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2013年11月12日
一方の 新井白石
カテゴリ : [三余堂月次]
10月の案内望遠鏡で 能好きの家宣、側用人の間部詮房にふれたが、
もう一方の新井白石にもちと目をむけて。

明暦の大火の翌日に、焼け出された先で生まれたというのが かの新井白石。
明暦3年(1657年)2月10日のことであった。 へぇ〜
祖先は上野国新田郡の土豪だったそうで、今で云う群馬県になる。

講釈師ならここいらで、張扇を “パンパ パンッパン” と打って 幼少の頃より〜と始まるのだが。
わずか3歳にして父の読む儒学の書物を そっくり書き写したという非凡の才であったらしい。 ふ〜む
そもそも、その父なる 新井正済は、上総久留里藩の藩主土屋利直に、目付として仕えていた。
白石君は新井正済の自慢の子であったろう。 お利口だが、感が強かったのか
藩主の土屋利直は幼い聡明な白石のことを 「火の子」 とよんで可愛がったという。

次代藩主、土屋直樹という人は狂気を理由に改易されたような人で、父の正済は “仕えるに足らず”
と一度も出仕せず、親子共々クビになったという。  ほほっ〜
延宝7年(1679年)に、直樹が改易されると、すっかり 自由の身となった白石は なんと
当時の大老、堀田正俊に仕えた。 えっ!あのっ?

そう、吉良さんと違って、しっかり殺されてしまった 殿中でござる!の堀田正俊である。
若年寄の稲葉正休に殿中で刺し殺されると、堀田家は古河、山形、福島と次々に国替させられ
藩財政は悪化の一途。 とうとう白石は堀田家を自ら退き、浪人となった。 致し方なし…
が、しかし、独学で儒学を学び続けた。 うむっ さすが〜

まぁ 御秀才はいろいろとお誘いがあったようだが、貞享3年(1686年)に朱子学者の
木下順庵に入門。 特待生ということであったらしく、束脩免除で、目にかけられた由。
師匠の順庵は白石の才能を見込んで、加賀藩への仕官を見つけてきてくれたというが、
これ又 いろいろあって、同門の岡島忠四郎に譲ってしまう。 岡島君の老母の為なんだと〜

その後、順庵先生は甲府藩への仕官を推挙した。
白石が37歳の時である。
これも 当時の学閥だか、派閥だか、ややこしいことがあるらしいが、それはすっとばして
後の将軍 家宣 となる甲府藩主徳川綱豊にやっと士官となった。
が、甲府藩提示の三十人扶持の俸禄を、順庵先生が、「それではねぇ… 白石より末の弟子でも
三十人扶持なんて薄給ではねぇ〜 」と、掛け合って四十人扶持の提示を受けた。
しかし、順庵先生まだまだ推挙を渋る。 ところが、白石は “かの藩邸のこと、他藩に準ずべからず” と 宜しく願いまぁ〜す!と 仕官した。
                将軍家の御連枝である甲府藩は他の大名家とは訳が異なるってことだな…  ふむふむ
この仕官で、間部詮房と出会う。 
藩主綱豊は名を家宣と改め、宝永6年(1710年)将軍となった。
これで将軍家宣、新井白石、間部詮房の三人組が正徳の治と云われる政治改革に挑む。
白石の身分は幕閣でもなし、一介の無役の旗本であった。故に 側用人間部が間に入って
取り次ぐという形での作業、間部詮房も新井白石もいかに将軍の御信用篤きことか…

吉宗将軍になると、白石も詮房とともに失脚、公的な政治活動から退いた。
晩年は幕府より与えられた千駄ヶ谷に隠棲し、学者らしく多くの著書を残している。  
宣教師シドッチの話をまとめた『西洋紀聞』、回想録『折たく柴の記』などは 岩波文庫でも手に出来る。
絶対に信念を曲げず、貫き通す理想主義者であったらしい新井白石。
一面に麦畑が広がるような処だった千駄ヶ谷の地で 288年前の享保10年(1725年)に69歳で
没したという。

首都高新宿線を挟んで 今年開場30周年記念 国立能楽堂のちょうど北に位置するあたりになる。
                               ほぅ〜 一方の間部詮房の出自は能楽師だった …









投稿日 2013年11月12日 0:15:17
最終更新日 2013年11月12日 0:15:17
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