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先月末、最古級ひらがな!と 新聞紙上が飾られた。
平安の御代に右大臣を務めた 藤原良相(ふじわらよしみ 813〜867年)の邸宅跡から 一年ほど前に
出土した土器片に仮名文字があったというのである。
現場は京都の中京区で、出土した9世紀後半の土器片の中に“かつらきへ”
葛城へということだろう、和歌とみられる平仮名が書かれていた。
平安京でのまとまった土器の出土で、10世紀と言われていた平仮名の確立が
半世紀も遡ることになった、というから 大変なことなのだ。
なんといっても 我らが意思伝達の重要手段、平仮名の誕生の話である。
漢字の一字一字を、その漢字本来の意味に拘わらず、日本語の音の表記に
用いたのが、万葉仮名で、万葉集がこの手法で著されているのだ。
仮名は、1音に1字を当てる万葉仮名、万葉仮名の草書体を用いた草仮名、そして
平仮名の順に移行したと謂われるが…
かの空海が平仮名を創作したという話もあるという程だから 平仮名の誕生秘話は
興味津々というところである。
最澄や空海が帰朝して、仏教が新たな息吹をわが国にもたらした時代に
弁舌は才気に溢れていた新進気鋭の 藤原良相君、承和元年(834年)仁明天皇に
召し出されて順調にご昇進。長兄をも越えて権中納言になり、権大納言 右近衛大将と ぐんぐん
御出世。 857年には右大臣 左近衛大将に就任。周囲からの人望も厚く、貞観6年(864年)清和天皇に娘を入内させたりと、なかなかのご人物だった様子。
当然 文学への造詣は深く、仏教への信仰には篤く、陰陽道にも通じていた。
と、まるで見たかのような人物説明だが、1200年以上も前のことである。
この藤原良相邸宅跡で出土した土器に 墨で文字が記されていた。
その文字が 万葉仮名でもなく、草仮名でもない平仮名だというのである。
9世紀後半の平安貴族が 宴の席で器に歌を書きつけて交わし合ったのだろうか。
その器に酒を満たしたのか。 邸宅跡の池から皿などの土器破片90点もの中の、
20点に墨の文字が記されていたという。文字が判別できた“かつらきへ”は 当時の 御所での神楽歌一節に出てくるそうだ。 邸で神楽が行われたのだろうか。
周辺が桜の名所という 藤原良相邸は「百花亭」と呼ばれ、天皇の行幸をはじめとし、
公家方が歌会を催したというから 季節の花の下で、紅葉する木々を愛でながら…
当時の一流文化人が集い交流した場と想定される良相邸。その邸跡での墨書土器。
9世紀後半、京洛の貴族階級での平仮名の広まりを示しているということか。
一方、9世紀前半の井戸跡で、檜扇(ひおうぎ)と木簡をも発見。
万葉仮名が記されていたそうだ。同じ遺跡で万葉仮名から平仮名までが見つかった。
仮名の誕生変遷を報せている訳である。
出土品は京都市考古資料館で12月16日まで展示されるという。
2012年12月20日
カテゴリ : [鵞毛庵能の花シリーズ]
時節がらサンタクロースのことなど。
4世紀頃のミラ(現在のトルコ内)というところの司教だった聖ニコラウスという人がサンタクロースの起源とされています。ラテン語ではニコラウス、フランス語などだとニコラ、ロシア語ではニコライと呼びます。
この聖ニコラは三人の娘を貧困のあまり嫁がせることの出来ない家の存在を知り、真夜中にその家の煙突から金貨を投げ入れたという言い伝えがあります。このとき暖炉に靴下が下げられていたので金貨は靴下の中に入り、そのおかげで娘たちは身売りしないで済んだという逸話も。夜中になると煙突から入って、靴下の中にプレゼントを入れるという、おなじみのサンタさんの言い伝えはこの逸話がもとになっています。
また、オランダでは聖ニコラウスをシンタクラースと呼んで、14世紀頃から彼の命日である12月6日をシンタクラース祭として祝う習慣があり、それが後にアメリカへ移殖したオランダ人たちによってサンタクロースと伝えられ、ポピュラーになったのは19世紀になってからとか。
他に、北ヨーロッパを起源とする冬至の祭りに関連して、貧しい人達や子ども達に贈物を届ける神様などの伝承と合わさって、サンタさんが定着していきました。
皆さんがサンタと聞いて思い浮かべる姿は、1931年にアメリカで行われたコカコーラの宣伝のイメージという俗説がありますが、白いひげを蓄えて赤い服を着ている姿は19世紀後半にはヨーロッパですでに定番だったようです。フランスなどでは一般化されたのは案外遅く、20世紀初頭、日本にも大正初年にはすでに登場しています。
ヨーロッパの国々によって、その姿は民間伝承と合わさって少しづつ違いはありますが、子ども達にプレゼントを持ってきてくれるのはだいたいどこも一緒。
サンタクロースは英語でファーザー・クリスマスとも呼ばれ、フランス語でもペール・ノエル、パパ・ノエルと呼ぶのが一般的です。
さて、フランス語の面白い文章を見つけたので、ご紹介しましょう。
男の人生には四つの年代がある: サンタを信じている年代、サンタを信じなくなった年代、自分がサンタになる年代、自分がサンタに似てくる年代。 (c)La plume d'oie 2012
このブログの読者の男性の方々は、どの年代でしょうか?
4世紀頃のミラ(現在のトルコ内)というところの司教だった聖ニコラウスという人がサンタクロースの起源とされています。ラテン語ではニコラウス、フランス語などだとニコラ、ロシア語ではニコライと呼びます。
この聖ニコラは三人の娘を貧困のあまり嫁がせることの出来ない家の存在を知り、真夜中にその家の煙突から金貨を投げ入れたという言い伝えがあります。このとき暖炉に靴下が下げられていたので金貨は靴下の中に入り、そのおかげで娘たちは身売りしないで済んだという逸話も。夜中になると煙突から入って、靴下の中にプレゼントを入れるという、おなじみのサンタさんの言い伝えはこの逸話がもとになっています。
また、オランダでは聖ニコラウスをシンタクラースと呼んで、14世紀頃から彼の命日である12月6日をシンタクラース祭として祝う習慣があり、それが後にアメリカへ移殖したオランダ人たちによってサンタクロースと伝えられ、ポピュラーになったのは19世紀になってからとか。
他に、北ヨーロッパを起源とする冬至の祭りに関連して、貧しい人達や子ども達に贈物を届ける神様などの伝承と合わさって、サンタさんが定着していきました。
皆さんがサンタと聞いて思い浮かべる姿は、1931年にアメリカで行われたコカコーラの宣伝のイメージという俗説がありますが、白いひげを蓄えて赤い服を着ている姿は19世紀後半にはヨーロッパですでに定番だったようです。フランスなどでは一般化されたのは案外遅く、20世紀初頭、日本にも大正初年にはすでに登場しています。
ヨーロッパの国々によって、その姿は民間伝承と合わさって少しづつ違いはありますが、子ども達にプレゼントを持ってきてくれるのはだいたいどこも一緒。
サンタクロースは英語でファーザー・クリスマスとも呼ばれ、フランス語でもペール・ノエル、パパ・ノエルと呼ぶのが一般的です。
さて、フランス語の面白い文章を見つけたので、ご紹介しましょう。
男の人生には四つの年代がある: サンタを信じている年代、サンタを信じなくなった年代、自分がサンタになる年代、自分がサンタに似てくる年代。 (c)La plume d'oie 2012
このブログの読者の男性の方々は、どの年代でしょうか?
投稿日 2012年12月21日 16:03:18
最終更新日 2012年12月21日 16:03:18
【修正】
2012年12月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
先月末、最古級ひらがな!と 新聞紙上が飾られた。
平安の御代に右大臣を務めた 藤原良相(ふじわらよしみ 813〜867年)の邸宅跡から 一年ほど前に
出土した土器片に仮名文字があったというのである。
現場は京都の中京区で、出土した9世紀後半の土器片の中に“かつらきへ”
葛城へということだろう、和歌とみられる平仮名が書かれていた。
平安京でのまとまった土器の出土で、10世紀と言われていた平仮名の確立が
半世紀も遡ることになった、というから 大変なことなのだ。
なんといっても 我らが意思伝達の重要手段、平仮名の誕生の話である。
漢字の一字一字を、その漢字本来の意味に拘わらず、日本語の音の表記に
用いたのが、万葉仮名で、万葉集がこの手法で著されているのだ。
仮名は、1音に1字を当てる万葉仮名、万葉仮名の草書体を用いた草仮名、そして
平仮名の順に移行したと謂われるが…
かの空海が平仮名を創作したという話もあるという程だから 平仮名の誕生秘話は
興味津々というところである。
最澄や空海が帰朝して、仏教が新たな息吹をわが国にもたらした時代に
弁舌は才気に溢れていた新進気鋭の 藤原良相君、承和元年(834年)仁明天皇に
召し出されて順調にご昇進。長兄をも越えて権中納言になり、権大納言 右近衛大将と ぐんぐん
御出世。 857年には右大臣 左近衛大将に就任。周囲からの人望も厚く、貞観6年(864年)清和天皇に娘を入内させたりと、なかなかのご人物だった様子。
当然 文学への造詣は深く、仏教への信仰には篤く、陰陽道にも通じていた。
と、まるで見たかのような人物説明だが、1200年以上も前のことである。
この藤原良相邸宅跡で出土した土器に 墨で文字が記されていた。
その文字が 万葉仮名でもなく、草仮名でもない平仮名だというのである。
9世紀後半の平安貴族が 宴の席で器に歌を書きつけて交わし合ったのだろうか。
その器に酒を満たしたのか。 邸宅跡の池から皿などの土器破片90点もの中の、
20点に墨の文字が記されていたという。文字が判別できた“かつらきへ”は 当時の 御所での神楽歌一節に出てくるそうだ。 邸で神楽が行われたのだろうか。
周辺が桜の名所という 藤原良相邸は「百花亭」と呼ばれ、天皇の行幸をはじめとし、
公家方が歌会を催したというから 季節の花の下で、紅葉する木々を愛でながら…
当時の一流文化人が集い交流した場と想定される良相邸。その邸跡での墨書土器。
9世紀後半、京洛の貴族階級での平仮名の広まりを示しているということか。
一方、9世紀前半の井戸跡で、檜扇(ひおうぎ)と木簡をも発見。
万葉仮名が記されていたそうだ。同じ遺跡で万葉仮名から平仮名までが見つかった。
仮名の誕生変遷を報せている訳である。
出土品は京都市考古資料館で12月16日まで展示されるという。
投稿日 2012年12月01日 14:14:56
最終更新日 2012年12月01日 14:17:51
【修正】