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2016年01月12日
張猛龍碑 −張さんちの猛龍さま−
カテゴリ : [三余堂月次]
人情味厚い張さんちの猛龍さまは家族愛に溢れ、貧しかった頃にも親孝行に励み、
27歳の時に父を、39歳の時に母を亡くした時の嘆き哀しみは大層なものだったと言う。
後に高官になった際もその性格は変わらず、民衆に温かく接し徳のある政治を行った。
そこで、当時の郡の官吏らがこの張さんちの猛龍さまの善政を讃えようと、4年の年月を
かけて碑文を練り、文字を書き、碑を丹念に彫って「張猛龍碑」という物を造り上げた。

この張さんちの猛龍さまは正史に記録がないというから、実際はどの程度のどんな人かは
判らない。彼を讃える碑の文面から推し量るばかりだが、碑が建てられたのだから
まぁ そこそこの人物であったろう。
この人、中国は南北朝時代、それも北朝の北魏時代のことで、南陽郡の白水出身という。
現在の河南省出身だったようで、遠くは周にまで遡る氏族の出という。
延昌年間(512-515)に奉朝請、煕平年間(516-518)に魯郡の太守となった…
というようなことが「張猛龍碑」に彫られている。
魯郡と聞くと孔子を思い出すが、大偉人、大賢人の孔子さまと同郷となると、それだけで
有難い人物のような気がしてくる。

張猛龍碑全影 右碑面 左碑陰   張猛龍碑 −張さんちの猛龍さま−  二玄社張猛龍碑より


この「張猛龍碑」は、北魏の正光3年(522)に彫られた地元官吏の顕彰碑だ。
六朝時代の北朝独特の楷書「六朝楷書」の書蹟なのだそうで、現在も山東省曲阜の
孔子廟内にある。が、この碑、斜めにひびが入って、下半分はぼろぼろで剥落し、
幾文字も連続して判読できないところがあるといった具合で傷みが激しい。
碑額には「魏魯郡太守張府君清頌之碑」と楷書で記されている。そこははっきりと読める。

碑文は楷書で1行46字、26行で、そこに張さんちが、いかに古い家系であるかを強調。
猛龍さまの人柄に対する讃辞を記して、張さんちと猛龍さまを讃える韻文で終わる。
お決まりの碑文というところか。孔子と同郷のこともあってなのか、時代的なことなのか
孔子やその教えに基づくものがよく出てくる。
文字は角ばって力強さや鋭さを表していて、とても特徴的だ。
当時の形なのか、現在とは文字のヘンの形が違っていたりするものもある。
少々右肩上がりで、力強い筆勢が大胆さを増し雄壮な感じだが、これは北朝時代独特の書体
なのだそうだ。ほぉ〜。


        張猛龍碑 −張さんちの猛龍さま−  碑額の拓本から

 ひょんなことで出逢った顕彰碑を丙申の歳は少し探ってみようと思う。










投稿日 2016年01月12日 21:08:37
最終更新日 2016年01月12日 21:09:35
修正