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2015年04月20日
今日の東京は雨と強風で、穀雨には激しすぎ。穀雨とは二十四節気の六番目にあたり、穀物の成長を促すありがたい恵みの春の雨のはずなんですが...

こんな日は、できるならば家で読書三昧がいいやもしれません。


         図書館のネズミ     図書館のネズミ

本を運び出したり、読書に没頭したりと、ネズミさんたちが。



先月の記事ではまだ準備段階で紹介できなかった蔵書票の新作より、「図書館のネズミになりなさい」。本の虫のことをフランスでは図書館(書架)のネズミということからデザインしたもの。

図書館のネズミ

こちらは本の上で本を読んでいるネズミ。でも、花の近くに舞う蝶々にちょっと気を取られてます。 蝋画の技法を用いた作品。画像をクリックすると少し拡大します。

今回の展覧会のテーマであるモノトーンに合わせて、久しぶりに墨汁だけで仕上げたので、一見、版画のようですが、蝋を引いて、図柄を削って墨汁をかけ、最後に蝋を削り落とすという蝋画というものです。


蔵書票を貼ると、なんだかとても特別な本になって、ちょっとわくわくします。
是非、おためしあれ。
投稿日 2015年04月20日 17:03:10
最終更新日 2015年04月20日 17:03:10
修正
2015年04月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
能 『小袖曽我』のほかにも 曽我物語を題材としたものが色々とある。
尤も、流儀によって現行曲だったり、廃曲だったりと様々だが、取敢えず
現在の五流が揃って上演曲としているのは『小袖曽我』、『夜討曽我』。
他にも 『禅師曽我』 (観世流、宝生流、喜多流)や、『調伏曽我』 (宝生流、金剛流、喜多流)がある。
廃曲になったという切兼曽我だの、伏木曽我だのというのがあったようで、
いかに当時はこの話が好かれていたかと、窺い知ることになる。

鎌倉後期から室町期にかけて成立した『曽我物語』の普及で、幸若舞では 『十番斬』や
『和田宴』(わだのさかもり)、などという題名演目がある。
能と同じ、『小袖曽我』、『夜討曽我』などの曲名もあるようだ。
幸若舞は室町時代に多いに流行った語りを伴う舞の一種で、能の原型とも謂われている。
故に、曲名が同じでも当然な訳で、能でも曽我物を盛んに作ったのは頷けるというものだ。
この幸若舞は 巡り巡って現在は福岡県のみやま市というところの民俗芸能として現存している。
当然乍ら、浄瑠璃でも曽我物はあったが、とくに江戸期の歌舞伎では、最初の作といわれる
『曽我十番斬』(1655)以来、曽我物が大当たりとなったそうである。
仇討物の曽我物語は、当時の朱子学文化としては受容されても当然だ。
正義感溢れる、若く美しい弟の五郎を市川団十郎が荒事の演出で市川宗家の芸とし、
年頭の吉例となったのである。享保(1716〜36)以後の初春舞台には必ず曽我狂言を上演。
この慣習が明治初年まで続いたという。

現在は 兄弟と工藤祐経が初めて顔を合わせる「対面」の場が、一幕の『寿曽我対面』として
上演されている。初春は勿論だが、祝儀の興業にはよく出る演目で華やかさを添えている。
忠臣蔵もそうだが、いろいろな歌舞伎の作品に曽我兄弟の物語設定がないまぜになっていて、
『助六』『矢の根』なぞもその例で、いかに庶民に広く浸透していたか、と、ここでも知らされる。
富士山が大爆発した宝永年間、江戸城下も灰で埋まる大災害になり、壊滅的となった。
それは富士の裾野で死んだ曽我兄弟の祟りであると、曽我兄弟を祀り、霊を鎮めるということで
曽我物を歌舞伎の舞台に出したという。

兎も角 曽我兄弟が好きなのか、曽我物語が面白いのか、そのうちに曽我兄弟とまったく関係なく
初春狂言は 曽我云々とならずば… とばかりの曽我物が増えたとか。
能も歌舞伎も、機会があったら幸若舞も曽我物を見比べるのもまた 一興。





三余堂 4月12日 観世九皐会例会で 能 『小袖曽我』を勤める。


投稿日 2015年04月12日 0:07:19
最終更新日 2015年04月12日 0:08:32
修正
2015年04月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
建久4年(1193年)孟夏、源頼朝が開催した富士の巻狩で、仇討ちがあった。
曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討ったのである。
巻狩というのは今でも祭儀として残る地方があるというから、本来は『お山の神様のご意向伺い』
といった意味を持つ神事であったらしい。
それが、武士が誕生した中世の頃には軍事訓練を兼ねたようで、
狩場を多人数で四方から囲い込みながら、獲物を追いつめるという大規模な狩猟となっていた。

富士の巻狩主催の頼朝は、既にこの年下野那須野や、信濃三原野などでも大規模な巻狩をしていた。
征夷大将軍という、武家政権の首長としての誇示の一環で、
この富士の裾野で行われた巻狩も 御家人達を総動員して、 山の神対する感謝の儀式を捧げ、
盛大な酒宴を開いたという。  そこで仇討ち事件勃発! というのが曾我兄弟の仇討ちである。

この曾我兄弟の仇討ちと伊賀越えの仇討ち、赤穂浪士の討ち入りが、
日本三大仇討ちということになっている。
赤穂浪士の討ち入りはご存知「忠臣蔵」、伊賀越えの仇討ちはいわゆる「鍵屋の辻の決闘」
のことである。これは寛永11年(1634年)秋に渡辺数馬と荒木又右衛門が、数馬の弟の仇 
河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った話で、当然ながら多くの小説やら映画になっている。
で、三大仇討の最も古いのが曽我兄弟の一件。


そもそもの事件は、所領争いで、工藤祐経は叔父の伊東祐親に恨みを抱いていた。
祐経は刺客に祐親を待ち伏せさせたのである。
刺客が放った矢は何と、一緒にいた祐親の嫡男の祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。
この刺客は大失敗!当然すぐに討手に殺された。
何しろ 似て非なる 祐(すけ)さんという名ばかりで、角さん登場はおろか、なかなか曽我兄弟に
行きつかない。 が、今しばらく我慢を…
未亡人となった祐泰の妻は曾我祐信へ再稼。
遺児の一萬丸と箱王丸兄弟は曾我の里で成長したのであった。
では、甥の恨みを買った不運な伊東さんち。
その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ死ぬ。
刺客を差向けた甥の工藤祐経は、さっさと源頼朝に従っていた。

一方、祐親の孫である一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗る。
弟の箱王丸は、箱根権現社に稚児として預けられていたが、源頼朝が箱根権現に参拝した際
箱王丸は敵の工藤祐経を見つけて復讐を試みる。
ところがおっとどっこい! 討つどころか逆に祐経に諭されてしまう。
おまけに「赤木柄の短刀」を授けられ…  中略して…
その後 箱王丸は縁戚の北条時政を頼り元服し、曾我五郎時致となった。

またまた 略して、富士の巻狩。
これには当然、工藤祐経も参加していた。
巻狩最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入って、祐経を討ち果たす。
この時、例の「赤木柄の短刀」登場なのだが。 話は 少々すっとばして…
騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。
兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれたのである。
弟の時致はというと、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられた。
と、見てきたかのようにいうが、芝居やらなんやらになっているので、ご容赦。勿論 能にも「夜討曽我」がある。
実態は兎も角、翌日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った遠因、心持を話す。
頼朝は助命も思うが、結局、祐経の遺児に請われて時致を斬った。
というのが 曽我兄弟の物語。 

そんなこんなで、この事件の直後、鎌倉では頼朝の消息未確認となり、頼朝暗殺だの、
弟の謀反だのとややこしいことになって…
武士社会での仇討ちの意味やら重みを知らしめた話であった。




三余堂 4月12日 観世九皐会例会で 能 『小袖曽我』を勤める。






投稿日 2015年04月01日 9:41:26
最終更新日 2015年04月01日 9:43:11
修正