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2013年10月20日
三余堂の記事にあった黒田官兵衛の時代。ところ変わってフランスではプロテスタントとカトリックの間でごちゃごちゃした時代で、世界史に強い方は「ユグノー戦争」と聞くと思い当たるやも。

時のフランスのブルボン王朝の国王アンリ4世が1598年に発布した「ナントの勅令」により信仰の自由が認められて宗教の争いはちょっと収まった頃が日本では関ヶ原です。

この「ナントの勅令」は原本が現存していて、こちらをクリックして画像をご覧ください。
(フランスの文化庁は太っ腹だ。しっかり閲覧できます。)

羊皮紙にびっしり細かく書かれていますが、書体はゴティックの草書体からロンド体への過渡期の頃のものです。

ゴティックの書体はドイツを中心に発展した手書き及び活版文字の書体ですが、フランスでは手書きの草書体が独自で発展し、さらにロンド体に移行していきました。このロンド体はフランス書体とも呼ばれ、17世紀にヨーロッパの国々から世界で最も美しい書体と言われていたものです。

こちらがロンド体で書かれた写本。

その時代には...


フランスの書家ルイ・バルブドールによる  17世紀

縦の流れじゃなくて、横の流れを学びなさい、と、パリで美術史を勉強していた時の先生の言葉をつくずく思い出す鵞毛庵です。
大河ドラマと一緒にフランス史も学ぼう!な〜んて。
投稿日 2013年10月20日 1:15:46
最終更新日 2013年10月20日 1:15:46
修正
2013年10月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
いやにこのところ 黒田官兵衛関連の書籍の宣伝が多いと思ったら 
来年の大河ドラマが “軍師 官兵衛” だとのこと。
竹中半兵衛と双璧をなす秀吉の軍師で、両兵衛と称された武将の黒田如水のことだ。
九州征伐やら、文禄、慶長の役などで活躍した黒田長政の父である。
晩年は中央から退き隠居生活の様子で、結構な 爺さまと思っていたが、
還暦を目前の59歳で亡くなったというから 仙人のような爺さんという訳ではなかった。
慶長大地震の前年のことで、江戸幕府は歩み始めたばかり、そんな時代に世を去った。

官兵衛が仕えた豊臣秀吉は 今月、案内望遠鏡で登場の綱吉、家宣なぞ足元にも
及ばぬほどの能好きであったという。
世の中が落ち着いていたればこその趣味のようであるが、それが オットどっこい…
全国統一を果たした秀吉は、朝鮮出兵を控えて武家奉公人と、年貢を確保する為に
身分統制令を発するが、その頃に、自らが能を習い始めた。
朝鮮出兵の為の居城として肥前名護屋に築城を始めた秀吉は、一年以上の
肥前名護屋滞在中、稽古を始めたという。

文禄2年頃から 能に夢中になった様子が残っているというが、正月に二十名以上の
能役者を 中央から九州の地へ名指しで呼び寄せ、能を催しているし、その後も
なんだかんだと 出兵の為の居城での催しがあり、八月には数十人の能役者を
呼び寄せていたという。

勿論 稽古をしているのだから、秀吉は見るだけでは納まらない。
十数番の能を覚えた挙句、秀頼が誕生した時に大坂へ帰った秀吉は、
徳川家康、前田利家らの武将を伴って、前代未聞にも能を御所で三日催す。
徳川家康、前田利家、小早川秀秋、蒲生氏郷、細川忠興、浮田秀家、
織田秀信、徳川秀忠、細川幽斎、毛利輝元などの有力武将達は、所領の自治や
朝鮮出兵と多事多難の折に、お付合いをさせられ、なんと 玄人に混ざって
いろいろな役の担当を仰せつかる。 皆で舞ったり、鼓を打ったり…   
勿論、秀吉は何番も舞った。 
禁中御見物からは 『太閤御能神変奇毒特なり』 とのことで、どう解釈すれば良いやら…
浅い経験ながら、最高の秘曲なぞも舞った記録があるが、権力者ならではの所業で、
実力のほどは如何ばかりか。 まぁ 落語の寝床ってところか。

秀吉は当然の如く、自分を主題にした能を作らせている。
これが 『明智討ち』 『柴田』 『北条』 『吉野詣』 『高野参詣』 の五曲で 
ははぁ〜ん、と納得の首が振れる。
有力武将は付き合いの為だか、政治的意味合いの為だか、自領でも秀吉好みの能を
盛んにせざるを得ず、地方へも能が普及していく。

天正20年に唐入りと言われて、第一次遠征のため、ぞくぞくと 諸大名が名護屋へ。
その時小西行長、加藤清正ら 総計15万8700人が海を渡ったそうな。
1597年、慶長2年に第二次侵略が始まるまでの間、秀吉は名護屋で随分と能に
力を注いだようで、没する慶長3年の前年までの間に、制度として能の座を保護する
方策を打出し、能役者の生活の安定を図っている。
これが徳川政権にも引き継がれ 能が武家式楽という形になっていったのだから
権力者秀吉の愛好の“お陰さま”ということか。
                       能の何がそんなに 秀吉を惹きつけたのやら。










投稿日 2013年10月12日 20:58:03
最終更新日 2013年10月12日 20:58:03
修正
2013年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
徳川家宣(とくがわいえのぶ)は、犬公方や暴れん坊将軍に挟まれた在職期間が三年余りの
江戸幕府第六代将軍だ。 五代将軍綱吉に世嗣がなく、後継候補だった綱吉の娘婿も亡くなり、
次期将軍ということで、家宣が甲府徳川家から江戸城西の丸に入ったのは1704年12月31日
だったという。 時に家宣43歳。 5年後の宝永6年、五代将軍綱吉の死去に伴い48歳で
第六代将軍に就任する。
悪評の生類憐れみの令や酒税を廃止するなどして、庶民の人気は結構高かったらしい。
赤穂浪士でおなじみの柳沢吉保を免職し、甲府徳川家旧臣である間部詮房、新井白石らを登用。
文治政治を推し進め、荻原重秀を使って財政改革と、なかなか張り切っていたようだ。
が、在職3年、正徳2年秋 1712年11月に満50歳で死去。
東京は芝の増上寺にねむっている。いわゆる 正徳の治という政治改革をした将軍である。

五代将軍綱吉の時 あの悪名高き側用人という役職を賜った柳沢吉保の後を継いで
家宣に側用人として将軍家宣に仕えたのは間部詮房。
この人 寛文6年(1666年)、甲府藩主 徳川綱豊の家臣の子として生まれる。
はじめは猿楽師喜多七太夫の弟子であったという。この喜多七太夫は当時の大スターであった。

詮房は貞享元年(1684年)に綱豊、後の6代将軍家宣の用人になる。
まっ、いろいろ事情があったであろうが、綱豊の命によって間部姓となった。
間部詮房は綱豊が家宣となり江戸城西の丸城入に伴って、従五位下越前守に叙任。
側衆として、とんとんと出世して、お大名となった。加増を重ねてその後は高崎藩5万石を得たし、
老中の次席を命じられるまでになったというから、家宣の思い入れを量り知る。
そもそもそ側用人の正式な名称は御側御用人(おそば ごようにん)。
将軍の命令を老中らに伝える役目を担った重職で、名称のごとく御側での御用をこなすのだから
趣味の御相手も重要要素であったろう。

先代の綱吉はたいそうな能好で、側用人柳沢は自邸で個人的な能の会を催したり、綱吉が舞う
能の相手をしたりと政治以外での苦労も多かったようだが…
次代将軍の家宣も負けず劣らずの能をご愛好。 
三日に一度は能や囃子を催す程だったそうな。将軍職に就いてからもその熱は冷めず、
おまけに、鑑賞が稀曲好みで、当時180曲ほどが常の上演曲目だったのが、それ以外のものを
何だかんだと 総計百曲近くも所望して、能楽師たちを悩ませた。
演能が三日に一度では 通常曲外の稀曲をこなして仕上げるのは如何ばかりか。
もっとも、その御蔭でそれまでに埋もれていた『 蝉丸、大原御幸、砧、弱法師 』など、
現在の人気曲が その折に陽の目を見て復活した。

能楽師上がりの間部詮房、儒学者の新井白石と 家宣はがっちりと三人体制で正徳の治を
行ったが、家宣のあまりの能愛好みを新井白石は
       “天下の主にふさわしからぬ事として”
と 諌めたという。 さもありなん… とも思えるし、
勤勉なる仕事中毒、ワーカーホリックであったろう 間部が相手をしていたなら… とも思う。

家宣死後 幼少の家継が将軍職を継ぎ、間もなく病死。
そして、八代将軍徳川吉宗となり、間部、新井の両人は失脚した。
間部はその後も5万石の大名として家が続き、明治維新を迎えたという。
『正徳の治』 もさることながら能『砧』 『弱法師』に間部の恩恵があるやもしれない。 しかし、
間部と言えば、思い浮かぶのは 石坂浩二が扮した大河ドラマでの間部詮房ばかりである。
 




投稿日 2013年10月01日 9:59:57
最終更新日 2013年10月01日 9:59:57
修正