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2016年01月20日
カテゴリ : [鵞毛庵能の花シリーズ]
今年の干支は申ということで、カレンダーにフランスの中世写本や18世紀の装飾などを参考にしたお猿さんたちを登場させました。その1,2月を飾っているのが先月の鵞毛庵の記事に掲載したもの。そしてこちらが最後のページの11,12月を飾る作品です。
©La plume d’oie 2015
De la musique avant toute chose Paul Verlaine(1844-1896)
何よりもまず音楽を ポール・ヴェルレーヌ
図柄の時代に合わせてフランスの17-18世紀の書体を使用
このお猿さんたち、18世紀のフランスの装飾画家クリストフ・ユエ(Christophe Huet1700-1759)が描いた猿が擬人化されたシリーズに着想を得ています。田園風景や猿を擬人化した図柄サンジュリー、中国趣味のシノワズリーを得意としていて、館や城の室内装飾を手掛けており、お猿さんたちは当時の衣装をまとい、楽しそうに描かれています。
パリ郊外のトワリー城の装飾部分
このクリストフ・ユエのお猿さん達はマイセン焼にもなっていて、フランスのお城や館の暖炉のなどによく飾られています。見ざる、言わざる、聞かざるではなく、賑やかに音楽を奏で、歌ったり踊ったり♬
©La plume d’oie 2015
De la musique avant toute chose Paul Verlaine(1844-1896)
何よりもまず音楽を ポール・ヴェルレーヌ
図柄の時代に合わせてフランスの17-18世紀の書体を使用
このお猿さんたち、18世紀のフランスの装飾画家クリストフ・ユエ(Christophe Huet1700-1759)が描いた猿が擬人化されたシリーズに着想を得ています。田園風景や猿を擬人化した図柄サンジュリー、中国趣味のシノワズリーを得意としていて、館や城の室内装飾を手掛けており、お猿さんたちは当時の衣装をまとい、楽しそうに描かれています。
パリ郊外のトワリー城の装飾部分
このクリストフ・ユエのお猿さん達はマイセン焼にもなっていて、フランスのお城や館の暖炉のなどによく飾られています。見ざる、言わざる、聞かざるではなく、賑やかに音楽を奏で、歌ったり踊ったり♬
投稿日 2016年01月30日 21:55:49
最終更新日 2016年01月30日 21:55:49
【修正】
2016年01月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
人情味厚い張さんちの猛龍さまは家族愛に溢れ、貧しかった頃にも親孝行に励み、
27歳の時に父を、39歳の時に母を亡くした時の嘆き哀しみは大層なものだったと言う。
後に高官になった際もその性格は変わらず、民衆に温かく接し徳のある政治を行った。
そこで、当時の郡の官吏らがこの張さんちの猛龍さまの善政を讃えようと、4年の年月を
かけて碑文を練り、文字を書き、碑を丹念に彫って「張猛龍碑」という物を造り上げた。
この張さんちの猛龍さまは正史に記録がないというから、実際はどの程度のどんな人かは
判らない。彼を讃える碑の文面から推し量るばかりだが、碑が建てられたのだから
まぁ そこそこの人物であったろう。
この人、中国は南北朝時代、それも北朝の北魏時代のことで、南陽郡の白水出身という。
現在の河南省出身だったようで、遠くは周にまで遡る氏族の出という。
延昌年間(512-515)に奉朝請、煕平年間(516-518)に魯郡の太守となった…
というようなことが「張猛龍碑」に彫られている。
魯郡と聞くと孔子を思い出すが、大偉人、大賢人の孔子さまと同郷となると、それだけで
有難い人物のような気がしてくる。
張猛龍碑全影 右碑面 左碑陰 二玄社張猛龍碑より
この「張猛龍碑」は、北魏の正光3年(522)に彫られた地元官吏の顕彰碑だ。
六朝時代の北朝独特の楷書「六朝楷書」の書蹟なのだそうで、現在も山東省曲阜の
孔子廟内にある。が、この碑、斜めにひびが入って、下半分はぼろぼろで剥落し、
幾文字も連続して判読できないところがあるといった具合で傷みが激しい。
碑額には「魏魯郡太守張府君清頌之碑」と楷書で記されている。そこははっきりと読める。
碑文は楷書で1行46字、26行で、そこに張さんちが、いかに古い家系であるかを強調。
猛龍さまの人柄に対する讃辞を記して、張さんちと猛龍さまを讃える韻文で終わる。
お決まりの碑文というところか。孔子と同郷のこともあってなのか、時代的なことなのか
孔子やその教えに基づくものがよく出てくる。
文字は角ばって力強さや鋭さを表していて、とても特徴的だ。
当時の形なのか、現在とは文字のヘンの形が違っていたりするものもある。
少々右肩上がりで、力強い筆勢が大胆さを増し雄壮な感じだが、これは北朝時代独特の書体
なのだそうだ。ほぉ〜。
碑額の拓本から
ひょんなことで出逢った顕彰碑を丙申の歳は少し探ってみようと思う。
27歳の時に父を、39歳の時に母を亡くした時の嘆き哀しみは大層なものだったと言う。
後に高官になった際もその性格は変わらず、民衆に温かく接し徳のある政治を行った。
そこで、当時の郡の官吏らがこの張さんちの猛龍さまの善政を讃えようと、4年の年月を
かけて碑文を練り、文字を書き、碑を丹念に彫って「張猛龍碑」という物を造り上げた。
この張さんちの猛龍さまは正史に記録がないというから、実際はどの程度のどんな人かは
判らない。彼を讃える碑の文面から推し量るばかりだが、碑が建てられたのだから
まぁ そこそこの人物であったろう。
この人、中国は南北朝時代、それも北朝の北魏時代のことで、南陽郡の白水出身という。
現在の河南省出身だったようで、遠くは周にまで遡る氏族の出という。
延昌年間(512-515)に奉朝請、煕平年間(516-518)に魯郡の太守となった…
というようなことが「張猛龍碑」に彫られている。
魯郡と聞くと孔子を思い出すが、大偉人、大賢人の孔子さまと同郷となると、それだけで
有難い人物のような気がしてくる。
張猛龍碑全影 右碑面 左碑陰 二玄社張猛龍碑より
この「張猛龍碑」は、北魏の正光3年(522)に彫られた地元官吏の顕彰碑だ。
六朝時代の北朝独特の楷書「六朝楷書」の書蹟なのだそうで、現在も山東省曲阜の
孔子廟内にある。が、この碑、斜めにひびが入って、下半分はぼろぼろで剥落し、
幾文字も連続して判読できないところがあるといった具合で傷みが激しい。
碑額には「魏魯郡太守張府君清頌之碑」と楷書で記されている。そこははっきりと読める。
碑文は楷書で1行46字、26行で、そこに張さんちが、いかに古い家系であるかを強調。
猛龍さまの人柄に対する讃辞を記して、張さんちと猛龍さまを讃える韻文で終わる。
お決まりの碑文というところか。孔子と同郷のこともあってなのか、時代的なことなのか
孔子やその教えに基づくものがよく出てくる。
文字は角ばって力強さや鋭さを表していて、とても特徴的だ。
当時の形なのか、現在とは文字のヘンの形が違っていたりするものもある。
少々右肩上がりで、力強い筆勢が大胆さを増し雄壮な感じだが、これは北朝時代独特の書体
なのだそうだ。ほぉ〜。
碑額の拓本から
ひょんなことで出逢った顕彰碑を丙申の歳は少し探ってみようと思う。
投稿日 2016年01月12日 21:08:37
最終更新日 2016年01月12日 21:09:35
【修正】
2016年01月01日