でまた、また断念。

何たって、春日野あたりが、一面に金色の世界になり、八大竜王が百千の眷属(けんぞく)を
引き連れ、他の仏達も会座に参会し、御法を聴聞する。  ぅわぁ〜すごっ  と大感激。
         「これまでなりや明恵上人、さて入唐は」  「止まるべし」
         「渡天はいかに」  「渡るまじ」
         「さて仏跡は」  「尋ねまじや」
上人、入唐渡天を思い止り、竜神は姿を大蛇に変えて、猿沢の池水をかへして失せにけり!
と、能 春日龍神 の題材に。


その頃、大陸ではチンギスハーンがモンゴルを建てた、1206年。 
後鳥羽上皇より栂尾山を賜わり、高山寺を創建して華厳の教学に励んだという。
それらを判り易く、工夫をしたというが、なかなか自らは戒律に厳しかったそうな。
法然、親鸞、道元などの鎌倉新仏教の時代。 明恵もまた、「仏陀の精神に帰れ」との思い。
院政から武士の家の誕生、そして鎌倉幕府の政治へと、社会の大きなうねりの中で
浄土宗を開いた 法然の『選択本願念仏集』に対して、『摧邪輪』 を著したりしている。
内容は難しいので、専門家にお任せするとして、 1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して
討幕の兵を挙げた。世に云う承久の変。この時、上皇方の敗兵をかくまったとも云う。 
それが縁で、北条泰時との交流もあったらしい明恵上人。 なかなかのご人脈…   。

白洲正子著 『明恵上人』<講談社文芸文庫>、を手にするも良し。

1232年 耳順、自分と異なる意見を聞いても反発しなくなると孔子は云っている。  
寂、享年60。







投稿日 2015年06月12日 0:35:09
最終更新日 2015年06月12日 0:35:09
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