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2009年10月20日
 三余堂の先回の記事で隅田川のことを書いていますが、庵主は時代劇に出てくる大川ってどの川?と、よくパリで日本人に聞かれたものです。他県の人のみならず、東京出身の人にも聞かれたほど!隅田川のことだといとも簡単に答えていましたが、三余堂が語るように、隅田川の変遷はちとややこしい。

                          都鳥
 
                       能「隅田川」 La plume d’oie©鵞毛庵2009
                       (画像はクリックしてご覧ください。大きくなります。)

*この作品はポストカードにしたものを、26日に鎌倉能舞台で、当日の演目の狂言「茶壷」の作品とセットで販売いたします。 


在原業平の古歌に登場する都鳥はユリカモメのことらしいですが、ミヤコドリというカモメもいて、こちらもちとややこしいですね。一応、伊勢物語にある描写に近いものということで、この古歌に登場する都鳥はユリカモメに落ち着いている様子です。「都の鳥」ということで、東京都の鳥にもなっています。

カモメはパリのセーヌ川にもたくさんいます。あれが、都鳥、ユリカモメですよ、と言った日本人もいましたが、本当はどうなのか。

 
都鳥  こちらは地中海を眺めて物思いにふけるモナコの○○カモメ
何を「いざ言問はむ」?  

投稿日 2009年10月21日 11:27:14
最終更新日 2009年10月21日 11:28:14
修正
2009年10月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
現在の隅田川は、東京都北区の 新荒川大橋のすぐ下流にある「岩淵水門」で荒川から分岐。
石神井川だの、神田川だのと支流河川を合わせ、東京湾に注ぐ全長23ほどの一級河川である。
足立区・荒川区・台東区・墨田区・江東区・中央区と 7つの区を通って東京湾に注いでいる。
両側はコンクリートで固められ、河原 という語感と無縁な都市の川だ。

隅田川は 住田河として835年の文献に出てくるという。
江戸時代以前は、利根川の下流の名前だった。
利根川は現在、関東平野を西から東に流れて、 銚子で直接太平洋に流れ出ている。
徳川家康の頃の利根川は途中から南に流れ、今の隅田川を通り 東京湾に注いでいたそうだ。
家康江戸入府より、利根川東遷の大工事を行ったという。

四代将軍家綱の時代に現在のような利根川、荒川、隅田川の形が完成。
大規模な河川工事は、水害対策、関東南部の新田開発、交通、輸送体系の整備であった。
古隅田川(ふるすみだがわ) と呼ばれている埼玉県さいたま市岩槻区からの川も併せると、
「隅田川」とは、現在よりも長い区間の荒川を合わせた後の利根川や、その分流を
総称していたらしい。

明治末期から昭和初期にかけて、洪水を防ぐ為に岩淵水門から河口まで
荒川放水路が建設された。これが現在 荒川 とよばれている。
1965年に荒川放水路が荒川の本流、分岐点である岩淵水門より下流は
俗称であった 隅田川 に改称された。 
                         ややこしい!要は 時代と共に 隅田川には変遷があった。

江戸時代には、吾妻橋周辺より下流は大川(おおかわ)と呼んだ。
新大橋周辺までが、あの、ちょっと小粋な響きをもつ大川端(おおかわばた)である。
また、宮戸川ともよばれていた。 そうだ、落語の宮戸川は隅田川!

ということは 在原業平が、
        名にしおわば いざこととはむ 都鳥 わがおもう人は ありやなしやと
と詠んだ隅田川は、利根川の下流になる。


そんな 隅田川、江戸時代には二十ヶ所近く渡し舟の渡場があったという。
最後の渡し船は佃の渡しで、昭和39年に廃止。
勝鬨橋のたもとに 勝鬨の渡しという石碑を見たことがある。
隅田川沿いに散歩をすると、渡し跡の石碑を他所にも見つけられるという。

この渡しのうちに、橋場の渡しというのがある。 能 「隅田川」の舞台。
橋場の渡しは、石浜の渡し、須田の渡し、梅若の渡し、真崎の渡し、と別名を持つ。
その昔、源頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房の国に逃れ、下総を経て、鎌倉へ向かう時、
隅田川に浮橋を架けて渡った所とも言われる。
もっとも 渡しの位置は時代により多少移動しているようだが、
現在の白鬚橋の南側にあたるらしい。
それも 大正初年に地元の人が木橋を架け、橋場の渡しは消滅した。
やや北に離れたところに 梅若丸の塚がある、墨田区堤通の木母寺(もくぼじ)だ。


我子を人買いにさらわれ 都北白河から武蔵の国隅田川のほとりまで尋ね歩く女。
業平の 名にし負わば〜 の古歌と我が子を尋ねる我身を重ねて嘆き悲しむ様子に
渡しの船頭が、川向うでの大念仏は、子供が死んだのを人々が回向しているのだと語る。
それが尋ねる我が子の梅若丸と判り、女も念仏を唱える。 と、 南無阿弥陀仏と 子供の声が聞こえる。
     あっ! あたしの梅若丸だわ〜。可愛いあたしのぼうやだわっ。
                   おかあちゃまぁ! おかぁちゃまですよねっ!!
その姿が幻のように現れ、夜明けと共に消え失せ、あとには草の生い茂った塚があるのみだった。


世阿弥の子、十郎元雅の作品。
世阿弥と元雅の間で この梅若丸を舞台上に登場させるか否かのやりとりがあった。
子方として子の幻を舞台に出すか、子方を出さずに幻を見る気持を強く意識させるかと。
元雅は我子を亡くしていたという説もある。世阿弥も後年元雅を亡くし、逆縁となった。


隅田川と言うと 
    銀杏がえしに 黒繻子かけて 泣いて別れた すみだ川 …   を思う御仁もあろう。
永井荷風の小説「すみだ川」に題材を採った 御存知 東海林太郎のすみだ川。

    あぁ そうだったわねぇ あなたが二十歳、わたしが十七の時よ。
    いつも清元のお稽古から帰って来ると、 あなたは竹谷の渡し場で … 
  と田中絹代が台詞を言う。

あまりピンとこないなら 島倉千代子の芸者姿のすみだ川もある。
文庫本70頁程の作品、「すみだ川」は明治35、6年の光景で、荷風の香りをたっぷり。

世阿弥父子の頃の隅田川の香りは、今月26日鎌倉能舞台で。 三余堂が子を思う狂女となる。






投稿日 2009年10月12日 0:11:07
最終更新日 2009年10月12日 0:11:07
修正
2009年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
あちらも百年、こちらも百年、「100年記念の年」になると 昨年末三余堂月次《百萬》で書いた。
お陰さまで 全国各地で九皐会百周年の記念会は、無事進行中である。 
むっ!もう一つ、百年があった。
今年三月には 早稲田大学の演劇博物館で 
「世阿弥発見100年―吉田東伍と能楽研究の歩み―」と題する企画展をやっていた。

一般に世阿弥の秘伝書といわれるものは、「道のため、家のため」の書であった。
別に数百年もの間、土に埋まっていた訳でなく、自然の惠を人の手が丹精した
和紙と墨の力は、過去何千年と生き抜いた証明がある。
原本がすっかり朽ち果てるとは思えない。
室町から江戸の間は、能役者や一部の権力者、観世家、徳川家康などの大名家に秘蔵され、
人の目に触れることはなかったし、その必要もなかった。
が、御維新後、世の事情で顔を出した写本があったのだ。 


明治41年に、『申楽談儀』 さるがくだんぎ を吉田東伍が翻刻・刊行し、その存在が初めて
広く知られることになった。
数百年間、伝説的であった世阿弥の姿を明らかにする大発見!
能の大成期について具体的に知ることができる貴重な『申楽談儀』は、世阿弥の芸談を子息の
元能が書き留めたものである。
どのような経緯か長い時を経て 実業家・安田善次郎の手元にあった伝書が、吉田東伍によって
翻刻・刊行され、一般の人の目に触れた。

数百年の間には勿論、それなりに、それなりの人が必要として、写本、写本、写本を繰り返す。。                     
               なんたって 秘伝書。秘されれば 見なくちゃ、みなくっちゃっ!
スキャナー、コピーがあるわけでなし。
当然 加筆も、誤筆も、悪筆で訳の判らないものも出てこよう。
               僕、ここだけでいいから、そっちは君写せば! ぅっわぁ〜 いいのぉ。でも、メンド!!
                     やっとの思いで 写本したら お茶をこぼして駄目にィってなことも … あるかもしれない!



吉田東伍の業績は 『申楽談儀』の存在を広く伝えることには寄与したが、書写を重ねた本を
底本としているし、欠損は他の写本で補ったりして厳密さを欠いたらしい。
その上、安田の手元にあった伝書は大正十二年の関東大震災によってすべて焼失!
とはいえ、吉田東伍が「能楽創始の根本史料」と記した如く、刊行した『世阿弥十六部集』は、
能楽研究の第一級資料として高く評価され、研究者による研究を生んで現在にいたる。
戦後は、表章が携わった岩波文庫版『申楽談儀』、『世阿弥 禅竹』で、いろいろな写本を
参照して原文を復原する試みを行っているので 興味のある御仁は 図書館ででも…。 

書棚から引き出された『世阿弥 禅竹』時雨月の御案内を
時雨月の御案内をツンドクでも結構ケースに焼けがあるなぁ…


10月10日から東大の駒場博物館で特別展 
観世家のアーカイブ ―世阿弥直筆本と能楽テクストの世界―
と題した展示がある。
ここでも世阿弥と歴代の観世太夫に触れることができる。             
文中敬称略



投稿日 2009年10月01日 1:29:06
最終更新日 2009年10月01日 1:29:06
修正
カテゴリ : [案内望遠鏡]
この「能楽さんぽ」が La plume d'oie ラ•プリュム•ドワの兄妹サイトとして誕生したのが2006年10月。  
「でもォ、アイツとじゃなぁ…」 と始めたこの 三余堂と鵞毛庵の能楽さんぽ は 
また、歳を重ねることになった。 表紙の文面も 時移り事去り、そろそろ装束替えをと考えた。
ところが このサイトはそうそう手入れが出来ない代物と判明。
半年ごとのリモデル家電製品宜しく サイトの仕様も、どんどん時代遅れになっていく。


こちとらぁ 月に二度や三度のアップで、まだ三年っぱかりでぇ! と啖呵を切ったって始まらない。三余堂と鵞毛庵の能楽さんぽ


簡単に 新装できないのは大した内容でもないのに小難しくタラタラ文章を並べず、
案内望遠鏡の意に沿って、視野広く対象の星を追跡しやすくするために主望遠鏡を助けるがごとく、
ご案内やらお知らせやら、訂正を掲載せよ、と 示唆されたわけだ。

そこで 表紙差替えのつもりで 改めてご挨拶を。
      

三余堂亭主が「能」についてのあれこれをお話しする「能楽さんぽ」が 鵞毛庵の
      La plume d'oie ラ•プリュム•ドワの兄妹サイトとして誕生したのが2006年10月。  
      「でもォ、アイツとじゃなぁ…」 と始めた三余堂と鵞毛庵の能楽さんぽも、また、 
      歳を重ねることになりました。2009年は日本での活動を展開している鵞毛庵です。
      当初、能に関する名所旧跡を訪ねるサイトだと思われた方もありましたが、アニハカランヤ!
      能楽師と西洋の文字を綴って能を表しているカリグラファーとの 掛合漫才。
      またまた、気儘なさんぽへ出ようと思います。

                                                2009.10.01.  三余堂 










投稿日 2009年10月01日 1:29:06
最終更新日 2009年10月01日 1:29:06
修正