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2014年12月12日
法隆寺の落書き  
カテゴリ : [三余堂月次]
仮名の誕生変遷を報せたのは、藤原良相邸跡からの土器片の出土。
我々の世代は 初めて触れる文字が平仮名、少し前の世代は、カタカナ。
覚えるべくして 学んだというより、気づいたら当たり前に使っているのが
いろは 四十八文字、というより、あいうえ 五十音。
戦後 旧かなづかいは なんじゃらかんじゃら… となり、文部省の指導もあって
現在に至っているが、謡本は当然、旧仮名遣いで 変体仮名の表記もあれば
カタカナ表記もふんだんに登場。
しかるに、慣れ親しめばさほど気にせずに読めるし、解することが出来るというものだ。 
能の所作の書きつけやら囃子の記譜などは 旧仮名遣い、カタカナ表記で
書き付ける時には 今も二刀流をこなす。

奈良から平安にかけて 大陸に学び文字、書法、漢文と自国の物にした我国。
役所での公文書は漢文であったし、学問しかり、文芸しかり。
漢文、漢詩が出来なければ話が始まらないのである。
一方、私的な文書は漢文に翻訳することなく 話し言葉をそのまま漢字の音に当て
はめて 表記する方法を編み出した。  これが “万葉仮名”という訳だ。
当時の官吏は 公文書は 漢文、私文書は話し言葉、つまり日本語との、二刀流。
まっ、バイリンガルってところか。
この 万葉仮名も字音を借りてきた 伊、呂、波 のような“音仮名”と、
一字一音とは限っていない字訓を借りてきた 鶴(つる)、鴨(かも)のような
“訓仮名”もある。

法隆寺の五重塔や、正倉院の文書 などに早期の万葉仮名を見ることが出来る。
法隆寺五重塔初層天井組木落書(ほうりゅうじ ごじゅうのとう しょそうてんじょうくみき らくがき)。
通称 法隆寺五重塔落書については、ちと、蘊蓄。
今は聖徳太子と教えないのだそうだが、その厩戸皇子と推古天皇が用明天皇の
病気平癒祈願で建立したといわれる 法隆寺。
この大修復で みつかったものに墨書きの文字があった。
法隆寺は飛鳥時代の様式を伝える最古の木造建築。
その五重塔を解体修復中のこと。 時は昭和22年5月14日。
天井板の組木を外したところ なんとぎゅんぎゅんに詰めて書かれた 墨跡。
どうも 文字のようでもあり、絵のようでもあり。
“奈尓”??? “奈尓波都尓佐久夜己”と 判読。
“なにはづにさくや〜”とは いろは歌のようなもので、手習いに用いられたらしい。
今でいえば宮大工の若い衆が 休憩の時にでも 一寸手遊びか。

  やっと赤外線で判読したというが…   

それにしても そんなところへ書くほど 万葉仮名が普及していたということだし、
なにはづの歌も広く親しまれていたということなのだろう。 
落書きされた材木は天井の組木となり 千年以上解体修理するまで 人の目に
触れなかったのだ。 

法隆寺は607年に創建された。が、天智天皇の御代670年に焼失したという。
その後708年、または711年に再建されたらしい。
年輪から推し量って、五重塔の屋根材は673年のものと判明。
創建時のものではなく、再建されたことが実証されている。
この、一般庶民の筆跡である万葉仮名の落書は8世紀初めのものということだ。



消えた2012年師走の月次記事起こしで
その年その月の案内望遠鏡に続いての雑感。
落書きのあった法隆寺は 因みに1993年に世界遺産となり今日に至っている。
これだけのものになれば 落書きも大した文化遺産で、
落書きの為の手習いをしてからでないと おいそれとは… 





投稿日 2014年12月12日 0:03:09
最終更新日 2014年12月12日 0:03:09
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