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1350年ごろのフランスの写本より フィリグランヌの装飾が施されているH
フィリグランヌ(Filigraneフランス語)は、ヨーロッパの中世写本に登場する頭文字の装飾。本来は線条細工を指している言葉で、日本ならば例えば秋田の銀線細工の装飾品などを思い浮かべてください。
この装飾に関する資料が見当たらないし、その細かさ故になかなか着手できずにいましたが、最近、超極細のカラーペンが売り出されたり、ネットであれこれ検索できて写本の画像も沢山入手できるのとで、思い切ってやってみることにしました。本来は先の細い羽根か金属のペンを使用すべきですが、無理に昔どおりにやらずとも現代の便利なものは大いに使うべし!と、中世装飾を教わった師のありがたいひと言を思い出し、文明の利器を活用中。
BOOK ORCHESTRA展に出品する蔵書票EXLIBRIS星の王子様 ©La plume d’oie 2016 Dの字の装飾がフィリグランヌ
早速、超極細カラーペンを手に、古典的な定番スタイルから独自にあれこれアレンジしたり、結構ツボにはまっています。でも、目は疲れるし、腱鞘炎にもなりそう…
3月、4月は展示の機会が多いので、このフィリグランヌを取り入れた作品を展示予定ですので、実物をご覧いただければ幸いです。
東日本大震災 チャリティーアート展
3月11日(金)〜19日(土)12:00〜19:00(初日14:00から、最終日17:00まで)
神楽坂セッションハウスガーデン
新旧合わせて小作品を出品予定です。
BOOK ORCHESTRA展
3月29日(火)〜4月17日(日) ギャラリーUSHIN 小手指
12星座展
4月4日(月)〜4月16日(土) ギャラリーK 越谷
こちら二つの展示の詳細はまた来月に。
2016年02月20日
カテゴリ : [鵞毛庵能の花シリーズ]
1350年ごろのフランスの写本より フィリグランヌの装飾が施されているH
フィリグランヌ(Filigraneフランス語)は、ヨーロッパの中世写本に登場する頭文字の装飾。本来は線条細工を指している言葉で、日本ならば例えば秋田の銀線細工の装飾品などを思い浮かべてください。
この装飾に関する資料が見当たらないし、その細かさ故になかなか着手できずにいましたが、最近、超極細のカラーペンが売り出されたり、ネットであれこれ検索できて写本の画像も沢山入手できるのとで、思い切ってやってみることにしました。本来は先の細い羽根か金属のペンを使用すべきですが、無理に昔どおりにやらずとも現代の便利なものは大いに使うべし!と、中世装飾を教わった師のありがたいひと言を思い出し、文明の利器を活用中。
BOOK ORCHESTRA展に出品する蔵書票EXLIBRIS星の王子様 ©La plume d’oie 2016 Dの字の装飾がフィリグランヌ
早速、超極細カラーペンを手に、古典的な定番スタイルから独自にあれこれアレンジしたり、結構ツボにはまっています。でも、目は疲れるし、腱鞘炎にもなりそう…
3月、4月は展示の機会が多いので、このフィリグランヌを取り入れた作品を展示予定ですので、実物をご覧いただければ幸いです。
東日本大震災 チャリティーアート展
3月11日(金)〜19日(土)12:00〜19:00(初日14:00から、最終日17:00まで)
神楽坂セッションハウスガーデン
新旧合わせて小作品を出品予定です。
BOOK ORCHESTRA展
3月29日(火)〜4月17日(日) ギャラリーUSHIN 小手指
12星座展
4月4日(月)〜4月16日(土) ギャラリーK 越谷
こちら二つの展示の詳細はまた来月に。
投稿日 2016年02月29日 0:26:39
最終更新日 2016年02月29日 0:27:23
【修正】
2016年02月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
丙申の三余堂月次は「張猛龍碑」を探ってみる。
先ずはこの顕彰碑が誕生した北魏という国についてであるが、
そもそも、何時のことで、何処のことなのか。
北魏は大陸の遊牧騎馬民族が造り上げた国で、西暦の三世紀中ごろまでに
内蒙古周辺を中心として連合国家を作り上げていたという。
日本は邪馬台国の卑弥呼の時代である。が、その邪馬台国の場所は未だ確定できず。
兎も角、馬に乗ってパッカパッカとひたすら草原を行く人々をまとめていた大親分に
力微(りきび)という人がいて、彼は騎兵20万余りを率いる勢力を持っていた。
その子の世代は広い守備範囲を東部、中部、西部と分けてそれぞれを治め始めたが、
結局は、西部を治めた猗盧(いろ)という力微の次男が三部を統一した。
すると、西晋が猗盧を懐柔しようと近づいて来たそうな。
おっとどっこい、これを逆手にして猗盧は、盛楽を北都とし、大同を南都とし、
内蒙古から山西 北部の地域をほぼ領有してしまった。 要領のイイ奴は何時の世にも…
と、さもさも見てきたようであるが、二千年近くも前の広大な地のことで
何ともはや。しかしながら、大親分の力微が没して40年余り、西暦316年に
西晋が滅ぶと鮮卑族の中の有力部族だった連合国は実質的に独立国となった。
さぁて、国づくりが始まる。
西暦386年、今でいうところのモンゴル草原をがっちりした足の馬で駆け抜ける
鮮卑族の勇者がいた。名を 拓跋珪(たくばつけい)という。
この拓跋珪が諸部の酋長に推戴されて王になった。
『魏』の国誕生。三国志の魏とは別物のこの『魏』の王様 拓跋敬珪は
西暦398年 都を平城に遷して、所謂『北魏』の初代皇帝の道武帝となった。
猗盧が三部統一を果たして90年。
やっとここに張さんちの猛龍さまの国、『北魏』が誕生。
第二代皇帝の御代となると 東晋を倒して、南朝に栄えていた宋も攻撃。
お馬に乗って西へ東へ、南へ南へと、黄河以南にも進出して強大な国家となって行く〜
といった次第で、既存の北方民族から抜け出して発展していった。
遊牧の民は部族制からトップを頂くピラミッド型の体制へ移り、戸籍を作ったりして、
農耕をする定着型の生活を振興したという。漢族の専制制度を取り入れたって訳だ。
貴族なんていう階級を作って優遇されれば、悪い気はしない族長もいたはずだ。
それに、漢族もしっかり官吏として登用している。大陸はこういうところが実に
能力主義というか、使えるものはしっかり使う。
時代は下るが、帰国出来ずにかの地で官吏生活を余儀なくされた阿倍仲麻呂の
ような人がいるのは当然なのだろうなぁ…
第三代皇帝 太武帝は漢人の崔浩(さいこう)を官僚頭脳として、一方鮮卑族の勇猛果敢な
騎馬の機動力で領土を広げていった!
そして、華北を統一してしまうのだった。
先ずはこの顕彰碑が誕生した北魏という国についてであるが、
そもそも、何時のことで、何処のことなのか。
北魏は大陸の遊牧騎馬民族が造り上げた国で、西暦の三世紀中ごろまでに
内蒙古周辺を中心として連合国家を作り上げていたという。
日本は邪馬台国の卑弥呼の時代である。が、その邪馬台国の場所は未だ確定できず。
兎も角、馬に乗ってパッカパッカとひたすら草原を行く人々をまとめていた大親分に
力微(りきび)という人がいて、彼は騎兵20万余りを率いる勢力を持っていた。
その子の世代は広い守備範囲を東部、中部、西部と分けてそれぞれを治め始めたが、
結局は、西部を治めた猗盧(いろ)という力微の次男が三部を統一した。
すると、西晋が猗盧を懐柔しようと近づいて来たそうな。
おっとどっこい、これを逆手にして猗盧は、盛楽を北都とし、大同を南都とし、
内蒙古から山西 北部の地域をほぼ領有してしまった。 要領のイイ奴は何時の世にも…
と、さもさも見てきたようであるが、二千年近くも前の広大な地のことで
何ともはや。しかしながら、大親分の力微が没して40年余り、西暦316年に
西晋が滅ぶと鮮卑族の中の有力部族だった連合国は実質的に独立国となった。
さぁて、国づくりが始まる。
西暦386年、今でいうところのモンゴル草原をがっちりした足の馬で駆け抜ける
鮮卑族の勇者がいた。名を 拓跋珪(たくばつけい)という。
この拓跋珪が諸部の酋長に推戴されて王になった。
『魏』の国誕生。三国志の魏とは別物のこの『魏』の王様 拓跋敬珪は
西暦398年 都を平城に遷して、所謂『北魏』の初代皇帝の道武帝となった。
猗盧が三部統一を果たして90年。
やっとここに張さんちの猛龍さまの国、『北魏』が誕生。
第二代皇帝の御代となると 東晋を倒して、南朝に栄えていた宋も攻撃。
お馬に乗って西へ東へ、南へ南へと、黄河以南にも進出して強大な国家となって行く〜
といった次第で、既存の北方民族から抜け出して発展していった。
遊牧の民は部族制からトップを頂くピラミッド型の体制へ移り、戸籍を作ったりして、
農耕をする定着型の生活を振興したという。漢族の専制制度を取り入れたって訳だ。
貴族なんていう階級を作って優遇されれば、悪い気はしない族長もいたはずだ。
それに、漢族もしっかり官吏として登用している。大陸はこういうところが実に
能力主義というか、使えるものはしっかり使う。
時代は下るが、帰国出来ずにかの地で官吏生活を余儀なくされた阿倍仲麻呂の
ような人がいるのは当然なのだろうなぁ…
第三代皇帝 太武帝は漢人の崔浩(さいこう)を官僚頭脳として、一方鮮卑族の勇猛果敢な
騎馬の機動力で領土を広げていった!
そして、華北を統一してしまうのだった。
投稿日 2016年02月12日 9:49:34
最終更新日 2016年02月12日 9:49:46
【修正】
2016年02月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
本来は季節の変わり目を節分という。
立春、立夏、立秋、立冬の前日のことである。
節分といえば“立春の前日”を指すことが多くなったのは江戸時代以降とのことだが、
特に冬から春になる“立春”は一年の始まりと考えられ、古来より行事が行われてきた。
“福は内、鬼は外”と声を出して炒り大豆を撒き、年の数だけ豆を食べる。
これは厄除けの為である。 柊、鰯などを飾って邪除けをする処もある。
古くから寺社では追儺の行事がある。
これは、季節の変わり目には邪気が生じると考えられ、それを追い払うための儀式。
そもそもは平安時代の初め、唐から取り入れたとされる行事で、本来は旧暦大晦日の
宮中行事であったという。
室町時代には炒った大豆を打ち撒いて、鬼、つまり邪気を払うようになったのだそうだ。
この時代の様子は、狂言の『節分』という曲目が教えてくれる。
節分の夜に夫が出雲大社へ大晦日の行事、お年取りに出かけたので妻が一人でいた。
そこへ蓬萊の島から来た鬼が訪れる。美しい人妻に小歌を謡い、言い寄る。
しかし、女はさっぱり靡かない。で、ついに鬼は泣き出してしまう。
女は靡くと見せかけ、鬼の持つ隠れ笠、隠れ蓑、打出の小槌などを取り上げた。そして、
しまいには、豆をまく節分になったと“福は内 鬼は外”と豆をぶつけて鬼を追い出す。
鬼に豆をぶつけ、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うということだ。
今年の節分は2月3日。
神社では節分祭 せつぶんさい として豆撒式が執り行われる。
寺院でも豆撒きを行事にしているところは多い。
が、お寺では節分会 せちぶんえ の呼称が一般的なのだそうである。
三余堂は、“祭り”でも“会”でも結構。
一足早く、節分用の準備の豆をつまみに…
鬼を折ったり 豆を食ったり
目を描いたり、口を入れたり ざっと 節分の心地して…
立春、立夏、立秋、立冬の前日のことである。
節分といえば“立春の前日”を指すことが多くなったのは江戸時代以降とのことだが、
特に冬から春になる“立春”は一年の始まりと考えられ、古来より行事が行われてきた。
“福は内、鬼は外”と声を出して炒り大豆を撒き、年の数だけ豆を食べる。
これは厄除けの為である。 柊、鰯などを飾って邪除けをする処もある。
古くから寺社では追儺の行事がある。
これは、季節の変わり目には邪気が生じると考えられ、それを追い払うための儀式。
そもそもは平安時代の初め、唐から取り入れたとされる行事で、本来は旧暦大晦日の
宮中行事であったという。
室町時代には炒った大豆を打ち撒いて、鬼、つまり邪気を払うようになったのだそうだ。
この時代の様子は、狂言の『節分』という曲目が教えてくれる。
節分の夜に夫が出雲大社へ大晦日の行事、お年取りに出かけたので妻が一人でいた。
そこへ蓬萊の島から来た鬼が訪れる。美しい人妻に小歌を謡い、言い寄る。
しかし、女はさっぱり靡かない。で、ついに鬼は泣き出してしまう。
女は靡くと見せかけ、鬼の持つ隠れ笠、隠れ蓑、打出の小槌などを取り上げた。そして、
しまいには、豆をまく節分になったと“福は内 鬼は外”と豆をぶつけて鬼を追い出す。
鬼に豆をぶつけ、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うということだ。
今年の節分は2月3日。
神社では節分祭 せつぶんさい として豆撒式が執り行われる。
寺院でも豆撒きを行事にしているところは多い。
が、お寺では節分会 せちぶんえ の呼称が一般的なのだそうである。
三余堂は、“祭り”でも“会”でも結構。
一足早く、節分用の準備の豆をつまみに…
鬼を折ったり 豆を食ったり
目を描いたり、口を入れたり ざっと 節分の心地して…
投稿日 2016年02月01日 0:31:15
最終更新日 2016年02月01日 0:31:34
【修正】