http://nogakusanpo.maya-g.com
記事移動
2014年08月20日
猛暑もそろそろ終わりかと予報がある割には暑さが相変わらず続く東京ですが、今年の蝉はそれほどうるさくなく、夜遅くになっても鳴き声がやまないほどではないようです。

以前の記事でも書きましたが、イソップの寓話で有名な「アリとキリギリス」は、もともとギリシャ語では「アリと蝉」でした。
そのお話の中で、冬になって蓄えのない蝉がアリに食べ物を乞うと、夏に何やってたの?と問われ、「夏の間は歌って過ごしてました」との答えると、「そんなら今度は踊って過ごせば!」と手厳しく突き放すアリ。


                    蝉の命はみじかくて

                Exlibris(蔵書票)「アリとセミ」ラ・フォンテーヌの寓話より (c)La plume d'oie2012


後生になってフランスの昆虫学者のファーブルが、蝉の生態がわかっていないと文句を言ったとか...。
確かに、蝉は幼虫期は地中に長年生息しますが、成虫はほんの1,2週間から長くても1カ月。考えてみればおかしな話です。

今年はあまり蝉がうるさくないとは言え、実は我が家のマンションの階段や廊下、バルコニーなど、ご臨終を迎えている姿が例年より多いような。コガネムシも同様。イソップの寓話には実は蝉の他に同等のお話でコガネムシバージョンもあるのですが、日本ではお金持ちで金蔵建てるコガネムシなんだけどなァ。

蝉もコガネムシも、本来なら土で臨終を迎えるのが一番だと思いますが、都会ではそうもいかず、マンション内の一角でじっと動かなくなってしまった姿は気の毒なようでもあります。
投稿日 2014年08月21日 10:19:18
最終更新日 2014年08月21日 10:19:18
修正
2014年08月12日
カテゴリ : [三余堂月次]
消えた記事の掘り起しシリーズは 『扇』。
2009年の八月の記事である。五年前はまだ扇に関して考えるゆとりのある暑さであった。
今は温度計もすっかりデジタル化となり、30という数字を切っていると誠に涼しいような気がしてくる。
平成26年の夏は立秋を過ぎたが 空調のない部屋は夜もなかなか30の数字は切れないでいる。


ボルサリーノのパナマの帽子に ローンのハンカチ。
颯爽とした白いスーツ姿の紳士は、 むっとする 重苦しい空気を追いやるために 胸のポケット
から扇子を出してパタパタと首筋に風を運ぶ。
百貨店の一階で 花が閉じ込められた氷柱を 子供たちが取り囲む。
氷に手を当てて騒ぐ子らを見守るように、薄物に身を包む和装の婦人が 白檀の扇子を
ハンドバックから取り出して そっと胸元へ風をおくる。
映画や、小説でなくとも 昭和30年代までは そんな姿を見かけた。
今、この様相を銀座のデパートでみたら 何とも風変りな姿に映るだろう。

洋装の男性も 和服の女性も その手にする扇子。
開閉自在で場所を取らず 涼を呼ぶばかりでなく、孫の手代わりも務め、護身用も果たす
すぐれものは 日本で生まれた。


摺畳扇、しょうじょうせんと云われる 開閉式の団扇。 これが扇、扇子である。
平安の初期 京の都で生まれた。 木札に文字を記した 木簡から派生したとされている。
檜の薄皮を重ねて束ねた 檜扇、ひおうぎは、女雛が手にしている。 檜片の枚数は身分で
決められていたという。 当初は 公家、僧侶などの儀式用の持ち物だった。
平安中期になると 紙製も登場。 いわゆる 蝙蝠扇、かわほり。
「ほほほっ ほっ ……でおじゃりまする。」 と、口元をそっと隠す、あの扇。
片面のみ紙が貼られている。その後 両面貼りとなる。
扇の先が閉じずに開いている 中啓、ちゅうけい。これは 能で使う扇の形。
で、僧侶の手にする扇の形でもある。 歌舞伎の河内山では 宗俊がほくろに中啓を持っていく。
そして 鎮折、しずめおりという 現在の一般的な形状へと変化を遂げた。

武士が登場すると 骨が竹でなく鉄で出来た鉄扇は、指揮ばかりでなく 護身用として活躍。
礼法が確立していく室町の時代には 庶民の間でも折節目に使われ、
祝儀、贈答として取り交わされていく。
室町の文化は扇をも育てた。
能の舞台では あらゆる表現に必携な扇、寸法、骨の装飾から絵柄も流儀によって
細かい決まりを持つ。 
扇を末広というのは 扇の骨の先がひらいた 能扇の中啓を指しているという。
能の一部分を舞う上演形式の仕舞、地謡、後見などは いわゆる先の閉じた鎮扇を使う。 
茶席で扇子は結界を示し、相手に対する礼を表す。
末広がりの形状が吉祥を現わし、扇面という画布が 名筆も名画も生み出した。
俵屋宗達は扇絵の絵師であった。

室町時代に摺畳扇は 盛んに輸出されたという。
それが 大陸へ、さらに西欧へ伝わる。絹や鳥の羽で作られ、貴婦人の間で大流行した
エバンタイユや、フラメンコのスペイン扇などは日本生まれだ。

作り上げるには 数十に及ぶ工程を 幾人もの職人の手が支える扇。
肝心かなめの要を中心に 末広がりに開く扇。
それは、扇面の下に 隠れる骨の確かな重なりの美しさに他ならない。
今日 幅広い種類をもつ扇子は 儀礼用、涼をとる夏扇から、飾り扇、 
どれもが 作り手と使い手の生活の中に生きている。













投稿日 2014年08月12日 13:56:17
最終更新日 2014年08月12日 13:56:33
修正
2014年08月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
世阿弥の芸談を筆録した能の伝書に通称『申楽談儀』がある。
60歳から68歳頃までの世阿弥の芸談だ。
室町時代の成立になるその申楽談義に 能面の作家について記した個所がある。
『一、面の事。翁は日光打 弥勒打手なり。 此座の翁は弥勒打手なり。
伊賀小波多にて座を建て染められし時 伊賀にて尋ね出し奉し面なり。
近江には赤鶴、鬼の面の上手なり。 近頃越智打とて 座禅院の打 宇賀のものなり。
女の面上手なり。 云々… 』 とある。
江戸時代になると『面目利書』『仮面譜』などの面についての文献が出たようだが、
能面作家についての資料としては最も古いもののようだ。

ここに出てくる 日光(にっこう)だの、赤鶴(しゃくづる)だのの作品に この猛暑の中 
三井記念美術館で出会える。 心地よい空調加減は数百年の時をかき消して
吸い込まれるような場所を演出していた。暑気払いの空間である。
申楽談義の如く 日光の翁面、赤鶴の勇壮な大飛出などの面の展示がみられる。
平安初期の人と謂われ、日光菩薩などを手掛けた仏師とも思われる日光。
詳細は不明だが 『翁は日光打 弥勒打手なり』 とあるのは 翁が能でなく神事としての
存在であったなら仏師による翁面作成は当然だったと思うし、 
能が大成する以前の古い作家ということになる。
この人の作と伝えられる翁面は他流にも伝わっているが、金剛流宗家に伝わった
重要文化財の白式尉翁面と、 同じく重文の黒式尉三番桑叟面の展示がある。
今回の展示面はすべて金剛流宗家から三井家へ贈られた面の数々。

赤鶴あたりになると すこしは氏素性が判るようで、名を吉成、文永〜弘安ごろの人とか…
近江申楽の大夫だとも云われ、鬼畜の面などの強烈なものでは比類なき名人と云われている。 
今回、何面かお目にかかれた。

有名な面打ちはいろいろあるが、通称 龍右衛門 (たつえもん)という人がいる。
姓は石川名は重政。女面の元祖といわれる。
現存の作品は 女面の名称として小面、曲見(しゃくみ)、十寸髪(ますかみ)、泥眼(でいがん) 
などや、若くてきれいな男の面も残している。
中でも 小面は史上有名で、かの豊臣秀吉が龍右衛門打の小面三面を 雪・月・花と名づけて
愛蔵しており、金春岌連に雪、徳川家康に月、金剛宗家に花の小面を贈ったという話がある。
金剛宗家伝来 花の小面 拝見。
愛くるしさの中央にもったりとした鼻を配した 忘れ得ない面である。

数十点の展示面は当時の作家、使用する役者と舞台そして観る人々の共に絡み合う息吹と、
これまでの時が育ててきた力をみなぎらせている。 
                          拝見するのも覚悟が要る猛暑のひと時。



能面と能装束  三井記念美術館 









投稿日 2014年08月02日 17:32:57
最終更新日 2014年08月02日 17:33:00
修正