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2014年10月12日
亡佚古書
カテゴリ : [三余堂月次]
宋の文人が抱く 日本像は自国で亡佚した古書が保存されている国であったと
案内望遠鏡 『日本刀の歌』 で記した。
それは秦の始皇帝による 焚書前に叙福が、持ち出したと考えられていたからだが、
この叙福なる人物、たいした食わせ者。
始皇帝に、「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と云って、三千人もの若い男女と
多くの技術者を従えて、東方に船出したという。
彼は多額の資金を始皇帝から巻き上げて、派手な一行を組み、日本へ渡ったと信じられていた。
叙福が東方への出立を願い出たのは始皇帝28年で、焚書は始皇帝34年。
故に焚書で消えていった書経・詩経・諸子百家などが生き延びていると想像されていた。
しかし実際に、叙福はしばらく日本へ出発せず 焚書後の始皇帝37年に出掛けたようだが…
叙福の末路は不明なるも、始皇帝がしてやられたことは確かだ。
日本に中国の古書があるのは 叙福が焚書前に持ち出したからではない。
それまでに 日本にもたらされた書籍をはじめとする宝物類は、天皇家が天皇家として
脈々と存続した日本の場合、戦乱といっても徹底的な壊滅に至らずに済んだので、
さほど 不思議なことでは無かった。勿論 御扱がお大切であったことは言うまでもない。
『日本刀の歌』 の欧陽 脩が生まれる前、宋の太宗の時代984年のこと。
日本から入宋した然(ちょうねん)という坊さんがいた。
その折、中国ではすでに亡佚していた 後漢の鄭玄の注釈による『孝経』を
水晶の軸に金縷紅羅の表装という豪華版の仕立てで 携えていったらしい。
『孝経』というのは 孔子さまの教えだが、子供の頃は何かと耳タコであった、
『身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり』 の基である。
この鄭玄の注釈による孝経は 玄宗皇帝が 新しい注釈を作らせたら 無くなってしまった。
その新しい注釈 『始注』の次に 『重注』というのが作られたら 『始注』が無くなってしまった。
でも、日本には ちゃぁんと『始注』があった。
儒学書も仏典も どっかにやっちゃった! さぁ大変。 でも、でも、きっと日本にあるさ?!
西暦1000年頃 日本から僧寂昭入宋。
この時、中国の目録に名前があるだけで亡佚していた小難しい 『大乗止観』、『方等三昧行法』
を携えて行き、宋ではこれを基に新たに製作。 宋にしてみれば大変な賓客であったろう。
時の皇帝真宗から紫衣と円通大師の号を賜った寂昭は結局 、日本に帰国する事がないまま
杭州で没したという。
この人、結構な有名人。
「これは大江の定基と言はれし寂昭法師にて候、我、入唐渡天 し。
はじめて彼方此方を拝み巡り。只今 清涼山に参りて候〜 」
とか云って 橋の向こうが文殊菩薩の浄土だという石橋に辿り着く。
ご存知 能「石橋」に登場のワキの僧、寂昭のことである。
深い谷に掛かる狭く長い橋は人が渡れたものではない。 やがて、橋の向こうから
文殊の使いの獅子が現われ、牡丹の花に戯れて、飛んだり跳ねたり。
紅白の大きな牡丹の花に埋もれんばかりの絢爛豪華な舞台。
そこで 白い獅子、赤い獅子が獅子の舞を舞う。時には、何頭もの子獅子が橋懸、本舞台と
行き交い、もとの獅子の座に戻っていく。
無事に基の座に戻った、中国亡佚古書。
前述の『鄭注の孝経』と 『侃(おうかん)の論語義疏 』が日本で発見された物の代表だとか。
消えたアーカイヴ 2012.10.12. 三余堂月次から
案内望遠鏡 『日本刀の歌』 で記した。
それは秦の始皇帝による 焚書前に叙福が、持ち出したと考えられていたからだが、
この叙福なる人物、たいした食わせ者。
始皇帝に、「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と云って、三千人もの若い男女と
多くの技術者を従えて、東方に船出したという。
彼は多額の資金を始皇帝から巻き上げて、派手な一行を組み、日本へ渡ったと信じられていた。
叙福が東方への出立を願い出たのは始皇帝28年で、焚書は始皇帝34年。
故に焚書で消えていった書経・詩経・諸子百家などが生き延びていると想像されていた。
しかし実際に、叙福はしばらく日本へ出発せず 焚書後の始皇帝37年に出掛けたようだが…
叙福の末路は不明なるも、始皇帝がしてやられたことは確かだ。
日本に中国の古書があるのは 叙福が焚書前に持ち出したからではない。
それまでに 日本にもたらされた書籍をはじめとする宝物類は、天皇家が天皇家として
脈々と存続した日本の場合、戦乱といっても徹底的な壊滅に至らずに済んだので、
さほど 不思議なことでは無かった。勿論 御扱がお大切であったことは言うまでもない。
『日本刀の歌』 の欧陽 脩が生まれる前、宋の太宗の時代984年のこと。
日本から入宋した然(ちょうねん)という坊さんがいた。
その折、中国ではすでに亡佚していた 後漢の鄭玄の注釈による『孝経』を
水晶の軸に金縷紅羅の表装という豪華版の仕立てで 携えていったらしい。
『孝経』というのは 孔子さまの教えだが、子供の頃は何かと耳タコであった、
『身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり』 の基である。
この鄭玄の注釈による孝経は 玄宗皇帝が 新しい注釈を作らせたら 無くなってしまった。
その新しい注釈 『始注』の次に 『重注』というのが作られたら 『始注』が無くなってしまった。
でも、日本には ちゃぁんと『始注』があった。
儒学書も仏典も どっかにやっちゃった! さぁ大変。 でも、でも、きっと日本にあるさ?!
西暦1000年頃 日本から僧寂昭入宋。
この時、中国の目録に名前があるだけで亡佚していた小難しい 『大乗止観』、『方等三昧行法』
を携えて行き、宋ではこれを基に新たに製作。 宋にしてみれば大変な賓客であったろう。
時の皇帝真宗から紫衣と円通大師の号を賜った寂昭は結局 、日本に帰国する事がないまま
杭州で没したという。
この人、結構な有名人。
「これは大江の定基と言はれし寂昭法師にて候、我、入唐渡天 し。
はじめて彼方此方を拝み巡り。只今 清涼山に参りて候〜 」
とか云って 橋の向こうが文殊菩薩の浄土だという石橋に辿り着く。
ご存知 能「石橋」に登場のワキの僧、寂昭のことである。
深い谷に掛かる狭く長い橋は人が渡れたものではない。 やがて、橋の向こうから
文殊の使いの獅子が現われ、牡丹の花に戯れて、飛んだり跳ねたり。
紅白の大きな牡丹の花に埋もれんばかりの絢爛豪華な舞台。
そこで 白い獅子、赤い獅子が獅子の舞を舞う。時には、何頭もの子獅子が橋懸、本舞台と
行き交い、もとの獅子の座に戻っていく。
無事に基の座に戻った、中国亡佚古書。
前述の『鄭注の孝経』と 『侃(おうかん)の論語義疏 』が日本で発見された物の代表だとか。
消えたアーカイヴ 2012.10.12. 三余堂月次から
投稿日 2014年10月12日 0:06:17
最終更新日 2014年10月12日 0:06:17
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