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2011年07月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
只今 編集中!

    お世話になります。
             只今 編集中
投稿日 2011年07月01日 0:24:09
最終更新日 2011年07月01日 0:24:09
修正
カテゴリ : [案内望遠鏡]
小説の神様 志賀直哉が書いた小僧の神様は
  『仙吉は神田のある秤屋の店に奉公している。』 で始まる。
屋台の鮨屋で一度手に持った鮨の値段を言われて、それを置いて出ていく小僧。
それを見ていた男が後日、小僧に鮨を御馳走してやる。
男と小僧の気持ちを綴った短編 「小僧の神様」 だ。

秤屋の店頭で、大番頭と若い番頭がする鮨屋の噂話に小僧仙吉は
『 「しかし旨いというと全体どういう具合に旨いのだろう」そう思いながら口の中に
たまってくる唾を音のしないように用心しいしいのみ込んだ 』 とある。
大正九年に書かれたこの小説の頃は 屋台の鮨屋が専らだった。
翌年生まれの親父殿の話にも屋台の鮨屋がよく登場するから、屋台の時代は長い。

綱紀がゆるみ、財政窮迫、賄賂横行、奢侈淫逸の文化期(1804〜1817)の始め、
深川六軒掘りに、松がすしという鮨屋が出来たそうである。
押しずしのような、上方風のすしが中心だった江戸市中のすし屋に、にぎりずし登場。
世上、にぎりずし一色に一変したとも言われたそうな。
この鮨屋本来の屋号は「砂子鮨(いさごずし)」といったそうで、それまでと違って
結構な値段で、よその鮨屋も右へ習えとばかり、という話もあるが…
ともあれ、お江戸を中心に爛熟した町人文化を生んだ文政期(1818〜1831)に
握りずしは完成をみたようで、瞬く間に拡がったという。 屋台料理として。

広重の描いた浮世絵の寿司を見ると、細工された葉蘭を敷いた皿に、こはだに海老、干瓢海苔巻、
たまごの太巻きなどがのっている。
江戸前、すなわち東京湾でとれる素材を使うので江戸前寿司とも呼ばれるが、
何れも、酢〆、醤油漬け、火を通す、などの下処理をしている。
だいたい、すしの起源は、紀元前4世紀頃の東南アジアというから古い話だ。
米の中に塩と魚を漬けて発酵させた保存食。
所謂、米飯に漬けて、自然発酵させた「なれずし」だ。
天保期の末に下魚とされていた鮪が豊漁となって、湯引きして、醤油に漬けて提供。
大いに評判となり、江戸前ずしを代表することに。
当時のファーストフード、廉価なすしを売る「屋台店」が市中に溢れたというのだから、 
冷蔵庫のない時代のすしは、保存の工夫が勝負だったろう。
固定の店をかまえる「松之鮨」なんていう鮨屋では、比較的高価な鮨で勝負したという。
そういうところではマグロなんて下種なものは出さなかったようで…
ちなみに 贅沢を禁じた天保の改革では、200軒あまりの寿司屋が手鎖の刑に
なったとか… 高級店がそんなにもあった、ということだ。

明治30年代になると、鮨屋でも氷が手に入りやすくなり、明治末あたりからは
その供給が気になるが、電気冷蔵庫を備える店も出てきたというから驚きだ。
当然、江戸前握りずしは、酢〆、醤油漬け、火を通していた素材も、良くなった環境のおかげで
生で扱うことが多くなってきたし、種類も増えた。
小ぶりの握り飯ほどもあったにぎり寿司は 次第に小さくなってきた。
大正12年 関東大震災で被災した東京の鮨職人達が故郷に戻り、日本全国に
江戸前の寿司が広がっていったという話もある。

その後、戦後は衛生上の理由から屋台店が無くなって、小僧の仙吉でなくても
気楽な感じのものではなくなった。
現在、当たり前になった回転寿司。昭和33年に大阪で始まったというから 結構な
歴史になるし、スーパーは勿論、コンビニにも江戸前にぎり鮨がパックで並ぶ。
屋台のすしがコンビニの鮨へと庶民性を取り戻していった。

はてさて、その味は。小説のタネになるものだろうか。
                         くれぐれも この季節生モノには御用心!







投稿日 2011年07月01日 8:01:40
最終更新日 2011年07月01日 8:01:40
修正
2011年07月20日
   先の三余堂月次で夏の涼に触れていますが、日本の夏の風物詩といえば「花火」。川開きで納涼を兼ねての具合から、花火大会といえば夏なのです。しかし西洋では必ずしも夏のものではありません。ヨーロッパは特に夏はなかなか暗くならないので、夜の11時ぐらいにならないと始められません。

   それでもフランスでは7月14日のフランス革命を記念した「国民の祝日」では全国で花火が欠かせません。
この日を日本では「パリ祭」と呼んでいます。

なぜそう呼ぶかというと...今ではネットで検索すればいっぱい出てきますが、庵主は高校生の時に、フランス語の勉強で通っていたアテネフランセのカフェテリアで、某大学の仏文の先生にそのわけを伺ったのでした。

    1932年のルネ・クレール監督のフランス映画「Quatorze Juillet」(原題:7月14日)が翌年の1933年(昭和8年)に日本で公開されたのですが、その時の邦題が「巴里祭」だったからです。だって日本でいきなり7月14日なんて言われても、誰もなんのことか判らないし、「革命」という言葉は避けたかったし、などなどから、輸入配給元であった東和の川喜多氏等によって「巴里祭」になり、そして映画も主題歌も日本で大ヒットしたそうな。


                  巴里祭

        巴里祭 La plume d’oie ©鵞毛庵 2011 
        映画「巴里祭」の主題歌  
*現在、甲府市内のレストラン「バールスロー」でシャンソンシリーズ「巴里祭に寄せて」を展示中。こちら


    さて、その巴里祭の花火。パリでは毎年7月14日の夜、エッフェル塔あたりで開催されます。今年はエッフェル塔のセーヌを挟んで向かい側にあるシャイヨ宮で行われました。シャイヨ宮は第一回万博会場だったところです。その花火大会の全容がパリ市の正式なビデオで見られますので、ご堪能ください。
35分間の花火のスペクタクル
    
今年のテーマは「ブロードウェイからパリへ」と題して、アメリカとフランスのミュージカルの名曲の数々をBGMにたくさんの花火が打ち上げられています。今年はずいぶんお金かけてるな〜〜。50万人以上の人出だったとか。

    日本では震災以来、ちょっと自粛ムードで花火大会は....と言われてましたが、隅田川の花火を始め、全国で行われるようです。


巴里祭

巴里祭  Paris-Amour  La plume d’oie ©鵞毛庵 2011

♪パリの街角では なにもかもが恋に染まる
投稿日 2011年07月20日 0:14:43
最終更新日 2011年07月20日 0:26:05
修正