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2012年03月20日
鵞毛庵には今年も蔵書票の季節がやってきました。

蔵書票ってなんぞや?という読者の方は昨年の記事をご覧ください。


蔵書票の季節     画像はクリックすると拡大します。

BOOK展 I  Book & Art 
2012年3月28日〜4月8日


11:00〜17:00  休廊 月・火

装丁・豆本・蔵書票・原画・・・本とアートの関係をお楽しみ下さい。

Gallery USHIN

4月1日(日)13:30〜はカリグラフィーの1day レッスンも予定しています。
詳細は上記ギャラリーのブログにて

  今回はイソップの寓話のフランス版であるラ・フォンテーヌの寓話を題材にした蔵書票と寓話を五話選んでカリグラフィーで書いたものを元にした豆本を中心に展示予定です。

また、昨年同様、蔵書票をお買い上げの方には、ご希望によりカリグラフィーでイニシャルやお名前をお入れします。

  動物などを擬人化して風刺や教訓を織り込んだ物語を寓話といいますが、その代表がイソップの寓話。このイソップとは英語読みで、本当はアイソポスといい、紀元前7〜6世紀頃の古代ギリシャの奴隷出身の人です。自身の創作というよりは、恐らく昔からの伝承や民話を集めたものだったのでしょう。

  ギリシャ語の原典は失われてしまっていますが、ラテン語に訳されたものから15世紀末には英語訳、ドイツ語訳、フランスは17世紀にジャン・ド・ラ・フォンテーヌによるフランス版寓話集が出版されています。

  日本で最初にイソップの寓話が紹介されたのは、16世紀末イエズス会士によってですが、江戸時代には「伊曽保物語」として仮名草子、そして明治期になって英語版から翻訳された「伊蘇普物語」がベストセラーになり、その教訓性が修身の教科書に取り入れられたことから広く親しまれてきました。子供の頃に読んだという方も多いことでしょう。

  どの国も、その気候風土に合わせてアレンジしてあるようで、日本では「アリとキリギリス」として有名な話は英語版からの和訳。

  原典では「セミとアリ」で、ラ・フォンテーヌの寓話でもキリギリスではなくセミが登場します。フランスでは南仏にしかセミは生息していないのに、なんでラ・フォンテーヌはセミのままにしたのか疑問ですが、後世になって昆虫記で有名なファーブル(南仏出身)が、この話はセミの生態を理解しておらずおかしいと批判したとか。

                 蔵書票の季節   画像はクリックすると拡大します。

La Cigale & La Fourmi (セミとアリ) Exlibris 
ラ・フォンテーヌ寓話シリーズ蔵書票 (c)La plume d'oie 2012  
        
        
5月末からは北浦和のアートプレイスKでも蔵書票展に参加予定です。
投稿日 2012年03月20日 3:22:57
最終更新日 2012年03月20日 3:28:20
修正
2012年03月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
花屋の店先に桃の花が並ぶと、今年も冬は終いだと思う。
雛祭りのしつらえは春の扉をそっと押しやって、芳しい香りをあたりに振り撒く。
道具箱に入れられた沈香の香りが、雛人形様の装束に移って、花の桃色と
ともに活けられた菜の花の黄色を一層華やいだものにしている。
今年も 雛祭りの季節になった。
能の雲林院で在原業平が身に纏った装束は単衣の狩衣、冠は武官仕様の巻纓に緌。
さて、三余堂に飾られた立ち雛の装束は如何に。

公家装束は十二世紀に大変化が起こったそうな。大河ドラマの平清盛の時代である。
それまでは曲線的な柔らかい装束であったものが、厚織や糊でピンとさせた生地を
多く使うようになり、強装束 (こわしょうぞく) と言うようになった。
昇殿する武士の時代になると、身体の線が出る、くたくたっとした柔らかな着物より、
身体を大きく威風堂々とみせるピンとした装束に人気が出たということか。
ともかく、この強装束、一人ではとても着装不能。
装束を着せる人を衣紋方 (えもんかた) という。それは、装束の着装法のお流儀を生むこととなり、
山科家、高倉家などという家が故実の装束部門を承っていた。
季節も位も、時も目的も、事細かに決りを守って、万事作法通りにするためには不可欠な衣紋方。

飾られた木目込みの雛人形は十二世紀以降の強装束の着用とみた。
で、着装順にまずは肌小袖。 
もともと防寒用として、随時着用していたというもので、現在の和服の原型である。
肌襦袢といったところだろうか、白の袷の平絹。
次が、大口。 袴である。 これは肌小袖の上にはいて、肌小袖を束ねる紐付トランクス。
これは下着なので見えない。
次は上着に単衣。これは結構幅広で、装着時に前後でたっぷりひだをとる。
これは見えるのは襟のみ。
それから指貫(さしぬき)。だぶだぶの袴で裾を均一にして、括る。
もっとも本来は、中に大口袴が隠れているので、決して、ゆったりとは…
そして、上着の袍(ほう)。 これも御身分でいろいろと決っている。
お内裏様は天皇様ということなので、縫腋袍、桐竹鳳凰文様の青色と行きたいところだが、
そうは問屋がおろさぬ木目込み装束。
おっと、大切な被り物、冠。 これは最後に載せるお飾りなんぞではない。肌小袖の次に着用をする。

この冠、被り物には大切な役割があった。
その頃、それまで伸ばしていた髪を元服時に、紐で束ねて頭上に立たせた。
要するに髻(もとどり)を作った訳で、これこそが、成人男性の象徴であったと。
そもそもは律令制導入とともに大陸から取り入れた風習だが、被り物はこの髻の保護の為のもの。
無帽の状態は露頂といって恥辱とする概念が生まれたというから、お大切なのである。
風呂も、就寝時も脱がず、笠や冑も被り物の上から被ったのだそうだ。
冠は束帯、布袴(ほうこ)、衣冠といった装束で被り、私服の時は烏帽子。 
大人の男に被り物がないのは 丸裸ということで、肌着の次に着用するというのも頷ける。

冠も、強装束以後に変化があり、漆の加工で透けなくなったり、纓が冠から取り外せるようになった
という。そこで、纓を二枚重ねてピンとなるようにする。
纓の根元を冠に作られたソケットに差し込むのだから、根元が上がる。 
という訳で、時代とともに 纓の根は上昇。
巻いている卷纓に対して、先端が垂れ下がるものを垂纓といった。
垂纓は天皇、皇太子、皇族、文官用であったが、江戸時代以降の天皇の冠は纓の先端が下がらず
立ったままで、現在に至るという。 これを御立纓 (ごりゅうえい) という。 
そもそも、被り物はかんざしで髪に止めていて、紐で結んではいなかったものが、
江戸時代以後、顎で結ぶ懸緒となったということで、御立纓のお内裏様の冠に紐が
掛っているのも道理ということか。と、納得して雛飾りを眺め入る。

やっぁ〜  御立纓、纓がっ。 
纓を挿す壺が壊れてテープで張り付けられ、それも剥がれて…
                          まぁまぁ、今年もお勤めを果たされ、ご苦労なことである。



改めて眺めると人形装束はなんともはや… お内裏様の装束   腰帯なんぞが前に下がり、 笏もあんな持ち方で〜
 この内裏雛、能での遊士の出立。さしずめ、光源氏のことと言われる 能≪融≫の大臣というところか。
                          色形ともみばえが重視のあくまで創作着装 





投稿日 2012年03月01日 0:24:54
最終更新日 2012年03月01日 0:25:09
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