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2016年04月20日
先月の記事でお知らせしたBOOK ORCHESTRA展での蔵書票で一番人気だったのは「ねぇ、ひつじの絵を描いてよ」。 

            蔵書票 星の王子さま

               (c)La plume d’oie 2016 

サハラ砂漠に不時着したある飛行士が飛行機の修理をしていると、突然、声をかけられます。そこにいつの間にか立っていたのが金髪の少年。その姿はまるでどこかの小さな王子さまのようでした。

やはり、この最初に出会った時の王子さまの姿が人気のひみつなのでしょうか。 この姿で登場するのは最初の時だけで、ほかの場面では緑色のジャンプスーツのようなスタイルです。


人気の2番手。  蔵書票 星の王子さま   
        (c)La plume d'oie 2016

バラの花は、作者のサンテグジュペリの夫人であったコンスエラを象徴していると言われています。これ以外にもさまざまな角度から解釈する読み方もあるようで、私自身も最初に出会った小学1年生の時、高校のフランス語の授業で読んだ時、フランスに長く住んでいた時、そして今になって何度も読み、書いていると、いつも違った感想や、発見がある小さな王子さまの物語です。

蔵書票 星の王子さま  バオバブの木  (c)La plume d'oie 2016

小さなうちに摘み取らなかったために、あっという間にある星を覆ってしまった3本のバオバブ。王子さまは飛行士に、バオバブだって、大きくなる前にはみんな小さかったんだ、と言います。 

この物語が書かれた時代背景から、この3本のバオバブは第二次世界大戦中の日独伊三国同盟を象徴しているという説も。 そうでなくても、なんらかの問題は大事になる前に時期を見極めて対処すべし・・・・・  

投稿日 2016年04月28日 22:43:20
最終更新日 2016年04月28日 22:43:20
修正
2016年04月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
鮮卑族北魏の時代 紀元522年に仏教隆盛の中、儒教に関わる碑が建てられた。
処は 孔子様の生まれた魯の国。そこの長官を務めた、張猛龍さんの碑である。
碑は、ほとんどが遺徳を称えるものだが、孔子の教えを守り貫いた魯国太守の徳は
誠に偉大で、張猛龍さん本人の生前に建てられた。
1500年もの時を超え、現存する原碑は山東省曲阜の孔子廟堂に保管されている。
高さ 約二メートル、幅一メートル弱、厚さ二十センチほどの石の板に 千文字以上が
刻まれ、裏側一面にはこの建碑に功労のあった人々の官位と氏名が刻まれている。
この国の正史には名前が見当たらないという 張猛龍さん。
だが、北方の騎馬民族 鮮卑族の血をひく北魏の文字が、国の統一と共に漢族の文化に
染まりながらもしっかり、がっちりとした力強さで、張猛龍さんを今に伝えている。


その頃わが国はどんなであったのだろうか。
張猛龍建碑、紀元522年の我が国は 日本書紀や古事記で知ることになる。
ちょうど継体天皇のころ。
第26代天皇である継体帝は、507年ころから531年ころまでの在位らしい。
即位19年後の526年、大倭、後の大和国に都を定めたという。
その直後、百済から請われてあちらのもめごとに援軍を送ろうとしていたようなので、
当時、大和はしっかりと半島との外交があったということだ。そして、大陸とも通じていた。
が、大和に都をおくまで約20年もかかったということは、地域の豪族やら係累やらの間で
天皇の位、当時は大王というのだろうが、その位をめぐる大混乱があったのだろう。
『古事記』では継体天皇の没年は527年で、都を立てた翌年に死去したことになり、
没年齢は約40歳だが、『日本書紀』だと80歳余りの長寿だったそうな。

兎も角余りに古い話なので 諸説紛々、資料僅少。
当時は大陸や、半島のように、現存での同時進行の明快な記録文書類はない。
そこはあちら様の文書から、適宜よろしく判断するとして、倭の国はまだまだ混沌。
文書といっても 紙ではなく 木簡類であったので念のため。
後の継体帝が治めていた越前は、湿原が広がり農耕や居住に適さなかった。
そこで先ず、足羽山に社殿を建て大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀り、この地の
守護神とした。 次に地形調査。
大規模な治水工事、湿原の干拓。越前平野に人々が定住できるようにして、港を開き、
水運を発展させて産業を発達させたという。

有能な継体帝は武烈帝の後継者に選ばれた。 天皇即位のため越前を離れることになり、
寵愛した照日ちゃんに手紙と花篭を形見として贈って出発。
照日ちゃんは継体帝を慕い、侍女とともに狂女の姿となって後を追う。
紅葉見物の行幸の列の前に現われた照日ちゃんは、継体帝の従者に篭を打ち落されて狂い、
漢の武帝と李夫人の物語を舞った。 天皇は以前、照日ちゃんに渡した花篭であると気づき、
再び照日ちゃんを召された。 そして、後に二人の間の子が安閑天皇となった… とさ。
と、能《花筐》が描いている。


その後、紀元540年頃に、あの蘇我の入鹿のひいおじいさん 稲目が
大臣に就任したのではないか、と謂われる。 欽明天皇元年のことだ。
稲目爺さん、朝な、夕なに仏像礼拝していたというが、公式に仏教が伝来したのは552年。
もっとも その頃は稲目、まだ爺さんではなかったし、張り切って倭国を何とかしようと国造りを
始めたところだろう。 その後やっと入鹿の祖父さん《馬子》の登場だ。
海外の新しい文化の仏教だ、やれ違うだろう、我が国伝統文化だろう…と 
蘇我氏、物部氏がやりあう時代へと進む。

欽明帝の頃は北魏も東と西に分かれ、それも北斉、北周となり、江南の地も梁から陳へ。
まもなく 隋が大陸全土を統一しようとしていた。
  









投稿日 2016年04月12日 14:48:38
最終更新日 2016年04月12日 14:49:08
修正
2016年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
皇居乾門は桜をめでる為に人が多く集まった。
どうも今年は華やかに咲き誇る感じではなく、今一つ不満足に思いつつも 
花が目に映ればなんのその。この季節の喜びを見知らぬ人々と分かち合うことになる。
実は開花具合の都合で皇居の乾通り開放が延長になったとか。

御所乾門の近く 国立公文書館では平成28年春の特別展が二日からはじまる。
《徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―》 と銘打ち、家康さんの書物好きの生涯を
所蔵資料から辿ろうというのだ。 今年は徳川家康が元和2年に駿府城で死去してから四百年。
大変な読書家であり、しかも収集家であったという。戦国一の蔵書家は儒学に関する書物などの
漢籍、要するに海外書を大陸から大量に集めていたそうだ。

幕府の役職には書物奉行なるものもあったという。
その奉行所では江戸城の紅葉山文庫の管理、図書の収集、分類、整理、保存、調査
といった 《図書館のお仕事》 をしていた。
この図書館、紅葉山文庫は江戸に幕府が開かれる前年、慶長7年(1602)に、家康さんが
貴重書を収蔵する文庫を創設した。家康さんちの本棚である、将軍の図書館誕生。
書物奉行の職は3代将軍徳川家光が設けた。寛永16年(1639)、江戸城紅葉山の麓に書庫を
新設し、以後、将軍の図書館が、紅葉山の御文庫と呼ばれるようになるという次第。
歴代の将軍や幕府の高官、学者等は、資料を文庫から取り寄せ研究、とりわけ積極的に
紅葉山文庫の資料を利用したのは徳川吉宗で、「享保の改革」の随所に活用したという。

書物奉行は、ご存知お芋の儒学者 青木昆陽、天文暦学の天文方 渋川敬直。
千島列島、択捉島を探検して「大日本恵土呂府」の木柱を立てたという 近藤重蔵などが
務めた。 この近藤重蔵は、和漢の書物を精力的に研究して紅葉山御文庫の蔵書来歴を
明らかにし、豊富な知識をもとに貴重書を鑑別、その保存の仕方や取扱いを改善したそうだ。
紅葉山御文庫の貴重書が、今日良好な状態で保存されているのは、近藤重蔵の功績に
負うところが大きいとのことである。蛇足ながら近藤重蔵は火付盗賊改方として 幕府に
勤務したことがあり、文化のルツボのような図書館の親分、お奉行様にはなかなか面白い
人材が起用されていたのだ。  書物奉行の配下には勿論、同心がいたのだそうで…
名実ともに 徳川家康さんの幕府経営にとって重要な柱だったろう、文庫は慶応2年(1866年)に
廃止されたというが、明治維新後、紅葉山文庫の蔵書は新政府に引き継がれ、今日その多くを
国立公文書館が所蔵している由。

今回「徳川実紀」の展示がある。 正式には御実紀(ごじっき)と云うのだそうだ。
これは 林述斎(はやしじゅっさい)らにより編纂された徳川幕府の正史である。
家康から十代家治に至る歴代将軍の治績を記してあるものなのだが、どちらかというと、
付録の逸話が面白い。きちんと付録としてまとめられ、全485冊で、天保14年(1843)に
完成ということだ。 江戸期の式楽としての能の様子はこの徳川実記によって色々と知る
ことができる有り難い資料である。 もとより幕府の正史なのだから 当然、お抱えの能役者の
身分、扶持の管理をはじめ、式楽としての催事の記録があるのは当然で、将軍には指南役と
称して能の稽古教授がついたことや、その稽古の様子などが窺える。
他に外蕃書翰(がいばんしょかん)。 これは 前述の近藤重蔵が編纂した幕府の外交関係資料を
編纂して作成した「外蕃通書」の参考図録として作成されたもの。 安南・オランダ・ルソン等への
渡海朱印状などの外交文書が模写されているという。 実記とともに紅葉山文庫旧蔵のもの。

家康さんは何かと献本をさせたようで、一万冊あまりの蔵書があったというから大した本棚で、
そのお文庫の棚に並ぶ献本の中には能の大夫からの伝書も含まれている。
                  分散、散逸から守り貫かれた事は 誠に有り難いことだ。







投稿日 2016年04月04日 0:55:55
最終更新日 2016年04月04日 0:56:05
修正