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2015年04月12日
昔の人が大好きだった曽我物語
カテゴリ : [三余堂月次]
能 『小袖曽我』のほかにも 曽我物語を題材としたものが色々とある。
尤も、流儀によって現行曲だったり、廃曲だったりと様々だが、取敢えず
現在の五流が揃って上演曲としているのは『小袖曽我』、『夜討曽我』。
他にも 『禅師曽我』 (観世流、宝生流、喜多流)や、『調伏曽我』 (宝生流、金剛流、喜多流)がある。
廃曲になったという切兼曽我だの、伏木曽我だのというのがあったようで、
いかに当時はこの話が好かれていたかと、窺い知ることになる。

鎌倉後期から室町期にかけて成立した『曽我物語』の普及で、幸若舞では 『十番斬』や
『和田宴』(わだのさかもり)、などという題名演目がある。
能と同じ、『小袖曽我』、『夜討曽我』などの曲名もあるようだ。
幸若舞は室町時代に多いに流行った語りを伴う舞の一種で、能の原型とも謂われている。
故に、曲名が同じでも当然な訳で、能でも曽我物を盛んに作ったのは頷けるというものだ。
この幸若舞は 巡り巡って現在は福岡県のみやま市というところの民俗芸能として現存している。
当然乍ら、浄瑠璃でも曽我物はあったが、とくに江戸期の歌舞伎では、最初の作といわれる
『曽我十番斬』(1655)以来、曽我物が大当たりとなったそうである。
仇討物の曽我物語は、当時の朱子学文化としては受容されても当然だ。
正義感溢れる、若く美しい弟の五郎を市川団十郎が荒事の演出で市川宗家の芸とし、
年頭の吉例となったのである。享保(1716〜36)以後の初春舞台には必ず曽我狂言を上演。
この慣習が明治初年まで続いたという。

現在は 兄弟と工藤祐経が初めて顔を合わせる「対面」の場が、一幕の『寿曽我対面』として
上演されている。初春は勿論だが、祝儀の興業にはよく出る演目で華やかさを添えている。
忠臣蔵もそうだが、いろいろな歌舞伎の作品に曽我兄弟の物語設定がないまぜになっていて、
『助六』『矢の根』なぞもその例で、いかに庶民に広く浸透していたか、と、ここでも知らされる。
富士山が大爆発した宝永年間、江戸城下も灰で埋まる大災害になり、壊滅的となった。
それは富士の裾野で死んだ曽我兄弟の祟りであると、曽我兄弟を祀り、霊を鎮めるということで
曽我物を歌舞伎の舞台に出したという。

兎も角 曽我兄弟が好きなのか、曽我物語が面白いのか、そのうちに曽我兄弟とまったく関係なく
初春狂言は 曽我云々とならずば… とばかりの曽我物が増えたとか。
能も歌舞伎も、機会があったら幸若舞も曽我物を見比べるのもまた 一興。





三余堂 4月12日 観世九皐会例会で 能 『小袖曽我』を勤める。


投稿日 2015年04月12日 0:07:19
最終更新日 2015年04月12日 0:08:32
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