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2010年09月01日
カテゴリ : [案内望遠鏡]
西暦の2010年9月1日は陰暦で言うと まだ7月23日。
これから だんだんと月が痩せていき あと1週間もすると 新月となる。葉月である。
先日 今年の正倉院展の二ユースを目にした。すっかり秋の恒例行事だ。
今年は 「五弦琵琶」が19年ぶりに出陳。


一口に琵琶といっても、五弦琵琶、楽琵琶、平家琵琶、盲僧琵琶、等
発展や、系統が互いに影響しあって今日に至っている。
正倉院の御物 聖武天皇御遺愛品は 螺鈿紫檀五絃琵琶 (らでんしたんのごげんびわ) で要するに、
紫檀に螺鈿細工が施された 五弦の琵琶ということだ。教科書などでよく見かける御物の代表選手。
五弦の琵琶としては世界唯一の歴史的遺品だそうである。
奈良時代に伝来し、平安前期頃までは演奏されたらしい五弦の琵琶は、その後廃絶している。


箏と同様に、天皇や殿上人の所作とされた琵琶。 
838年遣唐使として藤原貞敏は、唐で琵琶を学んだ。
琵琶博士より楽譜と琵琶三面を相伝したという。 
帰国の海で、賜った玄象(げんじょう)、師子丸(ししまる)、青山(せいざん) 、という三面の琵琶を
龍神が惜しんで荒波を立てた。そこで、師子丸を竜神に供えて 海底に沈め、二面の琵琶のみを持ち帰り
朝廷の御物となった。 という。

それを題材にしたのは 能 玄象 。 

La plume d'oie (c) 鵞毛庵2010  能「玄象」より  琵琶


蝉丸、平経正などの、名手や名器の話は説話や能で知ることができる。
村上天皇の頃に、名器玄象が宮中から消失した。
源博雅が、微かに聞こえる音をたどると、羅城門で鬼が玄象 を弾いていた… と、今昔物語にある。
もう一面の琵琶、青山の話。
幼少より仁和寺覚性法親王に仕えた、平経正は琵琶の名手で、青山を下賜されるほどの寵愛を受けた。
平清盛の甥である経正は、木曾義仲が攻めてくると、覚性法親王に名器を返上。
都落ちして、一の谷合戦で討ち死にした。経正はかの敦盛の兄であった。


その後、仁和寺に仕え、経正を良く知る僧行慶は、法親王の命により青山を弾いて回向をした。
すると、公達経正の霊が 
おぉ〜! 御弔いのありがたさに、これまで現れ参りたり と
                            消え、消えと形もなくて、聲は幽かに絶えのこって…   
  平家の公達らしくお品良くというか、軟弱だというか、草食系というか 解釈は如何様にも… 

詩歌管弦に興じた日々を想う 経政の姿が、謡、舞を通して 王朝・貴族の文化を伝える。
最後のおのが姿である 戦いの修羅の様を恥とし、
             燈火を吹き消して 暗まぎれより、魄霊は失せにけり、魄霊の影は失せにけり
 本来、平氏も源氏も武士で 戦うのがお仕事、と 謂われそうな    ヘイシっていうぐらいだから…




と、いう筋の能「経正」は平家物語の「経正都落」の話を基としている。
ちなみに 琵琶で語られる平曲で経正は「竹生島詣」と「経正都落」に登場。
室町期には能と並び愛好されていた琵琶が、三味線の輸入、地歌や筝曲、浄瑠璃などの三味線音楽の
発展と共に衰退していくことになる。
しかしながら、明治天皇は終生、琵琶をお好みになり低迷していた琵琶の社会的評価が上がったとのこと。

琵琶の青山は鎌倉時代に失われたと言われ、ゆかりの地である竹生島の弁財天の宝物殿に、
《経正が青山を弾いた際に使用した》と伝わる撥がある。
九月九皐会定例会で三余堂は、青山を巧みに奏した若い平家の公達 経正となる。
舞台で行慶僧都と経正の二人のみが相対する日は、葉月の三日月を過ぎた頃か。



琵琶 能 「経正」より  La plume d'oie(c) 鵞毛庵 2010

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御流儀によっては「経政」と表記。 当日は三輪も上演。
投稿日 2010年09月01日 0:25:49
最終更新日 2010年09月01日 0:26:07
修正
2010年09月20日
今年の十五夜は今月22日です。
猛暑に残暑で、え?もうお彼岸?もう中秋の名月?という感じですが。

統計からみるに、十五夜がきれいに見える確立はかなり低く、曇っていることが多いのは、この季節、台風が多かったりするからだそうな。

この中秋の名月をお祝いする風習は平安時代頃に中国から伝わったもので、中国では今でも中秋節として大いに賑わいます。その一つが月餅を贈る慣わし。毎年この時期になると商店のかなりのスペースが中秋節の特設コーナーで占められて、パリの中華街も大賑わいでした。どれにしようか吟味している人達の真剣なことといったらありません。

中秋の名月はいかに    月餅の缶 月に住むという仙女が描かれている  

日本のお中元やお歳暮のように、日頃からお世話になっている人などに缶入りの月餅を贈るのです。これは中国がモンゴルの支配下にあった元朝の時代にさかのぼります。


臥薪嘗胆の頃には、まだ月餅は贈り合ってなかったわけですな。


言動や集会の自由を束縛されていた中国人たちが、どうにかしてモンゴル人から政権を奪い返そうとし、宋朝時代の指導者が中秋節が近づくことに目をつけ、中国には昔からこの時期月餅を贈り合う風習があるのだとモンゴル人の支配者に作り話をでっちあげたとか。そしてまんまと許しを得て月餅を作り、その中に中秋の満月の夜に反乱だというメッセージと反乱の計画を忍ばせで兵士全員に贈ったのです。中秋の満月の夜、見事不意討ちに成功し、その武勇伝から中秋に月餅を贈ったり食べたりするようになったと言われています。

元々農作物で丸い月を模して作られた月餅は、この武勇伝から団結の象徴、家族の絆ということにもなり現在でも家族、親戚、そして友人やお世話になっている人に月餅を贈る習慣が続いているのだそうな。

ヨーロッパでは月を愛でるという習慣は東洋ほどなく、しかし、妖しい月光にはかなり興味はあるようです。美しいというよりは何か邪悪だったり陰湿だったりするイメージの方が多いかもしれません。2007年の御題が「月」だった時に、それをテーマにお書初めをしようといろいろフランス語のテキストを探したら、出てくるものは暗くて妖しいものばかり。そんな中から、やっと見つけたのがジャン・コクトーの「月は彫像の太陽である。」という言葉でした。


La plume d'oie (c)鵞毛庵2007             中秋の名月はいかに

La lune est le soleil des statues.  月は彫像の太陽である   ジャン・コクトー  
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さてはて今年の名月はいかに?
投稿日 2010年09月20日 0:39:19
最終更新日 2010年09月20日 0:44:50
修正