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2015年07月12日
ラナルド・マクドナルド
カテゴリ : [三余堂月次]
観光都市世界ランキング1位は『京都』 というニュースはまだ耳に新しい。
東京も海外からの旅行客は相も変わらずで、過ごし難いこの季節をものともせず
買い物に忙しそうである。 外貨獲得 有難し有難し、という事か。
先日、銀座で、ウィンドーにへばりついてカメラを覗き込む西洋人の若者を見た。
 “君ィ、そこ高いから〜” と言ってやりたい気がした。一所懸命、学業の傍ら働き
貯めてきたんだろうなぁ と、我ながら、少々古めかしい感覚に ニタッ!として
地下鉄の階段を降りた。


今から ざっと百七、八十年前になるが、日本に憧れてやってきた人がいる。
所謂 文化文政から天保といった時代で、結構、日本近海は潮流の具合で
漂流民が海外へ出たり、来たりと、社会貢献することになる。
そんな中に一人の若者がいた。子供の頃、日本人漂流民に出会った少年、
ラナルド・マクドナルドは、英領時代のカナダで生まれた。 1824年のことだった。
どういう訳だか、この人、親戚のおじさんだかおばさんに、
“お前の祖先は日本人なんだよ!”と言われて その気になっていたらしい。
尤も、彼は毛皮商だったスコットランド人の父と現地人の母との混血で、それなりの
苦労と共に未知の世界への憧れという、お決まりの道が、日本行きを企てたようだ。
1845年、ニューヨークで捕鯨船プリマス号の船員となっていざ、日本へ。
勿論 密航である。 “鎖国する謎の国が 僕のルーツなんだ!”
“日本語や日本の事情を学び ベンチャービジネスの機会を!” と思ったか、
なかなかの覚悟で やってきた。

1848年6月、単身ボートで日本に上陸。母船の船長は、正規の下船証明を与えたという。
不法入国では処刑、が、漂流者なら…  ということで、利尻島に上陸。
ここに住んでいたアイヌ人と10日ほど暮らしたが、その後、拘留されたり、密入国の疑いで
宗谷、松前、長崎へと送られた。 疑いなく密入国なのだが…
ここで、1849年にアメリカの軍艦で本国に帰還するまでの約7ヶ月間を過ごしたという。
マクドナルドは、聞き覚えた日本語を使うなどのアピールが功を奏したのか、長崎奉行は、
オランダ語通詞14名を彼につけて英語を学ばせた。その中の一人、森山栄之助は、
彼から本格的な英語を学んで、阿蘭陀語、英語が使える通詞となった。
何せ、それまでは捕鯨船の漂流民の話し言葉や、阿蘭陀訛りの英語学習であるから
“しっと だうん!” の域を出るとは思えぬ。マクドナルドが最初の英語を母国語とする
英語教師だった。 森山はさすが、通詞の家柄、幼少期から特別培養されて、語学で
御奉公すべく教育されてきただけの事はあり、結構 上手かったようである。
嘉永7年(1854年)のペリー再来航の首席通詞を森山栄之助は務めている。

マクドナルドは、当然乍ら、観光都市世界ランキング1位の『京都』を見物をすることも
なく、長崎に入港していたアメリカ船に引き渡され、そのままアメリカへ。
帰国後は日本の情報を米国に伝え、後のアメリカの対日政策の方針に影響を与えた
という。アメリカ史ではかなりの重要な人物として、研究や紹介の書籍が公刊されている
そうだ。三余堂にとっては、教科書に名前があったかどうだかも定かでない人物だが、
ペリーはきっと、彼からの情報を分析しているのだろう。

帰国後はそれこそ、起業し、世界へ航海したという。
人生最後の言葉は、「さようなら my dear さようなら」だったというから、
ラナルド・マクドナルドはそれなりの満足な日本生活を送ったのだ。








投稿日 2015年07月12日 16:08:21
最終更新日 2015年07月12日 16:08:40
修正