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2014年04月12日
古事記の写本
カテゴリ : [三余堂月次]
シリーズ 消えたアーカイヴ掘り起し 2012年4月の記事から

遣唐使の持ち帰った物に 王羲之の搨模本があったと案内望遠鏡(2012-04)で書いた。
その頃は当然、複写機があるわけでなく、書き写すことによって文化を受け継いでいく。
人の手で 次から次へと書き写すのだから、当然、誤字、脱字、加筆もあれば、省略もある。
行を飛ばしたまま気づかないことだって、あったかもしれないし…
原型を如何に正確に伝えるかが勝負だ。

律令国家完成に貢献すべく遣唐使が頑張っていたころ、日本の歴史書も纏められる。
古事記の成立だ。
その序によれば和銅5年712年に太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)、早い話が
太安万侶(おおのやすまろ)によって献上された日本最古の歴史書で、上・中・下の全3巻。
で、作成年代は後世の写本で確認されているそうだ。
現存する『古事記』の写本は、大きく、「伊勢本系統」と「卜部本系統」に分かれ、
最古のものは、「伊勢本系統」の1371年から翌1372年にかけて真福寺の僧 賢瑜によって
書写された。南北朝の頃の写本で、 真福寺本古事記三帖というもの。
原型の面影を伝えていると、評価されて国宝に指定されている。

原型の面影とは…  それはさて置いて、この真福寺、名古屋は中区大須にある。
寺宝に鬼の面が伝わるので、「福は内、福は内!」と 鬼を締め出すことを遠慮して 
「鬼は外」と云わない節分会。 名古屋では有名な通称、大須観音のこと。
そこの文庫、真福寺文庫が全国屈指の古典籍の宝庫なのだそうだ。

この寺は 鎌倉時代末期の創建。
江戸時代初め現地に移転するまでは 現在の岐阜羽島大須にあった為、木曽川と
長良川の合流地点で、洪水に幾度となく襲われた。
木曽川の東にあった寺は洪水で川の西側になったり、蔵書は常に水に浸り、流出の
危険との戦いだったということである。
そんな折、徳川家康は蔵書保全を考えて、名古屋城下へ寺の移転を命じたといことだ。
さすが、能の伝書だって抱えた蔵書家の家康。
真福寺文庫には一万点を超える蔵書が、百二十もの木箱に納められて現存し、
その中に古事記の写本があるという訳だ。

古事記の研究者といえば、国学者、本居宣長先生。
一生をその研究に捧げた先生、1787年にその写本を見たという。
が、書写の年代はわからなかった。
その後1797年、本居宣長の門弟、尾張藩士 稲葉通邦が藩主の命で、古事校訂本
作成中に粘葉装(でっちょうそう)の紙の合わせ目の内側に 「賢瑜」 という文字を発見!
これで 書写年代が確定か。

真福寺蔵書は初代、二代住職によって形成されたという。
ことに二代住職の信瑜は東大寺東南院の門跡聖珍の弟子で、その関連の書籍も多く、
現在の国宝になる物も伝わっている。
国宝の古事記は そんな信瑜の命で、真福寺の賢瑜が書写し、信瑜へ上程したのでは… と。
その経緯を詳らかにした、尾張藩士 稲葉通邦の発見は今一つ評価されることもなく、
                                               むにゃむにゃ…
真福寺本は明治30年の古社寺保存法で国宝に指定されということである。
今年は古事記1300年 (2012年当時) となにかと古事記が話題になるが、どれだけの人が
正面から古事記を読み込んでいるだろうか。
てんてるだいじんと読まないためにも、せめて自分の子供の為に書いたという 鈴木三重吉の
《古事記物語》ぐらいは 読みたいものだ。
それが 面倒なら手っ取り早く、古事記の電子版もいろいろあるので 検索を〜

                                               














投稿日 2014年04月12日 0:22:59
最終更新日 2014年04月12日 0:22:59
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