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2015年01月12日
法隆寺の落書き考 そのついで
カテゴリ : [三余堂月次]
大げさ乍ら、時の世を映し出す鏡とも云える落書きの話を昨年末に掘り起こした。
法隆寺の落書き話のついでを少々。
気ままに書かれたと思われる落書きだが そこに書かれた“難波津の歌”。
これは古今和歌集の仮名序で 紀貫之が紹介している歌である。

難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花

古くから手習い始めの歌として知られてきたことは以前の記事で書いたが、
紀貫之は仮名序の中で
『難波津の歌は 帝の御初め也。おほささぎの帝 (仁徳天皇) 難波津にて 
皇子ときこへける時 東宮をたがひに譲りて 位につきたまはで三年になりにければ 
王仁といふ人のいぶかり思ひて 読みたてまつりける歌なり』

と記していて、仁徳朝に 百済から渡来した王仁(わに)が詠んだ歌なんだとさ!
と紹介している。
王仁は 応神天皇の時代に論語や千字文を伝えた人物ということになっていて、
名前だけは何となく知っているが、この話はあくまで伝承。
王仁に関しての記述が存在する史書は古事記、日本書紀、続日本紀で、
日本書紀には百済からの使者を介して、来朝したという。
古事記には論語、千字文、つまり、儒教と漢字を王仁が伝えたとしているわけだ。
ところが、『千字文』は王仁の生存時はまだ編集されていない!
まっ、古事記編纂の時、複数の帰化した学者すべてを王仁先生が背負ったと解釈
しておこう。

そもそも此の歌は応神天皇の崩御後、まぁ 事情や思惑はあれど、
菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)と、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)が
互いに皇位を譲り合って、天皇が3年間も空位となっていた。 
後に大鷦鷯尊が即位して、あの前方後円墳でおなじみの仁徳天皇となった際に、
その治世の繁栄を願って詠まれた歌とされている。
仮名序で手習ふ人のはじめにもしけるの如く、古来書道の初学として親しまれて
いたということは この難波津の歌が当時の難波曲(なにわぶり)というもので、
民謡のようなものだったのではないか、との指摘があるとか、ないとか… 
王仁云々は後からのおまけで 皆に親しまれていた歌ということだろう。

寺社建築に関する研究の第一人者で、法隆寺落書きの解読に当たった
故福山敏男先生によると 「仕上げもすみ、仕口も作り、組入天井を造りつける前に
削りたての木肌の清新さに誘惑された工匠たちによって思い思いに試みられた
落書きであろう」 とのことで、生き生きとした印象を持ったようだ。

工匠がそこに書いた「難波津の歌」は 平城京からも木簡や墨書土器が出土している。
近年では藤原京を始め、七世紀代の遺跡からも墨書の木簡に書かれていた物が
発見され、出土文字資料で現在は30点あまりが確認されるというから
けっこう、あっちゃにもこっちゃにも。 都ばかりでなく地方にもあったことになる。
難波津の歌の広まりを追うのも面白い。
徳島県観音寺遺跡後出土の木簡は天武朝の頃に、万葉仮名で書いたと思われるもので 
難波津の歌の最古の資料ではないかと考えられているそうだ。 
此の歌、どうも7世紀から百年以上かけて各地に広まったらしい。
ゴミとして捨てられていた不要品の木簡や墨書土器、目の届かぬ処で
生き抜いてきた落書きなどから、千年以上も前の生活をいろいろと思い描くのは
興味が尽きない。
ちょっとしたゴミ捨てにもシュレッダーや、粉砕に余念なく、情報を始末するなんて事のなかった
御蔭様である。









投稿日 2015年01月12日 16:10:53
最終更新日 2015年01月12日 16:11:26
修正