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2009年11月20日
世阿弥の秘伝書
La plume d’oie©鵞毛庵2009
Un moyen de provoquer dans l’esprit des gens une émotion imprévue , voilà ce qu’est la fleur .
人の心に思ひも寄らぬ感を催す手立、これ、花なり。
世阿弥 「風姿花伝」 より
画像はクリックすると少し大きくなります。

  三余堂が何度かその記事で触れている世阿弥の秘伝書はフランス語に翻訳されています。世阿弥の書が発見されて今年で100年なのだけれども、フランス語訳が出版されたのは1960年のこと。すでに半世紀になります。
  その数年前の1957年にはフランスで初めて能が演じられました。これには庵主の父も参加しています。この公演は当時評判は高かったようですが、それは本当に理解されたからでなく、書物からの少ない情報しかなかった観客が、ただただその神秘的な雰囲気に圧倒されていたので、実はまったく理解できなかった、退屈したというのが正直なところだったと、世阿弥の秘伝書の翻訳者が前書きで語っています。

  そこで、日本でもずいぶん研究が進んできたし、これからはフランス人も能を実際に鑑賞することがより一層あるだろうから、演目のテキストの翻訳だけにとどまらず、芸術の理論家としての世阿弥を通して能楽を紹介する時期が来たと、能勢朝次などの著書をもとに風姿花伝等を仏訳することになったわけです。この翻訳が功をなしたかどうかは判りませんが、庵主がパリに住んでいた間に確かに能公演はどんどん盛んになり、チケットもすぐ完売するというほどにまで。


世阿弥の秘伝書

 画像の本が世阿弥の秘伝書の翻訳版 La tradition secrète du Nô (能の秘伝)。これは1985年に再版されたもので、庵主はその折に入手し、ちょっと年季が入ってきました。
なんだか表紙が内容と合ってないな〜〜〜と気になってましたが、1960年初版の表紙は千仏画、これは大凧の武者絵みたいで、フランスで日本っていうとどうしてこうなんでしょう? しかし、最新の再版の表紙は能面の写真に替わっていて、それが痩せ女の面っていうところがフランスっぽい。変なこだわりです。この変遷はなんとなくフランスにおける日本文化の浸透の一面を表しているような気が。 


世阿弥の秘伝書   
中はこんな具合。10月1日の案内望遠鏡に載っている本の画像とだいたい同じ部分にあたります。

  長きに渡り埋もれていた書物、震災や戦災による損失があったものがこうやって外国でも翻訳、出版されて後世に残るなどと知ったら、世阿弥はいったいどんな顔をするでしょうか....
投稿日 2009年11月20日 17:07:00
最終更新日 2009年11月20日 17:07:00
修正
2009年11月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
  
  七五三雑感

11月になると七五三祈願を受け付ける神社。
近年は11月15日が七五三の日ではなく、11月が七五三の月なのだ。
参道を散歩する保育園児は元気に落葉を拾っている。
この中にも 七五三を祝う子供がいる。


平安時代中期公家の間で子供の成長を祝う儀式が行われていた。
髪置(かみおき)。短くしていた髪を、男女三歳にして伸ばしはじめる儀式が行われた。
その他にも 帯解(おびとき)、髪立(かみたて)、紐落(ひもおとし)などの行事もあったという。
時代が下るとこれらの儀式は武家社会でも行われる。
江戸時代。江戸を中心にした関東地方で今日のような七五三詣がはじまった。
関西ではあまり行われていなかったようだ。
六代将軍徳川綱吉の子徳松がお祝いをしたことから、それにあやかって
一般庶民に広まったという。
呉服問屋でも七五三詣用の売り出しが盛んに行われるようになったそうだ。
いつの世も同じである。 もっとも、「七五三」とは呼んでいない。
「七五三」の語が使われたのは明治時代から。
大正期からが、今のような七歳、五歳、三歳でお宮参りの形になっていったという。

陰暦の11月15日は十五夜にあたり、霜月の祭の日だった。
これは現在、11月23日に宮中、神社で行われる収穫に感謝する祭祀、新嘗祭にあたる。
前記の徳松の祝儀が天和元年(1681)11月15日であったことが、起源らしく、
この日の七五三参りが絶対ではないらしい。

幼児から児童になることを祝う行事の七五三。まぁ、人生の通過儀礼の一つということだ。
七つ前は神のうち、と、七才までの子供は、この世に命が定着していない状態と考えていた。
七歳未満は人別帳に載せなかったという。七歳でようやく人間の仲間入り。
氏神さまへのお参りで、氏子となり、すこやかな成長を祈願したという訳である。
いかに、貴賎男女ともそこまで生きることが難しかったか。

神武天皇の御代に「たがね」と呼ばれる飴があったそうだ。
平安時代には京都では売られていたようで、江戸元禄期頃に浅草で七兵衛という飴売りが、
長袋にいれて「千歳飴」または「寿命飴」として売り歩いていたという。
七五三の千歳飴は千歳という名前が入った飴に
よく育ってくれた、これからも長生きしてほしいと託したものなのである。
美味いか、美味くないかはお好みだ。
ペコちゃんのミルキー千歳飴も 千歳飴にはかわりない…









投稿日 2009年11月13日 12:33:32
最終更新日 2009年12月10日 20:51:57
修正
2009年11月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
吉永小百合が佐渡へ旅するコマーシャルが盛んに流れていた。
「ここが今や、日本有数の能の島だと言ったら、彼はどんな顔をするでしょうか」
五十歳から行く大人の旅 JR東日本 と。
JR東日本 大人の休日倶楽部 TV-CM 佐渡の能篇 秋。 と、いうものらしい。
   ゆっくりと 吉永小百合と佐渡を旅したい方、こちらで ご一緒に!

大化の改新以後に佐渡国が置かれたという。
古代から遠流の地だった。  順徳天皇、日蓮…
都からの流人が、その文化を伝え、西廻りの航路が、西日本や北陸の文化を伝えた。
そして貴族や武家、土地の者の文化が渾然となって、佐渡特有のものがつくられていく。
吉永小百合の言う 「彼はどんな顔をするでしょうか」 と問われているのは 世阿弥。
能の大成者、世阿弥が配流された島が佐渡であった。
何故 流されたか…  

晩年、佐渡での世阿弥は瀬戸内寂聴著 『秘花』 新潮社刊 で思いを馳せることが出来る。



世阿弥は 12歳の時、将軍 足利義満の寵愛を後ろ盾に、頂点を極めた。
義満の死を境に、甥の音阿弥に地位を奪われ、長男の死、次男の出家。
そして自らは佐渡への流刑。いわれの 判らぬ流刑だった。
小説は佐渡へ向かう船中で、自らの前半生を振り返るところから始まる。 
米も魚もよくとれ、水も豊富で、他者を受け入れるおおらかさがある佐渡の地。
そこでの 寂聴、世阿弥の晩年の世界が 展開する。

すぐれた能役者、能作者、能楽論書の著者であった世阿弥も、
百年たてば同時代の舞台を見た人は誰もいなくなることを意識していた。
だが、能の本は残る。「書いたものの命は強い」と語る世阿弥。
「私は死後も自分の小説が読まれるとは思っていません。けれども書いているうちに、世阿弥に自分を
重ねた部分はある。小説は結局、自分を書くものですから」と 瀬戸内寂聴。


杉本苑子著 『華の碑文』中央公論社刊 では世阿弥の生涯、平岩弓枝著 『獅子の座』 文芸春秋社刊 では足利義満の生涯を それぞれ義満、世阿弥を絡めて描いている。 
秋の夜長に 三人の女性小説家による作品で、世阿弥の生きた時代を読み比べるのも一興。







投稿日 2009年11月01日 0:00:36
最終更新日 2009年11月01日 7:22:40
修正