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2016年05月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
薫風の候…と挨拶する季節が巡ってきた。 まもなく立夏となる。
フランスでは五月の初めの日は鈴蘭の日。過去には何度か記事にしているので
今年の五月は同じ蘭でも日本原産の海老根蘭をご披露。
三余堂の庭でひっそりと花を咲かせて孟夏を知らせている。

エビネ蘭には春咲きだの夏咲きだのがあり、春咲きエビネの代表がいわゆる、ジエビネ。
ジエビネは、かつては、北海道から沖縄にかけての広い地域にたくさん自生していた原種。
最も一般的な種類で、雑木林や、松林、竹林などに下草として自生していたそうである。
昭和四十年代は里山でも沢山見られたというが、採取と開発により現在ではとても無理のようだ。

日本原産の海老根蘭、ジエビネは落葉広葉樹の落ち葉が厚く積もった場所に群生して、
春になると株の中心から花茎が立ちあがる。 その地下では球根のような根茎が曲がって連なり、
エビの背のように見えて、毎年増えていく。 エビネは同じ場所に生えるほかのエビネ類と自然に
交雑しやすいそうで、さまざまな雑種が登場するという。
丈夫でがっしり黄色の花をつけるキエビネというのがある。
一方、ジエビネはと云うと、品は良いが緑の下草に埋れそうな地味な風である。
それらが長い時の末に交雑したのか、三余堂では一寸違った顔の花を見せるようになった。
何時の頃からか… 兎も角 気づくと似て非なる花が咲くようになったわけだ。
そもそもが、日本の広い範囲に分布するため、同一種でも自生地の気候や環境の違いで外観に
もかなりの変化が見られるというのが海老根蘭だそうである。


海老根蘭
黄色のキエビネ キエビネとジエビネの交雑かと思われるタカネエビネ  白く見えるのがジエビネ 


今や野生の蘭エビネは自生を許されず、庭で地植えというより、鉢植えで育てられる愛好家たちの
鑑賞の花になったと云うことなのだろうか。
エビネを扱う専門店では、交配種どうしを掛け合わせた、眩いばかりの華麗な園芸種が売られている。








投稿日 2016年05月01日 0:24:57
最終更新日 2016年05月01日 0:24:57
修正
2016年05月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
北魏の建碑にはなかなか話が及ばないが、急ぐ旅路でもないので寄り道しながらぽつぽつと。

北魏が建国された四世紀末は大陸の南方、江南は貴族的な文化の花咲き始める頃だった。 
まぁ、早い話が、北方の騎馬民族に追いやられた風雅な貴族たちが、難を逃れて南へ逃げた
という事なのだが…  後漢が滅亡してから、隋の統一まで、今の南京、当時の建業(建康)に
都を移した、呉、東晋、宋、斉、梁、陳の六王朝を総称して六朝と呼ぶ。 貴族的文化である。
南の方ではごちゃごちゃと王朝が出来ても、北の北魏は北魏。 なんとかしっかりとやっていた。
これを南北朝時代といっている。間違っても、後醍醐天皇は登場しないので、念のため。
東の方の半島は、高句麗、百済、新羅、任那と互いに牽制しあい乍ら、そして、ちょっかいを
出し乍ら、東の海の向こうに倭国があるなぁ〜 なんて承知しながら存立していた。

我が国、倭国は日本書紀や大陸や半島の文書、学者の推測、そして、ロマンと夢が導き出した
事によると、倭の奴国王が後漢に遣使を送ったり、卑弥呼が魏の明帝と遣り取りがあったりと、
所謂 三国志の時代には海外との交流があったようだ。
その後、四世紀になると百済からは使者が来たり、王族が人質になって来たり、こちらは
出兵したりと、忙しく交流した。
近年、日本の歴史研究の成果で、《鎖国の国》のイメージが払拭されつつあるが、どうも
学校で習った 江戸時代の鎖国の印象が強く、古代までも海の外とはご縁がないように
思い込んでいた節がある。その一方で、晴れた日に望める朝鮮半島の近さは知っていて
当時のことを考えると、そもそも国境という認識があったろうかと、思ったりもする。 
海は現実的な毎日の生活の中で、遠い向こう岸との行き交いの隔たりであったが、上手く
いけば交流の恵みでもあった。互いの中央にまでも、政治や文化が届いていたのだから
人の力は限りなくひろがる。

そんなものの一つに 仏教がある。物部さんと蘇我さんがやり合ったという外国の宗教。
朝鮮半島の百済から倭国に伝わったという事だが、朝鮮三国で一早く仏教が伝わったのが、
高句麗。 仏教は、中国へ後漢時代にインドから伝わり、南北朝時代に隆盛期を迎えた。
ここでも 北と南の気質が反映して、仏教の性格や仏教に対しての政策などが異なっていた。
北の北魏では あくまでも国家が主体で、仏教は従。その仏教も 孔子の教え、つまり儒教や
道教が入交り、混然としていたようである。張 猛龍碑も仏教盛んな北魏の時代に 内容は
孔子さまの教えを守った話が堂々と記されている。
で、まぁそんな仏教が、高句麗に伝えられ、当然道教の教えなんぞも、かなり入っていたと
考えられる訳だ。 
倭国で仏教を信奉し、政治に反映しようとしたとされる聖徳太子として馴染みの、厩戸皇子は
高句麗の僧、慧慈に師事した。これは、当然厩戸皇子の仏教思想に影響を与えているだろう。
倭国へは、西暦552年に百済から仏教伝来ということになっている。この百済へは東晋から
高僧の摩羅難陀が伝えたという。 
当時、国づくりの為に外国の先端文化、仏教を取り入れようとした政治家の蘇我さんと、
精神的に色々と考えて 国を作ろうとしていた厩戸さんとではどこかで行き違いがあったか、
又は根本でずれていたのかもしれない。

安田靫彦展の厩戸皇子描いた≪夢殿≫を見てそなんことを感じた孟夏の午後であった。








投稿日 2016年05月16日 11:23:58
最終更新日 2016年05月16日 11:24:39
修正
2016年05月20日
今、NHKで海外ドラマ「マスケティアーズ」を放映しているのをご存じでしょうか?マスケティアーズとは銃士隊のこと。つまり、あの三銃士とダルタニアンの物語です。

原作はフランスのルイ王朝時代の物語でアレクサンドル・デュマによる1844年に書かれた新聞小説Les trois mousquetaires(三銃士)です。これが新聞小説って、ちょっとワクワクしますが、実はかなりの長編時代劇の冒頭の一部にすぎず、史実に沿いながら、田舎から出てきた若いダルタニアンがアトス、ポルトス、アラミスの三人の銃士たちと出会ってさまざまな困難を乗り越え、続編ではその20年後、国王はルイ14世となりフランスとイギリスを股にかけて活躍、最終編はさらにその10年後で、鉄仮面のエピソードが登場し、ダルタニアンの死を迎えるというもの。実在の人物も多く登場します。

密書

パリ17区にあるダルタニアンの像

こういった冒険活劇につきものなのが「密書」。そんな密書がどんな字で書かれていたかを想像するのもちょっと楽しいものです。フランスの17世紀、国王のルイ13世が書体を少し統一化しようと提案したとかで、当時の宮廷お抱え秘書官で書家であったバルブドールという人が考案したのがロンドという書体。15〜16世紀、フランスで多く使用されていた手書きの書体を改良したものなのですが、バルブドールがあまりにも巧みな技術の持ち主だったのもあり、書くのも読むのも結構難しく、徐々に特殊な書類にのみ使用が限られていきました。 

       密書
Louis Barbedor 1640年ごろ ルイ・バルブドールによるロンド体の書面


三銃士に登場する「密書」がこんな風に書かれていたやも、と想像すると興味は尽きません。
投稿日 2016年05月30日 15:40:25
最終更新日 2016年05月30日 15:42:35
修正