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2013年10月12日
太閤秀吉の能好み
カテゴリ : [三余堂月次]
いやにこのところ 黒田官兵衛関連の書籍の宣伝が多いと思ったら 
来年の大河ドラマが “軍師 官兵衛” だとのこと。
竹中半兵衛と双璧をなす秀吉の軍師で、両兵衛と称された武将の黒田如水のことだ。
九州征伐やら、文禄、慶長の役などで活躍した黒田長政の父である。
晩年は中央から退き隠居生活の様子で、結構な 爺さまと思っていたが、
還暦を目前の59歳で亡くなったというから 仙人のような爺さんという訳ではなかった。
慶長大地震の前年のことで、江戸幕府は歩み始めたばかり、そんな時代に世を去った。

官兵衛が仕えた豊臣秀吉は 今月、案内望遠鏡で登場の綱吉、家宣なぞ足元にも
及ばぬほどの能好きであったという。
世の中が落ち着いていたればこその趣味のようであるが、それが オットどっこい…
全国統一を果たした秀吉は、朝鮮出兵を控えて武家奉公人と、年貢を確保する為に
身分統制令を発するが、その頃に、自らが能を習い始めた。
朝鮮出兵の為の居城として肥前名護屋に築城を始めた秀吉は、一年以上の
肥前名護屋滞在中、稽古を始めたという。

文禄2年頃から 能に夢中になった様子が残っているというが、正月に二十名以上の
能役者を 中央から九州の地へ名指しで呼び寄せ、能を催しているし、その後も
なんだかんだと 出兵の為の居城での催しがあり、八月には数十人の能役者を
呼び寄せていたという。

勿論 稽古をしているのだから、秀吉は見るだけでは納まらない。
十数番の能を覚えた挙句、秀頼が誕生した時に大坂へ帰った秀吉は、
徳川家康、前田利家らの武将を伴って、前代未聞にも能を御所で三日催す。
徳川家康、前田利家、小早川秀秋、蒲生氏郷、細川忠興、浮田秀家、
織田秀信、徳川秀忠、細川幽斎、毛利輝元などの有力武将達は、所領の自治や
朝鮮出兵と多事多難の折に、お付合いをさせられ、なんと 玄人に混ざって
いろいろな役の担当を仰せつかる。 皆で舞ったり、鼓を打ったり…   
勿論、秀吉は何番も舞った。 
禁中御見物からは 『太閤御能神変奇毒特なり』 とのことで、どう解釈すれば良いやら…
浅い経験ながら、最高の秘曲なぞも舞った記録があるが、権力者ならではの所業で、
実力のほどは如何ばかりか。 まぁ 落語の寝床ってところか。

秀吉は当然の如く、自分を主題にした能を作らせている。
これが 『明智討ち』 『柴田』 『北条』 『吉野詣』 『高野参詣』 の五曲で 
ははぁ〜ん、と納得の首が振れる。
有力武将は付き合いの為だか、政治的意味合いの為だか、自領でも秀吉好みの能を
盛んにせざるを得ず、地方へも能が普及していく。

天正20年に唐入りと言われて、第一次遠征のため、ぞくぞくと 諸大名が名護屋へ。
その時小西行長、加藤清正ら 総計15万8700人が海を渡ったそうな。
1597年、慶長2年に第二次侵略が始まるまでの間、秀吉は名護屋で随分と能に
力を注いだようで、没する慶長3年の前年までの間に、制度として能の座を保護する
方策を打出し、能役者の生活の安定を図っている。
これが徳川政権にも引き継がれ 能が武家式楽という形になっていったのだから
権力者秀吉の愛好の“お陰さま”ということか。
                       能の何がそんなに 秀吉を惹きつけたのやら。










投稿日 2013年10月12日 20:58:03
最終更新日 2013年10月12日 20:58:03
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