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2015年10月20日
お店のディスプレイやらなにやらハロウィンとカボチャ。日本では年々、ハロウィンは子供の仮装パーティーとして定着しつつあるような… どんなお祭りなのかはどっかへ行っちゃってますねェ。

例年のことながらカリグラフィーのレッスンでもハロウィンは定番の題材です。そこで、やはりどうしてカボチャなの?という話に。

       定番ながら

諸説ありますが、ある性悪な男が天国の門番の聖ペテロをだましてこの世に蘇り、さらに悪行を続けたため、ついに聖ペテロの怒りをかって天国でも地獄でもない暗闇に追放されます。それを憐れんだ悪魔が石炭を燃やして灯りとして与えたという話。または、悪魔と魂をとらないと取引したために地獄にも行かれず、あの世とこの世を彷徨うはめになり、真っ暗なので悪魔からもらった火種をカブに入れてランタンにしたという話などなど。それがやがてカボチャのランタンになったわけです。 

古くはケルトの風習ですが、10月31日は日本風にいうと地獄の釜の蓋が開き、あの世とこの世が繋がってしまう日で、悪魔やら悪霊やらがこぞってやって来て、この世の人間は魂をとられてあの世へ連れて行かれるといいます。だからお化けの仮装して仲間だと思わせるよう仕組んだり、火を焚いて悪霊を追い払ったりということのようです。

そしてキリスト教では11月1日は諸聖人の大祝日、2日は死者の日で、フランスではお墓参りをする習慣があります。この時期になると花屋さんには菊の鉢植えがぎっしり。花持ちが良いのと季節の花ということから、フランスでもお墓に備える花は菊なのです。


                      定番ながら 今頃の時期のパリの花屋の店先 



投稿日 2015年10月23日 14:55:10
最終更新日 2015年10月23日 14:55:10
修正
2015年10月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
江戸時代になると農民は自律的な行動変革が進んだ。
というと 実に大げさである。まっ、サツマイモなんぞの新しい作物が
入ってきて、食物の生産性はあがるし、食生活は充実向上するし、
経済活動だって盛んになって… みんな やる気になってきた。
大分以前の三余堂月次で触れたことがあるが、木綿の普及が
衣服やら寝具の改善をもたらした。家の構造だって礎石を置き、畳を敷く
なんていう生活が一般的になると、清潔な生活というものが待っていた。
こうなると、ぐっと、生きやすくなってくる。そもそもそ、ヒトという生き物は
多産を可能にする潜在的な生産力があるそうだ。
食生活の安定や衛生面の改善は世界共通で、死亡率も下げている。


江戸幕府が全国人口調査、つまり徳川版国勢調査ということを1721年に
行ったそうだ。 その時の人口は3,128万人。これが多いか、少ないかは兎も角、
江戸幕府開設直前の1600年には人口1,227万人という数字が、はじき出されて
いるというから、結構な人間が徳川の世での生活を謳歌していた。
この百年余りの人口増加率は、僅かとは言え、産業革命後のヨーロッパの
人口増加率より多いと云う。

ところが、江戸時代も後期になると状況一変。
もう明治になろうとする、1867年には多くても3,383万人だったという。
1721年からの増え方のことを思うと、人口はそう増えていないようだ。
なんと、1792年には2,987万人までに減っていた。
1732年西日本では享保の大飢饉、1742年には隅田川、利根川の堤が決壊。
1772年に明和の大火災で、死者が14,700人も出た。1782年頃からは天明の
大飢饉、浅間山も噴火するといった次第で、江戸は大火や開幕以来の大水害に
みまわれ、京都も火事で御所まで炎上したというから、列島大災害の状態に
あったのは確かである。おまけにコレラの流行も大地震も繰返している。
この頃の人口増減には地域差が有り、西日本、北陸、中部の地方では増加し
東北、関東地方は冷害などによる飢饉で人口減少したという。
この1792年は、漂流してロシアにいた、大黒屋光大夫がロシア使節の
ラクスマンと根室に着いたという年で、通商を要求された幕府としては
“こっちこないで〜”と、外交?に頭を悩ましていた頃でもあった。
そんなこと言わないで 海外との経済活動で国内問題を乗り切るっていう
活路があったかもしれないが…  一応 鎖国政策中で。

まぁまぁ何とかなって、その後は緩やかに人口は増加をし、明治期になると
本格的に右肩上がりに増加を始める。
人口は大きな増加、そして停滞、減少。そして再び、増加に向かう。
案内望遠鏡で紹介の『ヒトはこうして増えてきた』(新潮選書)の如く、そんな
増減がこの列島でも、縄文時代と弥生時代にみられ、14世紀から15世紀に
又その波が始まり、18世紀末に一段落。 そして、又人口増加の波が始まった。
ここでも 農業から工業へと社会の変革が一人当たりの所得を増して、人口の
転換の基盤をなした。 そして、現在は少子高齢という渦に飲み込まれている。


今年はこの人口の状況を把握する年となった。国勢調査である。
国勢調査とは、総務大臣が国勢統計を作成するために、≪日本に居住している
全ての人、及び世帯≫ を対象として実施され、国内の人口、世帯、産業構造などの
調査を基本的に5年ごとに行うものである。
第1回国勢調査は1920年(大正9年)に実施され、今年は第20回目の調査だ。
そして、初めてネットでの調査が行われた。
情報漏れなどのこれといった面倒がなければ 非常に簡単便利。
はてさて、早速利用はしてみたものの結果は如何に。







投稿日 2015年10月12日 0:01:26
最終更新日 2015年10月12日 0:01:26
修正
2015年10月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
少子高齢化で産科医院が激減し、小児科医院も減った。
そこで、数年前から近隣の診療所は小児科診療を始める。
ママの健康も大事だからと、婦人科診療も始まった。
待合室は杖をつく老人と就学前の子供のおしゃべりや、隣に座る年寄りに
子供の方が、得意げに絵本を読み聞かせる姿が見られるようになった。 
甲高い子供の声は 体調不良の身には少々厳しい。が、待合室は明るくなった。 
仏頂面の中高年ばかりでは体調だけでなく、心も不調になるというものである。

そもそも、日本列島で先史時代から今に至るまで、ヒトの数はずっと増えてきたのだろうか。
近年は科学技術の進歩で遺跡発掘調査の結果、どんどんと歴史が塗り替えられる。
すべて未解明と云えば無難だろうが、日本列島のヒトの遺伝形質が多様な処をみると、
何度にも亘って移住を繰返したらしい。人骨から判明出来れば容易なのだろうが、
この列島の土地は、ほとんどが酸性土壌で、人骨が保存されにくいという。が、その他の
発掘などから3万8千年くらい前には、どうも、ヒトが生活していたらしい。

旧石器時代が終わり、1万6千年程前からは縄文時代。
縄模様の土器を持つこの文化は、九州では3千年くらい前まで、東北や関東では2千3百年
くらい前まで続いたという。 縄文人は早くから定住した狩猟採集民で、一万年以上前に遡る
定住集落が鹿児島の上野原遺跡や、静岡の大塵窪遺跡で発見されている。
古代メソポタミアでの≪農業に先立つ定住≫と同じ頃なのだそうだ。
縄文人の遺跡からは東北をはじめとする東日本のほうが、近畿以西より人口密度が高く、
食物になる植物や、河川などで生息する魚貝は勿論、シカやイノシシなども豊富だったの
であろう。 そのうちに 農耕らしきものが始まる。

日本列島に古くから居住していたのが “縄文人”。弥生時代に朝鮮半島から渡来したのが、
“弥生人” という事だが、最近のゲノム分析によると両者の混血が多くなされた可能性もある
というから、事は複雑。 日本人起源については、これからも飽くなき研究が続くのだ。
ところで、生産性の高い水田稲作は弥生時代、紀元前10世紀まで遡る。
が、これは専ら西日本でのこと。紀元前4世紀頃は東北地方、紀元前3世紀頃に関東地方に
伝播したらしい。こうなると、人口は西日本の方が多くなる。 
列島の人口は1万3千年前の縄文時代早期には、ほぼ2万人。 その後は増加を続け、
6千年前には26万人。 この時の1平方キロ当たりの人口密度が0.76人。
狩猟採集の民としては高い数値なのだそうだ。 そんな頃から日本は混んでいた。 
が、4千年前縄文後期なると10万人を切っていたという。 気候の変化、人口増加による
食物資源の不足、移住者による感染症の影響などがあっかもしれない。
しかし、弥生時代にはなんと、百万に達していたらしい。


奈良時代なると古文書から人口推定が可能になる。450万の人口はあったようで、その後
900年代になると640万強となっていた。 1300年には人口密度が1平方キロ当たり
25人となり、当時としては世界最高のレベルだったという。
ただ、必ずしも増加率は右肩上がりではなかった。自然条件の変化は勿論、そこには大きく
社会機構の変化が関わったようである。 荘園制の時代から武士の誕生、戦国時代へ。
そして江戸、ご維新、戦争、戦争。  昭和から平成へと人口変化は文化を映している。
当然、地球の上どちらも、こちらも同様に大きな問題を抱えて…

長くなってきた夜に 大塚柳太郎博士の
 『ヒトはこうして増えてきた』  ―20万年の人口変遷史−(新潮選書)を読む













投稿日 2015年10月06日 16:29:24
最終更新日 2015年10月06日 16:31:01
修正