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2013年03月12日
三余堂月次削除の顛末記
カテゴリ : [三余堂月次]
毎月12日には三余堂月次として記事を掲載していたこの能楽さんぽ。
2013年2月12日、 何を間違ったかこの項に記事掲載の折、開闢以来の三余堂月次の記事を
削除、紛失と相成る。
おまけに 画面上方の月次の項をクリックしても“該当する記事はありません。” ときたもんだ!
勿論 ゆったりと慌てて 復元に相務めたが そうそう簡単な次第とはならず…
追々 システムは復旧させるとして、 まっ、無くなったものは無くなったものとして致し方なし。
但し、案内望遠鏡、鵞毛庵と連動した続きものの記事になっているものは 
ぽちぽちと 戻していこうかと考えてみたりもする。
無くなったのを良いことに 素知らぬふりで 再掲載という手もある。

さしあたって、3年前の3月 12日 月次記事を。
新装成って、間もなくの開場待つ歌舞伎座の話であった。


木挽町の歌舞伎座
明治期に歌舞伎を近代社会にふさわしい内容のものに改めようという 演劇改良運動 
なるものがあった。
その熱心な唱導者福地源一郎等によって 日本一の大劇場を目指して
歌舞伎座は造られた。 明治22年11月の開場という。
洋風の外観で、内部は日本風の3階建て檜造り、客席定員1800人あまり。
明治44年には老朽化と帝国劇場の出現で純日本式の建物に大改築される。
その後 大正10年10月、漏電により焼失。

大正2年に松竹創業者の大谷竹次郎が、当時の歌舞伎座の経営に携わるようになっており、
ただちに再建が始まったものの 関東大震災で工事は中断。
大正13年の12月に完成となった。
鉄筋コンクリートを使用した耐震耐火の日本式大建築ということである。
歌舞伎座の100年史をみると これが現在の建物の原型で、外郭を残して昭和20年5月、
空襲で焼失した。
昭和24年11月歌舞伎座再建のため株式会社歌舞伎座が設立され、戦禍を受けた建物の
基礎や側壁の一部を利用して、昭和25年12月に現在の歌舞伎座が竣工した。
吉田五十八の設計である。 
客席数約2000席、直径約18mの廻り舞台、大小合わせて4ヵ所のセリを備えた劇場は
平成14年2月14日「登録有形文化財」に登録されたそうだ。

現在の建物はとっくの昔から 設備の老朽化などが問題になっていた。
浮かんでは消え、消えては浮かぶ立替えの話がやっと本格化して、
昨年から劇場前には立替までのカウントダウン電光板が設置されている。



銀座から、晴海通りを築地へ向かう。
やがて 昭和通りとの大きな交差点を渡ると、左手に大屋根の歌舞伎座が姿を見せる。
地下鉄日比谷線の東銀座駅の真上という表現が ぴったりの場所に劇場正面玄関がある。
中央区銀座四丁目という地番で、現在歌舞伎座は銀座だということであるが、
そもそも、東京都京橋区木挽町三丁目に創建されたものだ。
木挽町というのは名の通り、江戸城造営関係の鋸匠を住まわせた処というわけである。

あそこは 木挽町で 銀座じゃぁない、と宣う御仁も多い。
             だよなぁ 歌舞伎座なんぞよりずっーと前からの江戸のご住人にすれば なぁ…

その歌舞伎座前は常に内外の観光客が カメラや携帯を向けているし、
舞台のない時には 雑誌のグラビア撮影で、そそとした女優がポーズを取っていたりする。



ぐるりと裏へ廻る。 
と、舞台を支えていた飲食店も移転を始めて 歯抜けのような更地が出来た。
解体工事や建築計画の告知看板も掛けられている。
薄暮の中、汚れた白壁面一杯に室外機が何代も何代張り付いていた。
圧倒するほど大きな壁。
劇場2階3階廊下の赤い提灯に火が灯って 夜の部の上演がはじまった。

  歌舞伎座の裏三余堂月次削除の顛末記  
         黄昏の歌舞伎座三余堂月次削除の顛末記  
横町改築看板三余堂月次削除の顛末記




歌舞伎座東側には興行成功安全祈願のために 初日と千穐楽に 関係者一同
御祓いをするというお稲荷さんが勧請されている。
そして また、建築の告知。

そこに あと幾日もない劇場の姿を垣間見た。
   
                      2010年3月12日の三余堂月次から
  









投稿日 2013年03月12日 23:11:11
最終更新日 2013年03月12日 23:11:11
修正